佐川明生@法律家

A.佐川法律事務所 代表弁護士. 福島県いわき市出身. アイティメディア(東証2148…

佐川明生@法律家

A.佐川法律事務所 代表弁護士. 福島県いわき市出身. アイティメディア(東証2148)取締役やダブルエー(東証7683)監査役など現任,ベトナムではSAGAWA CONSULTING FIRMを主宰, 日越の企業法務が専門. 詳細は http://asagawa.jp/ まで.

マガジン

  • 日越関係の濃淡

    朱印船貿易時代から現在に至るまでの淡く時により濃い日本とベトナムの関わり

  • 日中有考

    明治から昭和にかけての日本と清国,中華民国または中華人民共和国との関わりを,先入観なく客観的に。

  • 法的に診てみた近現代の日本

    作成中

  • 野口英世だけじゃない福島

    自分の身近を知ることこそが社会科学のはじまり

  • サイゴン裁判1946-1950

    戦後,フランスが日本のBC級戦犯を裁くために行った「サイゴン裁判」が行われていた時期の日越関係を中心にまとめています。

最近の記事

ランソンで烈士となった日本人

ベトナム北部,中華人民共和国との国境に近いランソン市(TP Lạng Sơn)の烈士墓地(Nghĩa trang Liệt sỹ Tp Lạng Sơn)に,一人の日本人の記念碑が建てられている。しかも別格扱いで。 記念碑には次のように刻まれている。 この墓地は,いわゆる越中戦争で犠牲になった烈士を弔う施設。 1979年(昭和54年)2月17日,中国共産党の人民解放軍が国境を越え,ベトナムに侵略してくる。中共はこの戦争を「懲罰戦争」と呼んでいるが,自身が支援していたカンボ

    • 日越こそ国交樹立50周年

      ベトナム社会主義共和国との国交昭和48年9月21日に成立した国交  日本とベトナム社会主義共和国(Cộng Hoà Xã Hội Chủ Nghĩa Việt Nam)との間で国交が樹立されたのは,昭和48(1973)年の9月21日とされている。  令和4(2022)年9月29日は中華人民共和国との間で国交が樹立されて50年となる日であるが,翌令和5(2023)年9月21日は,日本とベトナムの国交樹立,50周年となる日である。  しかしなが,昭和48(1973)年の9月21

      • 国民党・共産党 of China【中編:北伐と国共の離合集散】

        ロシアからの波紋【前編】について  日本との関わりのなかで,革命家が育ち,やがて清朝が倒され,アジアで初の共和制国家・中華民国が建国されるも,その権力は,清朝の亡霊のような袁世凱に掌握される経緯を書いた下掲の記事。  本稿は,その【後編】として,袁世凱の死後,日本が育んだ革命家によって中国国民党と中国共産党が結成され,この二党が4年のうちに離合集散する様と,やがて満洲を通じて日本との物理的な接点が生じていく過程を記したもの。  この【後編】は,一旦,アジアで初の共和制国家,

        • 国民党・共産党 of China 【前編:辛亥革命を育んだ明治日本】

          明治日本と清国の関係国清国交樹立  日本と”中国”が初めて正式な国交を結ぶのは,150年前の明治4年7月29日(1871年9月13日)。  当時の”中国”は,満洲の女真族が漢民族などを征服して成立している,辮髪に纏足の清王朝。  同日,明治新政府と清王朝との間で対等な日清修好条規が締結され,初めて正式な国交が樹立された。 日清戦争による関係の深化  しかし,明治27(1894)年8月1日,日清戦争が始まる。  明治28(1895)年4月17日,日清講和条約(下関条約)が

        ランソンで烈士となった日本人

        マガジン

        • 日中有考
          22本
        • 日越関係の濃淡
          31本
        • 法的に診てみた近現代の日本
          12本
        • 野口英世だけじゃない福島
          18本
        • サイゴン裁判1946-1950
          6本
        • ベトナム企業とのM&A・デューデリの要
          15本

        記事

          インド独立の英雄チャンドラ・ボース

          独立記念日8月15日  インドの独立記念日は8月15日。  ただし1945(昭和20)年ではなく1947(昭和22)年。 落命日8月18日  他方で,1945(昭和20)年8月18日は,インドの独立運動家で,本国ではガンジーと同等かそれ以上に評価されているスバス・チャンドラ・ボースが,日本の敗戦を知ってベトナム・サイゴンから台湾経由で日本に向かう途中に,台湾での飛行機事故で亡くなった日。 武闘派独立家の本領  ボースは,ガンジーの「非暴力主義」に限界を感じ,ガンジー

          インド独立の英雄チャンドラ・ボース

          天領小名浜にとってのホイアン・Hội An

          ベトナムに渡った福島県人「南洋学院」という外地校  戦時中の昭和17(1942)年から昭和20(1945)年にかけて,ベトナムのサイゴン(現在のホーチミン市)に,日本が設立した「南洋学院」という学校があった。  所管は,陸海軍ではなく,文部省と外務省の共管。「大東亜共栄圏」の題目のもと,ベトナムなど東南アジアにおいて,現地住民と意思疎通を図りつつ施政を担う日本人人材の育成を目的とした。実際,ベトナム語などを集中的に学ぶカリキュラムが組まれており,選考に合格した生徒は,非軍人

          天領小名浜にとってのホイアン・Hội An

          福沢諭吉「Phúc Trạch Dụ Cát」維新「Duy Tân」と訳した”Minh Trị(明治)”のベトナム

          「Huyết thơ diễn ca」が刷られた明治の日本日本官憲監視下にあったベトナム  「Huyết thơ diễn ca」  そうベトナム語で題された本稿タイトル写真の書籍は,明治42(1909)年2月20日,(当時の)東亰市神田区表神保町保町十番地所在の関根石版印刷所において550部が印刷され,翌21日に「発行者」へ引き渡される予定だったが,その前に日本の公安当局に押収されたもの。  「Huyết thơ diễn ca」とは日本語・漢語では「海外血書」と訳される

          福沢諭吉「Phúc Trạch Dụ Cát」維新「Duy Tân」と訳した”Minh Trị(明治)”のベトナム

          昭和2年 田中義一・蒋介石”首脳”会談

          革命いまだ成らず前後の時系列 1912(明治45)年1月1日 中華民国の成立 1912年2月12日 清王朝滅亡 1913(大正2)年10月6日 中華民国初の大総統選挙(袁世凱が大総統に) 1913年10月6日 日本ら「中華民国」を国家承認 1916年6月6日 袁世凱死去 1919年10月10日 中国国民党の誕生 1921年7月1日 中国共産党の誕生 1924年1月20日 (第一次)国共合作成立 1925年3月12日 孫文死去 1927(昭和2)年1月1日 

          昭和2年 田中義一・蒋介石”首脳”会談

          八重桜な主権回復

          風さゆる み冬は過ぎて  まちにまちし 八重桜咲く  春となりけり  昭和26(1951)年9月8日に日本国と48か国との間で署名された「日本国との平和条約(サンフランシスコ平和条約)」が発効したのが,昭和27(1952)年4月28日。ちょうど70年前の出来事。  これにより,日本と連合国(United Nations)との戦争状態は終了し,領土領海における主権が認められ,独立を取り戻した。冒頭の歌は,その日に宮内庁から発表された昭和天皇の御製五首のうちの一首。  喜ば

          八重桜な主権回復

          中華蘇維埃共和国の対日宣戦布告

          中華蘇維埃共和国という国家1931(昭和6)年 誕生  ソ連のコミンテルンの主導により,満洲事変直後の1931(昭和6)年の11月7日,江西省の瑞金市を首都として成立した中国共産党の”国家”が,中華蘇維埃共和国である。  確かに遥か東北部で満洲事変が継続中ではあったが,日中戦争の起因となった盧溝橋事件が起きるのは遥か後年の1937(昭和12)年7月7日。  コミンテルンが主導により,その”中国”支部たる中国共産党が中華蘇維埃共和国なる”国家”を樹立したのは,そんな時代である

          中華蘇維埃共和国の対日宣戦布告

          「外国会社」の登記義務と訴訟手続きの円滑化

          1 外国会社と外資系日本法人 外国会社とは,外国の法令に準拠して設立された会社をいいます(会社法第2条第2号)。  たとえ“外資”であっても,日本の会社法に基づいて設立された会社は,外国会社ではなく“外資系”日本法人です。例えば,カリフォルニア州のGoogle LLCは「外国会社」です。同社が日本の会社法に基づいて日本で設立した子会社「グーグル合同会社」は日本法人となります。 2 日本における代表者の設置と登記義務 会社法上,「外国会社」であっても,日本において継続して取引

          「外国会社」の登記義務と訴訟手続きの円滑化

          昭和9年当時のソ連とウクライナに関する陸軍の認識

          国防の本義と其強化の提唱「たたかひは創造の父,文化の母である。」   ここに,昭和9(1934)年10月10日,陸軍省新聞班が発刊した「国防の本義と其強化の提唱」という約50ページの小冊子がある。一般には「陸軍パンフレット」として知られている。  冒頭,「国防の本義を明らかにしてその強化を提唱し,もって非常時局に対する覚悟を促さんがため配布するものである。」と発刊目的を示した上で,有名な「たたかひは創造の父,文化の母である。」という書き出しで始まる。 陸軍省新聞班長の根本

          昭和9年当時のソ連とウクライナに関する陸軍の認識

          御料地に台湾の”大使館”

          台北駐日経済文化代表処@白金台五丁目事実上の台湾大使館  令和4(2022)年9月29日をもって,日本と中華民国(台湾)との国交が断たれて50年となる。  国交がない中華民国(台湾)の事実上の駐日大使館として位置づけられているのが台北駐日経済文化代表処である。  所在地は東京都港区白金台五丁目20番2号。  東京メトロ白金台駅から徒歩5分,いわゆるプラチナ通りから1本入った閑静な場所。文科省所管の国立科学博物館附属自然教育園に隣接する羨望の一等地。  この台北駐日経済文化代

          御料地に台湾の”大使館”

          ”中国”大使館二つの血統「桜田町」系

          満洲国大使館が始祖満洲国を始祖とする「桜田町」の血統  ”中国”の大使館には,「飯倉町」系と「桜田町」系の二つの血統があって,このうち「飯倉町」系については,清国から中華民国と”主”を変えただけでなく,中華民国内でも袁世凱→蒋介石→汪兆銘と”顔”を変えながらも続いたが,空襲と敗戦により途絶えた旨は,下掲の拙稿にて書いた。  本稿はその後編として「桜田町」系について書くもの。  血統が途絶えた「飯倉町」系とは対照的に,「桜田町」系は現在に続いている。  その「桜田町」系の始

          ”中国”大使館二つの血統「桜田町」系

          ”中国”大使館二つの血統 「飯倉町」系

          日中150年間にあった二つの血統日”中”国交樹立150周年  令和4(2022)年は,中華人民共和国との国交が”正常”化,他方で中華民国(台湾)との国交が断絶して,50年となる年。  歴史をもう少し日本を中心にみてみると,前年の令和3(2021)年は,日本と”中国”との間にそもそもの国交が樹立され,150年を経た記念すべき年だったことに気づく。  明治から令和にまたがる150年間,日本にあった”中国”の大使館(公使館)が本稿のテーマ。 「飯倉町」系と「桜田町」系  日本

          ”中国”大使館二つの血統 「飯倉町」系

          「日本のいちばん長い日」への序章

          昭和20年8月10日「聖断」序章の一節  「日本のいちばん長い日」  令和3年1月12日亡くなった半藤一利氏の,言わずもがなの代表作。  昭和20(1945)年8月14日から翌15日にかけた1日を「いちばん長い日」とする同作。そのプロローグにて下記のごとく数行で描かれている,同月10日,ポツダム宣言受諾の第一報が敵国アメリカやイギリスに伝達されていく様が,本稿のテーマ。 ポツダム宣言  「序章」に至るまでの簡単な経緯。  昭和20(1945)年7月26日,アメリカ,イギ

          「日本のいちばん長い日」への序章