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生活保護

「うつ病体験記と思ったこと」
皆様こんにちは、私はサラダボウルのブログを書いている。
“とんこつ”というものです。双極性感情障害というものを患っています。
すでにご存じの方もいるかと思いますが、うつ病には、急性期、回復期、寛解期
などがあります。そんな中から私が感じたエピソードをお話したいと思います。
何かの役に立てれば幸いです。

まずは、急性期だったころのお話。
私を悩ませたのは、不眠、幻覚、幻聴、被害妄想、何をしても辛いという
症状でした。幻覚や幻聴が被害妄想を大きなものにしていました。
最初に精神病院に通ったのは38歳くらいのころでした。不眠症で帝京病院を受診しました。
当時は、散歩やビリーズブートキャンプなどをして必死に疲れて寝ようとしましたが無駄でした。
最初の鬱では私はマンション暮しをしていました。当時のmixiの日記が残っていれば、より詳細が分かるのですが、無いので覚えている範囲で記述します。運が悪い事に、マンションは改装工事でした。テレビが怖く、電話が怖く、ケーブルを抜いてました、希死念慮が強く、なんども自殺を試みますが、高祖恐怖症などにより未遂に終わります。父親がマンションに来てくれて、引っ越しの手伝いをしてくれました。実家で暮らすことになりました、通ったメンタルクリニックでは女性の先生が良くしてくれました、テニスゲームなどが遊べるようになりました。自閉症の私の転機となったのは、アニメメジャー1期のエンディングソング(ステップ)を聞いたとこでした。信じればかなうと人は言うけれど信じるために今日何が出来るとドアを開けたです。晴れない雨がないように、私にも春はやってきました。回復期です。積極的に減薬しました。ある時、サモンナイト4のパズルゲームを解くために再帰呼び出しのプログラムを組みビックリしました。私もまだプログラムが出来るんだです。自作ゲームを3か月ほどで作り、説明書に3か月をかけ、説明書はHTML形式で作くり1度はゲーム業界に復帰します、当時は寛解ともいえる、良好な時期でした。しかし、アクワイアで勤務しガンホーに出向してる際に無茶ぶりを受け再発してしまいます。年齢は43歳の時でした。当時もまた自殺を試みました。不運なことに賃貸マンションが改装工事中でした。引っ越しして、そのあとは、実家が部屋が空いてないとの事でアパート暮しをすることになります。引っ越しはアクアイワのスタッフが手伝ってくれました。アパートに暮らしてからもニュースが怖くてTVから逃げていたり、母親が私の命を狙ってると感じていたり、新聞は障害者用の新聞かと思うくらい嘘がかかれていたり、1人になって文章を書いていたのですが、町内の人が私を逃さないよう見張ってる、指示を出してるのは父でラスボスは母だ、などという被害妄想になやまされていました。食事の時に両親の家に行き、食事を一緒に食べるという行為を続けていました。そのころは、父も母も病気の事は、あまり話さなかったと思います。そんな私を週1くらいのペースで、あしたか公園に連れてってくれました。自然を見て感動したりなどはないのですが、食事のために日に3回、外出する行為と、週1で遠隔地に出かける日々は、自閉状態だった私をある意味、強制的に外出に誘うことになったと思います。他にも近所の散歩など、とにかくよく外出してました。それが私の自閉気味の状態を改善に導いてくれたと思います。
私の場合、漫画やゲームが好きで、また外出に慣らされてたこともあり、
いつしか、ブックオフに通うようになっていました。欲しい漫画や欲しいゲームを買う。お金はあんまりかからないように中古のものを買います。家ではずっとゲームをしたり、アニメをみたりして、疲れたら寝て、それと、両親との食事3回は続いていました。このころには、最初の被害妄想はなくなっていました。再発して再び急性期を迎えますが、みんなのテニスに救われます。
未だに幻聴には悩まされますが急性期の時と比べてずいぶんマシになったと思います。
これは私の持論になりますが、うつ病になった人に序盤に必要なものは、
絶対的な安心感(何もしなくて良いんだという安心感)と自閉症からの脱出
(狭い世界に閉じこもらない)だと思います。

次は、回復期の話。
回復の大きなきっかけになったのは、デイケアの存在でした。私は1年ほどデイケアのお世話になるのですが、沼津まで自転車で通ったあの日々、デイケアで出会った仲間など、それらは私を明るくしてくれたと思っています。問題は、デイケアのスケジュールが1年であとは繰り返しに
なるところでした。同じ授業を受けても仕方ないし、ここにいても就職はあっせんしてくれないと考えました。やがてニチイ学館に通い薬局の事務を目指しますが、女性の雇用しかないと言われ断念します。

就職問題。
元気になったのだから、就職活動を始めます。
悩ましいのはクローズ(病気を隠して就活)が現実的に思えたことでした。
この病気を理解してくれる会社は少ないと感じていたからでした。私の親は、経験職がうつ病の原因になったと感じていて、経験職への応募をしないと約束していました。これが足かせになり、仕事はほとんど見つからず、アルバイトをするのですが長くは続きませんでした。パチスロ会社、警備員、ほぐれ~る、銀だこ、築地日本海などなど、当時、嫌だった言葉があります。「いつ就職するんだ」「親がいなくなったらどうするつもりだ」です。いまでもその言葉は嫌いです。就労移行も試しましたが、就職先で4日休んだだけで首になりました。残業も頑張ったのに何故?と思いましたが、その後は絶望が支配してました。今は、サラダボウルでスキルを身につけ、請負の仕事などが出来るようになること、ピア・スタッフの請負をするのが夢です。そして令和5年10月27日にピアサポーターの修了証書を頂きました。まだ決まった事ではないけれど、夢に向かって1歩前進したことを実感しています。

現状の問題。
今は資金繰りが困難になっています。今日は何とか12月がしのげる様にしましたが、来年は今のところ厳しいです。幾つかの手は打っているので、ここサラダボウルへの就職がかなえば来年は平穏に生きていけるかと思います。
両親亡き後の問題。
これを知りたがっている方は多いと思います。私もよく親が亡くなったらどうするつもりだ?とよく聞かれます。一応私なりの考えを書いておきます。両親がなくなりお金に困ったら、私は迷わず、生活保護を受け、町営住宅に引っ越します。もちろん自立出来ていれば、そんな必要もありません。サラダボウルでバリバリ働けば良いのです。ありふれた回答だと思いますが、家族の方の不安解消に役立てれば幸いです。

とんこつブログは主に障害者の為になる記事や日常の出来事を中心に活動しています。つたない文章で誤字などもあるかと思いますが温かい目で見て頂ければ幸いです。