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100円玉のえん

100円玉がなん倍にもなってかえってきたことがある。
詐欺みたいな書き出しだが、そういう話ではないのだ。

高校生のとき歌舞伎を見にいく行事があった。
行事といっても参加者は私一人。
私が通っていた通信制高校では修学旅行も文化祭も自由参加。だから遠足の参加者が一人きりになることもあった。

歌舞伎座へ行くのは二度目だった。
前の年には参加者が二、三人いて引率の先生もついてくれたけれど、今年は本当に一人きり。

いつもと違う電車に揺られる。
時刻表を読んだり乗り換えたりするのが苦手だから、出かけるときは前の晩に乗り換えメモをつくる。
時間にも余裕がある。でもちょっぴり緊張して足元がふわふわする。

最寄り駅から最初の切符を買う。券売機に近づいて、私は少し戸惑った。
券売機に誰かが取り忘れた100円玉が乗っかっていた。

どうしよう、と自分の切符を買う前に、100円玉を駅員さんのいる部屋へ届けていた。
もしかしたら届けた方がめんどくさいことなのかもしれないけれど、駅員さんは「ありがとうございます」と言ってくれた。

歌舞伎座へ到着し、最初の演目を見終える。たしかそこで休憩時間があったはずだ。
私が座ったのは二階席の一番後ろだった。周りに、同じように行事でやってきた高校生の姿があった。みんな制服を着て10人以上がグループになっている。

幕間で高校生たちが一斉にホールを出ていったとき、残った男性に突然話しかけられた。
「引率の先生ですか?」
私はそう、隣の引率の先生に聞かれた。
「いいえ違います。通信制の生徒で…」
私は私服で一人きり、席に座っていたのだ。

それならと声をかけてくれたのは、休憩中に歌舞伎座の最中を生徒たちにご馳走する約束をしているという話。
その先生は、よかったらいっしょに食べましょうと言ってくれて、私はホールを出た。

そういえば昨年歌舞伎座に来たとき、本当の担任の先生が最中を食べていたなあ。すごくおいしくて有名だってはしゃいでいた。

高校生たちに混ざって、すみっこの方でそわそわしている私。
高校生たちも私が誰なのかわかっていない様子。
「どうぞ」とどこかの高校の先生は私に包みを手渡してくれた。

最中はまん丸で大きくて、真ん中に家紋みたいな模様が押してある。
白くて薄い紙に包まれて、温かい。ずっしりと重たい昔のお金を持っているみたい。
一口食べたら誰でもきっと「本当だ」とうなる。
今まで食べたことのないサックサクの皮、あったかい皮と冷たいアイスがほろほろと溶ける。スーパーの最中のもにゅもにゅした皮の感覚を吹き飛ばす、しゅわしゅわ。

全ての演目が終わって、高校生の集団はわらわらとホールを出ていった。引率の先生は私に会釈をして帰った。
「ありがとうございました」と立ち上がって私は言った。

不思議な気持ちを抱えたまま、最寄り駅へと帰ってきた。
ぽつぽつ雨が降り始めて、傘をさして家まで歩いた。

と、道端に迷子を発見する。
くるくる回って行ったり来たり、どう見ても迷子。
でもどう見てもおばあちゃん。

白地に黒いドット柄のブラウス、赤い傘をさしたかわいらしいおばあちゃん。
どちらから話しかけたのかは覚えていない。おばあちゃんは駅の方向がわからなくなったようだった。確かに私たちは裏道を歩いていた。

「今駅から来たんです」そう私は言った。
私はもう一度いっしょに駅まで行きますと言って、おばあちゃんと歩き出した。

こういうとき雑談を繰り広げてくれるおばあちゃんというのはすごい。
どのへんに住んでいるとか、四人兄弟の末っ子だとか、あなたとんでもない人に会っちゃったわねとか、いろんな話をしてくれる。
いつもお兄さんやお姉さんについて回っていたから、方向音痴になったらしい。
「家の人に話したらほら見たことかなんて言われるから秘密よ」
とおばあちゃんはいう。
「私も方向音痴なんです」
「あなたも末っ子?」
「末っ子です」
おんなじね、うふふふとそんな調子で歩いていく。

ようやく大通りまで来たとき、ああ、ここならわかるわとおばあちゃんは言った。
それから先はおばあちゃん一人で行くことになり、私は道を引き返そうとした。

突然おばあちゃんは私の手を握った。
握手かと思ったら、手の中になにか入っている。
開くと500円玉が私の手に握らされている。
「私の気がおさまらないから」とおばあちゃんは言った。「これでコーヒーでも飲んで」

手を振っておばあちゃんを見送り、つま先の向きを変える。
「この500円玉いつ出したんだろう。全然気がつかなかった」
おばあちゃんの仕草はまるで手品だった。

私はまた自分の家まで歩き始めた。
いつもと同じ帰り道、でもとっても特別な帰り道。

朝拾った100円玉が最中になって、500円玉になって…
いろいろな人の親切な顔が私の頭に残っていた。

家に帰った私は日記を書いていた。
事実は小説より奇なりって、このことかもしれない。


#エッセイ

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