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ヒルデガルトの生涯

いつも読んでいただき
ありがとうございます。
さおりんです。


わたしがこの方のお名前を知った
のは2017年1月です。
当時のわたしはちょうど
病院勤務をしていたサラリーマン
で不規則なうえに安月給で激務
ものすごくストレスを感じて
生きていました。


父と母は同時に入院したり
家族のSOSに気づけないくらい
過労でした。


病気になってから
病院にくるんじゃ遅いし
薬という毒を取り入れて治療して
必要のない検査を黙々と
ただ流れ作業のようにしている毎日
に限界を感じてしまっていたのです。


検査をして病気を発見したり
現状維持を確認するよりも
目の前の人に密に接してケアしたい
という想いで
病気の専門家から健康の専門家へ
転向していきたいという時に
古代の薬用植物療法として
メディカルハーブに出会い
少しずつ学んできました。


そのなかで中世の時代に
時代を超えて今なお
ひときわ輝きを放つひとりの女性
が生きていたことを知りました。


その方の名前は
ヒルデガルト・フォン・ビンゲン
といいます。


聖女であり
中世神秘主義者のひとり
に数えられていますが
教会音楽の作曲家であり
健康と病についての書物や
植物、動物、鉱物についての書物
も書かれ、医師や栄養学者、庭師
を含めた多くの方々が多大な影響
を受けています。


わたしは、臨床検査技師として
化学者として生きていた中で
アインシュタインさんや
レオナルドダヴィンチさんを
尊敬しているのですが
まさにこの2人を足して2で割った
のがこのヒルデガルトさんという
イメージです。
今回は、この聖女
ヒルデガルトさんについてご紹介
していけたらと思います。


《ヒルデガルトの歴史的背景》
ヒルデガルト・フォン・ビンゲンは
1098年に生まれ、翌年には十字軍が
エルサレムを征服し、ドイツに布や
植物、スパイス、理念など
多くの新しい波が
押し寄せてきた時代です。


1122年ヒルデガルトが24歳のとき
ヴォルムス協定が叙任権闘争に
終止符を打ちます。


皇帝の立会いの下で司祭の選出を
行うことや選ばれた司祭と修道院長
に叙任式の前に教会の世俗的所有を
授与する権利を皇帝が持つことを
意味していました。


司祭の叙任権は教皇にありました。
この協定により教皇と皇帝の間で
長年続いていた司祭の選定権を巡る
争いが終結しました。


1127年、ヒルデガルトが29歳のとき
ヴェルフ家と
ホーエンシュタウフェン家との争い
が始まります。


神聖ローマ皇帝ロタール3世の死後
ヴェルフ家との後継者争いに
勝利したコンラート3世は1138年に
ようやく君主として認められ
ホーエンシュタウフェン朝を
築きました。


1146年には
ベルナール・フォン・クレルヴォー
が第2回十字軍の勧誘演説を
行っています。


この十字軍の指導者は
フランス国王ルイ7世とドイツ国王
コンラート3世でした。


1152年、ヒルデガルトが54歳の時
フリードリヒ1世がドイツ皇帝
となります。


1155年にローマ教皇より戴冠され
教皇アレクサンデル3世との争いが
1167年、教皇をローマから追放する
まで続き
1179年にヴェネチアの和議に従って
ようやく和解にいたりました。


フリードリヒと1世はその後1190年
まで統治し、ヒルデガルトの死後も
11年生きました。


ヒルデガルトはこのような
波乱の時代に生まれ
そのことを強く意識しながら
生き抜きました。


女性であり聖職者でありながら
けっして政治と無関係ではなく
政治の舞台で繰り広げられる
できごとに対してもはっきりと
自分の考えを表しました。


ヨーロッパの多くの有力者と
交わされた書簡は
現在確認されているだけでも
300通以上、驚くほど大量です。


ヒルデガルトは世俗、聖職問わず
高位にある男性に対しても
その振る舞いが承諾できなければ
遠慮せず説教していたそうです。


それ故にいたるところで尊敬を集め
領主、皇帝、司祭、教皇からも
助言を求められたのでした。


1146年には
ベルナール・フォン・クレルヴォー
と書簡のやり取りが始まり


プラハ、ザルツブルク、ユトレヒト、
リュティとの司祭とも
書簡が交わされた。


エウゲニウス3世
アナスタシウス4世
ハドリアヌス4世
アレクサンデル3世ら
歴代ローマ教皇に宛てた書簡も
残っています。


1155年、ヒルデガルトは
インゲルハイムの城で
皇帝フリードリヒ1世、
(赤髭王バルバロッサ)に
謁見しました。


再会は1163年
このときは厳重な警護の元
皇帝みずからがヒルデガルトの
修道院に赴いています。


初めのうちヒルデガルトは皇帝に
対して好感を抱いていました。


皇帝も最初の出会いで、好戦的で
妥協のない修道女に感銘を受け
1155年にヒルデガルトに宛てた
書簡の中で、加護を祈って欲しい
と依頼しています。


しかし、1159年
フリードリヒ1世が選ばれた教皇
アレクサンデル3世と対立していた
教皇ヴィクトル4世を認め
教会分裂が起こります。


ヒルデガルトは皇帝への友情から
譲歩したものの、アレクサンデル3世
の死後も、皇帝が次の対立
教皇パスカリスを認めたため
このときはじめて
警告の手紙を書きます。


1168年、パスカリス3世の死後も
また3人目の対立教皇カリトゥス3世
を立てた時には
神の言葉をしたためた書簡を頻繁に
送りつけ独裁的になっていた皇帝を
深く傷つけました。


その後両者は決裂しましたが
1177年フリードリヒ1世は戦いに
大敗しヴェネチア和議により
イタリアの都市に権利を返上し
教皇アレクサンデルを
承認しています。



《ヒルデガルトの生涯》
ヒルデガルト・フォン・ビンゲン
はベルマースハイムの地方貴族
ヒルデベルトとその妻メヒティルト
の10番目の子として
1098年現在の
ラインラント・プファルツ州
アルツァイ近郊の屋敷で
生まれました。


早くから身のまわりのあらゆるもの
に興味を持ち非常に繊細で3歳の時
にはすでに幻視で両親を
当惑させたそう。


両親は最初のうちにヒルデガルトの
幻視を単なる子供の空想としか
考えていませんでした。


ヒルデガルトが生まれた時、すでに
両親は将来は修道院へ送ることを
決めており、ヒルデガルト自身も
あがらうことはなかったのです。


1106年11月1日、8歳のヒルデガルト
は裕福な家に生まれながらも自ら
隠遁生活を選んだ美しい
ユッタ・フォン・シュパンハイムの
教え子となって
ディジボーデンベルク修道院付属の
寮に入ります。


そこでは恭順と従順の美徳を
教わっただけでなく、ダヴィデの
詩篇も習い覚えました。


その知識は後の作曲にも
生かされています。


さらにユッタらの聴罪司祭で後に
書記を務めるフォルマール修道士
によって、ヒルデガルトは教養を
深めていきます。


男子修道会士と異なり、いわゆる
自由七科(文法、修辞学、弁証法、
算術、幾何、音楽、天文)を体系
だって習うことはなかったため
「無学」であるものの
類まれなる天分によって膨大な
知識を習得し、自らの観察力で
それを補いました。


まだ少女だったヒルデガルトは
両親が望んだ聖職者としての
生活を自らの意志で選び
1112年から1115年までの間に
修道会に入る誓願を立てます。


こうしてベネディクト修道女と
なったヒルデガルトは
ベネディクト派のモットー
「祈り、そして働け」を生涯遵守
して瞑想と活動、内面的なものと
外面的なものとの結びつきが強調
された著書も残っています。


自らの病と虚弱な身体に生涯
苦しみながらも、ヒルデガルトは
あらゆることは成し遂げていった
のです。


1136年にディジボーデンベルクで
30年にわたり寮と女子修道院を
営んだユッタ・フォン・
シュパンハイムが亡くなると
新たな女子修道院長の選出が
行われました。


終始静かな隠遁生活を送っていた
ヒルデガルトが女子修道院長に選出
され、初めは抵抗を示したものの
最終的には責任の重いその任務を
引き受けたのです。


1141年、43歳の時偉大なる幻視が
始まり、ヒルデガルトはそれらを
「神の道を知れ、スキウィアス」に
記すことを決めます。


「汝の見聞きしたことをせよ。
書きとめ、語るがよい」
ヒルデガルトは神の声に深い衝撃を
受けたのでした。


フォルマール修道士はヒルデガルト
が幻視を書き記すことに理解を
示しました。


深い信頼関係にあった若い修道女
リヒャルディスもまたヒルデガルト
の言葉を聞き書きし、その記録に
協力を惜しみませんでした。


こうして、3人は5年の間
「神の道を知れ」に取り組みました。


1147年には教皇エウゲニウス3世が
トリーア公会議を開きヒルデガルト
にさらに幻視の記録を続けるように
激励して認可します。


公開討論では数百人に上る国内外の
教会代表者、とくに偉大なる
ベルナール・フォン・クレルヴォー
が、ヒルデガルトの幻視を知って
承認を明言しました。


こうしてヒルデガルトの評判は
広まり修道院にはますます多くの
修道女志願者がやってくるように
なりました。


しかし
ディジボーデンベルク修道院では
修道士が使用する建物の増築が
進んでいて、ヒルデガルトとその
弟子たちには余地が
残されていませんでした。


そこでヒルデガルトはビンゲン近郊
のルーペルツベルクに新たな修道院
を建設することを決めます。


ヒルデガルトが立ち去るのを
恩知らずな行為だとする
ディジボーデンベルク修道院の
クーノ修道院長の抵抗にあいます
がマインツ大司教に相談した
リヒャルディス近境伯夫人の協力を
経てヒルデガルトは計画を遂行します。


1150年には
新しいルーペルツベルク女子修道院
で修道女たちの教育を始めることが
できるようになりました。


修道院には貴族たちから気前のいい
寄贈もあり、経済的な基盤も確保
できたそうです。


しかし、クーノ修道院長は
ヒルデガルトの独立をなおも許さず
ヒルデガルトの聴罪司祭だけでなく
長年信頼関係にもあり
書記を務めていた
フォルマール修道士にも
ディジボーデンベルク修道院に戻る
ことを要請します。


さらにクーノ修道院長は
ヒルデガルトのルーペルツベルク
女子修道院に流された資金は
もともと自分の修道院に権利がある
と考えられていました。


重い病で麻痺に苦しんでいた
ヒルデガルトでしたが、あるとき
幻視で自らディジボーデンベルク
修道院のクーノ修道院長のもとへ
赴けという指令を授かります。


ヒルデガルトは6時間馬に乗り
予告なしにクーノの前に現れました。


すでに60歳という年齢を考えたら
ビックリですよね。


クーノ修道院長を説得するために
幻視に着想を得た熱弁で修道女
たちには父親のごとくふるまい
彼女たちの財に干渉しないように
求めてフォルマールを呼び戻そうと
要求もきっぱりと拒絶します。


クーノ修道院長がヒルデガルトの
要求をすべてのんだことがこの長旅
の成果だったのです。


そして
マインツの大司教アーノルトが
ヒルデガルトの修道女たちに
自由な修道長選出の権利を文書で
確約していました。


しかしヒルデガルトは修道院が十分
に安全な状況にあるとは
思えなかったようです。


不確かな時代で、女子修道院には
軍事的な防御が欠かせないと考えた
ヒルデガルトは長年にわたって書簡
を交わしていたフリードリヒ1世
(赤髭王バルバロッサ)に要請し
1163年に保護状を発行させます。


このおかげで
1631年に三十年戦争が勃発した時
修道女たちがスウェーデン軍の攻撃
を避けてケルンへ避難するまで
およそ500年にわたり
修道院の平穏が保たれたのでした。


ルーペルツベルク女子修道院時代
1151年~1158年ごろに
ヒルデガルトは医術に関する知識
を偉大なる医学書「病院と治療」
として記しました。


その認識と洞察はまだ完全に
利用しつくされていません。


常に宇宙と小宇宙を結び付けていた
ヒルデガルトはこの書を
天地創造の物語で始めています。


四台元素の章にはこのように
書かれています。


「神は世界の元素を創られた。
それらは人間の内にある。
人間はそれらの中でともに作用する。
それらとは火・風・水・土である。」


ヒルデガルトは
身体と魂の共同作業が
いかに重要であるか
一方が他方なしには生きられない
ことを繰り返し指摘しています。


自然学の書「フィジカ」もこのころ
に成立したものです。


ヒルデガルトの評判はますます
広まり、まもなく
ルーペルツベルク女子修道院も
手狭になりました。


そこでライン川をはさんだ
ほぼ向かい側にあたる
アイビンゲンに姉妹修道院が創られ
1165年に最初の修道女たちが新しい
居住地へち移り住みました。
70歳を過ぎていたヒルデガルトは
週に2度、船で川を渡って被後見人
たちを訪ねました。


しかしヒルデガルトは神の言葉を
修道院という保護された場で説教
するにとどめてはならぬ、という
新たな幻視に従って、1160年から
1170年にかけ、マインツ、
ヴュルツブルク、バンベルク、
トリーア、メッツ、マウルブロン、
ヒルザウ、ツヴィーファルテンへと
4度の大掛かりな説法の旅を
しています。


ヒルデガルトにとって重要だった
のは、皇帝、国王、教皇に宛てた
書簡と同様、真実をはっきりと
口にすることでした。


その生き生きと描写する説教に
耳を傾けたのは聖職者も例外では
なかったのです。


ヒルデガルトは聞き入る会衆の心
を揺さぶっただけでなく聖職者たち
の気持ちにも変化を与えました。


1173年
クーノ修道院長から奪い取った
聴罪司祭であり書記であり
信頼を置いていた忠実なる
フォルマール修道士が
亡くなりました。


そのポストを継承したのは
司教座聖堂首席司祭の
ゴットフリート、やはり
ディジボーデンベルク修道士
でしたが
彼もまた1176年に亡くなると
次はヒルデガルトがすでに盛んに
書簡を交わしていたジャンブルー
(ベルギー)のウィベールが
ヒルデガルトの書記となりました。


今や70年代後半にさしかかっていた
ヒルデガルトは病と幻視による
感情の揺れ、骨の折れる執筆活動、
長旅、管理と司牧者としての仕事に
憔悴しきったひとりの老女でした。


しかし、その闘争心は
なおも健在でした。
そのことを証明しているのが
1178年の革命的活動です。


旅の途中で亡くなったひとりの
若い貴族が、本人の希望により
ルーペルツベルク女子修道院墓地に
埋葬されました。


まもなくヒルデガルトは、マインツ
の司教座聖堂参事会員らから
一通の手紙を受け取ります。


手紙は、その若者が重罪を犯して
破門されているため、教会の墓地に
埋葬することを禁じるという
内容でした。


遺体を発掘して動物の皮はぎ場に
埋めるように、さもなければ修道院
の禁令にふれると書かれていた
のです。それはすなわち
修道院に属する者はすべて破門
夕べの食事をとることも
ミサを行うこともできなくなること
を意味していました。


ヒルデガルトは激怒。
その若者は最終的には懺悔して
罪を悔いてキリスト教徒として
死を迎えました。


新たな幻視で
若者の亡骸をそこから運び去る
必要はないと確認したヒルデガルト
はマインツの司教座聖堂参事会員の
指示よりも幻視が自分に発した命令
を遵守しようと決意します。


こうして修道院には恐れられていた
聖務禁止が下されました。


老女子修道院長ヒルデガルトは
マインツに赴き、そこで個人的に
高位の参事会員たちに交渉しますが
厳格に法に固執する彼らに対して
目的を果たすことなく
帰路につきました。


しかし
そのころローマに滞在していた
マインツ大司教クリスチアン・
フォン・ブーフへの一通の手紙が
ようやくこの苦境を好転させます。


聖務禁止は解かれ、若者の亡骸は
自身が望んでいた場所、すなわち
ヒルデガルトのもと
ルーペルツベルクにそのまま
置かれることが許されたのでした。


1179年9月17日
ヒルデガルトは自ら創設した
ルーペルツベルク女子修道院で
81年の生涯を閉じました。


その影響は今もなお
生き続けています。


・医学においてヒルデガルトは
ドイツ最初の「自然療法の医師」
として知られており数多くの医学者
が研究し、さまざまな病院の
コンセプトが彼女の認識を
基礎としています。


・ヒルデガルトの栄養学は
その根本的特質において現代の健康
を意識する人たちにとっての重要な
選択肢となっています。


・ヒルデガルトのスピリチュアルな
瞑想の世界観はようやく
論究され始めたところですが
将来必ずや多くの人々にとって
価値ある有益なモノになるでしょう。


・ヒルデガルトの音楽は
興味深いことに若者の心を揺さぶり
CD「ビジョン:ヒルデガルトの音楽」
がヒットチャートにランクインして
いるほどです。


ヒルデガルト・フォン・ビンゲンは
生前から「ドイツの預言者」
「ラインの預言者」と
呼ばれていました。
900年の時を経て、ヒルデガルトは
現代の啓蒙された自由思想の
私たちに惑いなき真実の道を
教えてくれます。


今回はヒルデガルトさんは
どんな時代に生まれたのか
どんな人なのかご紹介しました。


別な記事で、ヒルデガルト流の医術
の世界についてご紹介します。


ここまで読んでいただき
ありがとうございました。
さおりんでした。


この記事は
LGBTQのジェンダー種族や
ADHD・HSPなどの繊細敏感種族
いわゆる繊細感覚派の方々向けに
セルフメンテナンスする生き方の
ために「ヒルデガルトのハーブ療法」
から一部引用して紹介したものです。
ぜひ手に取って
読んでみてくださいね。

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