日越こそ国交樹立50周年
ベトナム社会主義共和国との国交
昭和48年9月21日に成立した国交
日本とベトナム社会主義共和国(Cộng Hoà Xã Hội Chủ Nghĩa Việt Nam)との間で国交が樹立されたのは,昭和48(1973)年の9月21日とされている。
令和4(2022)年9月29日は中華人民共和国との間で国交が樹立されて50年となる日であるが,翌令和5(2023)年9月21日は,日本とベトナムの国交樹立,50周年となる日である。
しかしなが,昭和48(1973)年の9月21日,現在「ベトナム社会主義共和国」と称している国家は存在せず,日本が国交を結んだ相手は,ベトナム民主共和国(Việt Nam Dân Chủ Cộng Hòa)。一般的に「北ベトナム」と呼ばれている国である。
これがベトナム社会主義共和国(Cộng Hoà Xã Hội Chủ Nghĩa Việt Nam)に日本との国交が継承されたため,現在に至っている。
他方,北ベトナムと国交を樹立し当時,日本は既に南ベトナム(ベトナム共和国/Việt Nam Dân Chủ Cộng Hòa)とも国交を有していた。
このあたりを整理するのが,本稿の主旨。
当時の首相は田中角栄
北ベトナムとの間で国交を樹立させた当時の内閣総理大臣は,田中角栄。1年前の昭和47(1972)年9月29日には,中華人民共和国と間で国交樹立させていた。
アメリカは,同年2月21日,北ベトナムの支援国であった中華人民共和国が,敵対するアメリカのニクソン大統領の訪問を受け入れていた。これが,北ベトナムと中華人民共和国との間で軋轢が生じさせることになり,ニクソンの狙いどおり,北ベトナムを和平の席に着かせることになる。
余談だが,田中角栄首相は,どうもアメリカの意に沿わない独自の外交を展開していたようで,それが政治生命と自らの命を縮めたか。
南ベトナムとの国交
「ベトナム国」というフランスの傀儡
無関係のようであるが,昭和26(1951)年9月8日,サンフランシスコで「日本国との平和条約(サンフランシスコ対日平和条約)」が締結された当時,ベトナムには「ベトナム国(Quốc gia Việt Nam)」という,昭和23(1948)年5月27日に成立し,阮王朝の最後の皇帝バオ・ダイ(Bảo Đại)を元首とするフランスの傀儡国家があった。
ベトナム国成立の経緯
昭和20(1945)年8月15日,「玉音放送」を知ったホー・チ・ミン氏(Hồ Chí Minh)は,ベトナム独立同盟会(Việt Nam Ðộc Lập Ðồng Minh Hội)いわゆるベトミンをもって各地で蜂起,後に「北ベトナム」と呼ばれるベトナム民主共和国(Việt Nam Dân Chủ Cộng Hòa)を建国,同年9月2日には,フランスからの独立を宣言するに至る。
しかし,昭和20(1945)年3月10日以降,日本軍に攻められベトナムから逃げていたフランス軍が,同年9月2日に日本が正式に降伏した後,再植民地化を狙ってベトナムに戻ってくる。
ホー・チ・ミン氏率いるベトナム民主共和国とベトミン軍は,フランス軍との間で独立戦争を強いられることになる。
ベトナム北部で劣勢だったフランスが,南部での基盤を確保すべくサイゴンを首都とし,阮王朝の最後の皇帝バオ・ダイ(Bảo Đại)を担いで昭和23(1948)年5月27日に成立させたのが,ベトナム国(Quốc gia Việt Nam)である。
「連合国」となったベトナム国
昭和26(1951)年9月8日,サンフランシスコで締結された「日本国との平和条約(サンフランシスコ対日平和条約)」に,フランスのごり押しで,このベトナム国(Quốc gia Việt Nam)が署名し,不思議なことにベトナム国も「連合国」に名を連ねることになる。
日本は,確かにフランスとは昭和20(1945)年3月10日に至って交戦するに至ったが,植民地の”ベトナム”と戦争をした事実はなかった。
ベトナム国が「連合国」すなわち戦勝国に加わったのは,自身の植民地である”ベトナム”へ日本に賠償金を支払わせるためという,フランスの狡知による。
サンフランシスコ対日平和条約は,昭和27(1952)年4月28日に発効している。
ベトナム国は,昭和27(1952)年6月18日,国内的にサンフランシスコ対日平和条約を批准している。
ベトナム国との間で国交樹立
ベトナム国の批准により昭和27(1952)年6月18日,日本とベトナム国との間で国交が樹立されるとなった。
日本と”ベトナム”との間での正式な国交が成立したのは,これが初めてである。相手は,サイゴンを首都とし,阮王朝の最後の皇帝バオ・ダイ(Bảo Đại)を元首とするフランスの傀儡国家「ベトナム国」であった。
同時に,サンフランシスコ対日平和条約14条(a)項1号に基づき,日本は,ベトナム国に対し賠償義務を負うことになり,賠償内容についてベトナム国との個別交渉を進める義務を負うことになった。
しかし,この個別交渉は長引いた。その一つの要因は,交渉相手国であるベトナム国側の混乱にあった。
なお,当時,日本は,ホー・チ・ミン主席のベトナム民主共和国(Việt Nam Dân Chủ Cộng Hòa)とは国交を樹立することはなく,賠償交渉の相手とは扱わなかった。
ディエン・ビエン・フー大会戦
日本とベトナム国で国交が樹立された昭和27(1952)年6月18日当時,前述のように”ベトナム”北部は,ホー・チ・ミン主席のベトナム民主共和国(Việt Nam Dân Chủ Cộng Hòa)が独立を宣言して支配しており,その主権を争うフランスとの間で激しい独立戦争を戦っていた。
このベトナム・フランス独立戦争の”関ヶ原”となったが,1954年3月13日に始まったディエン・ビエン・フー(Điện Biên Phủ)での一大会戦であり,この戦いは同年5月7日,ベトミン軍の勝利で終わった。
ジュネーブ協定
ディエン・ビエン・フー(Điện Biên Phủ)でのベトミンの勝利を受け,昭和29(1954)年7月21日,ジュネーブで休戦協定が締結された。
署名したのは,ベトナム民主共和国(北ベトナム),中華人民共和国,ソ連,フランス及びイギリス。ベトナム国(南ベトナム)とアメリカは協議には参加しながら,協定への署名は拒否した。
その理由は,「ベトナムを北緯17度線で南北に分離し,撤退したベトミン軍とフランス軍の勢力を再編成した上で,1956年7月に自由選挙を行い統一を図る。」という条項があり,ベトナム国とアメリカは統一選挙の敗北による共産主義化を恐れたことによる。
こうして北緯17度線を境にベトナムの南北の分断が決定的となった。
他方,賠償交渉の相手国であるベトナム国(Quốc gia Việt Nam)がこのような状況であったことから,日本の様子見もあり,交渉は進まなかった。
ベトナム共和国(南ベトナム)の誕生
ジュネーブ協定締結の翌年,昭和30(1955)年10月26日,アメリカの支援を得たカトリック教徒にしてベトナム国で首相を務めていたゴ・ディン・ジェム(Ngô Ðình Diệm)が,国民投票でバオ・ダイ(Bảo Đại)を退任させ,ベトナム共和国(Việt Nam Cộng Hòa)を樹立,その初代大統領に就いた。
このベトナム共和国こそが,ベトナム戦争で言うところの「南ベトナム」である。なお,ジュネーブ協定で約された昭和31(1956)年7月に予定された南北統一選挙は,署名していないこともあり,当然に無視された。
ベトナム国からベトナム共和国への継承
このベトナム共和国は,ベトナム国を継承した。
こうして昭和27(1952)6月18日に成立した日本とベトナム国との国交は,ベトナム共和国(南ベトナム)へ引き継がれることになった。
同時に,サンフランシスコ対日平和条約14条(a)項1号に基づき,日本が賠償義務を負うのはベトナム共和国となり,未だ確定していない賠償内容については,ベトナム共和国と交渉することとなった。
日本国とベトナム共和国との間の賠償協定
その結果,昭和34(1959)年5月13日,日本とベトナム共和国(南ベトナム)との間で,「日本国とヴィエトナム共和国との間の賠償協定」が締結された。
下の写真がその御署名原本。当時の内閣総理大臣は岸信介。ベトナム共和国への支援は,共産主義の北ベトナム(ベトナム民主共和国)に対峙する意味もあった。
以下,全11条を引用するが,その第1条1項は,140億4000万円(当時は1ドル360円なので3900万ドル)に相当する日本国の生産物及び日本人の役務を,当該協定効力発生日から5年内に,賠償としてベトナム共和国に供与すると規定している。
現金ではなく生産物や役務とされているのは,サンフランシスコ対日平和条約14条(a)項1号が「役務賠償」を原則としていたことによる。
実際,避暑地で有名なベトナム中部の高原都市ダ・ラット(Đà Lạt)近くにて現役のダ・ニム水力発電所(Nhà máy thủy điện Đa Nhim)は,ベトナム共和国(南ベトナム)最初の水力発電所として,この賠償協定に基づいて日本により建設されたもの。昭和36(1961)年4月に建設が始まり,昭和39(1964)年12月に完成,運用を開始している。
昭和39(1964)年といえば,その年の8月2日に,アメリカがトンキン湾事件を起こし,いわゆるベトナム戦争にアメリカが本格的に介入を始めた年でもある。
北ベトナムとの国交
いわゆるベトナム戦争
昭和39(1964)年8月2日以降,アメリカが本格的に介入した「ベトナム戦争」は,ベトナム共和国(南ベトナム)国内においてテロやゲリラを行っていた南ベトナム解放民族戦線(Mặt trận Dân tộc Giải phóng miền Nam Việt Nam)いわゆるベトコンと戦うベトナム共和国(南ベトナム)政府軍を支援するため,南ベトナム国内に地上軍を派遣し,かつベトコンを陰で支援していた北ベトナム(ベトナム民主共和国)の軍事・軍需施設などを空爆するというもの。
アメリカと北ベトナムが当事者として戦争をしたわけではない。
この意味でのベトナム戦争が始まった当時,日本は南ベトナム(ベトナム共和国)との間で国交を有していたが,北ベトナム(ベトナム民主共和国)との間では国交はなかった。
パリ和平協定 アメリカ撤退
昭和48(1973)年1月27日,ベトナム民主共和国(北ベトナム),ベトナム共和国(南ベトナム),南ベトナム共和国臨時革命政府(Chính Phủ Cách Mạng Lâm Thời Cộng Hòa Miền Nam Việt Nam/ベトコンが南ベトナムで樹立した臨時政府)及びアメリカ合衆国の4当事者により,パリで和平協定が締結される。
この和平協定の目的は,この4当事者による「ベトナム戦争」の終戦であり,当該和平協定に基づき,同年3月29日,アメリカ軍は南ベトナムから完全に撤退した。
こうして,アメリカにとっての「ベトナム戦争」は,「名誉ある撤退」をかろうじて保つ形で昭和48(1973)年3月29日に終わっていた。日本も認識を同じくし,”ベトナム”も朝鮮半島と同じように,同じ民族の国家が南北に分断して存立することが恒常化されるものと考えた。
日本と北ベトナムとの国交樹立
「ベトナム戦争」の終戦をもって,日本は北ベトナムとの国交樹立に動き,昭和48(1972)年9月21日,パリのベトナム民主共和国総代表部にて,日本国政府とベトナム民主共和国の代表が「外交関係樹立に係る交換公文」に署名するに至った。
北ベトナムにおける日本大使館
国交樹立当初,北ベトナム・ハノイにおける日本の大使館は,現在のグランド・ホテル・メトロポール・パレスに置かれていた。
1901年にフランス人によって開業した歴史あるホテルで,平成31(2019)年2月にトランプ大統領と金正恩の会談した場所でもある。
ベトナム戦争当時の北ベトナムでは「統一(Thống nhất)ホテル」と呼ばれていた。当時,日本のメディアで2社だけハノイでの支局設置が認められていたのは,日本共産党「赤旗」とNHKを"レッドパージ"された人が設立した「日本電波ニュース社」であるが,2社とのその支局は「統一(Thống nhất)ホテル」に置かれていた。
国交の併存から統一へ
昭和27(1952)年6月18日に成立した南ベトナム(当初はベトナム国),昭和48(1973)9月21日に成立した北ベトナム,同日以降,日本は,南北2つのベトナムの国家と国交を有することになった。
南北ベトナム両国と国交を有していたのは,ヨーロッパを中心に日本を含め24カ国しかなかった。アメリカは北ベトナムと国交はなく,アメリカからお金をもらって参戦していた大韓民国も北ベトナムとは国交がなかった。
もっとも,日本が南北ベトナム2カ国に国交を有するという状態は,2年と続かなかった。
サイゴンの最期
昭和50(1975)年3月10日,北ベトナム軍は,パリ和平協定を一方的に破り,北緯17度線を越えて南ベトナム内に侵攻を開始する。
アメリカ軍は既に完全に撤退しており,援軍として再び駆けつけてくることはなかった。
アメリカ軍の後ろ盾がなかった南ベトナム政府軍は各地で敗走,同年4月30日,南ベトナム(ベトナム共和国)の首都サイ・ゴン(Sài Gòn)が陥落する。同月21日に辞任していたグエン・バン・チュー(Nguyễn Văn Thiệu)大統領など政府要人が海外へ逃亡したこともあり,ベトナム共和国(南ベトナム)は崩壊・消滅した。南ベトナムを力で制圧・統合したベトナム民主共和国(北ベトナム)は,昭和51(1976)年7月2日,ベトナム全土を領土とする国として,現在のベトナム社会主義共和国(Cộng Hoà Xã Hội Chủ Nghĩa Việt Nam)を称することになる。
昭和48(1973)9月21日に成立した日本と北ベトナム(ベトナム民主共和国)との国交が維持されることになる。他方,南ベトナムとの間で昭和27(1952)年6月18日に成立した国交については,南ベトナム(ベトナム共和国)と言う国家とともに消滅した。
南ベトナムを吸収合併したような北ベトナムが,仮に南ベトナムと日本の国交のほうを維持したとすれば,令和4(2022)年で国交樹立70周年となっていたのである。
ちなみに,アメリカがベトナム社会主義共和国と国交を樹立するのは,遥か後年の平成7(1995)年であり,大韓民国は平成4(1992)年であった。
北ベトナムへの賠償の代わり
北ベトナムは,日本との国交樹立にあたり,「日本国とヴィエトナム共和国との間の賠償協定」に基づく南ベトナムに対する賠償で”ベトナム”に対する賠償は解決済との日本の立場を尊重して,日本に賠償を求めることはしなかったようだ。
その代わりに約2000万ドルの無償資金援助が供与された旨が,下掲の日経新聞は報じている。
日本での風景
平成31(2019)年の4月30日は平成最期の日であるが,時を昭和50(1975)に遡り,所をベトナムに替えると,サイゴン(Sài Gòn)最期の日である。
その日を報じる当時の朝日新聞を読んでみた。
当時の日本・東京には,南ベトナム(ベトナム共和国)からの留学生が多数いたようだ。その首都サイゴンが北ベトナムに攻め落とされた事実について,私の母校,一橋大学で経済学を学んでいたフックさんは,インタビューに答えて,次のように話している。
他方で,今の老人が学生だった頃,付和雷同に火炎瓶を投げていたのと時を同じくし,昭和44(1969)に結成された「ベ平統(ベトナムの平和と統一のために闘う在日ベトナム人の会)」系のベトナム人約50人が,現在ベトナム大使館が建つ渋谷区元代々木町の南ベトナム大使館に「大使館を人民に返せ」と押しかけ,うち29人が大使館に乱入したため逮捕された。
と上記の朝日新聞は報じている。
東京で弁護士をしています。ホーチミン市で日越関係強化のための会社を経営しています。日本のことベトナムのこと郷土福島県のこと,法律や歴史のこと,そしてそれらが関連し合うことを書いています。どうぞよろしくお願いいたします。