「家族ってなんだろう」 それが知りたくて助産師になった。 家族のはじまる瞬間にたくさん出会ってきたが、 私にとって「あなたの物語」は、どこかリアルさに欠けていた。 そんな私が、ある日突然、母になった。 頭でわかっているつもりだった妊娠は、 決して皆から浴びせられる 「おめでとう」に応えられるばかりではなかった。 運命なんてものを、私は信じない。 これは、私がずっと知りたかった 「人が親になっていく過程」の記録である。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 自分
2歳の子どもが我々親を呼ぶ呼び方が、「ママ、パパ」だったのが、「ママちゃん、パパちゃん」にいつの間にか変化した。おもしろいなと思っていたら、最近「まーちゃん、ぱーちゃん」にさらに進化した。「まーちゃん」。サオリという名前の自分にとって、今まで呼ばれたことも呼ばれる予感すら一ミリもしなかった名前で呼ばれ、なんだかむず痒く、地味に嬉しい。 かつて、まみちゃんという友人が「まーちゃん」と呼ばれていて、なんてかわいくて甘い呼び名だとひそかに憧れていた。その呼び名で、自分が呼ばれる日
子どもが、2歳になった。 「今いくつ?」と聞くと、手を1にして「いっしゃい!」と満面の笑みで言う我が子。「今いくつ?」の質問の意味をわかっているというよりは、こう言われたらこう答えるものだと信じ切っている様子だ。誕生日の前前日くらいから、ちょっとずつ練習しようと思い、「今いくつ?」と聞いて「いっしゃい!」と言って出したその手から、中指をひっぱり出し、「もうすぐ、2さい、ね」と言ってみる。無言の時間が数秒間続き、小さな声で「にしゃい……」とつぶやいている。「そうそう、2歳ね。じ
灰谷健次郎さんの『太陽の子』という小説を読んだ。小さい頃から何度も読んだ本で、今度開催する読書会のお題になったので、久しぶりに読み返した。私の希望で選んだ本で、やや子どもっぽいかなとも思ったが、最近参加してくれる医学部の学生さんは本を読まないようで、あまり難しい本よりも読みやすく内容の良い本を読む経験を、と考えての選書だ。 灰谷健次郎さんの生き様は、私の人生に少なからず影響を与えている。もともと小学校の教員で、心を病んで、旅などをした果てに沖縄に移り住み、悠々自適な自然と近
1歳10ヶ月の子どもが、背後でなにか同じことを言い続けている。本を読んでいた私は、話半分で適当に流していたが、あまりにしつこくリピートしているので、集中して子どものことばに耳を傾ける。すると、聞こえてきたのは、「おにっこちゃん、どこいった?」。おにっこちゃんて、なんだ? おにっこちゃん、おにっこちゃん……自分も一緒に呟いてみて、もしやと思い、「お人形さん、どこいった?(のこと?)」と聞いてみると、「おにっこちゃん、どこいった?」と続ける。そうかそうか、お人形さんか。 さっ
1歳10ヶ月の子どもが、音の出る絵本を2冊使って「ぞうさん」の輪唱をセルフでやっている。このボタンを押すと「ぞうさん」が流れて、違う本のこのボタンも同じ「ぞうさん」が流れると認識していなければできないことだ。すごい。 年季が入ってきた本なので、押してもならない曲がある。「ゴンベさんの赤ちゃん」のボタンを押したのに音が鳴らず、何度も押しているうちに一つ下の「女々しくて」が流れ出すと、地団駄を踏んで怒り出した。このボタンを押すと「ゴンベさんの赤ちゃん」が鳴るはずで、今鳴っている
「おちゃちゃ、のむ?」 お茶ちゃ、飲む?と私がよく聞くからか、最近の子どもの口癖はこれだ。「飲む?⤴︎」と、語尾を上げずに「飲む↓」と言えば良いのだが、この言葉を言うとお茶がもらえることを学んだためか、連発している。 今日は、自分の顔をつまむ動作をして、私にはい、と差し出していた。アンパンマンが、お腹を空かせた仲間に自らの顔の一部をあげるように。ありがとう、と受け取り、ぱくぱくぱく、と食べる動作をする。そして、私も自分の顔をつまみ、はいどうぞ、と出してあげると、子どもも同じ
子どもが、もうすぐ1歳10ヶ月になる。3ヶ月以上この日記を書いていなかった。色々と思うことはあるのに、追われるように日々を送り、一番残したい記録がぼとぼとと音を立てながら記憶から消えていく。なんてもったいないことだろう。私は何度こんなことをくり返すのか。思い立った時が、始める時。 最近、子どもの認知機能や知能が明らかに発達してきたと感じる。ペンを握って描くことに興味を示すので、黄色の蛍光ペンを渡してあげた。大きな落書き帳を出してあげたいところだけど、生憎近くになかったので、
1歳6ヶ月の子どもを保育園に迎えに行き車から下ろすと、野に咲いているタンポポを手慣れた手つきでぷちっと手折っていた。 「タンポポ」 と言うと 「タンポポ」 たしかにこう返した。おお、タンポポが言えた!聞き間違いかと思い、再度リピートする。 「タンポポ」 「アンポポ」 うーん、ちょっと惜しい。でも近い感じだ。いいぞいいぞ。親の心情をよそに、子どもはとことこ歩き回り、今度は濃い赤紫色の芝桜に手を伸ばす。ぷちっとちぎり、じっとみつめている。芝桜って、咲いている姿は土にへばり
途中でなくなったものは、はじめからなかったのか。 誰にも言わず、海の中の貝のようにじっと押し黙っているうちに苦しみは過ぎ去り、渦中を過ぎたら、その出来事はきれいさっぱりなくなるのか。 その時の自分のざらついた気持ちや苦しみや悲しみも、時間と共に少し淡くなっていくように感じる。しかし、それが確かにあったという事実は、決してなくなりはしない。なかったことにはしたくない。 当たり前のように過ごしていた1日1日を、怯えながら、噛み締めながら、拾い上げながら、今度こそ過ごしたい。
1歳半の子どもと同じ布団で寝ている。夫と川の字に布団を二つ並べて真ん中に子どもを配置するが、厚めのマットレスを使っているため布団と布団の狭間に落ちないように左手の私のゾーンに寝かせている。寝るときは寂しいのか、甘えた唸り声を出しながら私の方に身体を摺り寄せてくる。猫みたいでかわいい。しかし、半身私に覆いかぶさってくるため、私が外側にずりずりと押し出されていく。私に残されたスペースは布団の幅の3分の1程度。先述したようにマットレスが分厚いため、落ちないように非常に狭いスペースに
押すと音楽がなる玩具を、お下がりでいただいた。 おつかいありさん、とんとんひげ爺さん、お弁当箱の歌、アイスクリームの歌など、自分が子どもの頃にも聞いていた童謡たちが並んでいて、つい自分も口ずさんでしまう。その中に、「めめしくて」「恋するフォーチュンクッキー」といったJPOPが数曲、異彩を放って並んでいることに気づく。このラインナップに、並ぶのか。子どもがアイドルに寄っていく商戦はこんなところからも始まっているのかとどこか金の臭いを感じながらも、自分でボタンを押しては流れる歌に
子どもは往々にして、大人の期待通りの行動をしないものである。 先日、行った場所にあったペグを木の枠の穴に刺すおもちゃに子どもが夢中になっていたので、早速メルカリで購入。これで思う存分遊びなさい〜と、期待に溢れた目で見つめていたところ、どっこい子どもは全然ペグを枠に刺してくれない。むしろ、試しにとこちらが何本か刺したペグを抜いていく。そのうちに、転がっていたビール瓶に、ペグを入れ始めた。「あれ、その瓶洗ったかな……?」というこちらの思いをよそに、もはや枠など見向きもせず、ひた
家にいる時は気まぐれで子どもにつけている布オムツ。この気まぐれが、仇となった。 先日、食事の後夫とごろごろ過ごした後に、眠くなってきたから今日はこのまま寝ちゃおう、ということになり、そのまま布団へスライドして眠りについた。夫がスピーディーに子どもの寝る準備をしてくれたので任せて、私は自分の寝る準備を。この時、子どもが布オムツ装着中だということをすっかり忘れていたのだ。保育園から帰ってきて、お風呂までの短いだからと、ウールのオムツカバーの中には薄い輪おむつ一枚のみ。そんな脆弱
視界の隅で、子どもが見たことのない動きをしている。ん?と思ってよく見ると、履いている自分の靴下の先を口に咥えて、一生懸命引っ張って脱ごうとしている。 工程としては、指先の靴下を少し引っ張る。頭をぐっと足先に近づけて、靴下を咥える。そのまま頭をぐっと上へ持ち上げると、スポッと靴下が脱げる。右が完了したら、迷わず左へ取り掛かる。途中で咥えている靴下が口から外れて、後ろへ倒れそうになっても、体勢を整えてすぐに再度食らいつきにかかる。今度は歯でしっかり噛んでいる様子。流れ作業のように
突如として、ストローマグの終焉が訪れた。 そもそも、うちの子はストローデビューが遅かった。聞くと、離乳食が始まる5.6ヶ月の頃から、時々お茶などの水分をあげる人もいるようだが、授乳と時々夜間のミルクをあげていたことで特に便秘にもならなかったので、そのままきていた。9.10ヶ月健診の時に、出かけた時にちょこちょこお茶を飲むことで感染対策にもなると保健師さんから聞き、「えっ、お茶って何で飲むんですか?」からのストローマグデビュー。ストローの前にスパウトというグッズを使う子もいる