見出し画像

参天台五台山記読記037

十四日(癸巳)
辰時に、寺主が来訪し、慰問をした。木患子琉璃裝束念珠を一輪寺主に寄贈した。大衆共が一緒に慰問しに来てくれた。阿闍梨の官符を見せた。
巳時の二点に、寺主坊で食事が用意されたので、沙弥一人を留守役にして、七人で食事に赴いた。

智者大師(画像出典元:kosaiji.org)


寺主院は智者大師が懺悔を行なったお堂で、教跡院という。まず、智者懺堂に入り、大師の念持仏とした三尺の釈迦、弥陀、観音などの仏像数十体を礼拝した。そして、大師の愛読していたお経を拝見した。妙法蓮華経の第七巻はみんな御真筆になっていた。奥には日記が付けられ、そこに智者大師が署名された。感動して涙が溢れてならなかった。残念ながら、他の巻はみんな火事で焼失されたという。諸仏像の後ろに掛けられた智者大師の御影、十六羅漢像や泗洲和尚の御影を拝観した。その後、きれいに装飾された食座に着いた。副寺、監寺などが会食に参加した。

豐干橋(画像出典元:kosaiji.org)


午時に、三賢院を参拝した。三賢とは、豐干禪師、拾得菩薩、寒山菩薩のことを言う。この三人は、其々阿弥陀仏、普賢菩薩、文殊菩薩の権現だと考えられた。禅師のそばには虎が伴ったが、拾得、寒山は在家の姿だった。三賢は唐太宗の貞観年間、相次いで国清寺に御姿を現した。最初、豐干禪師がお寺の大蔵の西北隅にある庵に住んでいた。ある日、松の道を歩んで、赤城道の側で号泣している十歳頃の子を発見。その子に声を掛けてみたら、家も苗字も分からないというので、豐干禪師は彼をお寺に連れていき、収容をした。彼のことを拾得と呼んで、育ってあげた。その後、寒嵓からもう一人の賢い子も加わり、その子を寒山子と呼んでいた。

上野若元筆『豊干拾得寒山図』(画像出典元:wikipedia)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?