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妄想タクシー 4 真夜中の花屋さん 動物園デート編

【プロローグ】

 それは月もない薄暗い夜のこと、人気のない病院の廊下をひとつの小さな光がふわりふわりと漂いながらある部屋に向かって進んでいた。
 途中、夜間勤務の看護師とすれ違ったもののその光の存在は誰の目に触れる事もなく目的の病室の前までたどり着いた。
 光は閉められた病室のドアの前を二度三度くるくると舞い、ちょっとした合図を送るとドアの隙間を難無く通り抜け、室内に入り込んだ。
 室内は空調が整えられ快適な空間だった。窓辺には彼女の好きなフリージアの花が飾られ、その香りはほんのりとした空気の層を作り、大切な生命を保護している。
 そこに横たわる女性は老人と言うにはまだいくらか年若い齢だが、彼女を襲う病魔は彼女から人として出来うることの多くを奪い去っていた。
 彼女が今の植物状態で生きていられるのもそう長くはない。
 その事を知っている小さな光は、ベッドに横たわる彼女の上で不規則に宙を舞い、人には聞き取れない超音波を信号として送り続けた。
 やがて彼女の両手の指先がピクピクと痙攣すると、ずっと閉ざされていた双眸が僅かに開いて、光は小さな輝きとなって、彼女の意識の奥へと入り込んで行くのであった。


【洋子の意識内にて】

 洋子は誰かに肩を揺さぶられた気がして、不意に目を覚ました。あら、ここはどこかしら、知っている様で思い出せないと、あたりをキョロキョロと見回した。
 それは昔からあるような近所の公園。周りを樹木で囲われ、背の低い小さな鉄製の柵で外の道路と仕切られている。敷地の内側にはブランコや滑り台、ジャングルジムなどの遊具が並ぶ。洋子は今、砂場の横にあるベンチに腰掛けてこの風景全体を見渡していた。
 しかし、何故こんな所にと思ってしまう程、思いもかけぬ場所、公園のほぼ中央の広場に水色のタクシーが一台停まっていた。
 一体いつの間に、しかもどこから入って来たのだろう? 公園の入口には車止めの鉄柵がふたつ並んでいるから車両は通れないはずだが。
 他には誰もいない静かな、まるで真夜中みたいな空の色。それでいながらこの公園だけ、どこから光が当たっているのか、昼間と同じ明るさに浮かび上がっている。
 暫くそんな光景をぼんやり見ていると、突然タクシーの運転席のドアが開いて、まだ年若いスリムな男性が制服姿で表に降り立つ。その男性は軽やかな足取りで車の前方を回り反対側に来ると後部座席のドアを開いた。
 開けられたドアの中から銀色のシューズに白いタイツのスラリとした脚が左、右と地面に降りる。パニエで膨らんだふんわりとした白いスカート、フリルのたくさんついたドレスに身を包んだその女性はまるで妖精の様だと形容するしかない。
 運転手に導かれ外に出たその女性は洋子を見ると微笑を浮かべ、ゆっくりと近付いて来た。両手でバスケットの様なものを胸に抱えている。
「飯島洋子様でいらっしゃいますね、はじめまして、私は紗妃と申します。真夜中の花屋をやっている者です」
「え、真夜中の花屋さん? どういう事ですか?」
 洋子は夢を見ているのかと思った。
「私は過去にお会いした方々に感謝を込めて、こうして真夜中に花束を届けにいろんな場所を回っているのです」
「え? でも私は、あなたと初対面の様ですし、感謝して頂くような事は何もしておりませんけど……」
「大丈夫です。本日は洋子様からある人に花束をお届けして頂きたいのです」
「え? 私からある人に、ですか? はて、一体どなたに?」
「ええ、お相手は、飯島源一様、洋子様のご主人でございます」
「は? 主人に!」

 洋子は、はっとした。入院してからほぼ2年、夫源一には何かと世話を掛けてしまっている。
 思い通りに動かぬ手足、伝えたい言葉も口に出来ないもどかしさ、薄れ行く意識の中でぼんやりと消えて行く夫の姿。
 そんな時でも源一はいつも穏やかに優しく洋子を見守っていた。その瞳の奥には洋子以上の哀しみを湛えていたはずなのに。
 そうだ。このままもしも感謝の気持ちひとつ伝えられずに最期の時を迎えてしまったら、きっと後悔するに違いない。何故だか分からないが、今なら動ける。人と話も出来る。洋子は決断した。

「分かりました。是非、その花束を私に届けさせてください」
 洋子の言葉に紗妃はにっこり微笑み、嬉しそうに頷いた。
「では、こちらのタクシーにお乗りください。こちらは思い出タクシーと言いまして、洋子様の行きたいと思われる場所まで安全に送迎致します」
 傍で控えていた運転手が恭しく洋子に向かって頭を下げた。


【思い出タクシー】

「申し遅れました。私はこの思い出タクシー運転手の中村でございます。当タクシーではお客様の戻りたいと思われる過去にお連れ致します。一般のタクシーにご乗車されて行き先を告げる様に、年月、日時、場所をご指定ください。あと本来なら過去に戻られた場合いくつかのルールがございますが、本日は洋子様と源一様の意識の奥にお連れ致しますので、お好きな様にお過ごしください。ただし、時間は4時間までという取り決めがございます。何かご質問はございますでしょうか?」
 紗妃に連れられてタクシーの後部座席に乗り込んだのものの、運転手の中村から矢継ぎ早に言葉を並べられて戸惑うばかりの洋子であったが、驚くべきか、中村の言葉を全てあっさりと理解する事が出来るのであった。
 こんな感覚、何年振りの事だろうか。もうそれだけで洋子は感激に浸っていた。
「大丈夫ですか? 洋子様」
 紗妃が心配して声を掛けてくれる。
「ああ、その洋子様はやめて」
「あ、すみません。では洋子さん……、でよろしいでしょうか?」
「はい、ありがとう、紗妃さん」
「それで、お戻りになりたい過去の日付は分かりますか?」
「あ、それなんですが、3年ほど前になります。確かあれは春のこと、写真を撮るのが趣味の夫が珍しく私を誘ってくれたんです。動物園へでも行かないかって」
「そうなんですか、それで?」
「その時、私、あまり気乗りがしなくて、断ってしまったんです。でも、その後、私は病気になってしまって、結局、それ以来、外出できずに……」
「そうでしたか……」
「それで、後から、私が入院してからなんですが、何度か動物園の写真を見せて貰ってたんです。それが楽しくて、楽しくて。ああそれだったら、何故あの時、一緒に出掛ける事を断ってしまったんだろうと今も後悔するばかりでして」
「分かりました。では、その日に戻りましょう」
「ええ、でも詳しい日にちが分かりませんが」
「大丈夫です。調べられますか? 中村さん」
 紗妃は中村に声を掛けた。
「はい、今カーナビに検索を掛けています。キーワードは、動物園、写真、一緒、お出掛け、ですね」
 ピピピッという音の後に続いて検索ワードに引っ掛かった思い出がカーナビに次々に映し出された。
その項目は思いのほか沢山あった。
 こんなにも夫は何度も誘っていてくれてたのかと洋子はそれだけで胸に熱いものが込み上げて来るのだった。
「あ、それです。それ、虹ヶ丘動物園。それです」
 洋子は鮮やかに甦る思い出に嬉しさを隠しきれなかった。
「分かりました。では出発致します。走行中はシートベルトを装着して下さい」
 そう言って中村はタクシーのエンジンをかけ、スタートさせた。
 車は公園の中でヘリコプターの様に空中に浮き上がり、方向を北に向けて夜の空を音もなく進んで行った。


【源一の意識内にて】

 飯島家の前の道路にタクシーを着けた中村は、後部座席の紗妃が座っている方のドアを開けた。
「ではお嬢様、よろしくお願い致します」
「はい、それでは行って参ります。洋子さん暫くここでお待ちくださいね」
 何が起こるのかと洋子はうきうきとその様子を見守る事にした。それよりも久しぶりに見る我が家の外観が少しも変わっていない事に安堵した。
 庭の金木犀もそのままだし、植木だってちゃんと手入れされている。門扉から玄関の引き戸に続く敷石もちゃんと掃き清められ、そこに洋子は夫の愛情を感じてしまい、目頭を熱くさせてしまった。

 車を降りた紗妃は再び小さな光となって、漂いながら家の中に入り込む。玄関から真っ直ぐに廊下を進み、右の奥にある和室。襖の隙間から難なく室内に入り込んだ。その部屋は、綺麗に整頓されていたが、物が少なく寂し気な印象を受けた。光は薄暗い部屋の中をくるくると宙を舞った。
 部屋の中央に布団が敷いてあり、こんもりと人が寝ている様子を確認した。源一の寝顔が見える。ほんの少しいびきを掻いていた。
 光は不規則に宙を舞い、超音波を送り、やがて源一がそれに気付いて細く目を開くと、小さな輝きとなって、意識の奥へと入り込んで行った。

 源一は誰かに肩を揺さぶられた気がして、不意に目を覚ました。
 あれ? 何か変だな。寝ていたと思っていたのに、もうすでに朝になり、趣味のカメラの機材をバッグに詰め込み、これからまさに外出しようと準備をしている。
 何だか身体の調子も良い。窓から差し込む陽光を見ると温かい春の日差し、今日はステキな一日になりそうな予感がした。
 そうだ今日は虹ヶ丘動物園にでも出掛けてみよう。そう思い立った源一はカメラの入ったバッグを肩に掛け帽子を被る。
 部屋を出た所で妻の洋子が台所で何かお弁当の様なものを拵えているのが見えた。いい匂いがする。エプロン姿の洋子はとても若々しく、鼻歌まじりですこぶる機嫌が良さそうにしている。もしや、今日こそは、という思いが胸の奥に湧き上がって来て、声を掛けてみた。
「洋子、これから虹ヶ丘動物園に写真を撮りに行こうと思ってるんだけど、良かったら、一緒に行かないか?」
 洋子は夫を見て、にこやかに微笑んだ。
「ええ、行きましょう。一緒に」
 源一はその言葉が嬉しくて、心に喜びという感情が溢れ出すのを感じた。思わず笑顔になる。
 二人は仲良く並んで家の外に出た。
 素敵な水色の空がどこまでも広がる。爽やかな春の日だった。
 不思議な事に周囲に誰ひとり人の姿が見られなかった。
 その代わり一台のこれまた水色したタクシーが一台、家の前に停車している。
「あなた、これに乗って行きましょう」
 洋子がそう言う。
「あ、ああ、そうだな。そうしようか」
 戸惑いつつも源一も一緒に水色タクシーに乗り込んだ。
「すみません。虹ヶ丘動物園までお願いします」
源一が声を掛けると運転手は、「分かりました」と頷き、車をスタートさせた。
 「あっ、これはどういう事なんだ!」
 思わず源一は声を上げずにはいられなかった。タクシーは空を飛んでいるのである。
 街の様子は見えるものの、人も姿は無く、車も動いている気配がない。まるでジオラマの模型を見ている様な気分だ。
 夢でも見てるのかなと思って、妻の様子を伺うと、むしろリラックスして自然な様子で、窓から街を見下ろし、この不思議な空中ドライブを楽しんでいる様だった。
「あの、運転手さん、このタクシーは……」
「あ、大丈夫です。もう料金は頂いております。普通のタクシーとは少し変わったルートを通りますがどうぞご安心ください」
「はあ、そうですか……」
 狐につままれたとはこんな事を言うのだろうか、でも、たまにはこんな夢みたいな出来事があっても良いものだと思い直し、今この瞬間を楽しむ事にした。


【動物園デート】

 タクシーは無事に虹ヶ丘動物園前に降り立った。
「それではどうぞ良い一日を、お帰りの時はまたこちらにおいで下さい」
「あ、ありがとう。助かったよ。ではそうさせて貰うよ」
 源一と洋子はタクシーを降りた。
 動物園の入口前に行くと、ふわふわのフリルを着けた妖精の様な若い女性が立っていて二人が近付くと恭しくお辞儀をした。
「お待ちしておりました。飯島様、ではこちらをどうぞ」と二人に入場チケットを手渡した。
「おいくらですか?」源一の言葉に、
「本日は無料デーになっております。どうぞそのままゲートをお入り下さい」と紗妃は微笑む。

 園内に入ると、素敵なお花畑が目に入って来た。
スミレ、チューリップ、ヒヤシンス、スイセン、そしてその向こうに菜の花畑、眼前に広がる風景に心を奪われた。なんて素敵な所なんだろう!
 だが、園内マップに沿って先ずは動物達を見て行こう。一番手前のエリアは水に生息する動物達のエリアだ。
 最初に出迎えてくれたのは沢山の可愛いペンギン達、ざっと見ただけで30羽から40羽はいそうだ。群れを成して大きいのやら小さいのやら、よく見ると一羽一羽模様も大きさも違う。
 源一は早速カメラを構えて撮影にかかる。
 と、その横で洋子が突然、「アンリちゃ〜ん、シルクく〜ん」と名を呼んでペンギンに向かって手を振った。
「え、どこかに名前が書いてあるの?」
「いやね、何を言ってるの。あなたが写真で教えてくれたのよ」なんて事を言う。
 いや、ここへ来るのは確か初めてだったと思うんだけど……、まあいいか、そういう事にしておこう。源一もカメラを向けながら、「アンリちゃ〜ん元気かい? シルクく〜ん、カッコいいよ〜」と声を出してみる。
 不思議な事に名前を呼ぶとそのペンギンがこちらを向いて手を振ったり、カメラのレンズに向かってポーズをつけたりしている様に見える。
「あはは、こりゃ愉快だ!」
「でしょ」
 源一と洋子はすっかり楽しげな気分に浸っていた。
 隣のコーナーではシロクマ達がその大きなカラダでのしのしと氷山の上を歩いたり、突然水の中に飛び込んでは派手に水飛沫を上げて遊んでいる。
 ここでも洋子は、「シロさ〜ん、今日も横顔がキレイだよ」とか、「ローマくん、ポンくん、会いたかったよ〜」と、以前から親しくしているお友達みたいに声を掛ける。
 その度にシロクマ達も大きな口を開けたりとか、水から顔を出して近くへ来てみせたりと、何だか好意的に2人を迎えてくれているみたいだった。
 その度に洋子は明るい笑顔を浮かべた。それを見ていると自然に源一も笑顔になる。源一はそっと洋子の笑顔に向けてシャッターを切った。
 その後も次々と各エリアを見て回った2人は、それぞれのエリアで動物達と触れ合い、源一は沢山の写真を撮った。
 象にキリンに虎、ライオン、ゴリラにオランウータン、フラミンゴに孔雀、どれもこれもが圧倒的で素敵だった。リスやウサギなどの小動物達も愛くるしい姿で洋子を微笑ませた。
 そうこうしている内に園内を一巡りした。
「そうだ。そろそろお弁当にしましょうよ」
 洋子の提案に、源一も「そうだね」と答えた。

 運良く菜の花畑の中程にあるテラスに腰掛け、テーブルの上に洋子はお弁当を広げた。
「お〜、これはご馳走だなぁ」
 源一の好みのハンバーグや肉団子、玉子焼き、そして海苔巻きが並んでいた。
「はい、お茶をどうぞ」
「あ、ありがとう」
 菜の花の香りに包まれた中でのお弁当タイム。とても幸福なひとときだった。
「あぁ、美味しいよ。何だかとっても素敵だ。まるで夢の様だよ」
 源一は感嘆の声を上げた。
「あなた、今日は動物園に誘ってくれて本当にありがとう。とっても楽しかったわ」
「いやいや、こちらこそ付き合って貰ってとても嬉しいよ」
「本当はね、もっと早く気付いていろいろと思い出を重ねておくべきだったわ」
「いや、お互い忙しくしてたからね。でもこれからだっていっぱいチャンスはあるよ」
「そうね、そうだと良いんだけど……」
「……ん?」
 その時はまだ洋子の病気の事を源一は知らなかったのだ。
「あのね、今日は私からあなたに贈り物があるの」
「贈り物? 何だい?」
 すると洋子は突然、お花畑に向かって、
「紗妃さ〜ん、お願いしま〜す」と大きな声で呼び掛けた。

 すると、お花畑の中から、先程入園ゲートでチケットを渡してくれた白いドレスの妖精みたいな女の子が現れて、音楽に合わせてダンスを踊り出した。
 紗妃の隣にはタクシー運転手の中村も現れて、曲に合わせて身体を動かしている。踊る2人の周りをティンカーベルみたいな小さな妖精達がひらひらと現れ、周囲を飛び交っている。音楽と光のパレードだった。
 源一は笑顔を浮かべて、
「あはは、なんかディズニーランドへでも来たみたいだな」と音楽に合わせて手拍子をした。
 そして、大きなバスケットを手に取り、紗妃が洋子の元へやって来た。
「では、どうぞ」
「はい、ありがとう」
 洋子はそのバスケットの中から花束を取り出す。
「これをあなたに渡したくて、今日ここに来たのよ」
「え、これを、わたしに?」
 源一は、何か大切なものを手にする様にその花束を受け取った。
「おぉ、これは綺麗だ!」
 中央に薔薇を配して、スイートピーやフリージア、そして周囲に勿忘草をカラフルに散りばめたその花束は、洋子から源一にこれまでの感謝を込めた贈り物だ。

「あなた、本当の事を言うわ。これは全部夢の中の話なのよ」
 洋子は唐突に語り始めた。
「夢……」
 そう聞いて源一は絶句してしまうしかなかった。
「でも、どうして、こんな事が……」
 源一にとっては夢と言っても、夢ではない、何かしら現実的な想いを胸に感じ始めていたのだ。
「それは、紗妃さんと中村さんのお陰だけれども、これは私の気持ちの現れなの。今の私は病気で、もう身体が動かないし、ものも喋れない、目を開けて何かを見る事だって失われつつあるわ、それは今から3年程先の話よ。私はそこから来たの」
 突然の話に源一は困惑したが、ただ受け止めるしかなかった。
「そうなのかい」
「でもね、心の中では、いつも話しかけているの。あなたにも娘達にも。もちろんあなたからの言葉だってちゃんと私には届いているわ」
 源一は声も出せずに洋子の話にじっと耳を傾けた。
「ねえ、人生っていつ終わりを迎えるか分からないじゃない、それだけに今日と言う日が大切なのよ。その瞬間瞬間を私は目に焼き付けておきたいの。あなたがカメラのシャッターを切る様に、私は私で心のシャッターを押して、多くの瞬間を心に刻んだわ」
 2人の前を穏やかな風が流れて行った。
「今を大切にって事だな。忘れないよ、その言葉。本当に今日は素晴らしい一日だった。夢だったとしても構うもんか。こうして一緒に動物園に来れたんだ。大満足だよ」
 それは洋子にとって奇跡としか言いようがなかった。こんな風にお花畑に囲まれて、夫と2人お弁当を広げて、楽しくお喋りしているなんて。
「うふふ、何だか、楽しいわね」
 源一と洋子は微笑み合った。


【水色タクシー】

 動物園のゲートを出て、源一と洋子は再び水色のタクシーに乗り込んだ。
 運転席には中村、助手席に紗妃が座り、後部座席で飯島夫妻は手を取り合う様にシートに持たれるや否や眠りの世界に入ってしまった。
 タクシーは東の方角から明け始めた薄明かりの空を駆け抜けて行き、飯島家で源一を降ろし布団に寝かせ、それから病院に戻り病室のベッドに洋子を降ろした。

 2人を降ろした車内で紗妃と中村はいつもの様に軽く微笑みを交わした。
「お嬢様、少し涙ぐんでるご様子ですね」
「あら、恥ずかしいわ、見ないで」
「もう見てしまいましたよ」
「意地悪ね、そんな事言うなんて」
「でも良かったじゃないですか、お2人とっても喜んでくださいましたよ」
「そうね、そう思わなけりゃ」
「お嬢様、ひとつ聞かせて頂いてよろしいですか?」
「はい、何でしょう?」
「お嬢様はどうして、この様な事を思い付かれたのですか?」
「この様な、と言うと真夜中の花屋さんのこと?」
「そうです。確かに花束を贈られた方々は皆様感謝されています。でもそれは、その方々を喜ばせたいのか、それとも、お嬢様ご自身がそうする事によって自己満足を得たいのか、そこの所を一度お聞きしたくて……」
 中村の質問に紗妃はなかなか返答が出来ないでいた。
「すみません。余計なことを尋ねてしまいましたね。お気を悪くされたらお許しください」
「いえ、いいの、でもね、私、こう思うの」
「はい」
「中村さんは、あの人にもう一度会いたい、なんて思う事はないでしょうか?」
「は、私ですか?」
「ええ」
「そうですね……、確かにそれはあります。以前恋人に裏切られてやけになった女性を乗せた事がありまして」
「まあ、それで?」
「彼女は恋人の部屋を飛び出し、東京から京都にすぐ帰ると訴えました。夜中にです。でも私は駅の近くのホテルで一泊して頭を冷やして、少し冷静になってから翌日お帰りする様にとお薦めして、タクシーを降ろしました」
「そんな事があったのですね」
「その後、彼女がどうされたのか分かりませんが、タクシー運転手とはそういうものです。人のドラマの一部分を垣間見るだけです。決して口出しはしないと決めています。でも、たまに、やっぱり、彼女のその後の事が気になったりしますね」
「そうでしたか……」
「いや、取り止めもないお話をしてしまいました」
 中村は苦笑いをする。

 少し間を置いた後、紗妃は語り出す。
「私はね、その人の笑顔や喜ぶ姿を見たいから花屋を始めたの、それも私と中村さんが共通に持つ特殊能力みたいなもの? このタクシーは空も飛べるし、時空だって飛び越える。そして私は魔法をかけられる。これって凄い事じゃない?」
「ええ、確かにそうですね」
「これからも私は真夜中の花屋さんを続けて行きたいわ。自己満足だって構わないから、私は中村さんとだったら、いろんな夢が見れそうな気がするの。だから、これからも私とお付き合いして頂けないかしら。そうなればこんな嬉しい事はないわ」
 紗妃の言葉を聞き、中村は微笑を浮かべ、
「承知致しました。微力ながら喜んでお手伝いさせて頂きますよ」と答えた。
「嬉しいわ、ねえ、中村さん」
「はい、何ですか?」
「ちょっと車を停めてくださる」
「どうしました?」
「私にキスしてくれませんか?」
 中村が助手席を見る。紗妃は目を閉じている。
 頬に一筋、涙の跡がキラリ光って見えた。
「お安い御用です」
 中村は紗妃の肩を抱いて身体を引き寄せた。


【エピローグ】

 朝を迎えた。
 現在に戻った飯島家の中。
 源一は目覚めると、布団の上に起き上がり、暫くぼーっとしていた。
 何だか、変な夢を見てたなあ、と思う。
 けれども、とても幸福で良い夢。
 お花畑の中にいるみたいにふわふわとした……。
 う〜ん、思い出せそうで思い出せない。
 でも何かを貰った様な気がする。

 さて、今日は何をする日だったかな?
 午後からは病院に行って洋子の様子を見てやらなければならない。
 この所の洋子の状態は殆ど意識がなく、何を話し掛けても何の反応も示さない。
 以前は源一の撮った写真を見るとそれなりの反応をしたものだが……。
 そうだ、動物の写真だ。
 けれど、それも段々と見てくれる枚数が減ってしまい。
 とうとう最初の一枚にさえ反応が無くなってしまってから、何だか虚しくなって、やめてしまっていたのだ……。

 はっ、さっきの夢を少し思い出した。
 動物園だ。
 洋子と一緒に動物を見て回った。
 3年前の春? 覚えている。
 本当は誘ったけれど、断られたはずだったのに。
 間違いない、一緒に動物を見て回った。
 アンリやシルクにも呼び掛けていたではないか! 
 あんなに楽しそうな洋子の姿を見るのは久しぶりだった。
 そうだ今日はまた以前の様に病院へ行く前に動物園に寄って何枚か写真を撮って行こう。
 たとえ反応が失くてもいいから、ラッキーやハッピーが仲良くケンカする姿を見せてやろう。
 動画にしてみるのもいいかもしれないな。

 そう思ったら、早く準備をして出掛けなければ、と源一はさっと布団を片付けた。
 簡単に朝食を済ませ、カバンにカメラ道具一式を詰め込む。
 着替えて帽子を被り、玄関に向かう。
 そして、玄関の靴箱の上に目をやるとバスケットが置いてある。
 何だかデジャヴの様な既視感、このバスケット、どこかで見た気がする。
 そっと中を覗いてみる。
 薄い布に巻かれて夢で見たのと同じ花束がそこにあった。
 洋子の好きなフリージアの香り。

「ああ、やっぱり夢じゃなかったんだ」

 源一はその花束を胸に優しく抱きしめた。



◇◇◇  ◇◇◇   ◇◇◇   ◇◇◇   ◇◇◇


この小説は、小原ななさんのこちらの小説をベースにしています。




 


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