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日中有考

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明治から昭和にかけての日本と清国,中華民国または中華人民共和国との関わりを,先入観なく客観的に。
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ランソンで烈士となった日本人

ランソンで烈士となった日本人

ベトナム北部,中華人民共和国との国境に近いランソン市(TP Lạng Sơn)の烈士墓地(Nghĩa trang Liệt sỹ Tp Lạng Sơn)に,一人の日本人の記念碑が建てられている。しかも別格扱いで。

記念碑には次のように刻まれている。

この墓地は,いわゆる越中戦争で犠牲になった烈士を弔う施設。
1979年(昭和54年)2月17日,中国共産党の人民解放軍が国境を越え,ベトナムに侵

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国民党・共産党 of China【中編:北伐と国共の離合集散】

国民党・共産党 of China【中編:北伐と国共の離合集散】

ロシアからの波紋【前編】について

 日本との関わりのなかで,革命家が育ち,やがて清朝が倒され,アジアで初の共和制国家・中華民国が建国されるも,その権力は,清朝の亡霊のような袁世凱に掌握される経緯を書いた下掲の記事。
 本稿は,その【後編】として,袁世凱の死後,日本が育んだ革命家によって中国国民党と中国共産党が結成され,この二党が4年のうちに離合集散する様と,やがて満洲を通じて日本との物理的な接点

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国民党・共産党 of China 【前編:辛亥革命を育んだ明治日本】

国民党・共産党 of China 【前編:辛亥革命を育んだ明治日本】

明治日本と清国の関係国清国交樹立

 日本と”中国”が初めて正式な国交を結ぶのは,150年前の明治4年7月29日(1871年9月13日)。
 当時の”中国”は,満洲の女真族が漢民族などを征服して成立している,辮髪に纏足の清王朝。
 同日,明治新政府と清王朝との間で対等な日清修好条規が締結され,初めて正式な国交が樹立された。

日清戦争による関係の深化

 しかし,明治27(1894)年8月1日,日

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昭和2年 田中義一・蒋介石”首脳”会談

昭和2年 田中義一・蒋介石”首脳”会談

革命いまだ成らず前後の時系列

1912(明治45)年1月1日 中華民国の成立

1912年2月12日 清王朝滅亡

1913(大正2)年10月6日 中華民国初の大総統選挙(袁世凱が大総統に)

1913年10月6日 日本ら「中華民国」を国家承認

1916年6月6日 袁世凱死去

1919年10月10日 中国国民党の誕生

1921年7月1日 中国共産党の誕生

1924年1月20日 (第一次)

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”賊軍”が矢面に始まった日台関係

”賊軍”が矢面に始まった日台関係

日本と台湾温帯と熱帯が同居する島

 台湾の中心を横切る北回帰線,その北が「温帯」,南が「熱帯」だそうだ。台北は「温帯」に台南は「熱帯」に属することになる。日本は,当然「温帯」である。
 75年前に長崎に原子爆弾が投下され,本来であれば東京オリンピックの閉会式が行われていたはずの令和2(2020)年8月9日の東京・北の丸公園は,もはや「温帯」とは認めたくない暑さ。

日台関係の端緒

 近代日本と

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中華蘇維埃共和国の対日宣戦布告

中華蘇維埃共和国の対日宣戦布告

中華蘇維埃共和国という国家1931(昭和6)年 誕生

 ソ連のコミンテルンの主導により,満洲事変直後の1931(昭和6)年の11月7日,江西省の瑞金市を首都として成立した中国共産党の”国家”が,中華蘇維埃共和国である。
 確かに遥か東北部で満洲事変が継続中ではあったが,日中戦争の起因となった盧溝橋事件が起きるのは遥か後年の1937(昭和12)年7月7日。
 コミンテルンが主導により,その”中国”

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御料地に台湾の”大使館”

御料地に台湾の”大使館”

台北駐日経済文化代表処@白金台五丁目事実上の台湾大使館

 令和4(2022)年9月29日をもって,日本と中華民国(台湾)との国交が断たれて50年となる。
 国交がない中華民国(台湾)の事実上の駐日大使館として位置づけられているのが台北駐日経済文化代表処である。
 所在地は東京都港区白金台五丁目20番2号。
 東京メトロ白金台駅から徒歩5分,いわゆるプラチナ通りから1本入った閑静な場所。文科省所管

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”中国”大使館二つの血統「桜田町」系

”中国”大使館二つの血統「桜田町」系

満洲国大使館が始祖満洲国を始祖とする「桜田町」の血統

 ”中国”の大使館には,「飯倉町」系と「桜田町」系の二つの血統があって,このうち「飯倉町」系については,清国から中華民国と”主”を変えただけでなく,中華民国内でも袁世凱→蒋介石→汪兆銘と”顔”を変えながらも続いたが,空襲と敗戦により途絶えた旨は,下掲の拙稿にて書いた。

 本稿はその後編として「桜田町」系について書くもの。
 血統が途絶えた「

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”中国”大使館二つの血統 「飯倉町」系

”中国”大使館二つの血統 「飯倉町」系

日中150年間にあった二つの血統日”中”国交樹立150周年

 令和4(2022)年は,中華人民共和国との国交が”正常”化,他方で中華民国(台湾)との国交が断絶して,50年となる年。
 歴史をもう少し日本を中心にみてみると,前年の令和3(2021)年は,日本と”中国”との間にそもそもの国交が樹立され,150年を経た記念すべき年だったことに気づく。
 明治から令和にまたがる150年間,日本にあった”

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「日本のいちばん長い日」への序章

「日本のいちばん長い日」への序章

昭和20年8月10日「聖断」序章の一節

 「日本のいちばん長い日」
 令和3年1月12日亡くなった半藤一利氏の,言わずもがなの代表作。
 昭和20(1945)年8月14日から翌15日にかけた1日を「いちばん長い日」とする同作。そのプロローグにて下記のごとく数行で描かれている,同月10日,ポツダム宣言受諾の第一報が敵国アメリカやイギリスに伝達されていく様が,本稿のテーマ。

ポツダム宣言

 「序

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「腹案」にはなかった真珠湾と「要領」にもあった東亜の独立

「腹案」にはなかった真珠湾と「要領」にもあった東亜の独立

【11月5日 第七回御前会議】議題は「帝国国策遂行要領」

 昭和16(1941)年11月5日(水)午前10時30分,宮中東一の間にて,留保つきながらイギリス,アメリカ及びオランダとの開戦を決定する御前会議が開かれた。
 その議題は,同月1日に大本営政府連絡会議が決定した「帝国国策遂行要領」。時の内閣総理大臣は東條英機氏。前月18日に首相に就任したばかりであるが,後の極東国際軍事裁判において,この

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新高山に登る前に日の出を山形で迎えた昭和16年12月8日未明の日本

新高山に登る前に日の出を山形で迎えた昭和16年12月8日未明の日本

【昭和16年12月12日付け閣議決定】陸軍山形・海軍新高山

 写真の「X日に関する隠語表」には”瀬島”の押印があるが,これは,昭和16(1941)年11月17日,陸軍参謀本部作戦課にあった瀬島龍三氏によって作成されたものであることを示している。
 X日とは開戦日でありその隠語は「ヒノデ(日の出)」とされた。ぎりぎりまで戦争を避けるためのアメリカとの交渉が行われたが,開戦が不可避となり,陸軍はその

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日本が先行した租界と治外法権の撤廃

日本が先行した租界と治外法権の撤廃

明治日本が獲得した租界と治外法権 本稿は,下掲の拙稿【明治日本が獲得した租界と治外法権】の続きなので,ますはこちらを。

撤廃へ端緒は汪兆銘政権の誕生

 戦後を待たず,日本・英米による中国での治外法権及び租界が撤廃されることになった契機の一つが,昭和15(1940)年3月30日,重慶にて蒋介石と袂を分かった汪兆銘による新国民政府(南京汪兆銘政府)の樹立であることは,否定することはできない。むしろ

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明治日本が獲得した租界と治外法権

明治日本が獲得した租界と治外法権

”租界”という響き9都市にあった日本租界

 「租界」という東洋的妖艶な響きに,当の日本人でさえも胸が騒つく。
 上海がその代表であるが,当の日本も,既に明治の御世に,自らは「居留地」と呼ぶ西洋式の「租界」を,清王朝9都市に開いていた。

租界<租借地<割譲地

 租界に類似した概念に割譲地(イギリスによる香港島及び九龍,日本による台湾など)と租借地(イギリスによる香港新界,日本による大連・旅順,

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