映蘆軒

中国語ライター、翻訳者 お仕事の依頼:gaoc hen g53#hotmailcom

映蘆軒

中国語ライター、翻訳者 お仕事の依頼:gaoc hen g53#hotmailcom

マガジン

  • 参天台五台山記読記

    成尋の入宋日記を超訳したものを連載しています。場合によって、私なりの感想や調査資料をさりげなく入れることもありますので、ご了承ください。

  • 辺路雜記

  • 百人一首麤譯

    對“百人一首”的漢語翻譯

  • 映蘆軒筆記

  • 茶井奈

最近の記事

  • 固定された記事

親鸞聖人的生涯(一)

真宗開祖親鸞聖人,出生於大約800年前。 在京都市東南、現在的伏見區,有個叫作日野之里的山村。親鸞聖人久出生在法界寺附近。 父親據說是藤原氏貴族的末裔藤原有範,母親是吉光女。當時正處於由以藤原氏為中心的貴族政治向武家政治轉變的動盪不安的時代。此外還有大地震、飢饉,持續的戰亂和天災地變之下,人們感到不安和戰慄,生活是很艱苦的。法界寺在當時屬於天台宗,現在是真言宗的寺院。年幼時,聖人和父母一起,早晚在法界寺的阿彌陀堂合掌禮拜。 但是,和父母在一起的日子實在短暫。在聖人4歲和8歲時

    • 参天台五台山記読記046

      その後、石橋路坂の二十余間ほどの大きな廊室を回った。廊室を渡って石橋の元にある亭子に着いたら、五間ほど大きいものだった。朝廷の人が毎年、五百羅漢を供養する際のお宿になっている。山の方に礼拝し、お香を焚いて五百羅漢の供養をした。 次に、橋元で焼香礼拝した。橋は蒼白い色をしており、長さは約七丈であった。東側は幅二尺ほどで、西側は幅約七尺だった。竜の形にもなり亀の背中のような格好もし、虹が二つのような石梁になった。二本の谷水が合流し、その流れが橋の下を流れて滝となった。そして、西

      • 参天台五台山記読記045

        その後、花頂から降りて、山元に到着した。渓流に沿って下り、步雲亭に着いた。また、渓流のそばを歩いて石橋に到着すると、ただっ広い道場があった。 まず、等身大の白道猷尊者影像を礼拝した。金色堂の三面に十六羅漢の画像が掛けられており、堂内で焼香して礼拝した。道猷尊者は第三果を成就した人物だとされている。ずいぶん昔の晋朝初年に、中天竺の大那爛陀寺沙門白道猷は、流沙(砂漠地帯)を渡り歩き、遠路はるばるに五台山を参拝し、また天台赤城山までに遍路した。山神を従えさせた後、石橋を渡った際、

        • 参天台五台山記読記044

          大慈寺の巽方(東南側)には石象道場がある。そこは、智者大師が象に乗られた普賢菩薩を感得し、菩薩に頭を撫でられた場所とされている。昔からの伝えでは、普賢菩薩の白象が大石に化身したといわれており、その様子が本物の象と変わらないことから、この場所は「石象道場」と呼ばれるようになったとされる。 石象の南側に石窟があり、石窟の西にある盤石を叩いてみたら、鼓のような響きが出た。智者大師が説法する際、この盤石を叩けばみんながそこに集まったと伝えられている。石象の東側には、屏風のような石が

        • 固定された記事

        親鸞聖人的生涯(一)

        マガジン

        • 参天台五台山記読記
          45本
        • 辺路雜記
          9本
        • 百人一首麤譯
          99本
        • 映蘆軒筆記
          6本
        • 茶井奈
          3本
        • 随手抄(古典日本語ノート)
          9本

        記事

          参天台五台山記読記043

          今の大慈寺はそれに当たる。大仏殿をまず参り、丈六の釈迦様、阿弥陀様、弥勒様にお香を焚いた。また、智者大師の真身院にて焼香した。定光大師堂にも参り、焼香した。そして、法華懺院堂内には大白象の像があり、それは智者大師が懺法を厳修されたとき、普賢菩薩を感得して、菩薩が乗られた象の形を取られたものとされた。また、そこに三道法階が霊感で現れたそうだ。大師堂の額には、法空大師との書があり、大梁朱皇帝(朱温)の勅額だったらしい。生きていられた日に隋帝師の身分だった智者大師は、その滅後に法空

          参天台五台山記読記043

          参天台五台山記読記042

          住持の老僧が迎えに来て、両手を胸の前で重ねて挨拶をした。布施として銀一両を納めた。智者大師のお墓から出て、輿に乗って大慈寺に向かった。南北に金地、銀地道場が広がった。東西には松の植木や竹が茂み、そのなかに一本の道が通るようになった。二里進んだら、大慈寺に辿り着いた。 陳朝の太建十年(578、戊戌)二月六日、宣帝(陳頊)が智者大師の為にお寺を建てさせ、それを修禅寺と号した。仁壽元年(601、辛酉)にはこのお寺が国清寺の出現により荒廃した。そして、改築が行われ、禅林寺と寺名が改

          参天台五台山記読記042

          参天台五台山記読記041

          十七日(丙申) 晴れる一日だった。辰時に、教院へ渡った。寺の西院にある。智證大師が国清寺の西院に住んでいたと聞いてきたが、今日はそれを確認できた。寺主は自ら掃除をなさった。その意が慇懃そのものだった。七時には勤行を修了した。 十八日(丁酉) 晴れる一日だった。辰時に、御輿に乗って山を登った。賴緣供奉、沙彌長明が留守になり、ほかの皆が登山に同行した。寺主が現れ、金銀を少々携えて、各院の供養に使っていただいて構いません」とご厚意を示してくださった。そして、銀四両を携えて山を登

          参天台五台山記読記041

          参天台五台山記読記040

          十五日(甲午) 晴れる一日だった。巳時に、陣一郎と惟觀に寺主の所に細布一端(一反)、草鞋一足を送らせた。副寺主や監寺の所にそれぞれ紫檀琉璃裝束念珠を一連贈らせた。 午時に、食堂で寺主と差し向かいで一緒に食事を楽しんだ。 未時に、鳴植阿闍梨が切願しているので、黒木青瑠璃装束念珠を一連送った。 七時には勤行を修了した。 十六日(乙未) 晴れる一日だった。巳時に、寺主のもとに砂金三小両を献上した。書状には、 進上    砂金參小兩   右物雖乏少。志准香積一鉢僧堂一日供䉼。進上如

          参天台五台山記読記040

          参天台五台山記読記039

          寒山は天台県西側七十里離れたところにあり、寒巖とも呼ばれている。国清寺の大門前から一町ほど松林を抜けると、東側に拾得巌がある。 そして普明禪師が錫杖を突き立て泉を沸かせたというお井戸を拝見した。その普明泉は、大仏殿の艮角(東北隅)、また深沙大將堂内の乾角(西北隅)に有った。そこで焼香した。 次に、豊干禅師が生きていた時代の斎堂(食堂)を拝見した。その斎堂の中には、数体の小仏像が祀られていた。斎堂の後ろの二隅には、其々木像三賢があった。その場所で、お香を焚いて供養した。 そし

          参天台五台山記読記039

          参天台五台山記読記038

          貞観十七年(875年)、朝議大夫・使節台州諸軍事・守・刺史・上桂國・賜緋魚袋の閭丘胤という方が、豐干禪師に、自分の地域に師として仰いでいい優れた賢人はいないかと尋ねた。豐干禪師は、「見てわからず、わかったら見えなくなるだろう」と答えた。そして「形相にとらわれずに見られるなら、教えてあげよう」と言った。 そして豐干禪師は、寒山が文殊菩薩で国清寺に隠れていること、拾得が普賢菩薩で貧乏人の姿を現していることを、閭丘胤に教えてくれた。 刺史が国清寺の台所を訪ねると、そこで火の前で

          参天台五台山記読記038

          参天台五台山記読記037

          十四日(癸巳) 辰時に、寺主が来訪し、慰問をした。木患子琉璃裝束念珠を一輪寺主に寄贈した。大衆共が一緒に慰問しに来てくれた。阿闍梨の官符を見せた。 巳時の二点に、寺主坊で食事が用意されたので、沙弥一人を留守役にして、七人で食事に赴いた。 寺主院は智者大師が懺悔を行なったお堂で、教跡院という。まず、智者懺堂に入り、大師の念持仏とした三尺の釈迦、弥陀、観音などの仏像数十体を礼拝した。そして、大師の愛読していたお経を拝見した。妙法蓮華経の第七巻はみんな御真筆になっていた。奥には日

          参天台五台山記読記037

          参天台五台山記読記036

          十三日(壬辰) 本日も晴れる一日だった。卯時に出発した。五里進んで、永保鄉にある旻十三さんの家で休憩を取った。さらに五里進み、飛泉口で休息した。続けて五里進んで、陳七叔さんの家に着いて一服した。みんなでお茶を飲み、支払おうとしたが、陳七叔さんがそれを断った。 さらに三里進んで景福院に着き、そこで休息した。そして金堂にある高さ半丈六の釈迦如来像に参拝した。心賢師は、古い仏教経典の中から、「療痔病経」「八陽経」「地蔵十王経」を選び出し、それらをまとめて書物にした。 さらに二里進

          参天台五台山記読記036

          参天台五台山記読記034

          十二日(辛卯) 本日は快晴に恵まれた。卯時に出発し、十五里進んで、辰時の三点に、同県の仙桂鄉に到着した。そこには石造りの阿弥陀堂があり、これは寿昌寺の僧正明知大師の弟子、行者性李が建立したものだった。 例の童行(寺院で働く未成年の在家者)がお茶を勧めたが、茶器が穢れていたため、飲まなかった。さらに十五里進み、申時に新昌県の境界を離れ、台州の天台県に入った。ここは関嶺と呼ばれる高山の山頂だった。関嶺を通過し、一里ほど離れた鄭一郎の家に宿を借りた。 七時には勤行を終えた。輿に乗

          参天台五台山記読記034

          参天台五台山記読記033

          十日(己丑) 晴れ渡る一日だった。卯時に船出し、帆をあげながら船を駆けさせた。五里進んだら、剡県に到着した。 巳時に、張九郎家に着いた。そこで錢小八郎が印香一両を寄贈し、また百回にわたって礼拝をしてくれた。それを止めるよう促したが、なかなか承知してくれなかった。 そこにいた一人の者が、値段二十文のお香を寄贈し、さらに一人ひとりに十文ずつのお志を渡した。大家の母親は85歳になっていたが、それでも部屋を出て成尋を礼拝し、二文を喜捨した。大家はお香を焚いてくれた。夕暮れや子時に、一

          参天台五台山記読記033

          参天台五台山記読記032

          八日(丁亥) 晴れる一日だった。辰時の一点には、満潮になっていたので、まず水牛二頭で船を陸地に引き上げ、次に牛四頭で大きな曹娥河へ船を移動させた。曹娥河は南から流れてきた川で、川の北側が大海原だった。川を遡って蒿山を経過した。 五十里進んで、午時の四点に、主家會に着いた。そこで少し休憩を取り、薪を買った。 さらに二十五里進んで、酉時の一点に、夏午浦口に着いた。これも同じ川の名称だが、上流と下流では呼び方が異なっていた。 さらに二十五里進んで、蔡家山に宿泊することにした。 七時

          参天台五台山記読記032

          参天台五台山記読記031

          七日(丙戌) 晴れる一日だった。卯時に、杭州の牒(公文書)を役人に見せて、水門を開けてもらい、船を通らした。川の東側には大きな伽藍があり、川の右左には市場があり、四百文のお金でお米を五斗購入した。襟付きのカラス(白頸鴉) が数羽見えた。ペットとして飼われ、金鼓を叩いているような小鳥の囀りが聞こえた。 道士が着ている表衣(上着)は、日本の付衣によく似ていた。迎恩門はまた、日本の朱雀門のような印象で、大五間の規模で右左に渡殿があった。扉には間隙が設置されていたが、それは水料を通

          参天台五台山記読記031