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すべての物事を「否定」から入る人の心理を思考する

 こちらのテーマも前回に引き続き、ダイビングインストラクターのmさんから頂戴いたしました題材です。それにしても皆さん。本当に興味の惹かれる難しいテーマをご提供くださります。どうもありがとうございます。

 早いことで今年も5月に入りました。ほんとうに高速。光の速度、とは言い過ぎですけれども。とにかくあっという間です。
 窓の外にツバメが飛んでいる。なめらかに、素早く、雲の下、電線の上を飛んでいる。あのツバメだってもうすぐ旅立ってしまう。フィリピンやベトナム・インドネシアより5000キロの距離を飛んで日本へやって来たツバメ。こっそり名前をつけてしまったあの子。あの子とも、きっとあっという間にお別れだ。さようなら。お元気で。そして叶うのならまた来年も・・・

 日本のこの家のベランダの上に。 
 元気に戻って来てくれませんか。

と、記事を書く前に涙ぐむ猫目です。皆さん。こんにちは。

 そうそう。先日ある友人に「前置きが長いんだよ」とのご指摘をいただきました。たしかに猫目の記事は前置きが長い。しかも時に本題と無関係なのだから困ったものです。気をつけよう・・・というわけでさっそく本題です!本日は物事を「否定」から入る人の心理を紐解いていこうと思います。

あらゆる物事を「否定」からスタートする

 さまざまな物事において「否定」からスタートする人。

 そういう人の中には「最悪のシナリオ」を想定している場合がある。最悪の事態を想定しているからこそ否定的になる。つまり根本に不安の要素が存在している。そのため全体的に否定傾向になる。うん。これだけでもなかなか難しい。

 否定ばかりを口にしていると自然と否定的な思考に陥る。そこで今回はあえて「否定」というテーマをできるだけ「肯定」的に展開していきたいと思います。

場合に起こることがあります。それら最悪の事態を想定しているからこそ「否定」する。つまり根本に不安が存在しているのですね。・・・否定・・・おもしろい議題です。そしてなかなか難しい。ということで、本日は「否定」というテーマを「肯定的」に展開していきたいと思います。

なんでもかんでも「でも」「だけど」

 突然ですが、皆さんは友人や上司になにか意見を述べられた際に「でも」や「だけど」と口にしてしまうこと、ありませんか?

 とくに何も考えずに「でも」や「だけど」と相手の話を否定してしまう。または、深く考えているがために否定的な態度をとってしまう。それら双方はまったく別の性質をもって否定している。にもかかわらず、否定された相手にとっては同じことでしかありません。そうなると相手は事柄を通して「自分自身」を否定されている気持ちになる。

 この「でも」「だけど」・・・実は日常的によく登場する言葉です。耳を澄ませばあらゆる会話に、それもかなりの確率で登場していたりします。

「でも」「だけど」「それはそうかもしれないけど」「でもやっぱり」「だって」「だけどねえ~」「それは違くない?」中でも会話の途中で「違う。そうじゃなくて」と遮ってくる方もいらっしゃいます。そういう否定の言葉を口にしてしまう。そこにはどのような心理が働いているのでしょう?

「否定」には3種類の心理が潜んでいると、猫目は考えています。(2022)

①「自身の保身・保護」
②「クセ(習慣)」
③「疑問をもっている(=納得できない理由がある)」


①無意識下の保身・保護

 なにかを否定する。それは「肯定する」ことより簡単なことにすら思えます。肯定するということは相手に同意する。相手自身を肯定する。相手の意見に賛同する。それはつまり相手の行動に賛成することを示します。賛成したからには相手に協力的であるべきだ。つまりこれは責任問題まで発展する可能性がある。

 たとえば、あなたの上司が持ち出した新しいプロジェクト。あなたは上司の提案したプロジェクトに「いいですね」と返答したとします。

 後日。上司はあなたにプロジェクトのリーダーになって欲しいと相談を持ちかけます。しかしプロジェクト自体どう考えても無謀。成功の「せ」の字も見えない。そんなプロジェクトを引率するリーダーにご抜擢いただく。うつむくあなたはこの時点で「あまりやりたくないなア」と思っています。

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 ようやくのことで顔をあげ、意を決して上司に言います。
「やりたくありません!」
 上司は目をまるくして聞き返します。
「どうして?」
「どうしてと言われましても・・・」
 と、口ごもる。
「そもそも自分には向いていないんですよ。こういう企画は・・・」
 前の上司の顔がみるみる赤く染まります。耳まで赤い。
「この前はいいって言ったじゃないか」
 とげとげに尖った口調の上司。彼はリノリウムの床を眺めながらぷつぷつ口を動かします。
(あの時はいいと思うって。そう言っただけで、なにもやりたいとは言ってない。そもそもリーダーなんてただでさえ荷が重いのにこんな勝算のない企画を背負うなんてそんなこと・・・)
 と、肩を落とします。

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 こんな状況は誰でも息が詰まってしまいます。嫌な空気ぷんぷんです。しかし彼は先日の上司との会話で「肯定」「賛成」をしているわけです。それを今になって撤回する。いまさら「そのプロジェクトはちょっと無謀じゃないっすかあ?」なんてこと。言いたくても言えません。時すでに遅しです。こうなってくると責任問題です。なにが責任かと申しますと間違いなく、先日、彼の言った「いいですね」のひと言です。

 そういう彼の場合は始めからあまり賛同的でなかったことに問題がありそうです。「無謀な企画」と思っていたのなら「いいですね(共感)」と安易に頷かない。つまり簡単に賛成をしない。一度「いいですね」と述べてしまったら後が怖い。そういう過去の状況を記憶しているがために、人は防御のために「否定」から入るのかもしれません

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 友人でも同じことが言えます。
 以前、猫目はある友人に「ねえ一緒にYouTubeやらない?」と誘っていただいたことがあります。そのとき猫目はとくに何も考えず、心の内をそのまま言葉にして「おお~。おもしろそう」とかなんとか。口にしていまいました。

 このお話の結末はもうおわかりでしょう。

 彼女は本気だった。しかし猫目は遊びの感覚だった。この落差は激しい。もしも逆だったらどうだろう? 彼女は独学でYouTubeについて勉強をしていました。その頃の猫目ときたら「YouTubeおもしろそう」との発言をすっかり忘れ、無責任に、小説の執筆に没頭しておりました。今こうして綴っていても当時のことは本当に申し訳ないと思っています。もちろん彼女には訳をしっかり話して謝りました。が、当時の彼女の、あの、曇っていく表情を忘れることはできません。

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 こういう経験からも、猫目は安易に「肯定」することを止めました。そこには「否定」することで「保身」をするという技法のようなものが含まれているように思います。否定することで責任を背負うリスクをなくす、と言い換えても過言でないかもしれません。 

②習慣化している

 つぎに日常的に口にする言葉についてです。たとえば日常的に「ありがとう」と感謝の言葉を口にする人も居れば、「最悪」と口にする人も居るでしょう。学生の頃はかなり多くのクラスメイトが「死にてえ」などと軽率に口にしていたものです。そういう彼らのほとんどは本当に死にたいわけではありません。ただ、意味を深く理解することもなく「死にてえ」と口に出しているだけなのです。良いか悪いかは別として。

 口癖は「習慣」の中に存在しています。そういう習慣の言葉の中に「でも」「だけど」は多く含有されていると思います。とくにこういう否定の言葉は学生だけでなく、私たち大人にも多いです。

 始めはしっかりとした理由が存在していたことでしょう。しかしそれがいつの間にか次第に習慣化していく。口癖として定着する。誰が何を言おうと「でも・・・」「いやいやだけど・・・」と口にする。それはもはや意識の外に飛び出したクセに他なりません。いわば無意識による無意識の否定です。

 習慣というのは実に厄介な代物です。一度身についてしまえば造作ない。「でも」「だって」「だけど」。すぐに言えるようになります。ここに言葉の不思議があります。そういう否定的な言葉を口にする人は自然と思考も否定的になっていくことが多いという不思議です。否定すること自体は悪いことだと思いません。否定することを無意識化してしまう。そのことこそ本当の意味で恐ろしい。

 無意識なので悪気がない。悪気がないので直そうとしない。直そうとしないから相手をむやみやたらと不快な気持ちにさせてしまう。相手の不機嫌な表情を見て、自分も気愉快になってくる。悪循環の発生です。

③肯定できない理由がある

 なぜ否定してしまうのか?
 それは「疑問を拭えていない」や「肯定できない」理由があるから。つまり相手により提示された事柄にそもそも納得していない、ということです。そういう場合はおのずと「否定」せざるを得ないでしょう。

 むしろ、否定をしないと後になって不自然な結果となってしまいます。そういう彼らは「でも」「だって」の意味をほとんど正確に理解しているのです。なにも安易に「否定的態度」を取っているのではありません。それは彼らが否定の根本に”理由”を持っているからに他ならない。

 つまり否定したい、のではなく、否定しなくてはいけない状況にある。

自分、ひねくれてますから論

 この記事を書いている最中に偶然にも、「自分はひねくれているからね~。だから否定しちゃうよね~」との見解をもつ方にお会いしました。なんたる奇遇。そしてなるほど。たしかに猫目も大分ひねくれておりますから、納得する点もいくつかあります。

 「ひねくれている」もしくは「天邪鬼」というのは、状況よりも、その人の性格に左右されるような気がしますが。そういう挑戦的態度のうちに否定はおそらく「否定したい!」との形をとっているのではないでしょうか?

 否定してリスクを減らしたい。責任を負わないために「否定」するのでなく、無意識に口をついて否定的な言葉を発するのでもなく、核心部分に確固たる否定の根拠(理由)が含まれるのでもなく。

 ひねくれの天邪鬼の否定は「なにがなんでも否定したい!」という挑戦的な否定。ことにこういう場合の否定はいちばんたちが悪いかもしれません。猫目もかなりの天邪鬼です。言われてみれば心の中で「そうかもしれない」と思いつつも、口には「そうかな?」なんて言ったりしています。そこには「否定」による「新たな展開」を求めている、という実態が含まれている。つまり議論の展開でよりよいモノを見つけたい。しかし。

 ある断面にそれは「驕っている」と映り、また
 ある断面でそれは「論の追及」ともとらえることができる。

 となると①に保身、②に習慣化、③に理由があるの他に、④「ひねくれ論」を入れておく必要がありそうです。


「へえ」で、いい。

 相手を想えば解ることですが、「否定される」というのは決して気持ちの良いことではありません。せめて入り込み(スタート)はあくまで中立的なものがいい。たとえば「なるほど」だったり「そういう考えもあったか」だったり「ほう(へえ)」とか。相槌を打つだけでもいい。そうです。ほう、とか、へえ、だけでもいいのです。最近では「ほう」などと言う人は見ませんが。ぜひとも言ってほしいですが。

「俺この間レッサーパンダ見たんだよね。あいつ可愛いよね」
「へえ」

OR

「俺この間レッサーパンダ見たんだよね。あいつ可愛いよね」
でも、そんなに人気ないでしょ」

「俺この間レッサーパンダ見たんだよね。あいつ可愛いよね」
それは違う!レッサーパンダは絶対にかわいくない!」
(ここまで否定されるともう何だかもう恐怖ですらあります)

 自分の述べたことを真っ向なら否定されると誰でも嫌な気持ちになるものです。上の例題の「へえ」・・・これはこれでなんだか味気ないですが。しかし「でも違う!」よりは良いはず。そしてレッサーパンダ可愛すぎる。本当にかわいい。かわいいので画像を載せておきます。

思いやりの中の「肯定」

 相手を不快にさせることこそが、そもそもの目的で「自分はお前を困らせることが生き甲斐なんだ」という方にはごめんなさい。もう、なにも言うことはありません。が、それ以外の方にもう少しだけ。相手を想う。思いやりの気持ちについてです。
 
 ここまで「否定する」心理について述べてきました。が、ここで最後に「肯定」することの意義を述べたいと思います。

 否定し過ぎることで相手を不快にさせてしまう可能性がある、ということは上記で述べた通りです。今度はその逆「肯定」および「共感」をする重要さについて。そもそも「共感」とは大きな力をもっている。いわば相手とのコミュニケーションに欠かせない部分でもあります。

「その考えいいね!」
「わたしもそうだと思ってたんだ」
「まさに君の言うとおりだよ」

 それら共感の言葉は「相手を認めている」という意味をもちます。自分の考えが認められている。自分を受け入れてくれている。すごく嬉しいことですよね。気分がいいです。そういう会話のもっとも肝心なこと。それは「会話の広がり」にあります。広い視野でのびのびと語り合える場をつくる根本に「肯定」あるいは「共感」があります

 インタビュー記事を拝読していると彼らプロは、決して「否定」の気持ちから入りません。それは否定から入ってしまうことで失われる部分が多いからでしょうか? 残念ながら猫目はインタビュアーではありませんので、そういう事実はわかりません。しかし相手からより多くの話(しいては本質)を得るために、とりわけて「否定」よりも「肯定」から入る方が良い結果を導いてくれるのでしょう。

 冒頭より「ですが」「しかしながら」「それは違うと思うのですが」と、否定のオンパレードの質問者に対し、猫目なら必然と口を閉ざしてしまうことでしょう。口を閉ざしたということはすなわち、心を閉ざしています。

 肯定と共感。こちらも非常に興味のある議題です。いつか改めて書けたらいいなと思います。さて、今回のテーマ『すべての物事を「否定」から入る人の心理を思考する』の・・・・・・

・・・結論です。

 物事を否定するには、
①保身
②クセ
③疑問
④ひねくれている(天邪鬼気質)
 
4つの心理が存在する。そしてそれらは良い面と悪い面を兼ねそろえている。そのことからも「否定」と「肯定」をネジのように調節していくことは有効と言えるだろう。ただしそれらは相手にもよるので一概に意見できない。が、ことに安易な「肯定」は相手の信用を失ってしまう事態を招く。同様に会話の冒頭より「否定」を重ねていくことは相手の気分を害してしまう危険がおおいに潜んでいる。
 このことから「無意識」に肯定・否定を繰り返すことは自分にとっても不利である。のみならず、習慣化してしまうことで容易に直せない「クセ」となってしまう可能性があり、一度そうなれば直すのに骨が折れる。
 何事も否定から入ることは決して悪いことでない。が、
 何事も否定で突き通すのはいかがなものか。相手を思いやる気持ちの存在が重要なポイントとなる。結局は人である。その人そのひとに合わせた「最適解」を見つけ出し、回答できたら幸いだ。

 とはいえ、世には幾億との人間が居るのもまた事実。そうなれば核心は「否定」することに確固たる「理由」をもつことである。しなくてもいい否定をしない。軽率な発言や行動をとる前に深く、深く思考をこらす。軽率でない否定には意義がある。そういう深い思考をもとに「否定」をするよう心がけていきたい。

                          2020 05 07

以上です。本日もお付き合いいただき嬉しく思います。最後までお読みくださったあなたさま。本当にありがとうございました。目がしばしばしてしままわれた方はどうか目薬を一滴ついでにコメントを一言。どうぞよろしくお願いいたします。それではまた来週お会いしましょう。ぺこり。

流 音弥(作家)

『 相手の意見を否定するのでなく、「こういう別の見方もあるのでは?」というスタンスで話せば、こちらの意見にも耳を傾けてくれるものだ。 』







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