19/08/2020:『Good Guy』

空港からターミナル駅までのシャトルトレインは、しばらく地下を走ってから緩やかに地上へと上がっていく。液晶TVが無音声のままニュースを映していて、キャスターの顔を見るだけでも改めてここが外国であることを教えてくれる。

冬が始まって間もないとはいえ、僕が住んでいる国よりもずっと北にあるから太陽の入射角が大きく違う。青くピンク色が広がる空から汲み取れるのは、ただぼんやりと昼間を過ぎた街がそれを取り戻そうと作り上げる幻想的な夕方のグラデーションだった。

「今年は帰るつもりがないので、どうぞ、私に会いにきてください。」

と、彼女が手紙をよこしてきた。僕も日本に帰るつもりもなかったし、加えてカレンダーを見ただけでも、元々消化する必要のあった有給に祝日が重なり、おかげで長くなり過ぎた休暇を持て余すことは目に見えていた。

それに、本文の最後には

「嘘です。真剣に、会いにきてください。この冬をこうしてこの国で1人で越すには、あまりにも空が暗い気がして、ちょっと堪りませんから。」

と、走り書きが残されていた。最後までうまくやり過ごそうとして、でもやっぱり正直になろうと決めた彼女の葛藤が、僕にはかなり親しみを感じることができたし、何よりも誠実さが字面からも伝わった。

だから僕はその日の夕方に職場のパソコンで航空券を予約すると、上司に休暇申請をした。

「この寒い時に、またどうしてあんなところへ?」

と、彼は聞いてきた。

「まぁ、たまには。」

口をついて出たのは、何の気も効かない冴えない返事だった。

手紙を畳んでライダースの胸ポケットにしまう。ipodから聞こえる音楽がゆっくりと僕の耳を包み込んだ。シャトルトレインが駅に停まる。トアが開いて冷たい風が入り込んできた。

冬の香りがするすると座席まで届くと、胸が急に縮こまるように冷たくなった。

                 ・・・

「時間をかけて慎重に丁寧に作り上げたものほど、頑丈で揺るぎないと感じるものほど、それが脆く壊れるときはあっという間で、そして失った時の虚無感は果てしないんだぞ。だから、気をつけろよ。」

ある日、父に言われた。

僕の父はただのサラリーマンで、東京の私立大学を1年多く通って卒業した後、地元の会社に勤めていた。読書家でも映画オタクでもなく、ただ昔野球をやっていたから、その流れで地域のおじさん野球クラブに入っている。その他に趣味めいたものはない。

だけど、時折、電話で話したりするとこんな風に格言めいたことを言ってきて、そのトーンが割と真面目だったりするから、僕は少しだけシリアスな気分になった。

「うん、わかった。そうするよ。」

他になんて言っていいか分からないから僕はいつも素直に返事をするようにしているが、そういう時になぜだか微細な恐怖を覚える。

それは、父が怖いということではなくて、こうやって僕に話しかける父も確実に死に向かっているのであって、僕よりも先に死ぬことを当然のように思っていてーなぜか僕までー、それでいてその瞬間がこれから先いつ訪れてもおかしくない、常に僕の足元や頭上にある。そういう類の恐怖だった。

漠然とした見えない寂しさみたいなその恐怖は、きっとこれからもずっと続いていって、仮にそれが僕の周りから消え去る時が来るとしたら、きっと父がこの世からいなくなる時なんだと思うと、またそれも、どうにも遣る瀬無い気持ちになった。

                 ・・・

彼女の家の住所も手紙に書かれていたが、

「駅前によく行くカフェがあります。そのカフェで待ち合わせましょう。」

と、書いてあったので、僕はそこで待っていた。青いピンク色の空はだんだん夜に近づくに連れて、その寒さがアスファルトを濡らし始めていた。

「ミルクティーをください。」

「はいよ、座って待っててな。」

店員は背の高い移民の男で、歯茎破擦音のアクセントがとても強いことから、きっと南の大陸の出だと思った。

割と広い店内は、淡く黄色い照明の下、観葉植物の脇に最低限のテーブルとソファがおかれているだけで、余計な装飾品はなかった。僕はソファでゆっくりしたかったが、彼女が見つけやすいかと思って窓際のカウンター席に座った。

スーツケースを壁際に押しやって、カウンターに肘を付くと、

「待ち合わせかい。」

と、先ほどの彼がマグカップを持ってきてくれた。

「うん、無事に来てくれるといいんだけどね。」

「大丈夫さ。空もこんなにきれいだし、迷うこともないよ。」

と、ウィンクをくれた。形は違えど異国から来た僕をどこか親近感で包んでくれるような声音だった。

「時間は気にせず、ごゆっくり。」

そう言うと、またカウンターの方に戻っていった。

彼が話していた通り、空は雲の形がまだ分かるくらいの明るさのまま、ただ色だけが濃くなっていて、寒そうに歩く人々の丸まった背中が余計にその景色を統合させていくように見えた。

でも、この景色は確かにまだ冬の始めにしては暗過ぎたし、気が付いたら灯っていた街灯の明かりも決して彼女の心には寄り添ってくれないだろうなとも思った。足元しか照らさないライトはその夜の暗さを強調しているようで、あくまでもここでの主役は夜と冬であることが極めて明確に示されていた。

「着いたこと、知らせないと。」

レシートに書かれたwi-fiにアクセスする。電波は良好で、すぐに溜まっていた通知が届き始めた。

でも彼女からは、何もなかった。

「こんばんは。カフェにいます。いつでも来てください。」

あまりにも素っ気なさすぎるかなと思ったので、

「寒いので気を付けて。」

と、最後に足した。

でも、そんなの僕が言うことでもないような気がした。

電話が鳴った。彼女の名前がスクリーンに映る。

「もしもし。」

「寒いことなんて、そんなの知ってるわよ。」

と、彼女は言った。そうだよな、と思いながら窓の外へ目を向けると、そこには彼女が立っていた。どこか極寒の狩猟民族みたいにもこもこの格好をしていた。

彼女は、

「遠いところ、ようこそ。」

と、言った。

「寒いでしょ。早く入りなよ。」

と、僕は言った。

カランコロンと押し扉を開けて彼女が入ってくると、外の冷たい空気が店内に入り込んで来た。

また胸が急に縮こまるように冷たくなった。

大切に築き上げたものも、いつだって簡単に崩れ失せる。僕は今まで築き上げて来たものと、それを守っていくことの重要さについて考えていた。

夜はまた一段と街を広く覆い始めていて、雲の形はもうあまり見えなくなっている。

「確かに。1人で越すにはあまりにも暗すぎるね。」

と、僕は言った。

そして、彼女は僕の手を取ると、

「一口ちょうだい。」

と、言って、ミルクティーに口をつけた。

僕らはそれぞれに頭を預けると、しばらく窓の外を見ていた。

                 ・・・

今日も等しく夜が来ました。

Frank Oceanで『Good Guy』。



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