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国民党・共産党 of China【中編:北伐と国共の離合集散】

ロシアからの波紋

【前編】について

 日本との関わりのなかで,革命家が育ち,やがて清朝が倒され,アジアで初の共和制国家・中華民国が建国されるも,その権力は,清朝の亡霊のような袁世凱に掌握される経緯を書いた下掲の記事。
 本稿は,その【後編】として,袁世凱の死後,日本が育んだ革命家によって中国国民党と中国共産党が結成され,この二党が4年のうちに離合集散する様と,やがて満洲を通じて日本との物理的な接点が生じていく過程を記したもの。
 この【後編】は,一旦,アジアで初の共和制国家,中華民国が誕生して間もない1913(大正2)年10月6日に遡る。

第一次世界大戦の余波

 孫文が建てた中華民国の初代大総統に,あの袁世凱が選挙で選ばれたのは,1913(大正2)年10月6日のこと。
 約1年後の1914(大正3)年7月28日,欧州で第一次世界大戦が始まる。日本は,日英同盟に基づき,同年8月23日,ドイツに対し宣戦布告,ドイツが租借していた青島を含む膠州湾一帯を攻め,これを占領した。
 大戦中の出来事のうち本稿に関するものは以下のもの。
 その主たるものは,中華民国と長い国境線で接する隣国ロシアにおいて,現出した共産主義革命。この波が,当然,隣の中国民国に大きくなって及ぶ。

  • 1915年1月18日 対華二十一箇条の要求

  • 1917年3月8日  ロシア二月革命

  • 1917年11月7日 ロシア十月革命

  • 1919年3月2日  コミンテルン(国際共産主義)結成

  • 1919年5月4日  五・四運動@北京

  • 1919年6月28日 パリ講和会議(ベルサイユ条約調印)

隣国に膿み出た”コミンテルン”

 ロシア革命を経て,1919(大正8)年3月2日,レーニンの提唱により,共産主義革命を国際的に拡散することを指導する組織として「共産主義インターナショナル(Communist International,略してComintern /コミンテルン)」がモスクワで結成される。

五・四運動

 コミンテルン誕生の僅か2ヶ月後の1919(大正8)年5月4日,北京を中心に,いわゆる五・四運動が起きる。
 五・四運動について,日本の教科書では「対華二十一箇条の要求に起因する抗日運動」などと教えられることが多い。
 しかし,対華二十一箇条の要求から五・四運動までは4年以上の時間的隔たりがある。そもそも,五・四運動の主導者の多くは,日本に留学した経験を持つ者。しかも,その者たちの殆どが,2年後の「中国共産党」結党時の主力メンバーに名を連ねている。
 要するに,”抗日”五・四運動の主導者の多くは,実は日本で共産主義の洗礼を受けた留学生が占めていた。ちなみに,後年のベトナムでもそうであるが,とかくアジアにおける共産主義は,民族主義を隠れ蓑にしがちである。

日本で共産主義の洗礼を受けた主導者たち

 例えば,五・四運動主導者の一人陳独秀は,明治34(1901)年に,陸軍士官学校の予備学校に相当する成城学校に留学している。

陳独秀

 五・四運動の理論的支柱とされた李大釗は,大正2(1913)年に早稲田大学政治学科に入学している。

李大釗

 彼ら日本留学組がロシアから日本に伝染しつつあった「共産主義」に共鳴,これを新生なった中華民国に持ち帰り,北京の学生らを煽動し,五・四運動を惹起した…と言えなくもない。
 さらに,五・四運動に一定の成果をみた陳独秀や李大剣らは,主要メンバーとして,2年後の1921(大正10)年7月某日,今に続く「中国共産党」を誕生させるのである。その初代総書記に就いたのは,陳独秀である。

中国共産党の誕生

コミンテルンの主導により結党

 2021(令和3)年7月1日,コロナ禍の北京で「中国共産党創立100周年祝賀大会」が開催されたことは記憶に新しい。
 中国共産党は,1921(大正10)年7月1日(正確な日付は定かではないが中国共産党は「1日」としている。),上海において結成された。当然,ソ連コミンテルンの指導及び資金援助により誕生したもので,その”支部”という位置付けであった。
 ちなみに,やはりソ連コミンテルンの指導で「日本共産党」が創立されたのは,翌年7月15日。日本から中華民国に伝染した共産主義。”弟”弟子に先越された感は否めない。

”日本製”の中国共産党

 中国共産党,その結党時メンバーは13人。
 その多数かつ主要メンバーは,日本留学経験者であり,留学時の経験がその源泉となっている。
 初代総書記に選出された陳独秀や,理論的支柱とされた李大釗だけでなく,中国共産党第1回党大会開催場所として,上海の自宅を提供した李漢俊は,1902(明治35)年から大正71918(大正7)年までの長期にわたって日本に留学,東京帝国大学を卒業している人物である。

李漢俊

 そもそも「共産」や「党」の漢語も日本製。彼らは,日本語で書かれた「資本論」など共産主義の洗礼を受けた。結党時当時の中国共産党は,ある意味,日本留学経験者によるインテリ集団。
 毛沢東は,結党時13人のメンバーの一人ではあるようだが,日本への留学経験はなく,結党時の主要メンバーではなかった。経歴で劣った彼が頭角を表すのは,後の内”ゲバ”などによって結党時の主要メンバーが姿を消した後のこと。

中国国民党の誕生

「国民」国家への幻想

 他方,孫文は,共産主義に対する警戒心が薄く,五・四運動に賛同した学生などに「国民」たりうる可能性を夢見てしまった。
 孫文は,「人民」の中国共産党よりも1年早く,1919(大正8)年10月10日(双十節),上海において,エリートに限らない一般群衆にまで裾野を広げた「国民」による中国国民党を結成した。
 中国国民党は,1914(大正3)年7月8日,東京築地の精養軒で孫文が結党した「中華革命党」を改組したもの。この中華革命党→中国国民党こそが,日中戦争・中共内戦を経て現在の台湾に至る中国国民党(国民党)である。

中国国民党の”名ばかり”政府

 中国国民党は,南部沿岸の広東省が本拠。
 この創成期,中国国民党が孫文をトップに成立させた政権(政府)は,次のもの。なお,よく知られている「国民政府」はこの後に汪兆銘や蒋介石が樹立したものであり,この時代のものではない。そして,この時期,中国国民党が樹立した政府とは言っても,北京を中心した北の軍閥に押され,南部地方の一勢力・政権に過ぎなかった。
 なお,後述する1924(大正13)年1月20日に成立した第一次国共合作時の政府は,下記のうち「広東大元帥府」である。

  • 中華民国正式政府(1921年4月2日〜1922年6月16日)

  • 広東大元帥府(1923年2月21日〜1925年3月12日)

第一次北伐

”中国”の現状

 現代において中国国民党や中国共産党だけが話題に出るのは,偶々この二勢力が今に残ったからに過ぎない。
 中国国民党も中国共産党も上海で結成されている。”中国”の南部であるが,両党ともその辺りの一部を支配していたに過ぎない。南部のその他を支配していたのは,”中国”に特有の勢力たる「軍閥」である。他方,北京を中心とした”中国”の北部では,当たり前のように,未だ清王朝や袁世凱の流れを汲む「軍閥」が諸派に分かれ割拠,支配していた。
 このように,清国が滅亡し,共和制を自称する中華民国が成立し,中国国民党や中国共産党などが誕生したが,それをもって”中国”が統一され,唯一の政府により全国が統治されるという近代国家の成立とは,ほど遠い状況であった。この状況は,勢力の多少に入れ替わりを経て,1949(昭和24)年10月1日,中国共産党による「中華人民共和国」の成立まで続くことになる。
 日本との間で支那事変あるいは日中戦争が起きた”中国”は,このような混乱状態にあったことは,実は重要な事実。

敵を「北」に定める

 中国国民党による北京政府あるいは北洋軍閥の打倒を目指す軍事行動を「北伐」という。
 当時,誰しもが”中国”の統一を目指した。
 ”中国”の統一を目指す中国国民党の孫文は,近くにいた中国共産党ではなく,北部にある「軍閥」を敵と定め,広東から北上してこれを打倒,統一”中国”を目指していた。

宣言と失敗

 1922(大正11)年2月3日,孫文は,広西省桂林において「北伐」を宣言する。
 湖南・江西に兵をすすめたが,同年6月16日,吉安を陥したところで陳炯明のクーデタが起こり失敗に終わった。

陳炯明

軍事顧問 佐々木到一

 ところで,1922(大正11)年8月,陸軍少佐の佐々木到一が広東駐在武官に就任する。
 ちなみに明治末から大正末までの間,日本軍は,上海,済南,南京,福州,広東,漢口に駐在武官を置いた。広東は中国国民党の本拠地。佐々木到一は,必然,孫文,汪兆銘及び蒋介石など中国国民党の幹部と懇意になり,当時の陸軍では評価が低かった孫文に傾倒する。
 1923(大正12)年2月,陳炯明を東江に退けた孫文に請われ,佐々木到一は彼の軍事顧問(日本陸軍で正式には「清国応聘将校」と呼ばれた)となった。翌1924(大正13)年8月には帰朝することになるが,その後も孫文や蒋介石との関係は続いた。
 この間,すなわち佐々木が広東にあって孫文の軍事顧問を務めていた当時,大袈裟に言えば,今日の自由民主主義世界に多大な影響(迷惑)を及ぼすことになる重大事が起きるのである。

佐々木到一

国共合作(第一次)

国民党と共産党との北伐同盟

 「北伐」を優先した孫文の中国国民党は,1924(大正13)年1月20日,中国国民党第一回全国代表大会(一全大会)において,あろうことか中国共産党と同盟してしまうのである。
 これが「第一次国共合作」と呼ばれるもの。
 法的にいえば,中国国民党を存続”党”,中国共産党を消滅”党”とする合併と言えるもの。中国国民党が,中国共産党をそのまま丸抱えした。
 そのため,陳独秀や毛沢東らは,中国共産党員の身分を保持したまま,公然と中国国民党に入党することが認められた。例えば毛沢東は中国国民党の中央宣伝部長に就くなどした。
 「共産党」というものは,古今東西を問わず,内外敵味方など相手を問わずの浸透工作が常套手段。四半世紀後の中国国民党の中国共産党への敗北と台湾への逃避は,この1924(大正13)年1月20日の第一次国共合作に始まり,それで決まっていたとも言えなくもない。

黄埔軍官学校の開校

 第一次国共合作後の中国国民党・広東大元帥府は,1924(大正13)年6月16日,陸軍士官を養成することを目的とした黄埔軍官学校を開校する。
 校長には,日本陸軍にも所属していた蒋介石が就いた。
 黄埔軍官学校の政治部主任代理(後に主任)には,中国共産党員の周恩来が就いた。これが国共合作の”効果”と言えるもの。中国共産党員も,公然と中国国民党の資金で軍事教育を受けることができた。

周恩来と鄧小平

 周恩来も「日本組」である。ただ成績は芳しくなかったようだ。
 19歳の時,1917(大正6)年10月に日本へ渡ったが,入学試験にことごく失敗し,失意のまま帰国している。1920(大正9)年にはパリへ”留学”しているが,実態は第一次世界大戦後の労働力不足を補うための実質的な低賃金労働者「勤工倹学」としてのもの。ここで共産主義思想に染まり,1922(大正11)年にパリで中国共産党に入党。
 後の「改革開放」の鄧小平も,同時期「勤工倹学」でパリにおり,同じく共産主義に洗脳され,両人の関係はここで築かれた。
 周恩来は,1924(大正13)年,ソ連のモスクワで”訓練”を受けた後に帰国。その経歴を評価され,帰国早々,黄埔軍官学校の政治部主任代理(後に主任)の要職に就いたのである。

第二次北伐

 国共合作を実現した孫文は,1924(大正13)年9月5日,譚延闓を北伐軍総司令に任命,同18日に「北伐宣言」を発した。
 いわゆる第二次北伐。
 北京まで攻め上がるも,第二次北伐は,意外な理由で頓挫する。
 それは,孫文の死である。

孫文の死

後継者は汪兆銘

 1925(大正14)年3月12日,孫文が亡くなる。
 「革命未だ成らず・・・」との有名な遺言を書き記したのは,孫文の臨終に立会った一人,汪兆銘である。
 この逸話からも分かるように,中国国民党において孫文の後継者となったのは,蒋介石ではなく汪兆銘であった。蒋介石は,黄埔軍官学校の校長にして国民革命軍第一司令軍の司令官ではあったが,あくまで軍人。中国国民党・広東大元帥府における地位は高くはなく,政治的権力はなかったに等しい。

国民革命軍の成立

 孫文の死後,1925(大正14)年8月,黄埔軍官学校の卒業生を中心に,中国国民党の党軍として新たに「国民革命軍」が結成される。
 国民革命軍には,5つの軍団があったが,蒋介石はこのうち第一司令軍の司令官に就いた。
 なお,国共合作時代に生まれた国民革命軍からは,後の中国共産党軍(紅軍さらに後の人民解放軍)の元帥4人,大将5人が出ている。結局,国民革命軍の育成は,中国共産党による浸透工作によって,その党軍(紅軍/人民解放軍)の幹部を養成する温床となった。

広州国民政府(最初の国民政府)

 孫文が創作し,汪兆銘が引き継いだ政党としての中国国民党が,孫文の死とともに広東大元帥府を閉じ,「国民政府」を初めて立ち上げるのは,1925(大正14)年7月1日である。
 その主席は汪兆銘。蒋介石ではない。
 広東省広州市に本拠を置いため,広州国民政府とも呼ばれる。
 しかし,前年の国共合作の結果,中国共産党員も広州国民政府の要職に就いた。
 この時代,主席の汪兆銘にも,孫文と同様,共産主義に対する警戒心がなかった。

蒋介石 共産党排除(三・二〇事件)

中山艦事件(三・二〇事件)

 文人の孫文やその後継者の汪兆銘と違って,軍人の蒋介石は現実主義者であり,中国国民党内に浸透し,影響力を強める共産主義に,私欲を越えて脅威を抱いた。同時に彼は「力」の信望者であった。
 1926(大正15)年3月20日,国民革命軍を掌握していた蒋介石は,いわゆる中山艦事件(三・二〇事件)を起こし,中国国民党内にある中国共産党員の弾圧・排除を図る。
 当時の蒋介石は,黄埔軍官学校の校長のほか,中国国民党の中央執行委員の地位にあったに過ぎない。これに対し,汪兆銘は,政治委員会主席,軍事委員会主席,国民革命軍の総党代表を務めていたが,蒋介石は汪兆銘に相談せず独断で実行した。
 これに臍を曲げた汪兆銘は,2ヶ月後の1926(大正15)年5月,全ての職を辞し,パリへ外遊に出てしまう。蒋介石の越権行為に対する抗議らしいが,このような敵前逃亡に,終に汪兆銘に人気(人望)が生まれなかった原因があるのかもしれない。
 この中山艦事件と汪兆銘の逃避により,蒋介石の中国国民党内における地位や声望が急速に高まることになる。
 中国共産党は,結局,蒋介石の「北伐」へ同意・妥協することで,中国国民党内に生き永らえた。

第三次北伐

蒋介石による北伐宣言

 1926(大正15)年7月1日,中国国民党の軍である国民革命軍を率いる蒋介石は,広東にて北伐(第三次北伐)を宣言し,孫文が成し遂げられなかった”中国”の統一を目指す。

国民政府 武漢へ遷都

 「北伐」を掲げた蒋介石の国民革命軍は,数ヶ月で揚子江沿岸にまで北上,それに伴い国民政府(広州国民政府)の本拠地を,広州から移転させる必要が生じた。
 中山艦事件(三・二〇事件)による中国共産党排除が中途半端に終わったため,この当時,蒋介石と,中国国民党内に残った中国共産党員及びそれにシンパする中国国民党左派との間の対立は,むしろ先鋭化していた。
 蒋介石は「南昌」への遷都を主張したが,蒋介石はあくまで軍人。広州国民政府内においての政治的権力は弱い。主席だった汪兆銘は不在ながら,中国国民党左派と中国共産党が牛耳る広州国民政府は,昭和2(1927)年2月,国民革命軍が北伐により占領した「武漢」への遷都を強行する。
 これにより成立したのが,武漢国民政府である。
 国民政府が武漢に遷都した1ヶ月後,原因において不思議な事件が「南京」で起きる。

南京事件

昭和2(1927)年の事件

 「南京事件」とは言っても,支那事変渦中における1937(昭和12)年12月のそれではない。ここでの「南京事件」は,その10年前の1927(昭和2)年3月24日,前月に武漢国民政府が成立後,間もなくして南京で発生したもの。
 ”国民革命軍”の一部が,日本人を含む外国人に対する虐殺,暴行,陵辱及び略奪の限りを尽くし,少なくとも7名の犠牲者を出したという事件であり,当然,大きな外交問題となった。
 (第三次)北伐を進めていた蒋介石率いる国民革命軍(「南軍」ともいう)は,北上,1927(昭和2)年3月21日,上海を占領する。これと前後して南京攻略にかかり,同月23日には南京城外に到達する。当時の南京には,「軍閥」そのうち奉天派軍閥の直魯連合軍が支配していた。
 1926(昭和元)年当時の南京には,合計154人(男81人・女73人)の日本人が在留し,この在留邦人保護を目的の一つとする日本領事館があった。

南京領事館の惨劇

 この南京事件については,わずか5ヶ月の昭和2(1927)年8月25日,「中支被難連合会」が編集し発行した「南京漢口事件真相=揚子江流域邦人遭難実記=」が詳しく,これを超えるものはない。

「南京漢口事件真相=揚子江流域邦人遭難実記=」のなかの「領事館の惨劇 南軍暴兵の闖入」は,次の書き出しで始まる。

 我帝国の領事を始め,男女老幼百十余名の同胞が,悲憤の涙を呑んで鬼畜の暴れ狂うにまかせ,この世からの生き地獄に一日一夜を苛まれた今次の南京事件は,往年の尼港事件と共に,国力進展の痛ましき犠牲として永久に記念せらるべき一大悲惨事である。

 3月21日に上海を占領した国民革命軍は之と前後して南京の攻略に掛かり,23日には既に城外に押し寄せた。之より先き革命軍が(長)江の南北と上下流より南京を目当てに殺到し来るや,8万に余る直魯連合軍は戦わずして退却を開始し,21日夕には,その一部は既に南門外34里の地点に退き,23日には連合軍内部に連合軍内部に裏切者を生じたため,城内は一層の混乱に陥り,総司令以下支那官憲の全部は逃亡し,城の内外にあった軍隊も,午後から夜にかけて下関(江岸)浦口方面に潰走し,鉄砲の轟き兵馬の波は満街を埋め,難を避けて逃げまどう市民の叫喚も混じりて,悽愴の気は全域を包んだ。
 南京在留の邦人側においては,連合軍敗北の際における掠奪暴行を予想し,22日場内にある邦人婦女子だけを領事館に避難せしめたが,混乱いよいよ甚しきに及び,市中に散在していた人々も続々避難し来たり,23日午後8時頃までには,下関方面の在住者と市内の2,3名を除くほか全部の引揚を了し,領事館舎15名,本館38名,警察官舎20名,書記生室19名,署長官舎10名という振当てでそれぞれ収容した。
 かくて混乱と不安の一夜は明けた。夜もすがらの銃撃と人馬のどよめきに戦き脅えていた邦人一同は,24日の黎明を迎えて救われたような思いに充された。不思議にも連合軍の退却は思いの外に平穏に過ぎた。さなきだに春の曙は平和そのままの姿である。夢の如く全域をこめた春霧の裡に,誰か悪魔の囁き合えるを想うものがあろう。無心の子供は嬉々として床を出た。婦女子たちは,かいがいしく朝餉の支度に取り掛かった。やがて6時過ぎと思しき頃,遥か遠くに嚠喨たる喇叭(ラッパ)の声が聞こえ,間もなく青天白日旗を先頭にした一隊が,領事館前の皷樓(地名)近くを前進するのが見えた。言うまでもなく革命軍の先鋒が入城したのである。

「南京漢口事件真相=揚子江流域邦人遭難実記=」より

「共産党の計画的暴挙」が原因という説

 結果として,国民革命軍は,1927(昭和2)年3月21日に上海,同月24日に南京に入城,軍閥(奉天派軍閥の直魯連合軍)を排除することで,揚子江(長江)中流以南を中国国民党・国民革命軍の支配下に置くことに成功,北伐への大きな前進となった。   
 この過程で起きた南京事件の原因について,「南京漢口事件真相」には「共産党の計画的暴挙」とある(36頁以下)。少なくとも当時の日本はそう考えていた。
 蒋介石も,そうと判断及び発表し,中国国民党及び中国革命軍から共産主義者の完全な排除を,日本を含む諸外国に誓う。

 終に臨んで特記すべきは,当日の革命軍士卒の掠奪暴行が,決して偶然的に又は発作的に行われたものでなく,事前に十分に計画された準備されたことである。これには推定すべき多くの事実がある。
 前にもあるように,事変当日,日本領事館の入口付近には朝早くから迂散臭い平服支那人が,3,4人うろうろしていた。そして内と外かけて何かの合図でもしているようであった。あるいはこれは目撃者の思なしであったかも知れぬが,しかし館内のボーイ等の中に之らと呼応する者がないとは誰が言えよう。一城を陥れるにも一店舗を荒らすにも,等しく慣用せらるる革命軍一派の奸細と内応,それは確かに当時に於いても行われたに相違ない。
 殊に当日の暴兵は20元の懸賞付きで募集された決死隊ようの者で,その上に掠奪破壊すべき家々はつとに共産党南京支部の手によって調べ上げられていたと称せられている。南京城内各所に散在せる日本人の家屋が,殆ど一軒残らず,しかも極めて短時間の間に襲撃されたのを見ても,暴兵の背後に共産党一味があったことは首肯し得らるる。
 事実,当日暴行の現場には幾多の平服支那人が混じっていた。領事館の正門から一番に雪崩れ込んだのは,勿論革命軍の暴挙であったが,中には平常服に毛皮の帽子を被った男が呼子笛を吹き鳴らしつつ指揮してるのもあった。殊に掠奪品が後から後から持ち出されると,門前には自動車,馬車,ロバなどが待ち受けていて山積みしては何処へ運んで行く。その指揮者の中には27,8くらいの新髪婦人もまじっていた。
 更に欧米人に対して行われた暴虐も全く同様の手段であった。英米領事館を始め,欧米人の住宅,店舗が遺憾なきまでに荒らされたのは固より,各学校にある欧米人までが一々物色して危害を加えられた。中にも金陵大学副学長アメリカ人イー・ゼー・ウイリアム博士と,震且大学のフランス人教師2名は暴兵のために惨殺され,その中の一人は頭髪から髭,陰毛までも焼かれた上,大腿部を切断され街頭に遺棄されていた。この他に重傷を受け又は衣服を剥がされたものは数うるにいとまない程である。殊に婦人にして凌辱を受けたものもすくなからずと言うが,これらの事実に徴しても,いかに計画的に行われたかが分かると思う。
 しかも事件直後に於いて国民革命軍の首脳たる蒋介石は何と言うたか。曰く「南軍は目下長江を渡り北軍を進撃中で既に捕虜二万を得た。直魯軍は敗退後,軍規,大にみだれ,直魯軍宣伝隊長何海鳴らは南軍の正服を着して南京掠奪をなし,この度の外交問題を惹起せしめた云々」と。これは支那人の新聞記者に語った者だとあるから多少割引を要するかも知れぬが,更に漢口の国民政府外交部は3月31日宣告書を発表し,左の如く言明している。
 南京事件の調査を命ぜられた支那委員の報告によると,3月24日の南京の日英米領事館を撃い掠奪をなした軍隊は国民軍正規軍ではなく,反革命派が山東軍敗退の混乱に乗じ,無頼の徒をそそのかして暴行を働かしたもので,彼らは敗残の山東兵から軍服を奪い之を着けていた。これらの暴徒は,国民軍第六軍長程潜軍の24日南京入場と共に,大部分処罰された。外人の死者4名ないし6名,負傷者6名と伝えられるが,支那側が英米軍艦の砲撃により受けた損害は,外人死傷者1名に対し100名以上の割合に上ると見られている云々。
 国民革命軍とその政府を謳歌した人々は,これを見て如何の感を抱くか。身親しく暴兵の惨虐に直面した人々は,これを見て如何の思いをなすか。吾輩はただ天を仰いて長歎するのみ。 

「南京漢口事件真相=揚子江流域邦人遭難実記=」より

司令官の程潜について

 ところで,南京進攻における国民革命軍の司令官は,程潜という人物。
 程潜は,1904(明治37)年,東京振武学校に留学している。翌年8月20日に孫文らが成立させた中国革命同盟会(中国同盟会)に加入している。
 1906(明治39)年,東京振武学校を卒業し,姫路の歩兵連隊で1年実習を積む。翌年,陸軍士官学校第6期歩兵科に入学する。
 1909(明治42)年2月,陸軍士官学校を卒業し,帰国している。
 1913(大正2)年7月,袁世凱打倒を目指した「第二革命」に失敗し,孫文らと共に日本に亡命したが,その日本亡命中,早稲田大学で政治経済を学んだ。
 要するに日本が育てた中国国民党の軍司令官である。日本での経歴は,蒋介石を上回り,期では先輩でもある。もっとも,戦後の1949(昭和24)年8月4日,蒋介石と共に台湾には渡らず,中国共産党軍に寝返っている人物でもある。

程潜

反共へ  第一次国共合作の終焉

四・一二事件(上海クーデター)

 南京事件の直後の1927(昭和2)年4月12日,蒋介石は,中国国民党内の左派と中国共産党の権力を奪うべく,上海でクーデタ(四・一二事件)を起こし,中国共産党員を一斉に逮捕した。
 「上海クーデター」や「四・一二事件」は,左右からは価値中立的な呼称であるが,中国国民党は「清党」と呼び,中国共産党は「四・一二反革命政変」と呼ぶこの事件により,約3年も続いた第一次国共合作は瓦解することになる。
 なお,この事件の背後には,中国共産党員を首謀者とされる南京事件で被害を被った日本や欧米列強の「反共」があったとも言われている。

南京国民政府の樹立

 上海クーデターから6日後の1927(昭和2)年4月18日,蒋介石は,中国共産党と中国国民党左派が成立を強行した武漢国民政府に対抗すべく,「南京事件」後まもない南京に,反共色の強い南京国民政府を樹立し,共産主義者を排除し,ソ連の顧問も追放する。

武漢国民政府も共産党員を排除

 一方,武漢国民政府でも,トップの汪兆銘が1927(昭和2)年4月1日に帰国していた。孫文と同様に共産主義に寛容だった汪兆銘も,干渉を強めるコミンテルンから中国共産党への警戒心を強め,ついに同年7月26日,武漢国民政府の全機関からの中国共産党員排除を宣言する。
 こうして第一次国共合作は完全に終了することになる。

南京国民政府へ武漢国民政府が統合

 1927(昭和2)年9月,武漢国民政府は,南京国民政府に合流し,ここに国民政府も南京にて統一される。
 こうして(南京)国民政府の主導権は,政治的な汪兆銘ではなく,国民革命軍を掌握する蒋介石へと移る。
 なお,この統一なった南京国民政府が,後年の昭和12(1937)年12月13日,日本軍により首都南京が陥落・占領されるまで続いた。

毛沢東の紅軍の誕生

伝説の「南昌蜂起」

 中国国民党から排除された中国共産党は,早くも1927(昭和2)年8月1日,国民革命軍が手薄だった江西省南昌で武装蜂起する。中国共産党が独自の武装闘争を行ったのは,この南昌蜂起が初めて。
 その目的は,中国国民党の国民革命軍の内部で反乱を起こし,第二方面軍軍長の張発奎を説得及び懐柔の上,第ニ方面軍を乗っ取り,これをもって南部の中心地である広州を攻略,新たな革命政府を樹立するというもの。
 これが南昌蜂起と後年に呼ばれるものだが,失敗に終わった。期待した農民ら”人民”の参加はなく,単なる国民革命軍内の反乱として終わった。
 むしろ,この失敗を契機に中国共産党は,都市部のエリートから,地方の農民に焦点を転じることになる。その軸となったのは非エリートの毛沢東。 

共産党軍(現在の人民解放軍)の誕生

 当時,中国共産党は中国国民党及び中国革命軍の中にあり,独自の軍隊をもっていなかった。しかし,中国共産党員には黄埔軍官学校で士官教育を受けた者が多く,国共合作瓦解後,これらを中心に”軍”が組織された。
 そのため,南昌にて”軍”が蜂起した日すなわち1927(昭和2)年8月1日が,中国共産党軍(紅軍,現在の人民解放軍)建軍の日とされる。
 この”軍”は,間もなくして「中国工農革命軍」として組織され,翌1928(昭和3)年4月には「中国工農紅軍」と名称を変えることになる。いわゆる紅軍である。
 中国共産党軍・紅軍(現在の人民解放軍)は,2027年8月1日に建軍100周年を迎えることになるが,これが台湾に限らず日本を含む民主主義社会への大きな不安要因となっている。

革命の地 井崗山

 井崗山とは,江西省と湖南省との境の山地にある山。「山賊の巣窟」と呼ぶに相応しい場所。
 南昌蜂起に失敗した中国共産党軍(紅軍)は,1927(昭和2)年10月,井崗山に逃れてここに籠り,自給自足のソビエト区(後の解放区)とすることに成功する。その中心になったのは,やはり毛沢東。
 遥か北の満洲で「満洲事変」が進行中の1931(昭和6)年11月7日,コミンテルンの主導のもと,江西省瑞金を首都,毛沢東を主席として,「中華蘇維埃(ソビエト)共和国」が樹立されるまでの間,ここ井崗山が共産主義革命の本拠地となった。

第四革命 蒋介石による”中国”の統一

田中義一・蒋介石首脳会談 

 ところで,北伐(第三次)を再開した蒋介石であったが,1927(昭和2)年10月,急遽,来日している。同年11月5日,蒋介石は,当時の田中義一首相とその青山私邸で会談している。
 その会談録が残っているが,その内容などについては下掲のNOTEを。

 中国共産党の陰謀と言われる南京事件が3月,中国共産党による中国国民党”乗っ取り”を図った南昌蜂起が8月,中国共産党がそれまでの都市部から農村部(井崗山)へと方針と拠点を移したのが10月,そして11月に中国共産党に対する方策が日中”首脳”会談で話し合われた1927(昭和2)年は,”中国”に限らず,日本にとってもターニングポイントと言える年かもしれない。

(第三次)北伐の再開

 日本から帰国した蒋介石は,1928(昭和3)年4月,国民革命軍を4つの集団軍に改編し,(第三次)北伐を再開する。
 もし田中義一の注告に従い,北の軍閥ではなく近くの中国共産党を打倒していれば,”中国”の歴史や蒋介石自身の将来だけでなく,今日の世界情勢そのものが全く違うものになっていたはずである。

満洲某重大事件(張作霖暗殺事件)

 この当時,袁世凱の北洋軍閥の分派にして,満洲を拠点としていた奉天軍閥(奉天派)。
 その首領は,張作霖

張作霖

 張作霖は,北京に攻め上がってきた蒋介石と会談していたが,1928(昭和3)年6月4日,満洲へ帰途,奉天から瀋陽へ向かうところ,乗った列車が爆破され暗殺されることになる。
 この爆破事件を実行したのは,日本の関東軍。関東軍高級参謀の河本大作が立案したと言われている。

北伐の完成

 このタイミングを逃さず,蒋介石が率いる中国国民党の国民革命軍は,その5日後の1928(昭和3)年6月9日,軍閥の総本山の北京を陥落させ,(一応の)”中国”統一を完成させることになる。
 満洲の覇者といえる張作霖の死後,タイミングがあまりにも絶妙であり,田中義一首相と蒋介石との会談で何らかの密約があったのでは?という説が当然に出ることになる。

蒋介石  南京国民政府の主席に

 (一応の)"中国”統一を受け,蒋介石は,1928(昭和3)年10月10日(双十節),南京国民政府の主席に就任する。こうして蒋介石は,中国国民党とその政府のトップに昇り詰めた。
 確かに,蒋介石を主席とする南京国民政府は,”中国”唯一の中央政府と言えるが,未だ軍閥は各地で蠢き,中国共産党は,山間・農村部で勢力を拡大していた。
 他方,満洲については,張作霖亡き後も息子の張学良が率いる奉天軍閥が健在だった。むしろ,漢民族である蒋介石からすると,満州については,清国を建て300年近く漢民族を支配した”夷狄”女真族の地であり,関心も薄かった。

日本との摩擦の始まり

満洲事変と満洲国建国

 この満洲の安定化を何より欲し,これを実行したのは,中華民国(蒋介石)ではなく,日本だった。
 1931(昭和6)年9月18日,満州奉天近郊で発生した柳条湖事件をきっかけに,日本の関東軍が満州全土を占領する(満州事変)。
 1932(昭和7)年3月1日,満州国の建国が宣言され,ラストエンペラーこと愛新覚羅溥儀が元首(執政のちに皇帝)に就いた。
 なぜ,当時の日本が満洲の安定化を欲し,自ら行動した理由は,明治以降,日本人がその血を流して獲得した権益の保護にあったが,その詳細については下掲のNOTEをご参照。

日中和解 塘沽停戦協定

 1933(昭和8)年5月31日,日本の関東軍と蒋介石の中国国民党軍との間で,塘沽において満洲事変の停戦に関する協定が締結され,1931年(昭和6)9月18日に始まった満洲事変は,平和裡に終わることになる。
 これにより万里の長城(長城線)が満洲国と中華民国との国境となった。
 長城線の南から「延慶,昌平,高麗営,順義,通州,香河,宝坻,林亭口,寧河,蘆台を通する線」までの間は,非武装地帯とされ,中国国民党軍は兵を退いた。
 中華民国と満洲国との国境の確定は,見方を変えると,中華民国の南京国民政府(蒋介石)が,事実上,満洲国を承認したこと意味する。
 関東軍と中国国民党軍との和解により,満洲とこれに隣接する中華民国の北京などの河北省は安定する。そして,蒋介石は,満洲事変を期に農村山間部へ勢力を拡大していた中国共産党の打倒に注力することになる。

中華蘇維埃共和国の誕生

ソ連コミンテルンの指導

 中国共産党は,遥か北方で満洲事変が進行していた1931(昭和6)年11月7日,ソ連コミンテルンの主導のもと,江西省瑞金を首都,毛沢東を主席として,「中華蘇維埃(ソビエト)共和国」を樹立している。
 本稿タイトルの写真は,この国の労働法を,日本の情報機関が日本語訳したものである。
 ちなみに,1917(大正6)年の11月7日は,ロシア10月革命でソビエト政権が樹立された革命記念日であり,毛沢東はこれにあやかった。

対日宣戦布告

 1932(昭和7)年4月26日,この中華蘇維埃共和国は,日本に対し,宣戦布告している。
 日本は”中華ソビエト共和国”を国家として承認していたわけではなく,相手にしなかった。むしろ,いわゆる支那事変が始まるのはこの5年後であるから,中国共産党が樹立し,今の中華人民共和国に繋がる中華蘇維埃共和国が,日中開戦の火蓋を切ったと言えなくもない。

延安へと「長征」

 ”中国”の北部については,蒋介石の意図どおり日本との和平もあって安定を取り戻していく。他方,南部においては,必然的に中国国民党と中国共産党による内戦(国共内戦)が激化することになる。
 中国共産党(中華蘇維埃共和国)は劣勢,”首都”瑞金を放棄,徒歩で逃避を続け,1936(昭和11)年10月22日,僻地という言葉が相応しい陝西省の延安に落ち延び,ここを本拠地とするに至った。
 これが,中国共産党が誇る「長征」である。

仕組まれた中国国民党と日本の対立

 延安の中国共産党が”革命”のために謀ったのは,日本と中華民国南京国民政府(蒋介石政権)とを戦わせ,主に後者を消耗させることであった。その一つの手段として,中国共産党は,「抗日民族統一戦線」を建前として掲げ,再び中国国民党と手を結ぶことを謀った。
 実際,1933(昭和8)年5月31日に塘沽で停戦協定が結ばれて以降,とりわけ1935(昭和10)年頃から,満洲国と国境を接する中華民国の河北省などで「抗日運動」が激しさを増すことになる。
 さらに,現実が中国共産党の目論見どおりに進行していくことになるのである。
 1936年(昭和11)年12月12日,張学良・楊虎城らによる蔣介石の拉致監禁事件が起きる(西安事件)。
 1937(昭和12)年7月7日,支那事変その後の大東亜戦争に発展する原因となった盧溝橋事件が発生する。
 1937(昭和12)年9月23日,第二次国共合作が成る。

東京で弁護士をしています。ホーチミン市で日越関係強化のための会社を経営しています。日本のことベトナムのこと郷土福島県のこと,法律や歴史のこと,そしてそれらが関連し合うことを書いています。どうぞよろしくお願いいたします。