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『見せしめ』は比企能員で良くないですか?

2022年4月17日(日)NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の第15話「足固めの儀式」が放送されました。

タイトルの「足固めの儀式」はたった15分ほどで済み、それ以外は謀反と上総広常の惨殺に費やされました。

これを業界用語で「タイトル詐欺」と言います(言わねーよ)。

今回描かされた御家人たちの謀反は脚本家・三谷幸喜の完全なオリジナル創作です。なぜオリジナルの完全創作なのかは理由があって、実は『吾妻鏡』は寿永二年の記述が散逸していてまとまっていないからなのです。

よって確実なる史実は

大倉御所で上総広常(演:佐藤浩市)が梶原景時(演:中村獅童)と双六をしている最中に殺された

のみなんです。

ただ、私は御家人たちの謀反はともかく、頼朝(演:大泉洋)と坂東武者の意識のズレはこの頃には顕在化していて、それが上総広常暗殺につながっていると考えています。

その遠因は「寿永二年十月宣旨」にあると考えています。

寿永二年十月宣旨の意味するところ

前回のエントリーでも書きましたが、後白河法皇(演:西田敏行)源義仲(演:青木崇高)平家追討を命じて西国に追い出した後、頼朝に擦り寄っています。それは京都の食糧事情と密接な関わりがありました。

源平合戦の影響と、養和の飢饉の影響で、諸国の年貢の回収が滞っているのに加え、義仲軍の入京によって必要以上に京の食糧消費率が高まったことが大きいです。

そのため、法皇は頼朝に東海道および東国の年貢の徴収権(行政執行権)とその実効支配を認める宣旨を出しました。要するに東海道と東国の官物を京に納めろという命令書です。

これは朝廷が頼朝の鎌倉政権の認めたものであると共に、鎌倉政権を朝廷政治に組み込む意味合いがありました。

ドラマでも描かれていますが、頼朝と坂東武者の間にはある種の価値観のズレが生じています。

頼朝は坂東武者を束ねて京に上り平家討伐を目指していますが、坂東武者は平家に代わって自分の領地を安堵してもらえる主の存在を求めています。

富士川の合戦の後、頼朝は西上せず、鎌倉に入り、鎌倉政権の確立(御家人制度や侍所の設置等)に専念しました。

一方で、常陸の佐竹氏との戦い(金砂城の戦い)や、ドラマでは描かれなかった源義広の戦い(野木宮合戦)等が坂東武者の間で起きています。
(これらの戦いに頼朝が関わっているかどうかは微妙です)

これは、親平家または反頼朝の勢力を坂東武者が駆逐するものであったと考えています。

鎌倉政権は坂東武者が「御家人」となって頼朝を盟主に仰ぎ、頼朝によって一切が支配される武士の都です。朝廷政治に組み込まれることは、その支配者である頼朝にとっては位階の復活等のメリットはあれど、坂東武者にとってのメリットは少なかったのではないかと思うのです。

坂東武者にとって頼朝は朝廷政治の手先ではなく、坂東武者の棟梁であってほしいと考えるのは自然の流れではないかと思います。

上総広常の謀反について

上総広常の謀反について具体的かつ詳細な記述がある文献はありません。

しかしながら九条兼実の弟・慈円(天台座主)が書いた『愚管抄』には、西暦1190年(建久元年)に頼朝が上洛した際、後白河法皇にこう語ったと記録されています。

(頼朝は言いました)院に申し上げることは、私は朝廷のためにこの身に替えて尽くしてきましたということです。

かつて、介八郎広常と申す東国の有力武士がいました。私は天皇家の敵を討ち滅ぼしたいと思い、広常を召し取って討ち果たしました。この者は軍功大いにある者でした。しかし、思い返せば、広常は

「なぜ、朝廷のことをそのように気にするのか。我らはただ坂東(東国)にこのように独自の勢力を築いている。朝廷のために働くものがいるのだろうか」

と申して、天皇家への謀反を心に思う者でした。このようなものを家人として抱えていては私に神仏の御加護はないと考え、排除しようと考えました。

その介八郎を梶原景時に命じて討たせました。これは景時の手柄です。
双六を打っている最中、一瞬の隙を衝いて一刀に広常を斬り捨て、その首級を私に持ってきました。誠に大きな功績です。

細かい話をするならば、これ以外の話もあったようなので、不足があるかも知れぬが、これらの報告が事実であるなら、梶原という武者は朝廷の宝と言うべき人材となる。

『愚管抄』巻之六

上記の記述が史実なら、上総広常は朝廷を軽んじる発言をし、調子に乗っていたので梶原景時に討たせたということになります。

しかしながら広常は上総権介の地位にあり、上総国の在庁官人(在国の官僚)としては実質トップ(上総国の親王任国のため、次官である「介」が実質トップ)です。

在庁官人である人間が朝廷を否定するということは、自分の立場、地位を否定するのと同じことです。

ただ、このような発言があったのかもしれないというのはわかります。

坂東武者が望んでいたのは平家に代わる新たな武士の主。そのため、朝廷のいいように使われる存在になってほしくはないという思いが曲解されて、前述の『愚管抄』のような話になったのではないかと思っています。

また、ドラマ上では「文字が書けない人」という設定でしたが、上総権介を今風に言えば千葉県副知事みたいなものです。そんな人が文字書けないとかありえないです。

頼朝のブラック度合いと比企能員の卑怯者っぷり

今回の話は御家人の謀反自体がドラマの創作ですが、その謀反を未然に防いだのは上総広常北条義時(演:小栗旬)でした。

誰も傷付かなかったことを理由に、義時は頼朝に全員の赦免を乞い、安達盛長は政子の意向も同じだと進言しますが、ここで比企能員(演:佐藤二朗)が余計な一言を言います。

奴らは御所に攻め寄せるつもりだったのだぞ。厳罰に処さねば示しがつきませぬ

『鎌倉殿の13人』第15話「足固めの儀式」23:52頃

この能員の言葉に同調したのが大江広元(演:栗原秀雄)でした。
そして議論が怪しい方向に動きます。

広元「やはり御家人たちに何1つお咎めなしというのでは、示しがつきません」

頼朝「それもそうだ」

広元「この際、誰か1人に『見せしめ』として罪を負わせるのはいかがでしょう?」

頼朝「誰かに死んでもらうと?」

義時「……お待ちください。1人を選んで首を刎ねるなど馬鹿げております」

盛長「ここは、何卒慈悲の御心を、さすれば皆、鎌倉殿の懐の深さに、皆、心打たれます」

能員「一人ぐらいならいいのではないか?」

広元「謀反など二度とあってはならぬこと!次こそは皆で殺し合いになるかもしれません。見せしめは必要です」

義時「必要ありませぬ!」

頼朝「しかし、誰にする」

広元「それは鎌倉殿がお決めになられること」

頼朝「やはり……あの男しかおらんだろう…..」

広元「上総介……広常殿」

義時「上総介殿は我らの頼みで(御家人たちの)企みに加わったのです。責めを負わせるのはおかしゅうございます」

広元「上総介殿で良いかと」

義時「……本気で申されているのですか?」

『鎌倉殿の13人』第15話「足固めの儀式」24:38頃から


ここで義時は頼朝と広元の間にある空気を敏感察知し、これは最初から広元によって仕組まれていたことであることを知ります。そして広元はこう言葉を続けます。

最も頼りになる者は、最も恐ろしい

『鎌倉殿の13人』第15話「足固めの儀式」26:22頃から

これは「理屈」としては正しいです。
最も頼りになるものは、最も力を持っている者です。
その力が反乱に加担すれば逆に作用し、支配者にとっては脅威となります。

上総広常はこの当時の頼朝の御家人の中で最大級の軍事力を持つ御家人です。もし再び謀反を企む勢力位があれば、広常を味方につけた勢力が勝つ。
それは頼朝を主と頂く広元には許し難い存在であったと推察します。

また、今回の謀反の『見せしめ』として、最大の軍事力である広常を誅殺することで頼朝の権力の大きさを示し、御家人の置かれている立場を弁えさせることが可能になります。

広元の計算はそこまであったと思われます。

そして頼朝は、この謀反劇のすべてを知っていて、その上でなおかつ最初から広常にすべての責任を負わせて殺すことを決めていたことを吐露します。

頼朝「上総介広常、いずれなんとかせねばならないと思っておった。その矢先にこの一件が持ち上がってな……最初に思いついたのはお主(広元)であったな」

広元「鎌倉殿でございます」

頼朝「(苦笑)……わしであった」

広元「あえて謀反に加担させ、責めをおわせる。見事な策にございます!」

頼朝「これだけ大きな企てがあったのだぞ。上総介の命と引き換えに皆を許そうと言っておるのだ」

義時「承服できません!」

頼朝「……では誰ならいいのか申してみよ……この中で死んで構わぬ御家人をここで挙げてみよ!」

『鎌倉殿の13人』第15話「足固めの儀式」26:53頃から

ここで私は「比企能員でいいと思います」と画面に向かって言ってしまいました。

だってこの男、謀反に加担してましたから。本来であればこのような寄合の席に出られる男ではありません。

それが寄合に出られているということは「本気じゃなかった」とか「皆に合わせた」とか言い訳しまくったんだと思いますし、そもそも彼が頼朝に提出した謀反参加者名簿にもたぶん自分の名前載せていないと思います。

その上「一人ぐらい死んでもいいのではないか」とか言ってますから。

佐藤二朗さんに恨みはありませんが、こやつが1番の卑怯者に見えたので、みせしめならこいつでいいと本気で思いました。

話を戻すと

頼朝は当初「未然に防げれば罪は問わない」と言っていました。そのため義時と広常は一芝居打ちました。しかし最初から広常を討つことが決まっていたなら、義時のやっていたことは全くの無駄事です。

そして広常はこの謀反が成功しないように誘導した最大の功労者です。その最大の功労者を見せしめにするとか。いったい大泉洋はどんな教育を受けてきたのでしょうか?(違)

義時が承服できないと言った時、頼朝は「では誰なら良いのか」と義時に尋ねていますが、坂東武者の1人でもある義時に指名できるわけがありません。これは頼朝の計算が働いていると思います。

頼朝が自分で指名して広常を討つ。
すなわち責任はすべて自分が取るということです。

この頼朝はやってることはブラック極まりないですが、一応、為政者としての責任からは一切逃れようとはしていません。そこだけは評価したいと思います。

上総広常死後について

上総広常の嫡男・上総能常は広常と同じく鎌倉で討たれています。所領はすべて頼朝によって没収され、同族である千葉常胤(演:岡本信人)和田義盛(演:横田栄司)らに与えられました。

また広常は房総平氏の当主(棟梁)であったため、その地位は千葉常胤に移っています。

広常が討たれた翌月、すなわち1184年(寿永四年)正月8日、上総国一宮(玉前神社/千葉県長生郡一宮町)の神主達から報告が上がりました。

故上総権介広常が上総国を支配していた時に、広常は願い事を掲げて鎧一領を玉前神社の神殿へ奉納していたという報告でした。

頼朝は「広常がどんな願いを以って神社に奉納したのか確認するため、奉納した鎧を召し上げよ」と藤原邦道と昌寛(共に頼朝の右筆)を遣わしました。

しかし「1度神様に奉納した鎧を没収するのはバチがあたる」と2人がいうので、頼朝は「鎧を2領差し出して1領と取り替えるならバチはあたらんだろう」と指示しています。

同月13日、藤原邦道と昌寛は玉前神社の神主を連れ、上総権介広常が納めた鎧を携えて、上総一宮から鎌倉へ帰ってきました。

すぐに頼朝様は御所に呼んで、その鎧をご覧になると、一通の手紙が肩の紐に結び付けてありました。

頼朝は、直接この手紙を外して開きました。その内容は、頼朝の出世をお祈りする願い事(願文)が書かれていました。

これを読んだ頼朝は「広常に謀反の心が無かったことが明らかなことがわかった」として、広常を暗殺してしまったことが悔やんだそうです

しかし、今となっては後悔後を立たず。広常の追善供養を行った上、頼朝に捕らえられていた上総権介広常の弟・天羽直胤と相馬常清等は、釈放されました。

広常の願文として伝わるのは下記の内容です。

謹んで申し上げます。  上総一宮の神殿へ
私は以下の内容を実施することを誓い、奉納します
一 3年間は神田20町を寄付すること
一 3年間は決まった通りに神殿を修理すること
一 3年間は1万回の流鏑馬を実行すること
これは、前右兵衛佐頼朝様の大願が成就し、東国に平和が訪れることを願ってのことです。この願いを叶えていただければ、益々神様の御威光を信じ奉りますので、ここに願いとして立てさせて頂きます。

『吾妻鏡』巻之三壽永三年正月甲辰

これらはドラマの終盤で頼朝が「読めん」と言って義時に突き返したものですが、これは偽書の疑いがあります。『吾妻鏡』には記載されていますが、頼朝の慈悲深いところをわざと演出してる可能性は否定できません。

何よりも玉前神社は戦国時代の永禄年間に焼失していることから、この願文も現存していないのではないかと思っています。

ちなみにこの時、許された広常の弟の1人である金田頼次は獄中死しています。その嫡男・金田康常(母親は三浦氏)は千葉氏の配下となって、旧領である金田郷(現在の千葉県長生郡長生村金田)を領しています。

この家が千葉氏の重臣・鏑木氏に連なるという説がありますが、私は確証を得ていません。

いきなり出てきた佐奈田義忠話

今回の話では三浦義澄(演:佐藤B作)岡崎義実(演:たかお鷹)が御台所・政子(演:小池栄子)に頼朝への不満を吐露するシーンがありました。

ここで義実はこれまでドラマでは1つも触れなかったことに触れています。

御台所はご存知かな。ワシは息子を石橋山で無くしとるんですわ。息子のためにもワシは鎌倉殿のお側に居たい。お役に立ちたい。けど……あの御方はちっともワシらの方を見てくれねぇ!それが悔しくてな!

『鎌倉殿の13人』第15話「足固めの儀式」22:19頃から

 多くの視聴者が「あれ?そんなシーンあったっけ?」と思ったことだと思います。ドラマの中の石橋山の戦いは大庭景親(演:國村隼)北条時政(演:中村彌十郎)の悪口合戦がほとんどだったので。

岡崎義実の嫡男は佐奈田義忠と言いまして、相模国大住郡岡崎の西方にある真田郷(平塚市真田)を本領としていました。石橋山合戦の頃はまだ25歳ぐらいだったと言われています。

義忠は父・義実の推挙により先陣を任され、15騎を引き連れて進み出て、俣野景久(大庭景親の弟)ら73騎と戦闘になり、討死しています。

この時、義忠を討ったのは長尾定景という者で後に頼朝に降伏し、義実に預けられています。

後に義実より赦免の願いがあり、命を助けられた定景は三浦氏の郎党となります。そして後に実朝暗殺事件で重要な役どころを務めることになります。
また定景の血統は最終的には戦国大名・越後長尾氏につながります。

また、義忠には孫の岡崎実忠がおり、義実が亡くなったあとはこの孫が岡崎氏の家督を相続しています。しかし1213年(建保元年)の和田合戦に叔父の土屋義清と共に和田義盛に味方して討死し、岡崎氏は絶えてしまいました。

討たれた方は断絶し、討った方は現代まで命脈をつなぐ。
歴史とは残酷なものです。

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