「対話」について考える(2)
◆こんにちは!公立小学校教員のねこぜです。夏休み毎日投稿チャレンジ継続中です。よろしくお願いいたします。今回は「対話」について、前回取り上げた野口芳宏著『話せない子・話さない子の指導』を再び引きながら日頃考えていることや実践していることを書いていきます。
▷対話ありきで考えない
「対話的な学び」と言うとどんな活動をイメージするだろうか。机をくっつけて話し合う様子、隣同士で体だけ向き合って話し合う様子、体育であればチームで車座になって作戦を練る様子…そこにどれだけ子どもたちの自発性があるだろうか。対話的な学びには「主体的」のワードもセットである。「話し合えって言われたからとりあえず机をくっつけた。何を話せばいいか分からない」こうならないようにしたい。自ら話したくなる教師側の仕掛けと、どれだけ自分事として捉えようとしているかの学習側のマインドのかけ算だと考えている。
気を付けたいことは、①対話すること学びにおける手段であって目的ではない②友達と話し合うことだけが対話ではない、この2点。
▷対話の前に言葉を大事にする
対話は言葉を通じて行われる。だからこそ、言語能力を豊かにしたい。菊池省三先生は以下のように述べている。
ただ活動に向かわせることも、主体性のない(菊池先生の言う押し付け)対話でも、学びのあるにはならないということだ。ここからも何のために話し合うのか、そしてそのために「言葉」を大切にすることが述べられている。言語活動には「聞く・読む」のインプットと、「書く・話す」のアウトプットがある。僕は意識的にこの四技能をバランスよくサイクルするようにしている。例えば、移動教室に向けて教師の語りを「聞く」⇒どんな移動教室したいか「書く」⇒書いたものを学級通信に文字起こしして配布し「読む」⇒それについて感想を述べ合う「話す」。子どもの自発性は?と問われると、ゼロベースで主体性は生まれないと考えているので少しずつ積み上げていくと、自主学習にも書ききれなかった思いを書く子がいたり、休み時間にも友達が書いた作文についての話題で話す子がいたりとじわじわと見えてくる・出てくる。それを逃さず価値づけ広めていく。聞けないが聞ける、聞きたいへ。書けないが書ける、書きたいへと昇華していくイメージだ。
これは大人も含め、誰にでも言えることだ。変わらないのは楽だ。「安きに流れる」「長いものに巻かれる」「下を見る」こうした態度から少しずつ解き放っていきたい。自分を高め、自分を伸ばすためには多少の恥を忍ぶことは必然とも言える。恥に耐え、一歩踏み出せたのなら、そこからじわじわと自走できる子に育つのだと思う。
▷発言することだけが全てではない
対話というと言葉を発する、発話することがイメージされがちだ。恥ずかしながら僕も数年前まで、発言回数を数えたり、「発言しない人は授業に参加したとは言えません」と言ったりしていた。言葉を発する、つまり話すことは言語活動の1つにすぎない。話すばっかりで人の話を聞けないのも問題だし、よく聞いているようで話の内容が理解できていないのも困りものだ。繰り返しになるが、言葉を豊かにすること、そして、何のために「対話」するのかを意識することが重要だ。
表情の機微も細やかに見とる教師の技術を磨いていきたいものである。沈黙すら発言だと考えることもできる。「指示が分からなかった」「面白くなそう…」など。言語活動の「話す・書く」がアウトプットだと述べたが、野口先生の言う表情や沈黙さえも取り上げ、教師が「言語化」してやることも必要に応じてやっていきたい。
◆最後までお読みいただきありがとうございます。「対話的な学び」って難しいですよね。付け加えて言うなら、友達とだけでなく教師との対話、自己内対話、先哲との対話ということも考えられるでしょう。今後も豊かな言語活動を目指して教育活動を進めていきましょう!
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