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参天台五台山記読記038

貞観十七年(875年)、朝議大夫・使節台州諸軍事・守・刺史・上桂國・賜緋魚袋の閭丘胤という方が、豐干禪師に、自分の地域に師として仰いでいい優れた賢人はいないかと尋ねた。豐干禪師は、「見てわからず、わかったら見えなくなるだろう」と答えた。そして「形相にとらわれずに見られるなら、教えてあげよう」と言った。

海北友松『寒山拾得図』(画像出典元:http://ttb.ttcmzx.cn)


そして豐干禪師は、寒山が文殊菩薩で国清寺に隠れていること、拾得が普賢菩薩で貧乏人の姿を現していることを、閭丘胤に教えてくれた。

南宋 名無しさん『寒山拾得行吟図』(画像出典元:http://ttb.ttcmzx.cn)

刺史が国清寺の台所を訪ねると、そこで火の前で大笑いしている二人の男に出くわしました。刺史が二人に礼拝すると、二人は続けざまに刺史を荒々しく注意しながら、お互いの手を取って呵々と笑いさざめいた。

伊藤若冲『寒山拾得』


そして二人は「豊干がしゃべりすぎたな。この饒舌な弥陀さん。俺たちを礼拝する意味がわからん」と言いながら、手を取り合って急いでお寺を出て行ってしまった。その後、二人は二度と寺に戻ってこなかった。
その後、刺史は豊干禅師の居室を訪ねると、そこには虎の跡しか残っていないことを発見した。そこで刺史は、僧侶の実徳、道翹(道翹は『寒山集』の撰者だった)に豊干禅師の行動について尋ねた。

石川豊信『見立寒山拾得図』

道翹は答えて言った。「豊干が居られた日々は、ただ米を搗いて供養に励み、夜になれば自らを慰めるように歌を歌っていたのだ」

虎に豊干禅師水滴(東京国立博物館)


豊干禅師は次のような詩を詠んでいたと伝えられている。
余自來天台
凡經幾萬廻
一身如雲水
悠々任去來
詳細については、伝録に記されている。

養德惟正 寒山豊干拾得図(模本)

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