子どもには褒めるけど、自分を褒めることはしていなかった
「すごいじゃん。よくがんばったね!」
おもちゃを片付けて、得意気にわたしに「みてみてー」と報告する息子に向けて言う。
子どもは毎日、驚くスピードで成長する。
昨日できなかった片付けが、今日はできるようになる。
昨日うまく歌えなかったフレーズが、歌えるようになる。
(え、もうできるようになったの…?)
母親になって毎日息子と接していると、その成長スピードに目を見開くことが増えた。
子どもながらに、すごいなって感心する。
母親なら皆、そう感じるのではないだろうか?
身体は小さくても、まだ3年しか生きていないけど、わたしにとっては大切な「先生」である。
毎日、色々なことに気付かされる。
*
息子のように、
わたしたちは、子どもの頃は「ただ生きているだけ」「そこに存在している」で周りに喜んでもらえた。
赤ちゃんを見ると、自分の子どもではなくとも大半の人が笑顔になる。
赤ちゃんの頃は皆、自己肯定感は高いと聞いたことがある。
親が、他人が笑顔になった。
先生に褒めてもらえたり、認めてもらえた。
誰もが、必ずそんな子ども時代を過ごしてしている。
けど、大人なるにつれ「ただ生きているだけ」では何も言われなくなる。
子どもの頃に言われていたこと、
あいさつしたら、「すごいね」
ご飯を全部食べたら、「偉いね」
絵を描いたら、「上手だね」
ニコニコしていたら、「かわいいね」
は、少し大きくなってきたら、当たり前にできるようになれば言われなくなる。
言われないだけなら、まだいいのかもしれない。
むしろ、
「なんでできないの?」
「どうしてわからないの?」
「なぜ、結果を出せないの?」
「昔の方が、よくできたよね」
「理解できない」
なんて言われたりするのだ。
直接言われなくても、そう思わざるを得ない結果になったり、目の前で人間関係やトラブルとなって現れることもある。
悲しみ、挫折、裏切り、嫉妬、虚無感、絶望感…
色々な辛いことを感じる。
とはいえ、特別なことではない。
誰にでもあることだろう。
けして、自分だけではない。
社会の厳しさ。
人との関わりの難しさ。
終わりのない、無限の家事や仕事。
がんばっても報われないことの数々…。
だからこそ、しっかりその感情と向き合ったり考えたりはせず、
「たいしたことではない」と思って、つい分かったふりをしてしまう。
「気にしないようにしよう」背伸びして大人になりろうと、忘れようとする。
「もっとがんばらなきゃ、認めてもらえない」ととりあえず行動でカバーする。
また、生きていくには、なにかしら仕事をしていく必要がある。
人によっては、プラス、親の介護や子どもの世話などもあるだろう。
それらを含めて何かしら、「人の役に立つこと」をする必要がある。
目の前には、そんな風にやることがたくさん転がっている。
だから、いちいち考えるのも大変なのだ。自分も含めて日々荒波の中、波に乗れたり沈んだりしながらも、進んでいる。
だけど言われてきた言葉の「ソレ」は、
小さな、小さな心の傷となっていて、今も何かをするときにぼんやり思い出す。
言った方は確実に覚えておらず、今日も世界のどこかで笑って過ごしているもの。
こちらがいちいち、覚えていても仕方がない。頭では理解している。
なのに、
夜、寝ようとしたら思い出す。
家事をしていたら、思い出す。
運転中にも、思い出す。
「なぜこのタイミングで?」なときに。
もう何年も経っているのに。
似たようなことがあると、似た事例を見ると。
思い出して暗い気持ちになる。怒りや悲しみを感じる。
そう思ってしまう自分をまた責める…を無意識に繰り返すものだと思う。
だって、無意識には納得していないし、スルーしただけだから、いつかは溢れ出てくる。
けど、それを表に出すと、人に嫌われる。
また「ネガティブな人」だって思われる。
そんな「評価」はいらない。不利である。
だから、なかったことにしよう。
なにより目の前は、やることで転がっているし……。
そして認めてもらえるように、ポジティブな面だけを見せてがんばり続けよう。
って思ってしまう人も多いのかもしれない。
少なくとも、わたしはそんな傾向がある。
それはちょっと、今も自覚している…。
*
子どもの成長のように、
誰にでも目に見える結果、ビフォーアフターが分かる行動や結果、実績を残せる当然素晴らしいこと。
たくさんの研究や努力が必要なことだからだ。
たくさんの人の役に立っているということだからだ。
「できないことができるようになる」ということだからだ。
0から1になる、結果。
当然、
「評価」「褒められる」の対象になる。
「人気」や「尊敬」の対象になる。
素晴らしい、ことだ。
だけど同時に、大人になっていくにつれ、
「明らかにわかる結果が出ない自分は大したことない」
に無意識にすり替わっていく人が多いのではないのだろうか?
と息子を見ていて思った。
同時に、
「大人こそ、今生きている自分を認めてあげることが大切なのでは?」
と感じる。
子どもを褒める前に自分もだよ、って。
今のそのままの自分を褒めるって、思っている以上に大切な技術だと思う。
けど、なかなか難しい。
できている人って、たぶん少ない。
今日、自分で自分のことを褒めただろうか?
問いかけてみた。
……いや、
「自分よりももっとがんばっている人や、大変な人がいる」って思っちゃうし、
「当然のことだし、みんなやっている」や
「努力している人はもっとたくさんいる」って思ってしまう。
もちろん、それも事実だろう。
結果や評価されている人も、たくさんいる。
社会的地位がある人、肩書きがある人。
「誰でも目に見える結果」の有無。
だけど、会社や他人の評価って本当はあいまいで適当。さじ加減と好みであることも割と多い。
表では出てこない、コントロール不可な仕組みや水面下でのルールもある。
そこにこだわるのはちょっと違うのかもしれない。
だからこそ、「人からの評価」にとらわれずに
「自分が自分を好きでいること」「自分で自分を褒めて評価すること」の方がもっと大切なのだと思う。
そのうえで、何かしら結果を出したり、人から感謝されたりすることがよいと思う。
誰しもが昨日の自分より、できるようになったことやできたことがあるはず。
人にわざわざ言うことレベルではないけど、自分の中では「ちょっとがんばったミッション」だ。
今日は、
少し、早めに仕事を終えられた。
苦手なあの人と、穏やかに関われた。
新たな時短のレシピにチャレンジできた。
今日も家族のために家事をした。
会議の場で自分の意見を言えた。
断わりたかったことを、断れた。
いつもより、子どもと優しく接して遊ぶ時間がとれた。
おもちゃだらけの部屋を、整理整頓した。
ミスした店員さんに、笑顔で接することができた。
などなど……
そんな些細なことで自分を褒めてあげてもいいのでは?って思う。
もはや今日も、あなたはこうして生きているだけで、すごい。
だから、もっと褒めてあげよう。自分を。
人からもらおうとせずに、1人になって自分に愛情を向けてあげよう。
「自分ばかりいいのだろうか?」って思わなくても大丈夫。
そう思う人だからこそ、そうした方がいいだろうから(笑)
自分が元気でいないと、家族や親友、会社の人も悲しいだろうし。逆に、元気で笑っていると嬉しいだろうから。
そしてそれは、いつしか周りへもきちんと与えることができる。
だから心の中で、自分を褒めてみる。
「今日も、色々あるけどがんばっているね。ありがとう」って。
「なんだかんだ、今を生きてるのはすごいよ」って。
世界中で自分だけが唯一、最期まで側で自分を見ている存在。
夫や子どもは一番近い存在だけど、いつかは目の前からいなくなるときがくる。
だからこそ、自分が一番自分を好きでいたいし、嫌いでいたくない。
だから今日も、限られた子どもとの時間の中で
「ママもさー、生きているだけですごいよねー!」って息子と一緒に笑い合う。
口に出すと、なんだかちょっと泣きそうになる。
息子にはその意味はわからないだろうけど。
彼もいつか、わかる日がくるかもしれない。
小さな、目の前の「先生」にリビングのおもちゃだらけの部屋で教わったこと。
備忘録として、記す。
それはきっと、まだまだ続く。
最後までお読みいただき嬉しいです♪ありがとうございます!これからも心を込めて執筆していきます。