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日越こそ国交樹立50周年

ベトナム社会主義共和国との国交

昭和48年9月21日に成立した国交

 日本とベトナム社会主義共和国(Cộng Hoà Xã Hội Chủ Nghĩa Việt Nam)との間で国交が樹立されたのは,昭和48(1973)年の9月21日とされている。
 令和4(2022)年9月29日は中華人民共和国との間で国交が樹立されて50年となる日であるが,翌令和5(2023)年9月21日は,日本とベトナムの国交樹立,50周年となる日である。
 しかしなが,昭和48(1973)年の9月21日,現在「ベトナム社会主義共和国」と称している国家は存在せず,日本が国交を結んだ相手は,ベトナム民主共和国(Việt Nam Dân Chủ Cộng Hòa)。一般的に「北ベトナム」と呼ばれている国である。
 これがベトナム社会主義共和国(Cộng Hoà Xã Hội Chủ Nghĩa Việt Nam)に日本との国交が継承されたため,現在に至っている。
 他方,北ベトナムと国交を樹立し当時,日本は既に南ベトナム(ベトナム共和国/Việt Nam Dân Chủ Cộng Hòa)とも国交を有していた。
 このあたりを整理するのが,本稿の主旨。

当時の首相は田中角栄

 北ベトナムとの間で国交を樹立させた当時の内閣総理大臣は,田中角栄。1年前の昭和47(1972)年9月29日には,中華人民共和国と間で国交樹立させていた。
 アメリカは,同年2月21日,北ベトナムの支援国であった中華人民共和国が,敵対するアメリカのニクソン大統領の訪問を受け入れていた。これが,北ベトナムと中華人民共和国との間で軋轢が生じさせることになり,ニクソンの狙いどおり,北ベトナムを和平の席に着かせることになる。
 余談だが,田中角栄首相は,どうもアメリカの意に沿わない独自の外交を展開していたようで,それが政治生命と自らの命を縮めたか。

南ベトナムとの国交

「ベトナム国」というフランスの傀儡

 無関係のようであるが,昭和26(1951)年9月8日,サンフランシスコで「日本国との平和条約(サンフランシスコ対日平和条約)」が締結された当時,ベトナムには「ベトナム国(Quốc gia Việt Nam)」という,昭和23(1948)年5月27日に成立し,阮王朝の最後の皇帝バオ・ダイ(Bảo Đại)を元首とするフランスの傀儡国家があった。

ベトナム国成立の経緯

 昭和20(1945)年8月15日,「玉音放送」を知ったホー・チ・ミン氏(Hồ Chí Minh)は,ベトナム独立同盟会(Việt Nam Ðộc Lập Ðồng Minh Hội)いわゆるベトミンをもって各地で蜂起,後に「北ベトナム」と呼ばれるベトナム民主共和国(Việt Nam Dân Chủ Cộng Hòa)を建国,同年9月2日には,フランスからの独立を宣言するに至る。
 しかし,昭和20(1945)年3月10日以降,日本軍に攻められベトナムから逃げていたフランス軍が,同年9月2日に日本が正式に降伏した後,再植民地化を狙ってベトナムに戻ってくる。
 ホー・チ・ミン氏率いるベトナム民主共和国とベトミン軍は,フランス軍との間で独立戦争を強いられることになる。
 ベトナム北部で劣勢だったフランスが,南部での基盤を確保すべくサイゴンを首都とし,阮王朝の最後の皇帝バオ・ダイ(Bảo Đại)を担いで昭和23(1948)年5月27日に成立させたのが,ベトナム国(Quốc gia Việt Nam)である。

「連合国」となったベトナム国

 昭和26(1951)年9月8日,サンフランシスコで締結された「日本国との平和条約(サンフランシスコ対日平和条約)」に,フランスのごり押しで,このベトナム国(Quốc gia Việt Nam)が署名し,不思議なことにベトナム国も「連合国」に名を連ねることになる。
 日本は,確かにフランスとは昭和20(1945)年3月10日に至って交戦するに至ったが,植民地の”ベトナム”と戦争をした事実はなかった。
 ベトナム国が「連合国」すなわち戦勝国に加わったのは,自身の植民地である”ベトナム”へ日本に賠償金を支払わせるためという,フランスの狡知による。
 サンフランシスコ対日平和条約は,昭和27(1952)年4月28日に発効している。
 ベトナム国は,昭和27(1952)年6月18日,国内的にサンフランシスコ対日平和条約を批准している。

ベトナム国との間で国交樹立

 ベトナム国の批准により昭和27(1952)年6月18日,日本とベトナム国との間で国交が樹立されるとなった。
 日本と”ベトナム”との間での正式な国交が成立したのは,これが初めてである。相手は,サイゴンを首都とし,阮王朝の最後の皇帝バオ・ダイ(Bảo Đại)を元首とするフランスの傀儡国家「ベトナム国」であった。
 同時に,サンフランシスコ対日平和条約14条(a)項1号に基づき,日本は,ベトナム国に対し賠償義務を負うことになり,賠償内容についてベトナム国との個別交渉を進める義務を負うことになった。
 しかし,この個別交渉は長引いた。その一つの要因は,交渉相手国であるベトナム国側の混乱にあった。
 なお,当時,日本は,ホー・チ・ミン主席のベトナム民主共和国(Việt Nam Dân Chủ Cộng Hòa)とは国交を樹立することはなく,賠償交渉の相手とは扱わなかった。

ディエン・ビエン・フー大会戦

 日本とベトナム国で国交が樹立された昭和27(1952)年6月18日当時,前述のように”ベトナム”北部は,ホー・チ・ミン主席のベトナム民主共和国(Việt Nam Dân Chủ Cộng Hòa)が独立を宣言して支配しており,その主権を争うフランスとの間で激しい独立戦争を戦っていた。
 このベトナム・フランス独立戦争の”関ヶ原”となったが,1954年3月13日に始まったディエン・ビエン・フー(Điện Biên Phủ)での一大会戦であり,この戦いは同年5月7日,ベトミン軍の勝利で終わった。

ジュネーブ協定

 ディエン・ビエン・フー(Điện Biên Phủ)でのベトミンの勝利を受け,昭和29(1954)年7月21日,ジュネーブで休戦協定が締結された。
 署名したのは,ベトナム民主共和国(北ベトナム),中華人民共和国,ソ連,フランス及びイギリス。ベトナム国(南ベトナム)とアメリカは協議には参加しながら,協定への署名は拒否した。
 その理由は,「ベトナムを北緯17度線で南北に分離し,撤退したベトミン軍とフランス軍の勢力を再編成した上で,1956年7月に自由選挙を行い統一を図る。」という条項があり,ベトナム国とアメリカは統一選挙の敗北による共産主義化を恐れたことによる。
 こうして北緯17度線を境にベトナムの南北の分断が決定的となった。
 他方,賠償交渉の相手国であるベトナム国(Quốc gia Việt Nam)がこのような状況であったことから,日本の様子見もあり,交渉は進まなかった。

ベトナム共和国(南ベトナム)の誕生

 ジュネーブ協定締結の翌年,昭和30(1955)年10月26日,アメリカの支援を得たカトリック教徒にしてベトナム国で首相を務めていたゴ・ディン・ジェム(Ngô Ðình Diệm)が,国民投票でバオ・ダイ(Bảo Đại)を退任させ,ベトナム共和国(Việt Nam Cộng Hòa)を樹立,その初代大統領に就いた。
 このベトナム共和国こそが,ベトナム戦争で言うところの「南ベトナム」である。なお,ジュネーブ協定で約された昭和31(1956)年7月に予定された南北統一選挙は,署名していないこともあり,当然に無視された。

ベトナム国からベトナム共和国への継承

 このベトナム共和国は,ベトナム国を継承した。
 こうして昭和27(1952)6月18日に成立した日本とベトナム国との国交は,ベトナム共和国(南ベトナム)へ引き継がれることになった。
 同時に,サンフランシスコ対日平和条約14条(a)項1号に基づき,日本が賠償義務を負うのはベトナム共和国となり,未だ確定していない賠償内容については,ベトナム共和国と交渉することとなった。

日本国とベトナム共和国との間の賠償協定

 その結果,昭和34(1959)年5月13日,日本とベトナム共和国(南ベトナム)との間で,「日本国とヴィエトナム共和国との間の賠償協定」が締結された。
 下の写真がその御署名原本。当時の内閣総理大臣は岸信介。ベトナム共和国への支援は,共産主義の北ベトナム(ベトナム民主共和国)に対峙する意味もあった。

「日本国とヴィエトナム共和国との間の賠償協定」御署名原本

 以下,全11条を引用するが,その第1条1項は,140億4000万円(当時は1ドル360円なので3900万ドル)に相当する日本国の生産物及び日本人の役務を,当該協定効力発生日から5年内に,賠償としてベトナム共和国に供与すると規定している。
 現金ではなく生産物や役務とされているのは,サンフランシスコ対日平和条約14条(a)項1号が「役務賠償」を原則としていたことによる。
 実際,避暑地で有名なベトナム中部の高原都市ダ・ラット(Đà Lạt)近くにて現役のダ・ニム水力発電所(Nhà máy thủy điện Đa Nhim)は,ベトナム共和国(南ベトナム)最初の水力発電所として,この賠償協定に基づいて日本により建設されたもの。昭和36(1961)年4月に建設が始まり,昭和39(1964)年12月に完成,運用を開始している。
 昭和39(1964)年といえば,その年の8月2日に,アメリカがトンキン湾事件を起こし,いわゆるベトナム戦争にアメリカが本格的に介入を始めた年でもある。

日本国及びヴィエトナム共和国は、
1951年9月8日にサン・フランシスコ市で署名された日本国との平和条約の規定の趣旨に従って行動することを希望して、この賠償協定を締結することに決定し、よって、次のとおりそれぞれの全権委員を任命した。

日 本 国
外務大臣 藤山 愛一郎
ヴィエトナム共和国駐在特命全権大使 久保田 貫一郎
外務省顧問 植村 甲午郎

ヴィエトナム共和国
外務大臣 ヴ・ヴァン・マオ
日本国駐在特命全権大使 ブイ・ヴァン・ティン
外務省総務局長 ファム・ダン・ラム

これらの全権委員は、互に全権委任状を示してそれが良好妥当であると認められた後、次の諸条を協定した。

第一条
1 日本国は、現在において百四十億四千万円(一四、〇四〇、〇〇〇、〇〇〇円)に換算される三千九百万アメリカ合衆国ドル(三九、〇〇〇、〇〇〇ドル)に等しい円の価値を有する日本国の生産物及び日本人の役務を、この協定の効力発生の日から五年の期間内に、以下に定める方法により、賠償としてヴィエトナム共和国に供与するものとする。
2 前項に定める生産物及び役務の供与は、最初の三年の期間において現在において三十六億円(三、六〇〇、〇〇〇、〇〇〇円)に換算される一千万アメリカ合衆国ドル(一〇、〇〇〇、〇〇〇ドル)に等しい円の年平均額により、次の二年の期間において、現在において十六億二千万円(一、六二〇、〇〇〇、〇〇〇円)に換算される四百五十万アメリカ合衆国ドル(四、五〇〇、〇〇〇ドル)に等しい円の年平均額により行うものとする。
第二条
1 賠償として供与される生産物及び役務は、ヴィエトナム共和国政府が要請し、かつ、両政府が合意するものでなければならない。これらの生産物及び役務は、この協定の附属書に掲げる計画の中から選択される計画に必要な項目からなるものとする。
2 賠償として供与される生産物は、資本財とする。ただし、ヴィエトナム共和国政府の要請があつたときは、両政府間の合意により、資本財以外の生産物を日本国から供与することができる。
3 この協定に基く賠償は、日本国とヴィエトナム共和国との間の通常の貿易が阻害されないように、かつ、外国為替上の追加の負担が日本国に課されないように、実施しなければならない。
第三条
両政府は、各年度に日本国が供与する生産物及び役務を定める年度実施計画(以下「実施計画」という。)を協議により決定するものとする。
第四条
1 第六条1の使節団は、各年度の実施計画に従つて生産物及び役務の供与が行われるため、ヴィエトナム共和国政府に代つて、日本国民又はその支配する日本国の法人と直接に契約を締結するものとする。
2 すべてのそのような契約(その変更を含む。)は、(a)この協定の規定、(b)両政府がこの協定の実施のため行う取極の規定及び(c)当該時に適用される実施計画に合致するものでなければならない。これらの契約は、前記の基準に合致するものであることを日本国政府により認証されなければならない。この項に定めるところに従つて認証を得た契約は、以下「賠償契約」という。
3 すべての賠償契約は、その契約から又はこれに関連して生ずる紛争が、一方の契約当事者の要請により、両政府間で行われることがある取極に従つて商事仲裁委員会に解決のため付託される旨の規定を含まなければならない。両政府は、正当になされたすべての仲裁判断を最終的なものとし、かつ、執行することができるものとするため必要な措置を執るものとする。
4 1の規定にかかわらず、賠償としての生産物及び役務の供与は、賠償契約なしで行うことができる。ただし、各場合について両政府間の合意によらなければならない。
第五条
1 日本国政府は、第一条の規定に基く賠償義務の履行のため、賠償契約により第六条1の使節団が負う債務並びに前条4の規定による生産物及び役務の供与の費用に充てるための支払を、第九条の規定に基いて定められる手続によつて、行うものとする。その支払は、日本円で行うものとする。
2 日本国は、前項の規定に基く円による支払を行うことにより及びその支払を行つた時に、その支払に係る生産物及び役務をヴィエトナム共和国に供与したものとみなされ、第一条の規定に従い、その円による支払金額に等しいアメリカ合衆国ドルの額まで賠償義務を履行したものとする。
第六条
1 日本国は、ヴィエトナム共和国政府の使節団(以下「使節団」という。)が、この協定の実施(賠償契約の締結及び実施を含む。)を任務とする同政府の唯一かつ専管の機関として日本国内に設置されることに同意する。
2 使節団の日本国における事務所は、東京に設置されるものとする。この事務所は、もつぱら使節団の任務の遂行のためにのみ使用されるものとする。
3 使節団の日本国における事務所の構内及び記録は、不可侵とする。使節団は、暗号を使用することができる。使節団に属し、かつ、直接その任務の遂行のため使用される不動産は、不動産取得税及び固定資産税を免除される。使節団の任務の遂行から生ずることがある使節団の所得は、日本国における課税を免除される。使節団が公用のため輸入する財産は、関税その他輸入について又は輸入に関連して課される課徴金を免除される。
4 ヴィエトナム共和国の国民である使節団の長及びその上級職員二人は、国際法及び国際慣習に基いて一般的に認められる外交上の特権及び免除を与えられる。
5 ヴィエトナム共和国の国民であり、かつ、通常日本国内に居住していない使節団のその他の職員は、自己の職務の遂行について受ける報酬に対する日本国における課税を免除され、かつ、日本国の法令の定めるところにより、自用の財産に対する関税その他輸入について又は輸入に関連して課される課徴金を免除される。
6 賠償契約から若しくはこれに関連して生ずる紛争が仲裁により解決されなかつたとき、又は当該仲裁判断が履行されなかつたときは、その問題は、最後の解決手段として、日本国の管轄裁判所に提起することができる。この場合において、必要とされる訴訟手続上の目的のためにのみ、4に定める使節団の長及び上級職員は、訴え、又は訴えられることができるものとし、そのために使節団における自己の事務所において訴状その他の訴訟書類の送達を受けることができるものとする。ただし、訴訟費用の担保を供する義務を免除される。
 使節団は、3及び4に定めるところにより不可侵及び免除を与えられてはいるが、前記の場合において管轄裁判所が行つた最終の裁判を、使節団を拘束するものとして受諾するものとする。
7 最終の裁判の執行に当り、使節団に属し、かつ、直接その任務の遂行のため使用される土地及び建物並びにその中にある動産は、いかなる場合にも強制執行を受けることはない。
第七条
1 両政府は、この協定の円滑なかつ効果的な実施のため必要な措置を執るものとする。
2 ヴィエトナム共和国は、日本国が第一条に定める生産物及び役務を供与することができるようにするため、利用することができる現地の労務、資材及び設備を提供するものとする。
3 この協定に基く生産物又は役務の供与に関連してヴィエトナムにおいて必要とされる日本国民は、ヴィエトナムにおける所要の滞在期間中、その作業の遂行のため必要な便宜を与えられるものとする。
4 日本国の国民及び法人は、この協定に基く生産物又は役務の供与から生ずる所得に関し、ヴィエトナムにおける課税を免除される。
5 ヴィエトナム共和国は、この協定に基いて供与された日本国の生産物が、ヴィエトナム共和国の領域から再輸出されないようにすることを約束する。
第八条
この協定の実施に関する事項について勧告を行う権限を有する両政府間の協議機関として、両政府の代表者で構成される合同委員会を設置する。
第九条
この協定の実施に関する手続その他の細目は、両政府間で協議により決定するものとする。
第十条
この協定の解釈及び実施に関する両政府間の紛争は、まず、外交上の経路を通じて解決するものとする。両政府がこうして解決することができなかつたときは、その紛争は、各政府が任命する各一人の仲裁委員とこうして選定された二人の仲裁委員の合意により定める第三の仲裁委員との三人の仲裁委員からなる仲裁裁判所に決定のため付託するものとする。ただし、第三の仲裁委員は、いずれか一方の国の国民であつてはならない。各政府は、いずれか一方の政府が他方の政府から紛争の仲裁を要請する公文を受領した日から三十日の期間内に各一人の仲裁委員を任命しなければならない。第三の仲裁委員については、その期間の後の三十日の期間内に任命されなければならない。一方の政府が当該期間内に仲裁委員を任命しなかつたとき、又は第三の仲裁委員について当該期間内に合意されなかつたときは、いずれか一方の政府は、それぞれ当該仲裁委員又は第三の仲裁委員を任命することを国際司法裁判所長に要請することができる。両政府は、この条の規定に基いて与えられた決定に服することを約束する。
第十一条
この協定は、批准されなければならない。この協定は、批准書の交換の日に効力を生ずる。批准書の交換は、東京でできる限りすみやかに行われなければならない。
以上の証拠として、下名の全権委員は、この協定に署名調印した。
千九百五十九年五月十三日にサイゴンで、日本語、ヴィエトナム語及びフランス語により本書二通を作成した。解釈に相違があるときは、フランス語の本書による。

日本国のために
藤山 愛一郎
久保田貫一郎
植村 甲午郎

ヴィエトナム共和国のために
ヴ・ヴァン・マオ
ブイ・ヴァン・ティン
ファム・ダン・ラム

日本国とヴィエトナム共和国との間の賠償協定

北ベトナムとの国交

いわゆるベトナム戦争

 昭和39(1964)年8月2日以降,アメリカが本格的に介入した「ベトナム戦争」は,ベトナム共和国(南ベトナム)国内においてテロやゲリラを行っていた南ベトナム解放民族戦線(Mặt trận Dân tộc Giải phóng miền Nam Việt Nam)いわゆるベトコンと戦うベトナム共和国(南ベトナム)政府軍を支援するため,南ベトナム国内に地上軍を派遣し,かつベトコンを陰で支援していた北ベトナム(ベトナム民主共和国)の軍事・軍需施設などを空爆するというもの。
 アメリカと北ベトナムが当事者として戦争をしたわけではない。
 この意味でのベトナム戦争が始まった当時,日本は南ベトナム(ベトナム共和国)との間で国交を有していたが,北ベトナム(ベトナム民主共和国)との間では国交はなかった。

パリ和平協定 アメリカ撤退

 昭和48(1973)年1月27日,ベトナム民主共和国(北ベトナム),ベトナム共和国(南ベトナム),南ベトナム共和国臨時革命政府(Chính Phủ Cách Mạng Lâm Thời Cộng Hòa Miền Nam Việt Nam/ベトコンが南ベトナムで樹立した臨時政府)及びアメリカ合衆国の4当事者により,パリで和平協定が締結される。
 この和平協定の目的は,この4当事者による「ベトナム戦争」の終戦であり,当該和平協定に基づき,同年3月29日,アメリカ軍は南ベトナムから完全に撤退した。
 こうして,アメリカにとっての「ベトナム戦争」は,「名誉ある撤退」をかろうじて保つ形で昭和48(1973)年3月29日に終わっていた。日本も認識を同じくし,”ベトナム”も朝鮮半島と同じように,同じ民族の国家が南北に分断して存立することが恒常化されるものと考えた。

日本と北ベトナムとの国交樹立

 「ベトナム戦争」の終戦をもって,日本は北ベトナムとの国交樹立に動き,昭和48(1972)年9月21日,パリのベトナム民主共和国総代表部にて,日本国政府とベトナム民主共和国の代表が「外交関係樹立に係る交換公文」に署名するに至った。

日本・ベトナム民主共和国間外交関係の設立のための交換書簡のうちベトナム側が日本側に提出した書簡(原文フランス語)

書簡をもって啓上いたします。本使は,本日付けの閣下の次の書簡を受領したことを確認する光栄を有します。
「(日本側書簡)
 書簡をもって啓上いたします。本使は,日本国とベトナム民主共和国との間の友好関係の発展を希望しつつ,両国間に外交関係が本日より設定され,両国が大使の資格を有する外交使節を交換することを日本国政府に代わって提案する光栄を有します。
 本使は,さらに,この書簡及び前記の提案を受諾される閣下の返簡が両政府間の合意を構成するものとみなすことを提案する光栄を有します。
 本使は,以上を申し進めるに際し,ここに閣下に向かって敬意を表します。 」
 本使は,さらに,ベトナム民主共和国政府に代わって前記の提案を受諾するとともに閣下の書簡及びこの返簡が両政府間の合意を構成するものとみなすことに同意する光栄を有します。
 本使は,以上を申し進めるに際し,ここに閣下に向かつて敬意を表します。
1973年9月21日にパリで
フランス国駐在ベトナム民主共和国臨時代理大使
ボー・バン・スン

日本語訳

北ベトナムにおける日本大使館

 国交樹立当初,北ベトナム・ハノイにおける日本の大使館は,現在のグランド・ホテル・メトロポール・パレスに置かれていた。
 1901年にフランス人によって開業した歴史あるホテルで,平成31(2019)年2月にトランプ大統領と金正恩の会談した場所でもある。
 ベトナム戦争当時の北ベトナムでは「統一(Thống nhất)ホテル」と呼ばれていた。当時,日本のメディアで2社だけハノイでの支局設置が認められていたのは,日本共産党「赤旗」とNHKを"レッドパージ"された人が設立した「日本電波ニュース社」であるが,2社とのその支局は「統一(Thống nhất)ホテル」に置かれていた。

グランド・ホテル・メトロポール・パレス

国交の併存から統一へ

 昭和27(1952)年6月18日に成立した南ベトナム(当初はベトナム国),昭和48(1973)9月21日に成立した北ベトナム,同日以降,日本は,南北2つのベトナムの国家と国交を有することになった。
 南北ベトナム両国と国交を有していたのは,ヨーロッパを中心に日本を含め24カ国しかなかった。アメリカは北ベトナムと国交はなく,アメリカからお金をもらって参戦していた大韓民国も北ベトナムとは国交がなかった。
 もっとも,日本が南北ベトナム2カ国に国交を有するという状態は,2年と続かなかった。

サイゴンの最期

 昭和50(1975)年3月10日,北ベトナム軍は,パリ和平協定を一方的に破り,北緯17度線を越えて南ベトナム内に侵攻を開始する。
 アメリカ軍は既に完全に撤退しており,援軍として再び駆けつけてくることはなかった。
 アメリカ軍の後ろ盾がなかった南ベトナム政府軍は各地で敗走,同年4月30日,南ベトナム(ベトナム共和国)の首都サイ・ゴン(Sài Gòn)が陥落する。同月21日に辞任していたグエン・バン・チュー(Nguyễn Văn Thiệu)大統領など政府要人が海外へ逃亡したこともあり,ベトナム共和国(南ベトナム)は崩壊・消滅した。南ベトナムを力で制圧・統合したベトナム民主共和国(北ベトナム)は,昭和51(1976)年7月2日,ベトナム全土を領土とする国として,現在のベトナム社会主義共和国(Cộng Hoà Xã Hội Chủ Nghĩa Việt Nam)を称することになる。
 昭和48(1973)9月21日に成立した日本と北ベトナム(ベトナム民主共和国)との国交が維持されることになる。他方,南ベトナムとの間で昭和27(1952)年6月18日に成立した国交については,南ベトナム(ベトナム共和国)と言う国家とともに消滅した。
 南ベトナムを吸収合併したような北ベトナムが,仮に南ベトナムと日本の国交のほうを維持したとすれば,令和4(2022)年で国交樹立70周年となっていたのである。
 ちなみに,アメリカがベトナム社会主義共和国と国交を樹立するのは,遥か後年の平成7(1995)年であり,大韓民国は平成4(1992)年であった。

北ベトナムへの賠償の代わり

 北ベトナムは,日本との国交樹立にあたり,「日本国とヴィエトナム共和国との間の賠償協定」に基づく南ベトナムに対する賠償で”ベトナム”に対する賠償は解決済との日本の立場を尊重して,日本に賠償を求めることはしなかったようだ。
 その代わりに約2000万ドルの無償資金援助が供与された旨が,下掲の日経新聞は報じている。

昭和48(1973)年9月22日付け日経新聞

日本での風景

 平成31(2019)年の4月30日は平成最期の日であるが,時を昭和50(1975)に遡り,所をベトナムに替えると,サイゴン(Sài Gòn)最期の日である。
 その日を報じる当時の朝日新聞を読んでみた。

昭和50(1975)5月1日付け朝日新聞

 当時の日本・東京には,南ベトナム(ベトナム共和国)からの留学生が多数いたようだ。その首都サイゴンが北ベトナムに攻め落とされた事実について,私の母校,一橋大学で経済学を学んでいたフックさんは,インタビューに答えて,次のように話している。

「戦争終結はうれしい。南北が統一されることも願う。いままでのベトナムよりもよくなることだけは確かだろう。日本に来て8年目。自由な空気に慣れきっているので,果たして新政権下に住むことができるかどうか。これまでやってきたのは近代経済学。だが,体制が変わったいま,このままこの経済学をやっていいものだろうか,と考えているのです。」

 他方で,今の老人が学生だった頃,付和雷同に火炎瓶を投げていたのと時を同じくし,昭和44(1969)に結成された「ベ平統(ベトナムの平和と統一のために闘う在日ベトナム人の会)」系のベトナム人約50人が,現在ベトナム大使館が建つ渋谷区元代々木町の南ベトナム大使館に「大使館を人民に返せ」と押しかけ,うち29人が大使館に乱入したため逮捕された。
 と上記の朝日新聞は報じている。

東京で弁護士をしています。ホーチミン市で日越関係強化のための会社を経営しています。日本のことベトナムのこと郷土福島県のこと,法律や歴史のこと,そしてそれらが関連し合うことを書いています。どうぞよろしくお願いいたします。