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「これが幸せでなきゃ、いったい何が幸せだっていうんだ?」 オランダの美容室


ひどい嵐の中を美容室に行った。

家を出る5分前までは晴天、とたんに土砂降りに変わり、慌ててブラウスの上にニットを重ねて、レインジャケットを羽織った。これから10日間はこんな具合の天気だという。風がやたらに強い。両足で力を入れて立っていないと、吹き飛ばされそうになる。

山歩き用の頑丈な降りたたみ傘をさしたら、前が見えないうえに風にあおられて折れそうだ。私は傘をすぐにたたんだ。自転車に乗ってすれ違う人はみんなけわしい顔をしている。私のピンクのジーンズはすぐに前だけびしょ濡れになった。雨があまりに激しいときには、木の幹に寄りかかっていっときだけ雨宿りをしたけれど、予約に遅れそうなので、すぐにまた歩き出さなくてはいけない。


美容室は、肉屋や花屋、服屋、旅行会社などの入ったテナントの中にある。旅行会社はすぐにつぶれてしまったようだし、ほかにも何店舗かは休業したままだ。私は、何度か鶏肉を買いにここの肉屋に来たことがある。スーパーよりも割安で、胸肉でもぱさぱさとしていない。

先週、オランダで初めて、美容室に行った。検索していちばん口コミの良かった店だ。一応、「髪の多いアジア人だけど、量を減らせてもらえますか?」とメールをして、大丈夫と返事が来たので予約を入れたのだ。でも、2人のスタッフは明らかに私の来店に戸惑っていたし、切ってくれた若い女性は、全体に5、6回すきバサミを入れただけで、髪の量はぜんぜん減らなかった。

オランダに限らず欧州の美容師は、アジア人の求める技術を持っていないと言われていることはわかっていたけれど、私は自分で試してみたかった。そして失敗した。カット料金の27ユーロは勉強代、経験代だ。


私はFacebookを開き、地域のインターナショナルグループに投稿して、おすすめの美容室を尋ねた。ここにもたくさんのアジア系女性がいるわけで、彼女たちの行っているところに行けば間違いないのだ。何人かが投稿に返信をくれ、1人のタイ人の女性が直接メッセージをくれた。アジア人の髪を扱える、腕のいい美容師がいて、しかも安いという。「カミソリを使ってボリュームをしっかり減らしてくれるよ!」。これは期待できそうだ。ありがとう!


わざわざ雨の嵐の週に行くこともないと思ったけど、すぐに切ってもらいたくて翌日電話をかけた。カットだけではなくカラーもしてほしいと伝えると、「じゃあ12時に来れる?」と言ってくれ、すぐに身支度をして出かけたのだ。


また晴れてきたところで建物の中に入り、美容室のドアを開けると、光のよく入る広い店だった。6席ある。壁に貼られているのは、2000年代前半〜中盤の男女のヘアスタイルだ。他にもハリウッド女優やサッカー選手の切り抜きがある。奥には賞状やメダルが飾ってある。

年配の女性が髪をブローされたばかりだ。うす茶色に染まった短い髪は、とても綺麗なカールに仕上がっている。

美容師の女性はアラビア系らしい。会計をしたあとにはお客さんに「Dank je wel, Merci, Merci!」とよく通る声で言った。そうして手早く鏡やイスを拭きとり、私を手招いて、奥の席に座らせてくれた。

電話で話したときもそうだったけれど、彼女は英語はあまり話せないという。なのでボディーランゲージでやりとりをする。言葉も発するけれど、それ以上に意思を強く念じる。私はレイヤーカットの写真を何枚か見せて、「とにかくボリュームを減らしてほしい。レイヤーを入れてほしい」とお願いする。彼女はすぐにわかってくれて、「OK、大丈夫。そしたら色はどうする?」と、色見本を持ってきてくれた。何種類もある見本から、地毛よりも少し黒いブラックを選んだ。「パーフェクト、いい色だね」。

彼女は私の首の周りに丁寧にタオルを巻き、身体全体を包むカバーをかけてくれる。そして、髪をだいたいの位置でブロッキングして切り始める。髪の毛をざっくりつかんではハサミを大胆に動かしてどんどんとボリュームを減らしていく。とにかく手早い。動きに迷いというものがない。彼女の頭の中には正確な完成形のイメージが出来ていて、それに素早く近づけていくだけなのかもしれない。

「量が多いね」とも、「あらあら、自分で染めたんでしょう」とも言わない。そんなことは見れば分かりきっているし、分かっていることを客にいちいち言う人ではない雰囲気がある。私は持ってきた文庫本の『ハイ・フィデリティ』を開いて、しおりを取って読み始める。


表で雨が降る音がする。予告なしにざあっと降ってはすぐに止む。


しばらくして、頭皮が引っ張られるような感覚があり、鏡を見る。彼女はカミソリを使っている。歯の部分は2.5センチくらいで柄は長い。髪を少し取ってくるくると巻いてから、カシッカシッと当てていく。当てるたびに少しだけ痛い。けれど不愉快じゃない。これを経たら何かが良くなる部類の痛みだ。私はそういう痛さが好きだ。歯医者が好きだし、注射も好きだし、ブラジリアンワックスも好きだ。

すかれた髪はぱらぱらと落ちていく。ほんの少しの毛は身体の前面に滑っていくけれど、大部分は床に落ちる。先週の美容室では、切り終わったあとには服も靴も毛まみれだった。

だいたい切り終わったところで、彼女は合わせ鏡をして、後ろをよく見せてくれた。最初に見せた写真のような、綺麗なレイヤーだ。私が「すごい、完璧。あともう少しだけサイドを・・・」と言いかけたところで、彼女はすでにサイドの髪の毛に取り掛かる。私が伝えるまでもなく、彼女にはすべて分かっているのだ。



唐突に、店の奥から若い男性が出てくる。青いジャージを着ていて、なんだか気だるそうだ。彼は中央のテーブルのイスに座った。

彼女が何か喋ると、彼は疲れた目でそれを英語に訳した。「染めたあとにまた少し切るけど、とりあえずカットは終わり」。そして彼女は早口で喋り続け、男性は聞いているような聞いていないような様子で時々、英訳してくれた。この男性は彼女の息子らしい。

彼女はかちゃかちゃと染料を混ぜ、ブロッキングは無しで頭のてっぺんの根本から塗り始める。染め液が冷たく頭を包んでいって気持ちが良い。

ドアが開いて、息子が宅配便を受け取る。そして彼女が何か言い、息子が私に、「コーヒーかお茶、どっちがいい?」と聞いてくれる。私は「お茶をください」と答える。

小さなキッチンタイマーが42分30秒にセットされて、鏡の前のテーブルに置かれた。彼女がアルミホイルで私の頭をくるみ、おでこやこめかみに少しだけついた染料を、濡らしたコットンで軽くふき取る。


また私は本を読む。ロンドンのレコード屋、ここでも雨の匂いがする。



お茶はオランダ式のやり方で入れる。先にお湯、あとに茶葉。耐熱グラスに熱湯が注がれ、私は木箱に入ったティーバックを選ぶ。ストロベリー&ラズベリーの袋を開けて、茶葉をゆっくりお湯にひたす。血が水に混じっていくような色合い。少しだけ揺らしてから、薄めになるように、すぐに取り出す。

彼女が後ろで大きな声を挙げた。見ると、宅配便の箱から、ゴールドやピンクでお祝いの言葉が書かれた、ハート型の風船がひとつ浮かんでいる。彼女は手紙を読み上げる。「おばあちゃん、お誕生日おめでとう。・・・より」。そして両手を挙げて喜び、息子にハグをした。私が「今日、あなたのお誕生日なんですか?」と聞くと、彼女は嬉しそうな顔でうなずいた。オランダ語で「お誕生日おめでとうございます」と言ったら、彼女は「Dank je wel, Merci, Merci!」と言った。


しばらくして、大柄な白髪の男性が入ってくる。彼はほうきを持って床じゅうを掃く。彼女と気安く話を始めて、すぐに店の中は賑やかになる。ふたりは夫婦だ。

タイマーが鳴り、私は洗髪台に歩いて頭を載せる。日本のものよりも角度が浅く、新幹線のリクライニングくらいの傾き方だ。彼女はなんやかやと夫と喋りながら、手早く私の頭にお湯を当てる。2回シャンプーをして、丁寧にすすいでくれる。


すすぎ終わって、もとの席にもどった。彼女はドライヤーにコンセントを差し込みながら、「いい色でしょ」とにまりと笑う。

きれいな黒に染まった髪が、どんどん乾いていく。



最後にプロに染めてもらったのは、沖縄の北谷町の、ビーチがすぐ目の前の美容室だった。東京から来たという、とても良い美容師がいたので、何回か通った。大胆なガラス張りの店だ。夕暮れの時間帯に予約を入れて、席を選べる余裕のあるときには、室内向きの席に座るのが好きだった。そうすれば、海と自分が、大きな鏡に映る。夕陽が海に沈んでいくグラデーションを背景にして、美容師が髪を染めていく。

カート・ヴォネガットが書いていた。晴れた日に木陰でレモネードを飲みながら、彼の叔父さんが、「これが幸せでなきゃ、いったい何が幸せだっていうんだ?」と言ったという思い出。

"If this isn’t nice, I don’t know what is.”                ーUncle Alex



そういう時間は、確かにあるのだ。あたたかなビーチに、太陽がゆっくりと沈んでいく。海と空は毎秒色を変えて、すべての瞬間が完璧に美しい。時間が経つごとに、世界がより柔らかな色合いになる。安全で涼しくていい匂いのする部屋の中で、気さくな美容師が、私の髪を変えていってくれる。

オランダで、嵐に吹き付けられて来た、アラビア系の美容室の中で、あの時間を思い出す。海も夕焼けもない。匂いも違っているし、頭上では外国の言葉が飛び交っている。けれど、とても良い美容師は、ただ髪をきれいにする以上のことができるのだと思う。



ご主人との会話に息子さんも加わって、店の中はいっそう賑やかになる。ドライヤーを当てられて、髪が乾いていく。まだ少し湿っているところで、彼女は少しだけハサミを入れて最後の調整をした。

自分でブリーチをした上に市販の薬で染め重ねて、いくつもの段々ができていた私の髪。可愛げもなくボリューミーで仕方のなかった私の髪。今は、頭が軽くなるくらいにレイヤーがほどこされ、しっとりと艶のある黒に染まった。


文庫本と携帯をカバンにしまい、お茶を飲み干して、会計をする。カットとカラーで50ユーロ。安い。詳しい値段は聞いていなかったので、拍子抜けするほどだ。デビットカードで支払い、レシートを受け取った。

ドアが開いて、次の客がちょうど入ってくる。

私は彼女にもう一度、「お誕生日おめでとう、伸びたらまた来ます」と言った。

彼女は店の奥に歩きながら、「Dank je wel, Merci, Merci!」と言って手を振った。




































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