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短編小説:定点観測(その先の発見)

朝、すれ違う人が居る。
電車通勤をしていたら、そうなってしまう。
最近、すれ違っているのは二人。正確に言うと二組。
カップルとシングルの女性。
もちろん、毎朝、という訳ではない。
電車が遅れる事はあるし仕事の都合だってある。
でも大抵すれ違う。
ただ、こうやって思い出すとき以外、日頃は全く思い出さない。つまりどうでも良い些細な話だ。
それでも僕は思い出している。
休日の早朝、とても大事な事みたいに。

電車に乗る時間には遷移があった。(思いのほか長い期間、電車通勤を続けてきた)
会社を変えたり、仕事場が変わったり、職種が一時的に変更になったり、転勤したり。
ただ僕は毎朝同じ時間に起きて同じ時間に玄関を出て同じ車両に乗る事を好む。ルーティーンとういやつだ。
だけどそれを好まない人もいた。違う時間に出て違う車両に乗る。
「毎日が新しいわ」と当時つきあっていた女の子は言った。
僕は「あなたはつまらない人ね」と言われたような気がして小さく傷ついたけど、でも今となってはその女の子の言う通りだった。

先日も彼女とすれ違った。
朝の喧噪の中、駅に向かう集団の中、タワーマンションの公開空地(マンションの敷地だけど誰でも利用していい場所)で。
彼女は急ぎ足で胸を張って歩いていた。
彼女の胸は大きくいつも揺れている。いつもと違うのは一人で歩いている事だった。
普段は二人。もう一人の男性は恋人なのか夫なのかはわからない。兎に角、男だ。
力関係は微妙。手を繋いでいるときもあれば彼女が一歩前を歩いているときも彼が一歩前を歩いているときもある。
それが何を意味するのか、喧嘩しているのかトラブルがあったのか、気分的なものなのか、それはわからない。
一緒に住んでいるのか、彼が通っているのか、はたまた不倫関係なのかも。男の方は長期の出張で彼女の家に転がり込んでいて遠くに妻子が待っている、というのもありえなくはない。
いや、あの情緒不安定ぶりからするとその方が理にかなってなくもない。
でも普通に考えたら、恋人同士なのだろう。
割と良い会社で働いているパワーカップル。子供は作らず人生を謳歌している、みたいな。(朝から妄想が止まらない)

もう一人の彼女はそのあと、割と長めの一本道のどこかですれ違う。
細身でゆっくりと軽やかに歩いてくる。
前のカップルに比べたらすれ違う頻度は高めな気がする。
きっと目的の電車の時刻が明確で僕と同じく同じ時間に家を出ないと気が済まない性格なのだろう。
これは余談だが前の彼女に比べたら胸は幾分小ぶりだ。
とても控えめ、と言った方が良いかもしれない。
だがそれは大した問題ではない。
そもそも胸の大きな女の子にあまり興味はないしそういう女の子だからという理由で強く惹かれた事もない。
それは単に優先順位の問題だ。
僕にはもっと興味をそそられる部位というか、そういうものがあるからだ。
顔は決して美人ではない。
以前はマスク姿だったけど最近になってその素顔を見せてくれた。
その時は特になんとも思わなかった、というか最初はいつもすれ違っている彼女とはわからなかった。
どこにでもいる印象の薄い顔、という事になるのだろう。
でも好感は持てる。
僅かにバランスを欠いていて、その配列が好みの分かれるところだけど僕はその並びに惹かれるものがある。
わかりにくいけど、そんな顔だ。
もしも僕が彼女と同世代だったら、あるいは同僚だったら、きっと良い友達になっただろうと思う。
ちょっと上からの態度なのかもしれないけれど、そうなのだ。経験的に。

或る休みの日の朝、突然、彼女たちの事を思い出している。
通勤の日の朝の、あの嫌な雰囲気を全部棚上げにして。
そうしたら浮かび上がってきた。
あれは僕のささやかな楽しみだったんだ。


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