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『太陽の子』を読み返して出会った、昔の自分

灰谷健次郎さんの『太陽の子』という小説を読んだ。小さい頃から何度も読んだ本で、今度開催する読書会のお題になったので、久しぶりに読み返した。私の希望で選んだ本で、やや子どもっぽいかなとも思ったが、最近参加してくれる医学部の学生さんは本を読まないようで、あまり難しい本よりも読みやすく内容の良い本を読む経験を、と考えての選書だ。

灰谷健次郎さんの生き様は、私の人生に少なからず影響を与えている。もともと小学校の教員で、心を病んで、旅などをした果てに沖縄に移り住み、悠々自適な自然と近い生活をしながら、教員時代に経験したいろいろなことを小説だったりエッセイだったり、文章に綴っていた。(うろ覚え)
今の経験が、のちのち自分の血となり肉となる。私もそう思って、しんどかった看護師時代の出来事、患者さんとの出会い、いろいろなものをしっかり自分のことばで感じておこう、と歯を食いしばった。助産師になってからも、心のどこかにそういう思いは持って大切していたように思う。

今回『太陽の子』を読み返して、驚くことがたくさんあった。それは、主人公のふうちゃんのお父さんが私も行ったことのある波照間島出身だったこと、そして小説の中に、沖縄から関西へ集団就職で来る人たちの姿、基地の問題、沖縄出身のものへの差別、戦争によるPTSD、そういったいろいろな要素が含まれていたからだ。「なんか沖縄の話で戦争の話で、めっちゃ泣いた良い話だった気がする」程度の記憶だった自分がとても恥ずかしくなった。

聞き書きをするようになって、社会学に興味を持った。沖縄出身の友人や知人も、中国地方に来てから身近な存在になった。20代前半に、土地や風土に魅力に魅了され、何度も八重山地方に足を運んでいる時は、全く知らなかった、沖縄の痛みやリアルな姿を知るようになったのは30代になってからだ。それまでは、私にとって沖縄は、疲れた自分を癒しにいく場所だった。私は、沖縄をただただ消費していたと思う。

私は、ちゃんと沖縄と出会う機会がなかった。そう思っていたのに、小さい頃から何度も読んでいた小説の中に、こんなに丁寧に沖縄の痛みや貧困、差別や戦争が描かれていた。私は、一体この本から何を読み取り、感じ取っていたのだろう。記憶の中で「めっちゃ泣いた」その涙は、いったいなにに対してだろうか。物語を、物語で留めずその社会背景まで感じとって味わうことができていたら、そこから紐解いて社会に興味を持っていたら、私はもっと早く本当に沖縄と出会えていただろう。そして、八重山地方に何度も行った時、波照間島を歩いた気持ちも、全く違うものだったろう。そんなことを感じながら、ヒリヒリしながら読んだ。

月日が流れて、私はこの物語の舞台である神戸にも行った。だから、神戸のおしゃれな港の様子や、店が連なるおしゃれな様子も想像できる。沖縄の海が青一色ではないことも、想像できる。蒼や碧、瑠璃色の、海。経験が増えると、読んだ文章から想像できるイメージが一気に広がる。経験って、楽しいなと思う。一方で、経験することで、自分が経験したそれ以上のものとは出会えない。そう考えると、経験のない状態で、あーかなこーかなと考える時間もとても尊い。
読み直すことで、昔同じ本を読んだ頃の自分と出会い直すことができた。漠然とした感情だとしても、「めっちゃよかった」と感じた心が、またこの本を読み直す機会をくれた。

本を、読みたいなと思う。映像で、丁寧に見せてくれる世界も好きだけど、文章を読んで想像する世界が大好きだ。映画化した小説を、映画を見た後に見ると、映画に登場した人物が想像力の邪魔をする。与えてもらった世界観の外にはいけない。自分がその時できる精一杯の想像力を膨らませて、頭の中で絵が描かれる世界。そうだ、だから私は本が好きなんだった。最近、実用書ばかり読んで、こういう世界から少し遠ざかっていた。本から紐解く現実もあるし、本から飛び出す空想もある。想像は、自由だ。

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