解離性同一性障害にいたるまで~2
大学で得るものがなかった私。その代わりに得たものは・・
前回の記事では、幼少期の私が毒親の母の支配下にあったエピソードを綴りました。
そんなこんなで、高校3年の冬の終わり、名前もよく知られていない、創設数年のなんちゃらFランク大学の受験を控えた前日。
思いっきり遊びまくっていたのでさすがに何の勉強もしていないという罪悪感に駆られ。とりあえず英単語カード(助動詞形容詞などの)を一夜漬けでつくって、そのままお布団へ・・・笑
翌朝、入試に向かう電車の中でカードをパラパラと見て、いざ受験会場へ。
正直、呆気にとられるくらい問題が簡単すぎて笑ってしまいました。
おそらくですが全教科で満点をとった自信があります。笑
周りの受験生たちが、まだカリカリ・・と真剣顔でマークシートを記入している中、私はもう終わったからコレもう帰ってもいいんだよね??と、そっと1番乗りで解答用紙を提出して、鼻歌まじりに帰ってバイトへ行った記憶があります。
およそ10日後、合格通知を余裕で受け取り、やっとこの実家から出られる!!やったぜ~!!と母に報告に行くと・・
そこでまた予想を覆す返答がかえってきました。
「あんな姉さんの所になんか行くもんじゃない!ろくでもない。あんた実家から大学通いなさい。いい?わかった?おばちゃんの家に居候は許しません!話は以上!異論は聞きません!」
はい・・・?どうやら母のいつもの姉妹喧嘩が勃発した模様。
またか。またしても私、母の独断に振り回されてしまった。
幸いにも、高校時代ずっと交際していた1つ年上の彼が同じ大学へ進学していたこともあり、とりあえず彼もいるしバイトも同じやし、まあしゃーないわ。と叔母のもとへの居候生活は諦めることに。
で、始まった大学生活。彼と一緒に電車やマイカー通学をしていたのでそういう日はそれなりに気分はよかったけど。
とにかく学内で友だちになれそうな感じの子がほとんど見当たりませんでした。もう愕然。私なんでこの大学におるんや・・・
ゼミの教授だけはなぜか好きだったから、ゼミだけは出席していたけどそれ以外の講義のときはほとんど、中国人の勤勉な留学生を数人、ルーティンしていつもIDカードを渡して、「今日もよろしくね!今度学食でカツカレー奢るから♡」で乗り切ってました。笑
そのうちに本当に私はこのままこの大学で何を学ぶんだろう、友達もいないし得るものなんて何もないんじゃないか・・って思いが強くなってきていて。sakuraはばりばり、朝から晩までアルバイトに日々勤しんでいたので、思い切って勝手に後期を休学申請しちゃいました!!!
そんな折、将来結婚できたらいいな~と思って交際してきたサーファーの彼氏に突如としてフラれた私。傷心会と銘打って、いつもの地元の友人たちと行きつけの居酒屋で飲んでいたとき。
居酒屋の大将から「sakura大学休学なんだって??うちでバイトしてよ~!」と声が掛かってその場で即決。
高校時代からバイトしていた中華料理屋のバイトをして、夜は居酒屋とたまに繁華街にあるキャバクラでバイト三昧。
そんな生活が3ヵ月も続いたある日、居酒屋の社員Aさんバツイチと、ひょんなことで遊ぼう!って話になって、翌日には交際を始めていました。笑
Aさんはsakuraとは10歳上の29歳。末っ子長男で小姑3人。前の奥様との間には子どもはいなくて、あったのは会社の社長に借りたという借金のみ。毎月の給与から天引きされていました。
家には65歳で定年を迎えたお母さんがいるだけで、大きな土地にそれなりに田舎らしい、やたらと部屋数の多いお家で暮らしていて、しょっちゅうバイト終わりに泊まりに行って・・というお付き合いをしていました。
交際4か月目のある日、Aさんの地元は秋の豊穣祭で親戚一同が集結していて、ただの彼女の私は暇を持て余していたんだけど(Aさんは祭にでていたので)ある親戚のおじちゃんが、sakuraちゃんもこっち来て一緒に飲もうや!と声をかけてくださいました。
その場でAさんの親戚から、怒涛の「なぁなぁ、いつ結婚するん?早く子ども作ってな~!!笑」なんて、恐れ多い言葉の数々。。
私はまだ19やし、当時はバイト三昧の日々が楽しくて、結婚なんて全然興味なかったのです。
でも、案外すんなり「結婚」しちゃった!!
祭からかえってきたAさんに、今日親戚中から早よ結婚せんかい!!って色々言われたことを話すと、苦笑いしつつも
「俺2回目だから、結婚式とかやってやれないけど、それでもよかったら考えてくれると嬉しいな」
と、予想外の言葉が返ってきて。その3か月後にはsakura家とAさん家の両家顔合わせを済ませて、私が20歳になったのを機に結婚することになりました。
正直、自分では結婚は早婚タイプか、思いっきり晩婚かどっちかだと思っていたので、これもタイミング?ご縁てやつ??
20歳なりに、Aさんのことはきっと1度失敗しているからこそ、私のことは大切にしてくれるだろうな、という考えもあって。大学はとっとと退学して本当にスムーズに、私は結婚してしまいました。
愛想がよい以外は大した取柄もない私を、喜んで嫁に迎えてくれたお義母さん、私のおばあちゃんと同級生でした。笑
姪っ子や甥っ子も19歳とか18歳。私とそう変わらない年で、小姑のお姉さんたちもそれぞれみんな結婚は早かったようです。
思いがけず妊娠。そして母との確執はますます悪化。
結婚してまもなく、夫婦といえども、そんなに簡単に妊娠なんてしないものなのだろうと思っていたら、ある日気が付いたら生理が遅れていて・・・
成人式が終わってから(その日は実家にいた)妊娠検査薬を使ったら、まさかの陽性!!
あまりにビックリ感動して、思わずお風呂に入っていたパパに
「えらいこっちゃ~!私赤ちゃんできたっぽいで!!!」
と扉を開けて大笑いされたのを覚えています。
初めての妊娠、いろんな不安を抱えながら過ごしていたけれど、残念なことにその頃にはsakuraと実母との関係は最悪でした。
結婚が決まる直前、母の長年にわたる不倫が発覚して両親は離婚調停中。
母は勝手に家財道具や衣類、金目のものはすべて処分していて、バイトから帰ったある日、リビングにあったグランドピアノが無くなっていて、それは大変なショックを受けました。今思い出しても悲しい・・
そのあとは両親は離婚に揉めに揉めている中、余りにあっさりと結婚して無事に念願の実家を出ることが出来た私。
妊娠中、誰よりも本当は母に聞きたいことが山ほどあった。義母は私のおばあちゃんと同い年だし、家事も料理も苦手な人で、優しい以外はあまり頼りがいのない方でした。(今考えたらとんでもなく失礼なのだけど、当時の私の気持ちはそんな感じでした)
母からの内容証明郵便とW不倫の末、両親は絶賛嵐の離婚調停。
ある日、見慣れない郵送物が結婚した私のもとへ届きました。
「内容証明郵便」と赤い印がありました。中を開けて驚愕。
母から「私が出費してやった大学の入学金、学費、交通費、マイカー買ってやった金額、全部耳揃えて返済せよ。」という旨の内容でした。
あまりに突然すぎるやろ。
私はどうしていいかわからず、書類を作成してきた司法書士事務所へ電話して、どうすればいいですか?って聞いてみました。すると司法書士の先生が電話の向こうで申し訳なさそうに
「sakuraさんごめんね、私も何度もお断りしたんだけど、お母さまがどうしてもって聞かなくてね・・こちらも仕事なので受けたわけなんですが。そのまま放置しても何の問題もないから、変に心配しなくていいよ。ごめんなさいね。」
と事情を教えてくれました。なるほどね、あの母ならやりかねない。
その頃、母が不倫関係にあった相手の男性はどんな人でどんな状況なのかは詳しくしらなかったけど、とにかくW不倫だったということ。その男性以外にもどうやらもう1人、不倫関係にあった男性がいたらしいということは父から聞かされていました。
ホント最低な母親。私たち家族は7年以上も裏切られ続けていました。
母は一貫して調停では、父によるDVを訴えていたようでしたが、私たちきょうだいは3人とも全員が幼いころから見てきたの。
いつも夫婦喧嘩のキッカケは母の文句で始まる。ガミガミ、くどくど。その時に関係のない昔話まで引っ張り出して一人でどんどんヒートアップしていく、それを父は黙って耐えて聞いていました。父の堪忍袋の緒が切れると、モノにあたったり、母を平手打ちしたり。
うちの両親の喧嘩はいつもそうだった。
だからそういう場面を幼い頃からずっと見てきた私たち(下に2人、わたしには妹と弟がいます)は、誰一人として「パパ悪いことしてないよ。完全にママが悪いやんな。」
と母の味方にはつきませんでした。
それでも、初めての妊娠や、だんだんお産に向けていろんなカラダの変化を感じるたび私は
「こんなとき、私が生まれる頃ってどうやったんだろう?お産て、どんなものなんやろう??ママが話を聞いてくれたらいいのに・・」
と複雑な思いで過ごしていました。
次回は、初めてのお産と旦那の本性が見えてきた話。です^^
最後まで読んでくださって、本当にありがとうございます♡
もしよかったらフォローやスキを送ってくださると励みになります。
↓Sakuraのtwitterはコチラ。
sakura