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日越関係の濃淡

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朱印船貿易時代から現在に至るまでの淡く時により濃い日本とベトナムの関わり
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記事一覧

ランソンで烈士となった日本人

ベトナム北部,中華人民共和国との国境に近いランソン市(TP Lạng Sơn)の烈士墓地(Nghĩa trang Liệt sỹ Tp Lạng Sơn)に,一人の日本人の記念碑が建てられている。しかも別格扱いで。 記念碑には次のように刻まれている。 この墓地は,いわゆる越中戦争で犠牲になった烈士を弔う施設。 1979年(昭和54年)2月17日,中国共産党の人民解放軍が国境を越え,ベトナムに侵略してくる。中共はこの戦争を「懲罰戦争」と呼んでいるが,自身が支援していたカンボ

日越こそ国交樹立50周年

ベトナム社会主義共和国との国交昭和48年9月21日に成立した国交  日本とベトナム社会主義共和国(Cộng Hoà Xã Hội Chủ Nghĩa Việt Nam)との間で国交が樹立されたのは,昭和48(1973)年の9月21日とされている。  令和4(2022)年9月29日は中華人民共和国との間で国交が樹立されて50年となる日であるが,翌令和5(2023)年9月21日は,日本とベトナムの国交樹立,50周年となる日である。  しかしなが,昭和48(1973)年の9月21

焼身供養を見届けたAustin

フエ(Huế)のティエン・ムー寺 (Chùa Thiên Mụ)1601年建立  ベトナムの古都フエ(Huế)郊外にある天姥寺(ティエン・ムー寺 /Chùa Thiên Mụ)。1601年建立というから,日本では関ヶ原の翌年,ベトナムではフランス植民地支配の気配すらなかった頃に,この寺は建てられた。  下の写真は,フランス植民地支配のなかで”戦後”の1945年までフエ(Huế)を都とした続いた阮王朝(グェン/Nguyễn )三代皇帝の紹治帝(Thiệu Trị)が1845年

天領小名浜にとってのホイアン・Hội An

ベトナムに渡った福島県人「南洋学院」という外地校  戦時中の昭和17(1942)年から昭和20(1945)年にかけて,ベトナムのサイゴン(現在のホーチミン市)に,日本が設立した「南洋学院」という学校があった。  所管は,陸海軍ではなく,文部省と外務省の共管。「大東亜共栄圏」の題目のもと,ベトナムなど東南アジアにおいて,現地住民と意思疎通を図りつつ施政を担う日本人人材の育成を目的とした。実際,ベトナム語などを集中的に学ぶカリキュラムが組まれており,選考に合格した生徒は,非軍人

福沢諭吉「Phúc Trạch Dụ Cát」維新「Duy Tân」と訳した”Minh Trị(明治)”のベトナム

「Huyết thơ diễn ca」が刷られた明治の日本日本官憲監視下にあったベトナム  「Huyết thơ diễn ca」  そうベトナム語で題された本稿タイトル写真の書籍は,明治42(1909)年2月20日,(当時の)東亰市神田区表神保町保町十番地所在の関根石版印刷所において550部が印刷され,翌21日に「発行者」へ引き渡される予定だったが,その前に日本の公安当局に押収されたもの。  「Huyết thơ diễn ca」とは日本語・漢語では「海外血書」と訳される

「腹案」にはなかった真珠湾と「要領」にもあった東亜の独立

【11月5日 第七回御前会議】議題は「帝国国策遂行要領」  昭和16(1941)年11月5日(水)午前10時30分,宮中東一の間にて,留保つきながらイギリス,アメリカ及びオランダとの開戦を決定する御前会議が開かれた。  その議題は,同月1日に大本営政府連絡会議が決定した「帝国国策遂行要領」。時の内閣総理大臣は東條英機氏。前月18日に首相に就任したばかりであるが,後の極東国際軍事裁判において,この開戦決定の責を負うことになる。  帝国国策遂行要領は,僅か二箇条。  アメリカ,

新高山に登る前に日の出を山形で迎えた昭和16年12月8日未明の日本

【昭和16年12月12日付け閣議決定】陸軍山形・海軍新高山  写真の「X日に関する隠語表」には”瀬島”の押印があるが,これは,昭和16(1941)年11月17日,陸軍参謀本部作戦課にあった瀬島龍三氏によって作成されたものであることを示している。  X日とは開戦日でありその隠語は「ヒノデ(日の出)」とされた。ぎりぎりまで戦争を避けるためのアメリカとの交渉が行われたが,開戦が不可避となり,陸軍はその日を「ヤマガタ(8日)」に決定した。  海軍の「新高山登レ一二〇八」に対し,陸軍

1963年11月ジェム南ベトナム大統領とケネディ米国大統領の暗殺

 昭和38(1963)年11月2日,当時のベトナム共和国(南ベトナム/Cộng hòa Miền Nam Việt Nam)で反大統領軍事クーデターが発生,同国の初代大統領ゴ・ディン・ジェム(Ngô Ðình Diệm )が殺害された。  ジェム大統領は,サイゴン市に隣接する中華街(チョロン/Chợ Lớn,現在のホーチミン市5区)にある教会に隠れているところをクーデター軍により発見され,引っ張り出された上で,その場で処刑された。  本稿の写真は,平成30(2018)年の1

若松連隊 奉天からサイゴンまで

若松連隊こと歩兵第二十九連隊 遡ること80年前,昭和16(1941)年12月8日に英米対戦を生起した因縁は,その10年前,昭和6(1931)年9月18日に起きた柳条湖事件と,それに続く満洲事変にまで遡る。  満洲事変は「関東軍」の仕業ではあるが,実際に軍事行動を取ったのは,たまたま満洲にいて関東軍の指揮下に入れられていた仙台を本拠とする第二師団である。  第二師団は,宮城,福島及び新潟の3県を師管とする。その隷下連隊の一つにして主力の歩兵第二十九連隊は,福島県の会津若松を衛戍

日越 1945年9月2日 占領独立

ベトナムと日本にとっての1945年9月2日所はバーディン広場  ベトナムにおける1945年の9月2日は,ハノイのバーディン広場(Quảng trường Ba Đình)で,ホーチミン主席が独立宣言(tuyên ngôn Độc lập)を読み上げ,ベトナム民主共和国(Việt Nam Dân Chủ Cộng Hòa)として独立を宣言した日。ベトナム時間にして同日午後2時。  タイトルの写真は,1945(昭和20)年9月2日,バーディン広場(Quảng trường Ba

東京裁判 COUNT33. 仏印進駐

東京裁判 起訴状  極東国際軍事裁判所(いわゆる東京裁判)は,1943年12月1日のカイロ宣言、1945年7月26日のポツダム宣言,1945年9月2日の降伏文書及び1945年12月26日のモスクワ会議に基づいて,またこれらを実施するために設立された。  いわゆる東京裁判であるが,その起訴状は,1928年1月1日から1945年9月2日までの間における平和に対する罪,通例の戦争犯罪及び人道に対する罪について,28名の被告を訴追する55の訴因を挙げた長文のものである。  起訴状は

もう一つのミッドウェー”会”戦

それぞれのターニングポイントベトナム戦争 「ミッドウェー」  日本人であれば,その名を聞くだけで苦虫を噛むかの記憶が蘇る。  そのミッドウェー島で,昭和44(1969)年6月8日,アメリカのニクソン大統領とベトナム共和国(Việt Nam Cộng Hòa/南ベトナム)のグエン・ヴァン・チュー大統領(Nguyễn Văn Thiệu)との会談が行なわれている。  下の写真は,これを報じる朝日新聞の記事。  ベトナム戦争において,それまで増派の一途だった米軍だったが,新たに

柴五郎と「条約」

敗けたが賊軍下北半島に移住させられた会津藩  井伊直弼の暗殺により「安政」が終わり,文字どおり”幕末”に入った万延元年5月3日(1860年6月21日),後の陸軍大将にして日英同盟の陰の立役者,柴五郎は,会津藩の藩祖保科正之(徳川秀忠の御落胤)以来の世臣,柴家の五男として生まれた。  慶応4年9月8日(1868年10月23日),板垣退助率いる”西軍”が会津鶴ヶ城を包囲していた時,”新政府”は慶応から「明治」へ改元する。その14日後の明治元年9月22日(1868年11月6日),

戦後なき”若松連隊”

若松連隊こと歩兵第29連隊ベトナム語のポスターを貼るのは日本兵  写真は,既に”戦後”となっていた昭和20年(1945)9月,ベトナム南部サイゴンに”戦勝国”として進駐してきたイギリス軍グレイシー少将の最初の声明を,英語,仏語及びベトナム語で記したポスターをサイゴン市内に掲示する日本兵の姿。  当時,グレイシー少将の命令を受け,サイゴン市内の治安維持にあたっていたのは,福島県出身者で編成されていた陸軍第二師団隷下の歩兵第29連隊だった。  戦後,歩兵第29連隊の中には,これ