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2023.4.12 【全文無料(投げ銭記事)】ゆとり教育の間違い

初版が出版されて4年になりますが、今回は、明治大学文学部教授の齋藤孝教授の国語教科書を基に書き綴っていこうと思います。

『学問のすすめ』から始まる小学生1年向け国語教科書

2019年に齋藤教授がユニークな国語教科書を出しました。

目を見張るのは、小学一年生向けの教科書の冒頭から福澤諭吉の『学問のすすめ』を取り上げている点です。

てんひとうえひとつくらず、ひとしたひとつくらずとえり。
さればてんよりひとしょうずるには、万人ばんにん万人ばんにんみなおなくらいにして、まれながらせんじょうべつなく、万物ばんぶつれいたるこころはたらきをもって…>

これを他社の標準的な国語教科書を比べてみます。

<うみの かくれんぼ
うみには、いきものがかくれています。
なにが、どのようにかくれているのでしょうか。>

両者の違いは凄まじいものがあります。

『学問のすすめ』は、全ての漢字に読み仮名が振ってあるとはいえ、小学校一年生がいきなり読めるものなのだろうか?

齋藤教授は、子供たち向けの解説文でこう語ります。

<いつも使っている学校の国語の教科書よりも難しく感じるかもしれないけれど、大丈夫。
僕はたくさんの一年生に教えていたけれど、みんな、これぐらい読んでしまうからね。
一年生でもすごい能力を持っているんだ。>

漢字はひらがなよりも難しいという思い込み

両教科書で最初に気づく違いは漢字です。

<うみの かくれんぼ>
では、全く漢字が出てきません。

<一年生でもすごい能力を持っているんだ>
という齋藤教授の主張は、漢字教育に関しては長年の実証データで裏付けされています。

石井いさお氏という小学校教師が60年以上も前に、幼児に漢字を教える教育を創始しました。

そこでは小学1年生が漢字700字以上を覚え、知能指数も大幅に伸びるという成果を得ています。

『石井式国語教育』として、現在では広く普及しています。

漢字は形を表す象形文字で、抽象的なひらがなよりも覚えやすい。

たとえば『鳥』は鳥の形を映しており、さらに鳩、鴉、鶏など鳥類は『鳥』を含んでいて、体系的に学ぶことができます。

漢字は幼児には難しいというのは、根拠のない思い込みなのです。

漢字は語彙力、思考力の基盤

さらに、漢字は多様な語彙への扉を開きます。

例えば、『うみ』とだけ習っても、それ以上の語彙の発展は限られています。

『海』という漢字を習ってこそ、海洋、海底、海抜、海原などの語彙を増やす道が開けます。

語彙に関して、齋藤教授は次のように指摘しています。

<小学校のうちはみんな割と読書をしますが、中学以降に読まなくなる。
小学生が読むような物語は少ない語彙でも対応できますが、大人の本になると語彙が急に増えて、扱う対象も多様になってくるためです。>

語彙力は思考力の基盤です。

豊かな語彙を身につけてこそ、それらを使った幅広い高度な思考力が発揮できます。

こう考えれば、日本語で十分な語彙を学ばせることなく、英語に時間を割く事の矛盾が明らかになります。

齋藤教授は、
「外国語を学ぶ時にも母語の限界が第二言語の限界になる」
と指摘しています。

母語に関して中学3年生の国語力しかなければ、それ以上の英語力を身につけるということはあり得ません。

外国語に限らず、数学でも社会科学でも人文科学でも、全て日本語を通じて学ぶのであるから、国語力が貧弱では他の全ての学科を学ぶにも支障がでます。

<月に一冊も本を読まない大学生の割合が五十%を超えたという調査がありました。
そんな知的向上心に欠ける国民に未来があるのかと疑念が湧き上がります。>

この憂国の危機感から『こくご教科書』は作られています。

国語教育は人間教育

国語教育のもう一つの眼目が『人間教育』であると、齋藤教授は主張します。

<文章に込められた人格の深み、教養の深さ、広さを感じさせる書き手は日本に数多くいますし、また日本語に翻訳された優れた外国の作品もたくさんあります。
それらをテキストにして日本語を充実させ、人格を成熟させる役割が国語にはあるのです。>

国語教育は人間教育という主張は、例えば『“とっちゃん”先生の国語教室』という国語教育一筋に生きた桑原暁一氏の遺稿に、
<国語教育で文学作品をとりあげるのは、文学を学ぶためではなく、文学作品を通じて人間教育を行うためだ>
という氏の信念が書き残されています。

また、“伝説の国語教師”と呼ばれた灘校の橋本武氏が、中学3年間をかけて『銀の匙』という小説を読み込んで、生徒たちの人間力を大幅に伸ばし、その副産物として“東大合格者数日本一”も達成したという事例もあります。

「勉強するのが大事」だけど「みんなちがって、みんないい」

齋藤教授の『こくご教科書』が『学問のすすめ』から始まっているのも、“国語教育は人間教育”の実践でしょう。

ここでの子供向けの解説文には、次のような一文があります。

<「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」というのはすごく有名なことばだね。
みんな、生まれた時は平等で、本当は誰が偉い、誰が偉くないということはないはず。
みんなが自由に楽しく生活できるはず。
ところがいまこの人間の世界を見てみると、かしこい人もいるし、そうでない人もいる。
こうしたちがいがどうしてあるのかっていうと、それは学ぶと学ばないことによるものなんだって福沢諭吉はいっているんだ。
だから「学問のすすめ」なんだね。
・・・
キミも小学校一年生になったら、学ぶのが一番大事、勉強するのが大事なことなんだって、何度も繰り返し読んで心に刻んでね。>

しかし、
<勉強するのが大事>
と言われても、成績だけで人を判断してはいけないという事を、二つ目の作品で子供たちは学びます。

『私と小鳥と鈴と』という金子みすゞの詩です。

その冒頭と結びだけを引用すると、
<私が両手をひろげても、お空はちっとも飛べないが、飛べる小鳥は私のように、地面じべたを速くは走れない。
・・・
鈴と、小鳥と、それから私、みんなちがって、みんないい。>

子供たち向けの解説は、こう語ります。

<「みんなちがって、みんないい」という言葉がすごく有名だね。
他の人にできて、自分にはできないことがあると、自信をなくすかもしれない。
でも、「自分にはこれがある」と思えると、世界がちがって見えてくる。
たいせつなのは、自分に自信をもつということ。
みんなそれぞれちがいはあるけれど、それぞれがそのままでいいんだよ、といっているんだよ。>

こういう文章を通じて、
<勉強するのが大事>
だけど、国語が得意な子、算数の好きな子、体育で活躍する子、できない子を助けてやる子など、
<みんなちがって、みんないい>
という大事な人生観を子供たちは学ぶのです。

明治日本の原動力となった国語力

国語力による思考力、人間力発揮がどのような威力を持つのかは、明治日本によって実証されました。

1853年にペリーの黒船がやってきた時は、日本は極東の閉ざされた島国で、欧米の植民地に転落するのも時間の問題かと思われました。

しかし、半世紀後には世界最強の陸軍と屈指の海軍を誇るロシアを撃破し、有色人種は白人に勝てないという神話を打ち破って、アジア、アフリカの諸民族を勇気づけました。

同様に立憲政治は白人の独占物と信じられていたのだが、明治日本は有色人種で最初の近代成文憲法を確立し、選挙に基づく議会政治を定着させました。

こうした明治日本の世界史に刻まれる躍進の原動力となったのが国語力でした。

幕末期の日本には全国で1万5000もの寺子屋があり、江戸での就学率は70〜86%。

ほぼ同時代のロンドンが20〜25%というから、段違いの教育水準を誇っていました。

さらに、そこでの素読の教材とされていたのは、『論語』や『実語教』などの人間の生き方に関する文章で、これらを通じて子供たちは人間力を身につけていきました。

これだけの国語力と人間力を持つ一般民衆が、福澤諭吉の『学問のすすめ』を読んで、西洋近代の科学技術や社会・人文学を志しました。

当時の人口は3000万人で、『学問のすすめ』は300万部売れたというから、10人に1人、さらに借りて読んだ人も含めれば、齋藤教授が次のように言う事態が生じたのでした。

<これを当時、日本中の人たちが読んだ。
だから日本人はこれからの時代はたくさん勉強する人になろうという気持ちを持ったんだ。>

さらに明治の先人たちは、西洋の科学技術、社会・人文科学の専門用語を漢字を使って翻訳し、日本語に取り込んでいきました。

<Societyという言葉に当たる日本語がなかったので、それを「社交」や「社会」と訳しました。
rightは「権利」「自由」「通義」と訳していました。
西洋の言葉を翻訳することによって新しい日本語を生み出したのです。
明治維新は新たな言葉を生み出す絶好の機会となり、そこで日本語が大きく膨らみ、成長したのです。
それらの言葉を通して日本人は西洋のものの考え方を身につけました。>

明治の急速な近代化は、江戸時代に広く一般国民に行き渡っていた国語力、人間力をベースに、漢字の造語能力をフル活用した語彙の急拡大によってもたらされたのです。

文科省の黙殺

一つ、不思議でならないのは、これだけ先人たちが、国語力を通じて国を興すアプローチの見事な成功事例を残しているのに、なぜか文科省は完全にそれを無視していることです。

現代においても、石井式国語教育で子供たちの“すごい能力”が実証されているのに、それを公教育で広めようという動きも見えません。

<私はかつて文部科学省の教科書を改善する委員になった時に、小学校の国語教科書はもっと厚くていいし、活字も多くていいのではないかと提案をし、議論をしたことがあります。>
と、齋藤教授は書いていますが、その結果は述べていません。

教科書が変わっていない処から考えると、教授の提案は黙殺されたのではないでしょうか。

そのくせ、文科省は『ゆとり教育』、その後の『総合学習』、そして現在は『主体的・協働的な学び(アクティブ・ラーニング)』など、実績もない目先の手法のみを追いかけます。

ひょっとして文科官僚自身が、自虐史観に囚われていて、戦前の教育は全て悪であると忌避しているのではないかとすら邪推してしまいます。

子供たちの“すごい能力”を封印しているのは重大な人権問題だし、その結果、“知的向上心に欠ける国民”を生み出しているのは、国難を内から作りだしているのではないでしょうか。

覚悟を決めて教える

齋藤教授は『あとがきにかえて』で、こう述べています。

<かつて寺子屋で子どもたちが読んでいた『金言童子教』『実語教』『論語』などは素晴らしいものでした。
それを大人が覚悟を持って教えていました。
この覚悟を決めて教えるということが非常に大切です。
これからの子どもたちには、なんとしてもしっかりとした思考力と新しいものを生み出すだけの対話力を身につけさせなくてはいけません。
そういう覚悟を共有して、質の高い国語を与えていくことは大人の責務です。>

齋藤教授自身の<覚悟>が伝わってくるような一文です。

教育とは、次世代の国を支える国民を育てるという国家の大業です。

その人作りの一丁目一番地が国語教育なのです。

そういう覚悟を抜きにして、文科省がこの教科書を全国の小学校に配っても何にもならないでしょう。

あくまで“自分が次世代の国民を育てるのだ”という覚悟を決めた親や教師にこそ、この教科書を使って貰いたいと思います。

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