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ぐわっと視野を広げられたとき

「どうして、保育園に自分のおもちゃ持ってきちゃ行けないの?」
と、若き保育士だった私は問われた。
問うたのは、娘ではなく、子どもでもなく、以前勤めていた、保育歴40年の主任保育士だ。

詳細は忘れてしまったが、ある日の職員会議で、
『いつもおもちゃをもってくる子が、いつもならお母さんの鞄にすぐいれるけど、その日はもっていたいといって困った』、そんなエピソードを、検討しようみたいな内容だった。

論点は、おもちゃを保育園にもっていけないことをどうやって子に納得してもらうか、になった。「壊れてしまうと本人が悲しいから」「なくなったら大変だから」と、その子に伝える言葉が並べられた。

そんなとき、投げかけられたのが、上記の言葉。

そもそも、本当に、おもちゃを持っていっては、ダメなのか。

みんなが使いたくなって喧嘩になる
壊れてしまったり失くしてしまったりして、本人が悲しくなる
そうならないように、大人が先回りするのはなぜなのか。

大人が、トラブルになったり、困るからか……?

持っていってトラブルになるかもしれないことも全部含めて、「持っていきたい」をダメとしなかったら。
その子が、どうしても持っていきたかった理由はなんだろう。
そこにいきつく。

「いいか悪いか」、「許すか許さないか」を超えて、その子の思いってなんだろうに、気持ちが向く。
見せたい人がいるのかもしれない。
そばにあると安心なのかもしれない。

誰かに見せたら、大事にしまうかもしれない。
安心材料なら、回りの子にそれを伝えたらいいのかもしれない。
トラブルになったら、その時その子に寄り添って一緒に考えていけたら……次は持ってこないかもしれない。その子が考える機会になる。

このときも、グワーッと視野が広がったのを覚えている。

☆☆☆☆

実は、この発想が、社会人4年目まで、ほぼ全くなかった。許す許さないの世界で、ベテラン保育士と同じようにまとめられないことが苦痛で、保育が全然楽しくなかった。

まとめられない自分はダメな先生だったし、まとまらない子達は従ってくれない分かってくれない子達だった。
好きでなったはずなのに、
子どもはかわいいと、思う反面、大変、言うこと聞かせられない、回りの先生の目がいたい。
つらい……と思っていた。

あの頃、子どもの何をみてたんだろう。
純粋さと純朴さと、拙さ。
そんなものを「かわいい」と思っていた。
だから、連絡帳がうまくかけなくて思い出せない日すらあった。

その後、結婚や夫の留学に着いていくなど、いろいろあり、それでも子どものことから離れられなかった私は、ひょんなことから前述の園に就職した。

そこで、子ども観が、ひっくり返った。

さらに連れていってもらった研修で、180度修正された。子ども観の視野をぐわっと広げられた。

一歳で、目の前にご飯があるのに座って待ってて、いただきますして食べるのって、当たり前じゃなくて、そもそも必要ないんだ!
(という上の文章を読んで、いや、当たり前でしょと思うかたは、「保育の根っこにこだわろう(村田保太郎 著)」https://www.amazon.co.jp/%E4%BF%9D%E8%82%B2%E3%81%AE%E6%A0%B9%E3%81%A3%E3%81%93%E3%81%AB%E3%81%93%E3%81%A0%E3%82%8F%E3%82%8D%E3%81%86%E2%80%95%E7%89%B9%E6%92%B0-%E6%9D%91%E7%94%B0%E4%BF%9D%E5%A4%AA%E9%83%8E/dp/4793510981
を読んでほしい。あのシリーズを最初の園に配りたい。本気で。)

マナーを今大事にするべき年齢なのか?それとも、その子のお腹のすき具合を、自分で感じ、分かることの方がもっと大事じゃないか?
何を大事にしたいかで、その子の見方が180度変わる。

静かに待てない子 
が、
自分のことをよく分かっている子 
になる。

切り替えのできない子
が、
集中力のある子

になる。
切り替えのできない子
は連絡帳にかけないが、

集中力のある子
は、いくらでも書ける。

一人一人がなんて魅力的なんだろう。


もちろん、その場その場で課題もあるし、悩みもある。残業もあり、決して楽な職場ではない。
でも、気持ちが楽だった。
当たり前だ。
目の前の子の気持ちを大事にできるということは、無理な戦いをしなくていいということなのだから。

ある日、2歳児の我がクラスの子が、ブロックをリュックにぎゅうぎゅうにつめて背負って、持っていきたいといった。最初の園では、許されない。
でも、重いとか、遊ぶ場所はないとか、重々分かって、背負い、ふらふらと出発したその子にたいし、正直ワクワクしている私がいた。
案の定、途中で歩けない、ギブアップ宣言があった。
「ほらいったじゃん」なんてナンセンスなことは言わず、この重いリュックどうやって持って帰ろうか、ということになった。
回りの子が色々アイディアを出してくれて、長い棒を探しにいき、棒に引っ掻けて、お神輿のようにみんなでかついで帰ってきた。
後日連絡帳には、その子のお母さんからの言葉が綴られていた「~……お友だちがみんなで担いでくれたことが嬉しかったそうです」
やりたいを貫いて、でも、くじけそうになった時、お友だちが手を差しのべてくれて、優しさとパワーを感じたんだ。
そんな経験が、その後の彼の優しさにきっと繋がっていってる。

その後、その園は不妊治療でやめてしまったが、今でもその時の子ども観が、原点になって、今の子育てや、支援に繋がっている。

子どもをもっと面白いと感じられると、本当に気持ちが楽になるし、子育てが楽しくなる。

余裕がないとできないとか、言う人もいるけど、私は、前の方がはるかに余裕がなかったし、ギスギスしてたし、「○○させること」に必死になって逆にそこに時間を使ってたことに気づいた。

もちろん、ハザードは、体をはって守らなきゃいけないし、時間に追われてごめんの時もあるけど、

その子の育ちをとらえ、子どもの気持ちに寄り添うことが、こんなにお互いに無理なくできるんだなぁと、実感した。そして、めちゃくちゃ面白い。 そんな気持ちを子どもにか関わる人みんなに無理させることなく伝えていけたら。

あの時、ぐわっーと視野をこじ開けてもらった時の感動が、忘れられないでいる。

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