子供のことを見ない母親、見れない母親

私は、気持ちを表現するコトが苦手だ。

状況の説明と気持ちの説明は全然違っていて。
思ったことや感じたことを人に伝えるというのが、
すごく難しい。
だから逆を言えば、人の気持ちを汲み取ることも苦手なのだ。

だけど、気持ちがないわけではなくて、
相手の気持ちをどうでもいいと思っているわけでもない。
そういう『気持ちや心を大切にできない人なんだ』
という誰かの捉えられ方に、傷つかないわけではない。
そういうところが、私の生きづらい部分で、
未消化になる部分だったりする。

そういう私が、子供たちと接する時には余計に
未消化が増えてくる。
『この人は本当はどう思っているんだろうかー。』
と立ち止まることばかりで。

未消化が溜まるとどんどん追い込まれる気持ちになってしまう。

それは、大切なことだからなのだけど。
言葉がうまく使えない、気持ちを上手く伝え合えない
そんな同志の中では、混乱が起きる。
それに、子供が『私(相手)を見て、
合わせて回答を探している』ことも辛いのだ。
だから『本心を言ってくれ!』
と私は泣き出したい気持ちになってしまう。

子供たちが幼かったときは、
お世話だけの日々が中心だから、
強制的な時間があったり、
私本意にコトが自然と流れていたのだろう。

分からないけど、『子供って可愛いなー』と。
世話をすることや日常のアレコレに
問題があるわけではないのだ。

そうじゃなくて、本当に大切だとされる
『心や気持ち』の部分が、うまくいかないのだ。
それは子育てという大きな仕事の中では重大な
問題となってくる。

自分が言葉にできない分、子供たちには
言葉にして伝えなさいと言ってきたなと思う。
『どうしたいのか、言わないと分からないよ』と。

それは、自分が出来ないことだから切迫した気持ちだった。
『ちゃんと言葉にしなさい!』とか
『ちゃんと分かったのか!』とか、
自分の不安は大きな感情とともに
漏れ出ていたと思う。

長女がジーッと私を見て、『終わった?』
と言ったコトがあった。
『あなたの感情は落ち着いたか?』と
問われた気持ちになって、私の混乱だけは
伝わってたんだなと、思ったコトがある。

そんな風に子供が成長していく中で、
自分自身の感情との向き合い方や、
気持ちを伝える手段・方法や、
何を優先すべきなのかということを
考えさせられることは多々あった。

自分の感情に振り回されたり不安に襲われる時には、
絶対に他人のことなど見ることは出来ない。
私の場合には、状況的に何をすべきかを見ることは
まだできるのかもしれないけど。
何かを感じている子供に対して、その気持ちへの
対処ができないのだ。
そこが欠落してしまうのだ。


そういう風に、私自身が心に対してのアプローチを
された経験が少なかったから特に疎いのかなとも、
最近は思う。
この5年近くを祖父母とともに子供たちは過ごしてくれた。
その間、私は好きなことをして過ごした。
誰かに強制されたり、こうすべきなんだろう
という枠から外れて、何かに従属するでもなく
反発するでもなく…。

そういう時間の中で、自分の気持ちとともにいる時間が
自然と長くなった。
当たり前と考えられる常識の行動、状況判断や行動規範、
それらからの動きではなく、『あなたはどうしたいのか』
と問われる時間を過ごしてきた。

そうなると、案の定私はあまりにも脆かった。
常識や規範がどれほど私を守ってくれていたのかを
知ることになった。

だけど、そんな風に自問自答することを
大切にされて、本当に良かったと思う。

以前よりずっと、自分の中に
自分の判断基準が生まれて、
行動への矛盾がなくなってきた。

子どもたちにも今の自分で、
落ち着いて向き合えること、
話せることがとても嬉しい。


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