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写真機を持って(「山桜通信」52号)

学習院大学山岳部 昭和31年卒 小谷明

まだ、カメラが写真機と呼ばれていた頃から山を写し、スキーを写し、時が経つなかで世界の果てまで旅を写してきた。旅先に展開する景観や現象を感動するだけでは満足できず、写真に留めて、記憶の及ばぬディテールを記録することで充たされてきた。

何時から写真機がカメラと言われるようになったのか、写真機がメイド イン オキュパイド ジャパンの輸出花形商品となったからか、コンパクトカメラの登場だったのか。ともあれそれが、半世紀もたたずに世界のカメラ市場を独占するまでになった。そうした時代、山岳部や写真部で学生時代を過ごし、その魅力の虜になって以来、好奇心の赴くままに旅をしてきた。

その間。写真機もフィルムも年毎に性能向上、豊富な機種が揃った。と、思ったら、デジタルカメラが登場して一変。カメラは、大資本の事務機や家電メーカーの製品のひとつになり、高性能から多種多様、携帯電話・スマートフォンの付属機能となっている。デジタル化は、フィルムの調達、現像焼付け引き伸ばしが不要となり、流行はフィルム全盛時代を凌駕し、誰もがプロカメラマン気取りのようだ。フィルムの生産が何時まで続けられるのかと心配にもなる。

ふりかえって、初めて手にした写真機は戦前のドイツ製、蛇腹の先にレンズとピントあわせとシャッタースピード調節機能がついた折りたたみ式。フィルムはベスト版と呼ばれた6×4・5センチサイズだった(今は無い)。
以来、カメラ、フィルムともども性能、利便性、高画質を求め、時に応じて外国製、国産を問わず35ミリサイズから6×6センチ、4×5インチ、8×10インチサイズのカメラを購入し、撮影の対象に応じて選択してきた。印刷物に写真の利用が一般的になり、作品の発表は印刷媒体が主で、印刷会社も編集者も質の向上を追及した。カラーの時代になっては、カレンダーの普及が色彩の美しさを競わせ、それがフィルム、カメラの大型化を要求した。国産のフィルムが世界レベルになるのは1980年代以降。それまではコダック・フィルムが頼りだった。

そうした時代背景の中で、特に大がかりな山岳撮影をしたのは、1970年に開催された大阪万国博覧会でネパール・パビリオンの壁面25×5メートルを、ヒマラヤの写真で飾るための撮影だった。大型の8×10インチのフィルム(おおよそ週刊誌大)カメラを使用しのだが、それは当時の技術では、原版が大きくなければその大きさまで拡大できなかったためだ。フィルム交換用の暗室テントまで持参。運搬にはカメラに二人、三脚に一人を要した。カメラは、明治時代の写真機とさして変らず黒い布を被ってルーペでピントを合わせる仕掛け、露光は露出計で計測し、フィルムは一度に二枚しか撮影できない。そのため立ったりしゃがんだりの動作が多く、高地の酸素不足に拍車がかかって重い高山病に苦しめられた。が、エベレストがよく見える標高五千五百メートル辺りに幕営、二十四時間エベレストと対峙し、神々しさに感涙してシャッターを切った。翌年には三浦雄一郎のエベレスト・パラシュート滑降を撮影した。

旅は極地、僻地を好んだが、ラップランド冬の旅は、原住民サーミ族のトナカイ放牧生活にスキーの原点を求めてだった。冬至をはさんで太陽の昇らぬ極北の薄暗い世界に戸惑い、高感度フィルムを探してストックホルムの町を走り回った。トナカイに橇を引かせ、毛皮で身をくるみ一本杖でスキーを操るサーミの姿に氷河期の人類を重ね見る想いで感動した。寒気は厳しく、吹雪のなかでのレンズ、フィルムの交換には苦労した。カメラは凍りつき35ミリフィルムは硬化してしばしば切れた。

今にして思えば不便な時代、精度の高いズームレンズはなく、フィルムの感度もデジカメならISO値、画質は画素値で選択自由、メモリーカードは百、千枚、動画も撮影可能、露出もピントも自動仕掛で写した写真は瞬時に送信できる。「インスタ映え」なんていう流行語も生まれて、なんとも隔絶の感・・・。

エベレストパラシュート滑降(左奥エベレスト、手前はヌプチェ、5800m付近で撮影)

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