私のヨスガ

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私は、生きるのが不器用な人にしか見えない世界があると信じている。
生き辛さ、人とは違うという劣等感と恥、臆病な心、繊細さ、抱えてきた全部。

器用な人間と不器用な人間で二分するとしたら、
私は不器用な人間側なのだと思う。
でも、だからこそ、不器用な人にしか感じられない何かを、そのフィルターを通して表現したいという欲があるのだ。

昔から表現の世界への憧れがあった。
音楽でも、詩でも、文学でも、映画でも、写真でも絵でも、表現や芸術といわれる類には全てに興味があった。
作品や物語に深く入り込み、想像し、考察する。
それが何より至福だった。
作品そのものだけでなく、背景も気になった。作品には作者が表現したかった思想や心の奥底にしまってある感情を孕んでいると思うからだ。
どうしてこの作品が生まれたのか、どんな人がこの作品を作ったのか。
作品を通して、作者の人生観や知見や価値観、その全てを体感でき、まるで作者と対話しているようでさえあった。
私は作者の生き方に感銘を受け、作品に感化され、影響を受け続けた。
そして、その数多の作品を通して今の自分は出来ていると言っても過言ではない。

思えば、同世代の子がアイドルやモデルに憧れてる中、私は自分自身ではなく作品を主役とする表現者に憧れていた。
漫画家や画家、作家やミュージシャン、デザイナーや写真家に憧れた。
そして憧れたからこそ、自分もそうなりたいと思った。

私の尊敬する偉大な漫画家が、
"劣等感のある人は何か表現せずにいられない人が多いと思う"と語る。
劣等感に苛まれ生きづらさを抱えてきた結果、その繊細なフィルターを通して何かを表現する。
芸術という手段を使って燻った感情を昇華しているに近いと思うのだ。

そして、不器用な人にしか感じられない何かを作品から感じ取り、芸術に感化され続けてきた、そんな不器用な自分も、何かを表現できるのではないかと漠然と思っていたりする。
人と違うという劣等感を抱きつつも、人と違うということを誇りに思い、表現に対する根拠のない自信を持っている。

私は自分の好きなものに囲まれ、過信する表現の才能や、センスの良さ、趣味の良さというものに縋っている。
それが幸せであり、私が私を保つ唯一のよすがなのだ。

時に趣味や好きなものは武装のようになる。
コアで個性的、もっとマニアックなものを、と求め続ける。
それは私自身が空っぽだからこそ、"その良さがわかるセンスの良い私"に酔い、その空虚さを埋めているだけなのかもしれない。

でも、
大好きなアーティストのライブの熱気に触れた瞬間、何度と繰り返した大好きなアニメを見た瞬間、映画のエンドロールが終わって劇場に光が戻っても席を立てない瞬間、一夜で読み終えた本の余韻に浸る瞬間、美術館で見た絵に作者の人生を感じた瞬間、何気ない日常を撮った写真が大好きなものに変わった瞬間、その瞬間にどうしようもなく胸が熱くなる。その瞬間に"好き"を実感する。自分が"生きている"と実感する。
その瞬間はきっと、ホンモノなのだ。

素晴らしい作品に出会った時に、この作品に出会うために私は生まれてきたのではないかと思う程に感銘を受けることがある。
そしてこの世にはまだ目に触れてない数多の作品があると思うとそれだけで私はこれからも生きていける、そんな気さえするのだ。

この愛する作品たちを糧に、そこから貰った沢山の感情を糧に、私は生きていく。
そして、今度は私が表現する側に回れたらと思う。やはり表現は今も昔も私のよすがであると思うから。


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