いつか終わりがあるから、咲き誇っていたい
子どもの頃から、桜を見ると、心癒される反面、なぜか少し切なく寂しくなっていた。
昔から不思議だったこと。なぜなのだろう?
みんなそう思わないのかなぁ。
と以前主人に話してたところ「俺にはよく分からない」と言われた。
そうなのか。
これは自分だけの感覚なのかな。
自分なりに考えてみる。
咲き誇る満開の桜、ライトアップされている夜桜。春の季節の桜はさまざまな表情を見せる。
どこか、幻想的なふわりとした花の灯り。
「時間の限り」があるからこそ、美しく、そしてちょっと切なく感じるのかもしれない。
*
昨日、近所の公園の桜を、家族で見に行った。
さすが桜の名所、人が多かった。
市内を一望できる山の上から、海と桜に目を奪われる。
今年も春が迎えられたこと。
家族でまた美しい桜が見られること。
当たり前のことがとても嬉しいな、と感じながら、隣で歩く主人と息子の楽しげな会話を聞きながら山道を歩いた。
桜は毎年同じように咲いてる。
去年の今頃も、同じような桜の写真を撮っている。
けれども、なぜ人は毎年同じような風景の写真を撮ってしまうのだろうか。
周囲でパシャリと桜を写真を撮る人や目の前の桜達を眺めていて、そんなことをぼんやり考えていた。
もしかすると。
景色はもちろん、人は「今この瞬間」を残しておきたいと、無意識に思うからかもしれないな。
咲き誇る桜達は、数日後には風に乗って散る。
「満開の桜」を見れば見るほど、無意識にそう感じて切なくなるのかもしれない。
ずっと、そこにはいられない。
望む望まないは別として、自然界や環境は。
変わらないようで、変わってしまう。
それは、人も同じかもしれない。
*
春は出会いと別れの季節。
終わりとスタート。
入園、入学、卒園、卒業、入社、異動、新年度…
4月は何かと、節目の年である。
自分はイベントはなくても、周りの環境は変わってくる。
現にわたしの職場も、来月は新入社員が入ってくる。わたしも教える立場になるし、業務内容もまた変わるのだろう。
その独特の、騒々しいバタバタした変わりめに、無意識に「変わるのだな」切なくなるのかもしれない。
期待や、不安を感じている自分や周りの感情を、無意識に感じとるからかもしれない。
人によっては、わくわくしたり、希望に溢れているのだろう。
桜を見て長年感じていた、切なさと寂しさは、その「変わりめ」を、桜の姿から感じていたからかもしれないと感じた。
ずっとそこにいられない。
良いことも、悪いことも。
居心地も、価値観も、性格も、年齢も…。
状況は自分の気付かないうちに、ゆっくり、ゆっくり移りゆくものなのだ。
変わらないようで、みんな変わっていく。
桜のように。
*
私が桜と家族の写真を撮るのは、写真の中の私と主人と、息子は一年ずつ、少しずつ変わってると感じるから。
それをまた時間を置いて見比べるのが楽しいから。
息子のはしゃぐ笑顔が見られて、今年もうれしい。
だからまた来年も、今年と同じような桜の下で、写真をパシャリと撮るのだろう。
次に迎える桜の季節を、わたしはどんな気持ちでいるのだろうか。
何をしているのだろう。
主人は、息子は、親は、周りの人はどうなっているのだろう。
みんな、私のそばにいるのだろうか。
それともいないのだろうか。
どんな出会いと別れがあるのだろうか…。
さまざまな気持ちが入り混じる。
けど、どんなことがあったとしても。
満開の桜みたいにわたしは「今のこの瞬間」の自分を誇っていたい。
いつか終わりがくる、その瞬間まで。
すると、周りに咲いてた、ふわふわと幻想的な桜達が、強く、今を凛と咲き誇る桜に見えた。
最後までお読みいただき嬉しいです♪ありがとうございます!これからも心を込めて執筆していきます。