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中華蘇維埃共和国の対日宣戦布告

中華蘇維埃共和国という国家

1931(昭和6)年 誕生

 ソ連のコミンテルンの主導により,満洲事変直後の1931(昭和6)年の11月7日,江西省の瑞金市を首都として成立した中国共産党の”国家”が,中華蘇維埃共和国である。
 確かに遥か東北部で満洲事変が継続中ではあったが,日中戦争の起因となった盧溝橋事件が起きるのは遥か後年の1937(昭和12)年7月7日。
 コミンテルンが主導により,その”中国”支部たる中国共産党が中華蘇維埃共和国なる”国家”を樹立したのは,そんな時代である。

蘇維埃=ソビエト

 「蘇維埃」とは「ソビエト」のこと。
 「11月7日」という日は,1917(大正6)年の11月7日,同年に帝政ロシアを倒した二月革命に続き,ロシアで労働者を中心に「十月革命」が勃発した日(ロシア暦では同年10月25日,ゆえに十月革命)。結果,世界初のソビエト政権が樹立されたこともあって,その筋の人たちの「革命記念日」である。
 この「革命記念日」にあたる1931(昭和6)年の11月7日,江西省瑞金市において,コミンテルの主導で中華蘇維埃第一次代表大会が開催され,中華蘇維埃共和国という共産主義”国家”が樹立されたのである。

ソビエト区

 中国共産党の私軍たる紅軍(後の人民解放軍)が占領していた地域を「ソビエト区」と称した。これが日中戦争時の「抗日根拠地」であり,戦後の国共内戦時の「解放区」である。
 当時のソビエト区(の大なる地域)は,下記のとおりであり,江西,浙江,福建,安徽の4省内の地域を跨ぐ形で,実は広範な地域を既に掩有えんゆうするに至っていたのである。

中央区

 赤色首都瑞金を中心とする江西東南地域で,江西の瑞金,石城,寧都,會昌を包んで尋烏,安遠,信豊,南康,零都,興國,楽安,臨川,黎川,福建の建寧,清流,連城,汀州,武平,上杭の各県に及ぶ。
 いわゆる朱徳・毛沢東軍の遊撃区である。

贛湘区

 江西西南部地域で,江西の寧岡,遂川,上猶,祟義,湖南の汝城,桂東各県を包含する。彭徳懐,李天柱軍の遊撃区域である。

贛東北区

 江西東北部地域で,江西,浙江,福建,安徽4省に跨る。
 後世の横峰,弋陽よくよう,上饒,貴渓,徳興,余江,萬年,楽平,玉山,鉛山,福建の祟安,石膏の常山,安徽の婺源ぶげんを包含する。
 方志敏,邵式平,周建屏軍の遊撃区域である。

鄂予皖区

 湖北東部地域(鄂東区)で,江西中央区に次ぐ大ソビエト区である。
 安徽の霍邱かくきゅう,六安,舒城,霍山,英山,湖北の廣濟,黄坡,花園,廣水,羅田,麻城,黄安,河南の羅山,光山,潢川,固始,商城一帯を含む。
 鄺繼勛,徐向前軍の遊撃区域である。

湘鄂西区

 湖北中部地域(鄂中区)で,洪湖,汚陽,潜江,岳口,漢川,天門,京山,鍾祥,荊門,沙洋,監利を含む。
 賀龍,段徳昌軍の遊撃区域である。

鄂南区

 湖北東南部地域で,陽新,通山,祟陽,通城,蒲折,咸寧かんねい,大治地方を含む。
 孔荷寵軍の遊撃区域である。

鄂西区

 湖北西部地域で,巴東,建始,鶴峯,五峯長陽地方を含む。
 王炳南軍の遊撃区域である。

中華蘇維埃共和国憲法大綱

国家樹立と同時に採択

 中華ソビエト共和国には,実は憲法もあった。
 国家樹立と同時,1931(昭和6)年11月7日の中華蘇維埃第一次代表大会で「憲法大綱」が採択されている。
 なお,同大会では,憲法だけでなく法令等が採択されているが,タイトル写真はそのうちの「労働法」である。

現在まで続く権力構造

 憲法大綱第3条は,同国の権力構造について以下のように規定している。

中華蘇維埃共和国の最高政権は全国工農兵会議(これが”ソビエト”)の大会にあり。大会閉会期間は全国蘇維埃臨時中央執行委員会を最高政権機関とす。中央執行委員会の下に人民委員会を組織し日常政務を処理し一切の法令と決議案を発布す。

中華蘇維埃共和国憲法大綱第3条

 中華ソビエト共和国の最高政権は,全国工農兵会議(これが”ソビエト”)の大会にある。
  なお,「三権分立」という近代国家の概念は,中華ソビエト共和国にも中華人民共和国にも存在しない。立法と行政(さらには司法も)は一体,つまり法を作る者も執行する者も同一であり,その総ては労働者や農民などの人民に帰属し,ソビエト(人民代表大会)がこれを決定・執行するという建前である。その意味で,全国工農兵会議(ソビエト)の大会は,現在の全国人民代表大会(全人代)とほぼ同義ではあるが,我々が知る「国会」ではない。
 1年に1回しか開催されない全国工農兵会議大会に代わり,通常の立法権及び行政権は中央執行委員会に帰属するとされいる。この中央執行委員会が事実上の最高機関である。
 さらに,日常政務を処理し法令等を制定するものとして,人民委員会が位置付けられている。

主席 毛沢東

 最高機関たる中央執行委員会の主席に就いたのが毛沢東である。
 さらに,人民委員会の主席に就いたのも,毛沢東である。
 すなわち,毛沢東は,この時期,既に中華ソビエト共和国という”国家”のトップに就いたのである。
 ただし,共産主義の序列では,共産党>国家である。
 当時の中国共産党のトップ(党中央委員会総書記)には博古が就いており,その意味では,毛沢東が全権力を握っていたわけではない。彼が,中国共産党まで支配し,全権力を掌握するのは,1943(昭和18)年3月20日,彼自身,中国共産党中央委員会総書記にあった張聞天を排除し,中国共産党中央政治局の主席(事実上の党主席)に就いてからである。

少数民族が独立国家を樹立する権利

 目を疑いたくなることであるが,中華ソビエト共和国の憲法大綱には,”中国”国内の少数民族について,なんと中国から離脱して独立国家を樹立する権利が規定されているのである。

 中華蘇維埃政権は中国国内の少数民族の自決権を承認し,各弱小民族が中国と離脱して自ら独立国家を樹立する権利を認める。
 蒙古・囘(回)・蔵・苗・黎・高麗人など総て中国国内に居住し居るものは完全に自決権を与え,中華蘇維埃連邦に加入または離脱し,もしくは自由区域の建立を承認す。中華蘇維埃政権は,弱小民族をして帝国主義国民党軍閥,王公,喇嘛(ラマ),土司の圧迫統治より離れ,完全なる自由を獲得するまで極力これを幇助す。蘇維埃政権は各民族の民族文化及び民族的演芸の発展に対し努力す。

中華蘇維埃共和国憲法大綱第14条

 ちなみに,蒙古=モンゴル族,囘(回)=ウイグル族,=チベット族,=ミャオ族(主に南西部,ベトナムやラオスではモン族と呼ばれる),=リー族(主に海南島)及び高麗=朝鮮族のことである。

中華ソビエト共和国と中華人民共和国

 中華ソビエト共和国は,盧溝橋事件後の1937(昭和12)年9月23日に成立した第二次国共合作の条件に基づいて消滅したことになっている。
 しかし,その後も毛沢東をトップとする中国共産党は存続している。
 その毛沢東率いる中国共産党及び紅軍(共産党軍)が,蒋介石の中華民国国民党軍に勝利し,1949(昭和24)年10月1日に建国を宣言したのが現在の中華人民共和国。その意味で,中華ソビエト共和国は現在の中華人民共和国の前身と言うこともできる。
 中華人民共和国を主導する中国共産党は,”中国”の全土を支配するに至ったことでその本性を現す。前身である中華ソビエト共和国の憲法大綱などはなかったかのように,チベット,南モンゴル,ウイグルなどの民族に対し,独立を認めるどころか弾圧に虐殺を重ねていることは,承知のとおり。

日本との関係

日本の対応

 日本は,大正2(1913)年10月6日 ,既に「中華民国」を国家として承認していた。
 この経緯については,下掲の拙稿をご参照。

 他方,”中華ソビエト共和国”なるものを「国家」として承認することはなかった。むしろ「共産匪軍(共匪)」として,警戒対象として位置付けを変えなかった。

中華ソビエト共和国対日宣戦布告

 なんと”中国”のソビエト共和国が,昭和7(1932)年4月26日,日本に対し宣戦布告しているのである。
 昭和10年版最新支那年鑑1622頁にも「上海事件に際し,対日宣戦を布告し(4月26日),リットン報告反対を呼号した」とある。どうやら中国共産党は,日本に宣戦布告しただけでなく,いわゆるリットン報告書にも文句を言っていたようである。

昭和10年版最新支那年鑑1622頁

盧溝橋事件へ

 ただ,中華ソビエト共和国(中国共産党)が日本軍と直接戦火を交えることはなかった。実際に行ったのは,蒋介石の中国国民党軍を日本軍と戦わせて,国民党軍を消耗させること。
 そのために,紅軍(中国共産党軍)が,北京市内の盧溝橋付近で夜間演習中だった日本軍(関東軍ではなく,支那駐屯軍)に対して一発の銃弾を放ち,敢えて両軍の交戦(支那事変/日中戦争)を惹起させた,という説も有力に唱えられているぐらいである。

東京で弁護士をしています。ホーチミン市で日越関係強化のための会社を経営しています。日本のことベトナムのこと郷土福島県のこと,法律や歴史のこと,そしてそれらが関連し合うことを書いています。どうぞよろしくお願いいたします。