「本当は違うのかも?」と思うことの大切さ
気をつけていることがある。
それは、
「慣れ親しんだ物事や人のことを、分かったような気になっていないだろうか?」
ということだ。
人はついつい、長く一緒にいる人のことを、さも分かったような気になってしまうことがある。
家族や友人、職場の人、または環境など。
「この人は、多分こう考えているはずだよね」
「きっとこうだろう。だからこうしよう」
という風に。
最初はできていたのに、いつしか相手に確認するをショートカットしてしまう。
なので、
「勝手に相手の気持ちを憶測して、自己完結していないだろうか?」
と、自分に問いかけるようにしている。
それは昔、そうした自分の勝手な思い込みやおせっかいで、人を傷つけてしまった経験があるからだ。
「この人にとってはきっとこれがいいはずだから!だからこうしよう」
と相手にきちんと聞きもしないで、動いてしまっていたことがある。(しかも、無意識に上から目線で)
今は冷静に、
「相手からすれば迷惑だったんだろうな…」
と思うし、
「何をやっていたのだろう。わたしは一体、相手の何を知っていて、何を理解したつもりでいたのだろうか?」
と自分の愚かさに呆れて、後悔している。
だからこそ今は人と話すとき、「もしかするとこの人には、言語化していない本当の気持ちや望みがあるかもしれない」
と思うようにしている。
自分の気持ちを言うのが苦手なタイプの人だったら、なおさら。
自分もどちらかというと、そのタイプだから、そうしたタイプの人の気持ちは比較的分かる「つもり」だ。
だけど長く一緒にいることが増えると、つい忘れてしまう。
ちなみに主人もそんなタイプだけど、長く一緒にいる相手だからこそ、必ず聞いて確認するようにしている。
人の気持ちは常に変わるし、ずっと同じだとはいえない。
「言わなくてもわかるはず」
「聞かなくても大丈夫だろう」
と言う考え方が続いていくと、人間関係は良くない方向にしてしまうんだと思う。
言葉って、難しい。
だからこそ、自分の発する言葉はなるべく相手に伝わるように言いたい。
そして、わたし自身はなるべく「分かりやすい人間」になろうと思う。
言葉と心を一致させて伝えるほうが、結局は自分と相手のためなのだ。
意思疎通しやすくなるから。
……とはいえ、これがなかなか難しい。
まだまだ、わたしの課題だ。
けど「わかりやすい人間になる」ということは「自分のわがまま」ではなく、結局は「相手への親切」に繋がるから良いことなのだと思う。
極端でない限りは。
好きなこと、そうでないこと。
得意なこと、苦手なこと。
やりたいこと、やりたくないこと。
YESと、NO。
ライターになって、より言葉の重要さと難しさ、そして伝えることの大切さを考えるようになった。
文章はもちろん、人と話すときにはちょっとした言葉や態度に目を向けようと思う。
人は相手に関する情報が手に入れば入るほど。
心理や傾向、勉強すればするほど。
「勝手な思い込み」と、「過去の経験に基づく方程式」によって、無意識に相手と、そして自分までも当てはめようとしてしまうものだから。
けど人の心って、天気のように日々変化するもの。毎日少しずつ、ゆっくり変わっているのだ。
だからこそ、
「自分は間違っているんじゃないか」
と疑うことも大切にしたい。
「本当に相手が望んでいることなのだろうか?」
「目の前にいる人は、本当に自分の思うような人なんだろうか」
「笑っているけど、心の中では泣いていたり、困っていたりするのかもしれない」
と冷静に、目の前の人や物事を見ること。
人は誰しも、無意識に「自分が正しい」と思ってしまう。そんな自分の愚かさや、弱さや怖さを知っている。
「自分を信じること」と同じくらい、「自分を疑うってこと」も大切にして、冷静な視点で人や自分を見るようにしたい。
なかなか難しいけれども。
数年前に自分がおかした失敗を、仕事からの帰り道に急に思い出したので……自戒を込めて書いておく。
苦い、にがい思い出。
この先、忘れることはないのだろう。
だけど、無駄にしないように大切にしたいな。
そんな気持ちを持って謙虚でいることが、自分や相手と、良く長く続く関係になるんではないかと思うから。
この記事が参加している募集
最後までお読みいただき嬉しいです♪ありがとうございます!これからも心を込めて執筆していきます。