東京裁判 起訴状 極東国際軍事裁判所(いわゆる東京裁判)は,1943年12月1日のカイロ宣言、1945年7月26日のポツダム宣言,1945年9月2日の降伏文書及び1945年12月26日のモスクワ会議に基づいて,またこれらを実施するために設立された。 いわゆる東京裁判であるが,その起訴状 は,1928年1月1日から1945年9月2日までの間における平和に対する罪 ,通例の戦争犯罪 及び人道に対する罪 について,28名の被告を訴追する55の訴因を挙げた長文のものである。 起訴状は,東京裁判開廷日の昭和21(1946)年5月3日から翌4日にかけて,公判廷において全被告の出席の上,朗読された。
訴因三十三(COUNT 33.) 起訴状には,合計55件の「罪となるべき事実(訴因)」が記載されている。 その33番,すなわち訴因三十三(COUNT 33.) が,いわゆる仏印進駐 に関すものである。その罪名は,極東国際軍事裁判所条例第5条(イ) に規定された「平和に対する罪」 で,その”被害者”は,昭和20(1945)年3月9日に日本軍が武力で仏印から駆逐(明号作戦)するまでは”味方”だった,フランス共和国(Republic of France) である。
被告荒木,土肥原,平沼,広田,星野,板垣,木戸,松岡,武藤,永野,重光及び東条は,1940(昭和15)年9月22日及びその後,フランス共和国に対し,侵略戦争もしくは国際法,条約,協定または保証に違反する戦争を惹起した。 訴因15におけると同一の細目,条約条項または保証は,この訴因と関連がある。
「平和に対する罪」の根拠法 いわゆるA級戦犯を裁くため,戦後の昭和21(1946)年1月19日に制定されたのが,極東国際軍事裁判所条例 である。
極東国際軍事裁判所条例 なる法令は,実体法(刑法)と手続法(刑事訴訟法)という双法の性格を合わせ持つ。 事後法 との批判を免れることが出来ない「平和に対する罪」は,その実体法(刑法)的側面から,同じ事後法の「人道に対する罪」と,従前から国際法上認められていた「通例の戦争犯罪」とともに,極東国際軍事裁判所条例第5条 に規定されている。 つまり,仏印進駐に関する訴因三十三で起訴された各被告は,フランスに対する「平和に対する罪」を犯したのか否かが東京裁判では争われた。 もっとも,”事後法”の問題は別にしても,起訴状に記載された訴因三十三(他の訴因も同レベルであるが)には,各被告が,それぞれ何時,何処で何をしたことが「平和に対する罪」に該当するかの明記がない。これは近現代の裁判原則では有り得ないことではあるが,裁判の対象が漠然たるものだった結果,審理も判決も裁判所の恣意に流れたのは,このルールのもとでは,当然の帰結だった。
第5条(人並に犯罪に関する管轄) 本裁判所は,平和に対する罪を包含せる犯罪に付個人として又は団体構成員として訴追せられたる極東戦争犯罪人を審理し,処罰するの権限を有す。左に掲ぐる一又は数個の行為は,個人責任あるものとし,本裁判所の管轄に属する犯罪とす。(イ)平和に対する罪 即ち,宣戦を布告せる又は布告せざる侵略戦争,若は国際法,条約,協定又は保証に違反せる戦争の計画,準備,開始,又は実行,若は右諸行為の何れかを達成する為の共通の計画又は共同謀議への参加。 (ロ)通例の戦争犯罪 即ち,戦争法規又は戦争慣例の違反。 (ハ)人道に対する罪 即ち,戦前又は戦時中為されたる殺戮,殲滅,奴隷的虐使,追放其の他の非人道的行為,若は政治的又は人種的理由に基く迫害行為であつて犯行地の国内法違反たると否とを問はず本裁判所の管轄に属する犯罪の遂行として又は之に関聯して為されたるもの。 上記犯罪の何れかを犯さんとする共通の計画又は共同謀議の立案又は実行に参加せる指導者,組織者,教唆者及び共犯者は,斯かる計画の遂行上為されたる一切の行為に付,其の何人に依りて為されたるとを問はず責任を有す。
訴因三十三にかかる被告と判決 いわゆ東京裁判で,いわゆるA級戦犯として起訴された被告は28名。 うち「平和に対する罪」に該当するとして訴因三十三で起訴された被告は10名。起訴状では松岡洋右 (元外務大臣)と永野修身 (元海軍大臣)も起訴されているが,両名は裁判中に病死している。 8名となった訴因三十三に関する被告に対する判決は,以下のとおりで,有罪になったのは元外務大臣の重光葵 と,元陸軍大臣・内閣総理大臣の東條英機 の2名である。 荒木貞夫 無罪 土肥原賢二 無罪 平沼騏一郎 無罪 廣田弘毅 無罪 星野直樹 無罪 板垣征四郎 無罪 木戸幸一 無罪 武藤章 無罪 重光葵 有罪 東条英機 有罪
東京裁判における審理の概要 極東国際軍事裁判(いわゆる東京裁判)において,検察側の主張立証は1946年6月3日に始まり,1947年1月24日に終わった。 弁護側の証拠提出は,1947年2月24日に開始され,1948年1月12日に終了した。 検察側の反駁証拠と弁護側の回答証拠が許容され,証拠の受理は1948年2月10日に終わった。 総計して4336通の法廷証が証拠として受理され,419人の証人が法廷で証言し,779人の証人が供述書と宣誓口述書によって証言し,審理の記録は4万8412頁に及んでいる。 検察側の最終論告と弁護側の最終弁論は1948年2月11日に始まり,同年4月16日に終わった。 昭和23(1948)年11月4日,判決が言渡された。
仏印進駐(訴因三十三) 仏印進駐に関する東京裁判での争点 英米蘭と戦争に至る原因となったとされる,日本軍によるフランス領インドシナ(仏印,現在のベトナム,カンボジア及びラオ)への進駐は,1940年9月のハノイを中心とした北部仏印進駐 と,1941年7月のサイゴンを中止とした南部仏印進駐 とに大別できる。 それぞれ具体的な日時については,進駐の目的及び経緯と関係して,検察側及び裁判所と,弁護側とで大きく食い違っている。端的に言えば,仏印進駐について,前者らは「侵略戦争」とし,後者は交渉を重ねて合意された「協定に基づく進駐」と主張している。 日本が主張する仏印進駐の目的は,北部については「援蒋ルートの遮断」である。当時,重慶に本拠地を移していた蒋介石軍に対し,英米仏が仏印(ベトナム)を通じて武器などを送って支援しており,日本軍はこれが紛争長期化の原因と考えており,その遮断に踏み切った。 南部については「仏印の安定化」である。 下記の時系列からも推測できるように,当時,欧州においてフランス(ヴィシー政権)は,ドイツに降伏,むしろドイツに協力し,イギリスと戦火を交えていた(メルセルケビール海戦)。そのイギリスにフランスの植民地である仏印(ベトナム)が奪われる可能性があった。こうなると蒋介石軍と交戦状態にあった日本にとっても重大事である。 1940年5月15日 オランダ降伏 1940年6月22日 フランス降伏 1940年8月30日 松岡・アンリー協定 1940年9月 北部仏印進駐 1940年9月26日 米対日屑鉄輸出禁止 1940年9月27日 日独伊三国同盟 1941年7月 南部仏印進駐 1941年7月25日 在米日本資産凍結 1941年7月26日 在英日本資産凍結 1941年7月27日 在蘭印日本資産凍結 1941年8月1日 米対日石油輸出禁止 1941年8月1日 蘭印対日石油輸出禁止
なお,起訴状でも判決でも,日本による「侵略戦争」の”被害者”は,ベトナムではなく,あくまでフランスである。判決にはベトナムの”べ”の字も出てこない。 東京裁判では,東南アジアの人々ではなく,この地を植民地としていたフランスやイギリスやオランダやアメリカに対する攻撃が「侵略戦争」か否かが争われ,裁かれた。ベトナム(他のアジア諸国も同じだが)に軍を進めた日本の意図や目的については,一顧だにしていない。 ちなみに,戦後,フランスがBC級戦犯を裁くためにサイゴン常設軍事裁判所で行った「サイゴン裁判」においても,全39件の裁判全てについて,フランス人を被害者とするもので,ベトナム人(カンボジア人及びラオ人も同じ)を被害者とする事件は,起訴でさえ1件もされていない。
オランダ領東インド諸島(インドネシア)について オランダは,1940年5月17日,欧州でドイツに降伏している。 しかし,フランスと違って,ロンドンに亡命したオランダ政府はイギリスと同盟を結び,対ドイツの旗幟を鮮明にした。 同盟国イギリスに歩調を合わせるように,オランダ亡命政府は,1941年7月27日, 在蘭印(インドネシア)の日本資産を凍結し,日本と締結していた石油協定を停止した。同年8月1日には,石油協定を破棄,アメリカと同じく,日本への石油輸出禁止の措置を取った。 それだけでなく,オランダは,日本が昭和16(1941)年12月8日にアメリカ及びイギリスに宣戦布告したことを受け(オランダには宣戦布告していない。),同日,日本に対し,宣戦布告するに至った。 その意味で,1942年1月以降の日本のオランダ領東インド諸島(インドネシア)への進軍は,既に宣戦を布告していたオランダに対するもので,相手は準備万端,奇襲でも想定外でもない。
判決理由 極東国際軍事裁判所の判決全文 毎日新聞社が昭和23(1948)年12月に極東国際軍事裁判所の判決全文 を刊行している。これは今でも国立国会図書館のWebページからも閲覧・ダウンロードできる。
【佛印】 訴因三十三,すなわち仏印進駐に関する判断部分の主なものは,「B部 第7章 太平洋戦争」のうち【佛印】 ,【南部佛印の占領】 及び【結論】 である。
【佛印】 フランス及びタイとの協定を正式に締結するために,松岡は日本に帰った。この協定は,かれがベルリンに向かって出発する前に取極め,ベルリン訪問中にそれぞれの対する支持を得ておいたものであった。フランスが降伏して後間もなく,1940(昭和15)年6月に,中国向け物資の輸送禁止が確実に守られるようにするために,佛印に軍事使節団がはいるのを許すようにという日本の要求に,フランスは無理に同意させられた。この軍事使節団は,1940年6月29日に,ハノイに着いた。 日本の内閣は,その外交政策を決定していたので外務大臣松岡は,1940年8月1日に,この政策を実施する措置をとった。かれはフランス大使を招き,佛印に関して,フランスにとってはほとんど最後通牒に異ならないものを手交した。また,同盟と日本の佛印侵入に対してドイツの承認を得ることについて,かれはドイツ大使と話し合った。 松岡はフランス大使に自分の意見を告げた際に,日本は軍事使節団の佛印入国許可を感謝しているが近衛内閣としては,フランスが日本軍の北部佛印進駐を許し,中国国民政府に対する行動のために,同地に航空基地を建設する権利を与えることを望んでいると告げた。フランス大使は,この要求は,日本が中国に対して宣戦布告をしていないのに,フランスにそれをするように要求するに等しいものであると指摘した。松岡は,この要求は必要から生じたものであって,それが容れられない限り,フランスの中立が侵されることになるかもしれないと答えた。松岡はフランス大使に対して,もしこの要求が容れられるならば,日本はフランスの領土保全を尊重しできる限り早く,佛印から撤兵すると保証した。 松岡はフランスに対する自分の要求をドイツ大使に知らせ,もしドイツ政府がこの措置に反対せず,その勢力を用いて,フランス政府が要求を容れるようにしてくれるならば,感謝すると述べた。フランス大使は,1940年8月9日に,日本の要求をはっきりさせること,仏印におけるフランスの領土権を保証することを求めた。松岡は,1940年8月15日に,ヴィシーのフランス政府を動かすことによって,日本の要求を支持するように,ドイツ政府に対して,重ねて要請した。その日に,日本の要求を容れる決定がこれ以上遅れるならば,軍事行動をとるといって,かれはフランスを威嚇した。8月20日と25日に,松岡とアンリー大使の間で,さらに交渉があった後,8月25日に,アンリーは日本外務省に対して,フランスは日本の要求に従うことに決定したと通知した。交換文書から成るいわゆる松岡・アンリー協定は,1940年8月30日に調印 された。 松岡・アンリー協定によれば,仏印の進駐はもっぱら中国に対する行動のためであると述べられているので,臨時的のものであるはずであったし,またトンキン州に限られることになっていた。さらに日本は極東におけるフランスの権益を尊重すること,特に仏印の領土保全と佛印連邦の全地域におけるフランスの主権を尊重することになっていた。 航空基地の建設と日本軍のトンキン州進駐とに関する取極めは,ハノイにある日本軍事使節団長と佛印総督との間の交渉に任された。佛印総督は,日本軍事使節団長西原の要求にはなかなか応じなかった。1940年9月4日に,西原はその使節団をハノイから引揚げ,南支派遣日本軍 を佛印国境を越えて進駐させる命令を出すといって威嚇した。1940年9月4日に,協定が調印されたが,一部の細目は後に解決すべきものとして残された。1940年9月6日に,中国にあった日本陸軍の一部隊が国境を越えて仏印にはいった。この行動は間違って生じたものであるといわれ,交渉が続けられた。 1940年9月19日に,アメリカ大使は松岡を訪問した。そして,外務大臣に対して,日本のフランスに対する要求は佛印の現状の重大なる侵害であり,日本の内閣の声明に反するものと合衆国政府は認めると通告した。しかし,すでにドイツ政府と了解が成立しており,三国条約は数日中に調印される予定であったために,大使の抗議は無視された。 外務次官は,9月19日に,フランス大使に対して,9月23日までに,西原と佛印総督との間に協定が成立しない限り,日本陸軍はその日に国境を越えて仏印にはいると通告した。日本軍事使節団は,9月22日に,予定の侵入の準備として,佛印を引揚げて乗船した。日本陸軍は,その日の午後2時30分に,佛印進駐を開始した。現実の侵入に直面して,総督に,日本の要求を受諾するほかはなくなり,1940年9月24日に,トンキン州の軍事占領,佛印内における航空基地の建設及び軍事施設の供与に関する協定に調印した。トンキン州の占領は急速に進み,航空基地が建設された。
最後の段落であるが,両軍の連絡の不行き届きから,確かに一部武力衝突は起きたが,協定自体は,その衝突の前,1940年9月22日午後2時頃に成立している。衝突後ではない。弁護側はそれに沿う証拠を提出しているが,判決でそれが斟酌されることはなかった。
【南部佛印の占領】 【南部佛印の占領】 1941年7月19日,大島はリッペントロップに対して,ヴィシーのフランス政府に対する日本の最後通牒の覚書を交付した。この覚書は,「南方への進撃」の第一歩として,佛印に軍事基地を確保するために,最後通牒が送られたのであると説明した。この南方への進撃というのは,シンガポールとオランダ領東インドに対する攻撃を意味していた。かれはドイツ政府に対してヴィシー政府が最後通牒を受諾し,日本政府の要求に応ずるように勧告してもらいたいと要請した。豊田(貞次郎)は7月20日に,東京駐在のドイツ大使に,内閣の更迭は7月2日の御前会議の政策決定に影響を与えるものではないと知らせた。ヴィシーフランスは暴力に服するよりほかに途が亡くなったといって,最後通牒の条項をドイツに報告した後,日本の最後通牒を受諾し,日本の要求に同意した。協定に従って,南部佛印を占領し,サイゴン付近に八カ所の航空基地とサイゴン及びカムラン湾とに海軍基地を建設するために,4万の兵が7月24日に出港した。正式の協定は,7月28日に承認され,その翌日に調印された。東條,武藤,鈴木及び岡は,7月28日の枢密院会議に列席し,内閣を代表して,この協定を説明した。この協定は,6月25日の連絡会議の決定に基づいて,7月2日の御前会議できめられた措置の一つであること,内閣と参謀総長及び軍令部総長は一致しており,内閣の政略に従って適切な措置をとるために,連系会議をほとんど毎日宮中で開いていることを東條は述べた。
南部仏印進駐については,北部進駐と異なり,僅かな武力衝突も起きていない。実際,9月21日ないし22日に,フランス本国でフランス外相と駐仏日本大使との間で南部仏印進駐を内容とする日仏印共同防衛に関する協定が成立しており,当該協定に基づいて同月29日にサイゴンに上陸している。
【結論】 【結論】 日本のフランスに対する侵略行為,オランダに対する攻撃,イギリスとアメリカ合衆国に対する攻撃は,正当な自衛の措置であったという,被告のために申立てられた主張を検討することが残っている。これらの諸国が日本の経済を制限する措置をとったために,戦争をする以外に,日本はその国民の福利と繁栄を守る道がなかったと主張されている。 これらの諸国が日本の貿易を制限する措置を講じたのは,日本が久しい以前に着手し,かつその継続を決意していた侵略の道から,日本を離れさせようとして講じられたもので,まったく正当な試みであった。このようにして,1939年7月26日に,アメリカ合衆国は日本との通商航海条約を廃棄すると通告した。それは日本がすでに満州と中国のその他の広大な部分とを占拠した後のことであり,また,この条約が存在していても,中国にある合衆国国民の権益を日本に尊重させることがすでに長い間できなくなっていたときのことであった。これらの権益を日本に尊重させるように,何か他の手段を試みてみるために,それは行われたのである。その後に,日本向け物資の輸出に対して,次々に輸出禁止が課されたが,これは日本が諸国の領土と権益を攻撃する決意をしていることがだんだん明白になったからである。つまり,日本が決意していた侵略的政策から日本を離れさせようとする試みとして課されたのであり,また,諸国が自国に対する戦争を遂行するための物資をこれ以上日本に供給しないようにするためであった。ある場合に,たとえば,アメリカ合衆国から日本へ油の輸出を禁止した場合に,これらの措置がとられたのは,侵略者に抵抗している諸国の必要とする資材を蓄積するためでもあった。さきに挙げた被告のための主張は,実に,日本が侵略戦争の準備をしていた当時に発表した日本の宣伝を単に繰返しているにすぎない。隣接諸国の犠牲において,北方,西方及び南方に進出しようとする日本の決定は,日本を目標にして,なんらかの経済的措置がとられたときよりも,ずっと以前に行われていたのであり,日本はその決定からかつて離れたことがないということを証明する文書を今日では,詳細にわたって手に入れることができる。その今日において,日本の宣伝がまた長たらしく繰り返されるのをじっと辛抱しているということは,容易なことではない。弁護側の主張とは反対に,フランスに対する侵略行為,イギリス,アメリカ合衆国及びオランダに対する攻撃の動機は,日本の侵略に対して闘争している中国に与えられる援助をすべて奪い去り,南方における日本の隣接諸国の領土を日本の手に入れようとする欲望であったことは,証拠が明らかに立証するところである。 本裁判所の意見では,1940年と1941年の当時における日本の指導者は,佛印でフランスに対する侵略戦争を行うことを計画した。フランスが佛印内で日本に駐兵権と航空基地及び海軍基地に対する権利とを譲与するように要求することを,かれらは決定していた。また,要求が容れられない場合には,フランスに対して武力を行使する準備をしていた。もし必要になったならば,要求を貫徹するために,武力を行使するという威嚇の下に,かれらは実際にフランスに対してこのような要求を行なったのである。フランスは,当時の自国の状態からして,武力の威嚇に屈しないわけにいかず,この要求を容れた。 本裁判所はまたフランス共和国に対して侵略戦争が行われたものと認定する。日本軍による佛印の各地の占領は,日本がフランスに強制して受諾させたものであったが,いつまでも平和の状態のままでは続かなかった。戦況,時にフィリピンにおける戦況が日本に不利になってくるにつれて日本の最高戦争指導会議は,1945年2月に,次のような要求を佛印総督に提出することを決定した。(1)すべてのフランス軍と武装警察を日本の指揮下におくこと,(2)軍事行動に必要なすべての通信運輸期間を日本の管理の下におくこと。これらの要求は,1945年3月9日に,軍事行動の威嚇を伴った最後通牒の形で,佛印総督に提出された。拒絶するか受諾するかのために,かれは2時間を与えられた。かれは拒絶した。そこで,日本側は軍事行動によって要求を強行する措置をとった。フランス軍と武装警察は,彼らを武装解除しようとする企図に反抗した。ハノイ,サイゴン,プノンペン,ナトラン及び北部国境方面で,戦闘が行われた。ここに,日本側の公式記録を引用する。「北部国境地域では,日本軍は少なからざる損害を被った。日本軍は進んで僻遠の地のフランス軍分遣隊と山間に避退せるフランス軍の小部隊を制圧した。1ヶ月にして僻遠の地を除き,治安は回復した」。日本の最高戦争指導会議は,日本の要求が拒絶され,これを強行するために,軍事行動がとられた場合でも,「両国は戦争状態にあるとは看做されざるべし」と決定していた。本裁判所は,当時の日本の行動は,フランス共和国に対する侵略戦争の遂行を構成するものであったと認定す。
いみじくもアメリカ合衆国による対日経済制裁は,アメリカ合衆国の中国における権益を日本から守るためと堂々と述べている。東京裁判は,なぜアメリカの権益が中国に存在するのかの主張を許す場ではなく,その権益を害する日本の行為を非難する場だった。
各被告人に関する判決理由 重光葵 訴因三十三で有罪を言い渡された二人のうちの一人が,元外務大臣の重光葵 である。 重光葵は,1938年から1941年までイギリス駐在大使であり,仏印進駐には関係しようがない。1943年,東條内閣の外務大臣に就任している。有罪の理由は1945年3月10日に実行されたフランスの仏印からの武力排除(明号作戦)にあるのだろうが,はっきりしない。
(前略) かれが外務大臣になった1943年までには,一定の侵略戦争を遂行するという共同謀議者の政策はすでに定まっており,かつ実行されつつあった。その後は,この政策がそれ以上に樹立されたことも,発展させられたこともなかった。 本裁判所は,訴因第一について,重光を無罪と判定する。 1943年に,日本は太平洋における戦争を行なっていた。日本に関する限り,この戦争が侵略戦争であることを,かれは充分に知っていた。なぜなら,かれはこの戦争を引き起こした共同謀議者の政策を知っており,実にしばしばこの政策を実行に移すべきではないと進言していたからである。それにもかかわらず,今や,1945年4月13日に辞職するまで,かれはこの戦争の遂行に主要な役割を演じたのである。 本裁判所は,訴因第二十七,第二十九,第三十一,第三十二及び第三十三 について,重光を有罪と判定する。訴因第三十五については,かれは無罪である。
東條英機 訴因三十三に関して有罪とされたもう一人が,東條英機である。 東條英機が内閣総理大臣に就任したのは昭和16(1941)年10月18日であり,既に南部仏印進駐が完了している。明号作戦が実行された1945年3月9日には,既に前年7月22日に総理を辞任していた。 確かに北部・南部仏印進駐時に陸軍大臣ではあったが,それらに対する彼の具体的な関与は何ら判示されず,もはや「東條英機」というだけでの有罪認定である。 ちなみに唯一無罪となった訴因三十六は,いわゆるノモンハン事件に関するものである。その理由は陸軍大臣就任前だったからか。
(前略) 1940年7月に,かれは陸軍大臣になった。それ以後におけるかれの経歴の大部分は,日本の近隣諸国に対する侵略戦争を計画し,遂行するために,共同謀議者が相次いでとった手段の歴史である。というのは,これらの計画を立てたり,これらの戦争を行ったりするにあたって,かれは首謀者の一人だったからである。かれは巧みに,断固として,ねばり強く,共同謀議の目的を唱道し,促進した。 1941年10月に,かれは総理大臣になり,1944年7月まで,その職に就いていた。 陸軍大臣及び総理大臣として,中国国民政府を征服し,日本のために中国の資源を開発し,中国に対する戦争の成果を日本に確保するために,中国に日本軍を駐屯させるという政策を,終始一貫して支持した。 1941年12月7日の攻撃に先だつ交渉において,かれが断固としてとった態度は,中国に対する侵略の成果を日本に保持させ,日本による東アジアと南方地域の支配を確立するのに役立つような条件を,日本は確保しなければならないというのであった。かれの大きな勢力は,ことごとくこの政策の支持に注ぎこまれた。この政策を支持するために,戦争を行うという決定を成立させるにあたって,かれが演じた指導的役割の重要さは,どのように大きく評価しても,大き過ぎるということはない。日本の近隣諸国に対する犯罪的攻撃に対して,かれは主要な責任を負っている。 この裁判において,かれはこれらの攻撃が正当な自衛の措置であったと主張し,厚かましくもそのすべてを弁護した。この抗弁については,われわれはすでに充分に論じつくした。それはまったく根拠のないものである。 訴因第三十六については,訴因第三十六で訴追されている1939年の戦争に対して,東條に責任を負わせるような公職を,かれが占めていたという証拠はない。 本裁判所は,訴因第一,第二十七,第二十九,第三十一,第三十二及び第三十三 について,東條を有罪と判定し,訴因三十六について,無罪と判定する。
弁護人の主張 東京裁判で弁護人が提出した証拠 東京裁判史観というものがある。 仏印進駐に関する極端なものは,「日本はベトナムを武力侵攻し,これを占領した」というもので,フランスが1945年3月10日までベトナムを支配していた事実すら忘れ去られている。本家の東京裁判も,日本軍がフランス領インドシナを武力で占領したとしている。 これに対し,東京裁判における弁護人は,1945年8月15日までは普通に考えられていた日本の主張を代弁する多くの証拠を提出している。 以下に引用する証拠は,そのうちの「宣誓供述書」の一部ではあるが,判決文では,これらの是非が論じられることはなく,そもそも斟酌された形跡すらうかがわれない。
澤田茂の宣誓供述書 澤田茂は,1940年9月の北部仏印進駐時,陸軍中将であり参謀次長の職にあり,作戦当事者の一人である。同人の昭和22(1947)年8月14日付け宣誓供述書の概要は,以下のようなものである。なお,その全文を引用し,かつ原文ファイルを添付する。 北部仏印進駐の目的は,支那事変の早期解決のため,重慶(蒋介石軍)への補給路となっていた北部仏印に進駐し,これを遮断することにあった。 8月30日,仏印進駐に関する基本的合意が,東京にて,松岡外務大臣とアンリー駐日フランス大使との間で成立した。 これを受け,ハノイで進駐の細目を決める交渉が重ねられた。 大本営は,9月22日正午を期限とし,同期限まで成立しない場合には翌23日零時をもって武力行使も含めて進駐するという命令を出していた。協定は,22日正午に数時間遅れて成立した。 22日正午までに協定が成立したとの報告がなかったため,南支那派遣軍の一部が23日零時に仏印領内に進入し,仏印軍との戦闘が生じた。
北部佛印日本軍進駐事情 一、 私は1939年10月から1940年11月まで参謀次長の職にあり,その当時の参謀総長は閑院宮殿下でありました。 二、 支那事変の早期解決は日本の一貫した方針 でありまして,作戦の長期化と共に,私は参謀総長の許可と陸軍大臣の諒解とを得て香港に渡り,密かに日支双方の軍代表者で和平に●する連絡会議を開いたのでありますが,容易に纏まらず,遂に重慶の重要なる補給路である北部仏印とビルマルートを遮断することが極めて緊急なる要求 となってきました。これがための日本政府をヴィシー政府及び英国政府と交渉し,その結果これらのルートは自発的に閉鎖せられることとなり,仏印には1940年6月西原少将を長とする国境監視委員が派遣されました。 三、 佛印ルート閉鎖後,重慶側は佛印国境付近に逐次兵力を増加し,佛印内に侵入するの危険を感じたので,日本側は北部佛印防衛のため日本軍隊の北部佛印進駐を必要とするに至りました。東京ヴィシー両政府交渉の結果,1940年8月,松岡外相とアンリー大使との間には日本軍隊の北部佛印進駐に関する協定が成立 し,その細目は河内において日佛印度軍当局間に協定せられることになりました。 四、 河内(筆者注:ハノイ)での交渉は中々困難でありましたが,漸く9月4日には一応調印するという運びに至りました。しかるに不幸なことには,9月5日に,佛支国境にあった日本軍の森本大隊が偵察のため国境に近づきましたところへ,国境が不明なために佛印国境隊長から,その拠が佛印領内である旨の告知を受け,森本大隊は直ちに帰還した事件が起こりました。ただし,日佛印軍隊間には一発の銃弾も交わされなかったのであります。しかして後の調査によれば,森本大隊の出た地点は果たして佛印領内が否か不明だということでありました。 五、 佛印側は,この偶然的の事実を口実として既に調印するばかりになっていた細目協定の全部を破棄するという強硬な態度に出てきましたが,日本側は依然平和交渉に望みを繋いで更に交渉を始めましたが,仏印の態度は中々強硬で,容易に妥結に至りませんでした。 六、 当時佛印当局はヴィシー政府に忠誠を表明してはおりましたが,内実においては多少疑わしいとの情報がありました。特に既にヴィシー政府の承認した日本軍隊の北部佛印進駐実施を,口実を設けて遷延せんとする仏印の態度には疑惑を抱かしむるものがありました。そこで大本営は河内における細目協定に関し,多少断乎たる態度を示す必要を認め,9月22日正午を期して仏印側の最後的回答を求むるよう西原少将に訓令 しました。しかし大本営はあくまで円満に協定が成立して,平和的に進駐できることを希望しましたが,万一佛印側がこれを拒否するにおいては,自由進駐もまた已むを得ずと考え,南支派遣軍 に対し予め和戦両様の進駐準備を命じました。この大本営の命令は協定が成立すれば,その協定に従い海防(筆者注:ハイフォン)港より平和的に進駐し,もし9月22日正午までに佛印側の応諾を得なければ,23日零時佛印内に進駐し,佛印軍抵抗するにおいては武力を行使することを得るものでありました。 この命令は現在は焼却されて無いとのことです。 なお,この南支軍の微妙な行動を指導するため,参謀総長は作戦部長(筆者注:冨永恭次陸軍少将)を南支軍に派遣しておきました。 七、9月22日正午が和戦の岐れる時 でありましたが,仏印の強硬なる態度に対し,あくまで平和を希望する日本側は遂に譲歩して,ここに漸く平和的に進駐の協定が全部成立したのであります。これがための協定の成立は予定の時刻正午より数時間遅れた のであります。 八、 この協定成立の報は直ちに南支軍に伝えられ,軍司令官は部下兵団に平和進駐に移るべきことを命じました。しかし,正午までに協定が成立せざりしとの報により,自由進駐の行動を開始した第一線兵団は山間僻地に分散して行動中であり,前線の連絡意の如くならず,第一線兵団は協定の成立を知らずして9月23日零時,佛印内に進入を開始し,ここに遺憾なる国境戦闘を惹起しました。 九、 国境戦闘は東京からの命令と,これに先んじて執った安藤南支軍司令官の適切なる処置とによって大なる発展を見ることなく停止せられ,日本軍は戦利品を全部返還して事件に解決しました。 十、 海防(筆者注:ハイフォン)方面の海面では,協定によれば,日本輸送船団は佛国海軍の案内で海防港に這入ることとなっておりましたが,北方の陸正面で戦闘が起こりましたので,防備のある海防港に入ることを危険なりと考え,その南方の海浜に戦闘を惹起することなく無事上陸しました。この上陸の際,哨戒に任じていた日本軍の飛行隊が隊長と部下との間の信号の誤から,若干の爆弾を海防市郊外に落としましたが,ここに進駐後その損害を賠償し,また隊長を処罰しました。 十一、 佛印進駐の兵力は組数千人位と記憶しておりますが,この遠隔した地にこんな僅少な兵力を孤立進駐さすことについては,作戦当事者は非常に危険視しましたが,参謀総長は,平和進駐の趣旨に鑑みて,必要の最小限度の兵力を決定されたのであります。 十二、 森本大隊の越境と国境戦闘の惹起とは日本中央部の最も遺憾とする偶発的の事件であり,事情真に諒とすべきものはありましたが,軍紀を緊縮する必要から,森本大隊長とその隷隊長とは軍法会議に付せられ処罰されました。また安藤,久納の両軍司令官は免職され,師団長は左遷されました。しかして中央部においても南支軍指導にあたった作戦部長は転職させられました。 十三、 以上のごとく北部仏印への進駐は支那事変の早期解決の必要に迫られて採用せられたものであり,進駐の方法としては,日本軍はあくまでも平和的でありました。即ち先ず委員をもって監視し,次いで兵力の進駐にあたっては当時の微力な佛印に属して二ヶ月余の交渉を重ね,しかも最後に日本側の譲歩によってこれを成立せしめたものであり,また進駐兵力は必要の最小限に止めて平和的の意思を表示する等,日本側としては平和友好に徹底的な誠意を表したものであります。
阿部勝雄の宣誓供述書 阿部勝雄は,1940年9月の北部仏印進駐時,海軍少将であり海軍省軍務局長の職にあった。北部仏印進駐については,海軍を代表して,陸軍とともに外務省当局との協議を行った。同人の昭和22(1947)年5月15日付け宣誓供述書の概要は,以下のようなものである。なお,その全文を引用し,かつ原文ファイルを添付する。 北部仏印進駐は,対蒋介石軍作戦上理由である援蒋ルート遮断の目的だった。 8月30日,仏印進駐に関する基本的合意が,東京にて,松岡外務大臣とアンリー駐日フランス大使との間で成立した。 これを受けた現地で進駐の細目を決める協定は,9月22日に成立した。 協定成立の日・佛印両軍への達するのに時間がかかったため,双方現地軍の誤解に基づき国境において若干衝突が起きた。 しかし,協定は両国間の平和的相互諒解の話合に基づき行われ,進駐もまた協定に基づいて平和裡に行われた。
一、 私は元海軍中将であります。昭和14年(1939年)10月から翌15年(1940年)10月,欧州派遣を命ぜらるるまで海軍省軍務局長の職にあり海軍大臣並びに海軍次官を補佐して主として一般海軍軍政軍備その他国防政策に関する事務を掌っておりました。 二、 北部佛印進駐は,私の右軍務局長在職当時に行われたことで,その外交交渉の行わるるに先ち,軍令部からの協議により軍務局長の職責上,海軍省側として,陸軍省側と共に外務省当局(主として欧亜局長,条約局長)との間に交渉の基礎事項に付き協議を開始したのでありました。 三、 その当時日本は支那事変処理に腐心していた時であり,大本営は支那事変解決を促進する一方策として佛印よりする援蒋物資の輸送路たるいわゆる佛印ルートの遮断を最も緊要と認め,陸軍派遣軍をして一時南寧を占領せしめ南寧飛行場から仏印に通ずる雲南鉄道の爆撃を試みました。しかし南寧は土地が狭くしかも●●の地であり特に雨季などには該飛行場の使用ができなくて,この援蒋ルート遮断には大した効果はなく依然援蒋物資の輸送は継続せられているの情報にありました。 そこで大本営は佛印ルートの遮断を確保するの必要上外務省より佛政府に対して相互に誠意を披瀝して平和裡に佛印内部より遮断の実行できるよう折衝方を陸海軍省に協議するに至ったのであります。 四、 そこで右の趣旨に基づき外務省当局は,私ども陸海軍当局と協議の末,いよいよ外交交渉の歩を進めることとなり,隠忍自粛の態度をもって折衝の結果,漸く佛印当局の諒解を得るに至り,ここに国境海港その他に監視員を置き,佛印経由の援蒋物資状況を監視することになり,昭和15年(1940年)6月,西原陸軍少将を首班とする陸海軍及び外務関係員の監視団が派遣されました。しかしそれでも仲々,援蒋ルート遮断の実はあがらずその目的は達成せられませんでした。 我方としては更にその遮断を確保するため,同年8月1日以来,東京において外務側が佛国駐日大使アンリーとの間に折衝を重ね,同年8月30日,松岡外相と右アンリー大使との会談において「日本軍が東京(トンキン,筆者注:ベトナム北部)地方へ進駐して援蒋ルート遮断を確実にすること,その他対支作戦への便宜供与」等基本的事項に付いて話合が成立しこれに基づきその具体的細目は,現地日・佛印両軍事当局間において協定することになりました。 五、 しかるに現地協定が速急に纏まらず漸く9月22日に至って纏まったところ,当該協定を出先の日本軍並びに佛印軍に通達するのに時間がかかったため,双方現地軍の誤解に基づき国境において若干衝突が起きたことがありました。この衝突は別として,右協定は両国間の平和的相互諒解の話合 に基づき行われ,進駐もまた該協定に従い平和裡に行われました。このことは現地よりの報告を受けて承知しております。 六、 要するに北部佛印に対する兵力の進駐は,前述の通り全く対支作戦上理由たる援蒋ルート遮断の目的 のための軍事上の便宜供与を得る以外には何ものもなかったのであります。したがってこの進駐は臨時的性質のものであり支那事変解決の随●解消するものであります。しかして,その適用せらるる範囲は,支那に境する印度支那の地域に限り,また日本政府は仏印の領土保全及び仏印に対する佛国の主権を尊重するものなることは,同松岡・アンリーの話合に確約せられているのであります。決して領土侵略的意図はありませんでした。
根本博の宣誓供述書 根本博は,1940年9月の北部仏印進駐時,陸軍少将であり南支那派遣軍(南支那方面軍)の参謀長の職にあった。 昭和15(1940)2月10日,南支那方面軍が新たに編成され,少将に昇進していた根本博はその最初の参謀長に就任した。広東省に本拠地を置き,同年7月23日に大本営直轄となった。 南支那派遣軍の編成目的は,北部仏印進駐の実行にあった。根本博は,前述の二人と異なり,実行部隊の参謀長という地位にあった。 同年9月5日,南支那方面軍の隷下に新たに仏印派遣軍 が編成される。ちなみに,仏印派遣軍の参謀長は長勇 大佐。長勇は,その後の南部進駐やマレー侵攻などにあたった第25軍の参謀副長を務めた後,沖縄に転じ,昭和20年6月23日,自決している。1971年に公開された映画「沖縄決戦」では丹波哲郎氏が演じており,下記の拙稿でも触れている。
仏印派遣軍 のほか,南支那派遣軍の隷下には,第5師団を含む第22軍 (司令官は久納誠一中将)と独立混成第19旅団 があり,これら合わせて3部隊が北部仏印進駐にあたったが,前述の澤田茂及び阿部勝雄の宣誓供述書にある9月23日の国境付近での仏印軍との衝突を惹起したのは,このうち第22軍隷下の第5師団 である。 南支那方面軍の司令官は安藤利吉 中将。参謀長が根本博 少将。参謀副長は佐藤賢了 大佐だった。 根本博の宣誓口述書に名が上がる佐藤賢了 は,陸軍にあって,植民地解放に熱心だった一人と言われている。仏印進駐後,開戦時に東條英機に近かったこともあり,最年少のA級戦犯として東京裁判の当事者になっている。訴因三十三では訴追されてはいないが,終身禁錮刑を言い渡されている(後に恩赦)。 根本博の昭和22(1947)年5月15日付け宣誓供述書の概要は,以下のようなものである。なお,その全文を引用し,かつ原文ファイルを添付する。
問 証人の年齢,住所を述べて下さい。 答 年は57年 住所は東京都南多摩郡鶴川村能ヶ谷1047です。 問 証人の略歴を述べて下さい。 答 私は明治44年(1911)陸軍士官学校を,大正11年(1922)陸軍大学をそれぞれ卒業し,その後,参謀本部員,陸軍省軍事課員,陸軍省報道部員を経て,旭川の連隊長となり,支那事変中は,北支那方面軍司令官寺内大将の幕僚となり,次て南支那派遣軍参謀長 ,満州駐在師団長,軍司令官を経て,終戦当時は北支那軍司令官 でありました。 問 証人が南支派遣軍参謀長在任中,佐藤賢了は同軍参謀副長でしたか。 答 はい。佐藤賢了氏は当時陸軍航空兵大佐で南支派遣軍の参謀副長をしておりました。 問 参謀副長としての佐藤の任務について述べて下さい。 答 佐藤は軍の装備,補給,給養等いわゆる後方の整備を主管して参謀長たる私をして後顧の患なく作戦に専念せしめていたのです。 問 参謀副長として下級参謀を指揮する権限がありましたか。 答 佐藤の主管事務を更に別言で申しますれば,軍戦闘力の充実を図る目的をもって軍司令部内の各部と密接に連絡し必要の事項を協定し業務の円滑を図り,参謀長たる私を補佐していたので佐藤には司令部内他の参謀を指揮監督の権限はありませんでした。 問 貴方の南支派遣軍参謀長在任中に日本軍が北部仏印に進駐したのですか? 答 そうです。 問 北部佛印進駐の際,日本軍と佛印軍との間に衝突の起こりたる経緯を詳細説明して下さい。 答 日本軍隊の北部佛印進駐は,昭和15年(1940年)8月,東京・ヴィシー両政府間に協定(ヴィシー政府は当時佛国の正当政府であった)せられた問題でありまして,これが実行は日本軍の代表者たる西原一策少将と佛印総督とが河内において細目協定を決定したる後,これに従ってなされることとなり,南支派遣軍としては佛印派遣軍の編成を大本営から命ぜられ,これが編成及び派遣準備に従事しておりました。 しかるに西原少尉の細目協定は容易に成立の見込みはありませんでした。 この時,大本営から自主進駐(自主進駐にて佛印軍の抵抗を受けたる場合には,これを排除するため武力を使用することを許可せられあり)の計画を携帯したる大本営陸軍作戦主任富永恭次少将を派遣せられ南支派遣軍は富永少将の指導によって更に自主進駐の計画を立案しました。 A、仏印と中国の国境すなわち鎮南関(筆者注:Trấn Nam Quan)を中央とする南北約80kmの広正面より第5師団を数縦隊となして進入せしめ。 B、仏印派遣軍(実力混成約1旅団)を海上より輸送して「A」と策応するため海防付近の海岸に上陸して河内に前進せしむ。 C、混成一旅団を海上より輸送して,ルウジュ河(筆者注:紅河/Sông Hồng)右岸地区に上陸せしめ必要に際し南,北仏印間の交通を遮断する,というので純然たる作戦行動でありますから,陸軍諸部隊は南支那派遣軍司令官が指揮に擔(担)り,海上輸送及び上陸部隊の掩護は南支那派遣艦隊司令長官がこれに擔(担)ることになりました。 すなわち細目協定が順調に妥結できれば,これに従って仏印派遣軍のみを海防港より揚陸して平和的に進駐させ,細目協定妥結の見込がなければ前記の計画どおり作戦行動的なる自主進駐を決行するという兩樣(両様)の計画でありました。 しかるに西原少将の実施したる細目協定は遅々として進捗せず,種々の経緯の後,西原少将は最後的対案を佛印提督に提示し,これが諾否の回答を9月22日正午 までを期限と定め,もし回答なければ自由行動を採る旨通告したのであります。 右自主進駐計画の完成と共に第22軍(久能中将指揮の軍),「A」,第5師団は,鎮南関南北の線において国境に接して展開して文進の準備を整え,「B」,佛印派遣軍は乗船して広西省欽縣沖に集合待機し,「C」,混成旅団は乗船して海南島海口沖に集合待機し,南支派遣軍司令官は所用の幕僚を従いて海南島海口の戦闘司令所に前進したのであります。 9月22日正午 に至るも仏印総督より何等の回答なくために,細目交渉は決裂と見られ,南支那派遣軍司令官は大本営命令の規定によって自主的進駐の行動開始時間を23日午前零時と確定したるにより,「A」,「B」,「C」の各進駐部隊に対し,23日午前零時 を期し進駐開始を命じました。 かくの如くにして,各部隊は各々行動を開始し特に第5師団は山間の細道を広正面に分散して国境線に推進しました。 この時突如として西原少将より佛印総督は日本側の協定案を受諾したとの至急電報が参りました。時間は正確に記憶しておりませんが夕刻(筆者注:9月22日) でありました。この電報を受領すると共に南支那派遣軍司令官は直ちに〇〇をもって自主進駐を中止するよう,各部隊に無電電信にて命令し,この始末を大本営に報告しました。大本営からもまた自主進駐を中止する●の指令がありました。 右の中止命令は「C」部隊に確実に伝わり海口沖に停止しておりましたが,「B」部隊すなわち佛印進駐軍は欽縣沖を出帆して海防に向い航行し,久能司令官は海口よりの電報を受領したので直ちに「A」部隊の第5師団長に進駐中止の電報を発信したのでありますが,この時既に夜間となり師団長は国境に向かって前進を起こした後でありましたから,師団の無線通信所では受信した暗号電報を携えて暗夜の悪路を師団長に追及しなければならないと云う困難に遭遇しましたが,万難を排して久能司令官の命令を師団長に伝達したのであります。 しかしながら,この困難のために非常に時間を費やし,師団長がこの命令を受領したのは,第一線部隊が国境を越ゆる予定時刻すなわち23日午前零時の20分前でありました。 師団長は直ちに各●隊に前進中止を命令したのでありますが,この前進中止の命令が中央●隊たる鎮南関方面の部隊長に届いたのが,23日午前零時40分でありまして●隊は既に「トンダン」の佛印軍と交戦中で暗夜と戦闘とのため如何ともなし難き●情であったとの報告であります。 中央●隊既に然り,まして2,30kmづつ遠隔した右●隊や左●隊等は夜明け後に漸く中止命令を受けたのでありますが,時既に戦況は中止不可能に陥っていたとのことであります。 軍隊は,駐止している間は無線,有線の電信,電話で比較的迅速に命令も伝わりますが,一旦行動を開始するや当時の日本軍の電信電話では,なかなか連絡はできない。次の駐止点に各部隊が到着するまでの2,3時間は,かくのごとき山地帯では,乗馬伝令以上の快速なる伝達機関がないことを了解せねばらならい。 南支那派遣軍司令官は,22日中は日没のため飛行機を出すことが出来ませんでしたが,23日の天明を待って直ちに偵察機隊を鎮南関方面に派遣して万一越境部隊等があれば直ちに通信筒を投下して国境●●に後退する様●●するの処置を採らしめ,次いで飛行師団長及び久能司令官からの報告により中止命令の伝達遅延して遂に進駐部隊は混戦状態に陥ったことを知り,飛行隊をして戦場の上空から戦闘中止の「ビラ」を散布させましたが,なお戦闘は終息するに至らず遂に戦闘中止を直接第5師団長に伝達すべく参謀を飛行により派遣したるも,●場付近の山地には雲ありて,師団司令部も着陸地をも発見する能わずして空しく帰還し事態は成り行きに任せるより他に手段はなかったのであります。 日本軍は自主進駐を中止したのであるが,命令伝達に時間を必要としたため中止命令を受領しえなかったところの第一線部隊は,予定時間の到来とともに一斉に越境を開始し,越境開始とともに佛印軍の発砲によって全面的戦闘に発展した。これに対し南支派遣軍司令官,久能軍司令官及び第5師団長はそれぞれ戦闘を停止せしむることに努力した。西原少将もまた小池大佐を戦線に派遣して佛印軍と協力して戦闘を停止せしむることに努力したが,山地内で広地域にわたって混戦状態に陥った戦闘を停止させるには相当の時間を必要としたのであります。 かかる好ましからざる戦闘を惹起した原因は,指定時間内に回答をなさざりしことと仏印側第一線部隊が総督の意志に反し日本軍に向かい発砲したること等にありまして日本軍が故意に作為したものではありません。 進駐当時の南支派遣軍司令官は安藤利吉中将であり,私(根本)がその参謀長,佐藤賢了大佐は参謀副長で私の指導下において私を補佐しておりました。 一同は海南島の海口に位置して全般の指揮にあたりましたが,前線と数百km離れておりましたので,指揮には非常に困難を嘗めました。 問 海防市街の爆撃について説明してください。 答 佛印派遣軍は海防港外に到着しまして進駐細目協定に基づき平和的に港内より上陸しようとしましたが,現地の佛印当局はこれを承諾致しませんので佛印派遣軍指揮官は港外より強行上陸をなしたいという意見を上申してきましたが南支派遣軍司令官はこれを許可せず西原少将の交渉の結果を待たせました。しかして愈々(いよいよ)交渉がまとまって明日上陸と云う時に及んで上陸日の延期を通告して来,その延期された上陸予定日の前日となるや再び上陸日を延期して来ましたので佛印派遣軍は海防郊外に仮泊して待つこと数日に及び暑熱のため軍馬は船内にて斃死(へいし)し,兵員は暑気のために暍病(熱中症)患者続出の有様となり,佛印派遣軍指揮官からこのまま仮泊地の窮屈な船内で待機させられたのでは暑気のために全員病気になって終うであろう。今,海防港外の海岸に上陸するならば必ず戦闘を惹起する●なことなく上陸可能であるから上陸を許可せられたいと云う意見上申がありましたので,南支派遣軍司令官は,戦闘を惹起せずとの指揮官の核心を条件として港外への上陸を許可いたしました。 しかして飛行隊には地上戦闘の惹起を予防するため上陸当日,天明とともに上陸地上空の哨戒を命じたのでありました。 飛行隊は航続時間の関係上,●●一個中隊をもってこれに充て爆弾は唯万一の変に備うるために搭載したるも固く戦闘を禁じて派遣した由であります。しかして,この中隊長は出発にあたって「爆弾は搭載したるも爆撃に往くのではないから爆弾は投下してはならない。万一爆弾投下の必要ある場合には隊長機の翼を振る。それまでは爆弾を投下してはならないと命令して出発した由であります(当時の日本爆撃機には無線電話等は無く,こんな幼稚な指揮法であった。)。かくて哨戒隊は,上陸地上空を哨戒中先頭の隊長機が局地的な悪気流に遭遇して動揺したため,これを見た編隊中の一機が隊長機が翼を振ったと誤認して,遂に投下●●を引いたのであります。 仏印派遣軍は予期のとおり戦闘を惹起せずに無事上陸を終わり,南支派遣軍司令官も連日連夜の心労より解放せられんとする瞬間,大本営より急電あり「海防爆撃の事情を詳細報告せよ」とのことに驚き,直ちに飛行師団長に命じて調査せしめたるところ,前記の事情判明したるにより,軍司令官はこれを大本営に報告するとともに,その過失者並びに責任者を懲罰したのであります。また右軍司令官の報告と殆ど行違いに,軍陸軍大臣から軍司令官罷免の通知を受けたのでありまして,その一飛行者の過失が誇大に伝わり遂に日本の最高首脳部までが一時的ではあったが南支派遣軍を誤解したことは,誠に遺憾でありました。しかしながら真相は間もなく判明し下級者の眩暈的過失なりしこと明瞭となりたるため,日本側は仏印側に陳謝,損害賠償をなし,事件は落着しました。
日笠賢の宣誓供述書 日笠賢は,1941年7月の南部仏印進駐当時,陸軍中佐であり大本営参謀の職にあった。南部仏印進駐を主な内容とする日仏印共同防衛 の詳細について,ハノイにて仏印政府側との交渉に加わった。 東京裁判の判決は全く触れられていないが,この宣誓供述書には,日仏印共同防衛について,7月21日ないし22日に,フランス本国にてダルラン外相と加藤駐仏大使との間で成立し,彼が加わったハノイでの細目に関する協議も同月23日には成立している。南部仏印進駐は,これらの協定に基づいて,同月28日から29日にかけて友好的に行われた旨を述べている。
一、 私は日笠賢であります。 私は,現在,東京都世田谷区北澤二丁目124番地に住居しています。私は1941年夏においては日本陸軍中佐で大本営参謀の職にあり,日佛印共同防衛の締結にあたりましては,当時ハノイに駐在していました澄田少将の実施する現地交渉を援助するの任務を受けて,大本営より派遣せられました。 二、 日佛印共同防衛に関する外交交渉は,フランス本国で当時のヴィシー政府の外相ダルラン氏と日本の駐仏大使加藤外松氏との間に,7月21日に成立し,同月22日に公文の交渉を終わっております。本交換公文の趣旨は,日本政府より直ちに澄田少将に通報せられました。佛印政府側も本国より遅滞なく通告を受けていたものと思われました。当時,日本側と佛印政府側との間柄は非常に友好的で,かつ終始緊密に連絡されてましたので交換公文に基づく現地取極めは,何らの支障なく円滑迅速に遂行いたしました。澄田睞四郎少将とドクー総督との間の文書の調印には,私は海軍及び外務省側の代表者とともに立会いたしました。佛印側も総督の他ジュアン官房長ら数名が列席していました。調印は極めて友好裡に談笑の間に間に行われました。 この取極の期日は,確実には記憶していませんが7月23日頃であったと思います。 三、 本協定の内容は主として日本軍の上陸地点,上陸日時,軍隊の進路及び進駐地域等の日本軍隊の行動及び宿営給養等に便宜を供与する件のほか特に日本軍と佛印軍との間の不慮の衝突発生を回避するため佛印軍との火砲の閉鎖機械撤去,日本軍の上陸する海岸付近の佛印軍の撤退要領及び撤退地域,佛印軍所在地の天空に対する標識設置等の具体的細部措置でありました。この協定文書は今回各方面に照会しましたが,これを発見することが出来ませんでした。 四、 私はこの協定成立の翌日,空路,海南島三亜に飛び現地に碇泊していました進駐軍たる日本陸軍最高指揮官に澄田・ドクー協定の成立模様及びその内容を伝達し特に不慮の衝突回避のための細心の打合せをいたしました。 次いで翌7月25日頃と記憶しますが私は澄田少将等と共にハノイより空路,西貢(サイゴン)に赴きました。 同地においては佛印側の現地軍隊と細部の取極が行われました。西貢における日佛印間の打合せ取極等も終始極めて友好裡に行われたことは勿論でありまして,日本軍上陸開始までの数日間は専ら不慮の衝突が起こらぬ様にするための有ゆる細心の注意と準備とに努力が向けられ,特に佛印軍隊の海岸よりの撤退を澄田●●が確認しこれを日本軍に通報し,しかる後に上陸することに手筈が定めてありまして,これがその通り実行されました。したがって日本軍の一部は7月28日,大部は7月29日に上陸しましたが,何らの事故も起こりませんでした。 五、 佛領印度支那の共同防衛に関する議定書が形式上調印せられたのは,1941年7月29日になっていることを後日文書で知りましたが,これより先7月22日の両国代表の交換公文は,以上の如く両方の政府から各出先機関に通告せられて,これに基づき円満に協定書を作り進駐したのであります。
東条英機訊問書よりの抜粋 弁護図書類626A−10号 最後は,1946年2月13日,法廷にて東條英機に対し行われた尋問を記した尋問書(抜粋)。 彼は,概要,仏印の占領を計画することはなかった,日本軍がフランスとの協定に基づいて進駐した,その南部仏印進駐の目的は「仏印の安定」にあったと,東京裁判の法廷で述べている。
問 南方進出に関連して計画せる諸措置如何 答 多分,佛印南部への兵力派遣であったと思う。 問 南方進出に関連して他に執った措置如何。 答 それだけだったと思う。 問 タイ国に関して何か予定せる計画ありしや。 答 あった様に思う。即ち同国との友好関係の強化に関してあった様に思う。これより前,即ち1941年5月9日,日本はタイ・佛印間の国境紛争を仲裁したことがある。 問 佛印の占領を計画せる事はなかったか。 答 そんな事はなかった。日本は1941年7月1日,佛印の安定を企図せる共同防衛条約を締結した。 問 これより前日本軍で,佛印へ進駐せるものがあったか。 答 全然ない。日本軍は条約に基づいて始めて派遣された ものである。該条約の調印は1941年7月29日にして,日本軍の佛印南部への派遣も同日行われたものである。この日本軍はこの協定に基づいて進駐したのである。 問 該条約以前に,佛印の応諾の有無に拘らず,同地への派兵は同年7月中に決定しておったのではないか。 答 全然かかる事はない。1940年9月22日に軍事協定が締結され,それに基づいて,日本軍の佛印北部の駐兵を見るに至ったのである。当時の状勢はと云えばシンガポール,比島等よりは依然軍事的圧力が引続き加えられ,1941年7月25日には米国が資産凍結を実施していたので佛印との平和的通商は非常に困難となっていたのである。日支事変は引続き進展中にして,佛印の安定 は極めて重要なる問題であった。 かくして,前記協定に基づき,7月29日に佛印南部への派兵が行われた。御前会議では,かかる状勢の変化を既に見越して,佛印問題に関し,フランスとの交渉を続行することに決定していたのである。 問 日本が,1941年7月に南方進出を決意せる真の理由は,原料を必要としたからではないのか。 答 これは勿論第一の理由ではなかった。第一の理由は,日支間に戦争が行われている限りは,佛印において安定を維持することが必要であったからである。しかしまた日本は中国における戦闘を継続するためにはもとより,国内生産を補強するためにも平和的貿易を大いに必要としていた。米国は対日貿易を既に停止していた。したがって日本は南方から,平和的貿易により,油,護謨(ゴム),ボーキサイト,錫及び食料等を獲得する必要があった。 問 印度支那の安定に関して,1941年7月に御前会議を招集するに至った緊急理由は何であったのか。 答 日支事変はなお進展中にして,日本はあらゆる努力を尽くし,挙げてその円満解決に努めていたのである。したがってその南方地域に何らか紛擾があれば,それは当然,事変の解決に好ましからぬ影響を齎(もたら)さざるを得ない。更に,東亜の安定を図るというのは,日本がかねがね以前より懐(いだ)ける理念でもあった訳である。第三の理由としては,もし佛印の情勢を未解決のままに放置するにおいては,佛印より輸入せる食糧,主に米を獲得することができなくなる。これら食料は日本にとっては緊急必要のものであった。 問 日支事変に関連して,佛印が軍事的にも利用価値を持つという点につき貴方じゃ陸相として考慮を払われたか。 答 勿論その点を考えた。軍事的見地より見て,北部佛印に●する限りは実際的に関連を有したことは云うまでもない。佛印北方よりする補給路は中国戦に取り妨げとなった。更に吾々は軍事的見地より佛印北部に航空基地を設定し,ビルマよりする補給路をも切断せしと欲したのである。しかし,欧州情勢に伴い,仏国の勢力が薄弱となったため,佛印北部のみならず,中部さらに南部においても兵力を駐屯せしめもって安定を維持することが緊要となったのである。 問 貴方は日本軍の佛印駐屯は,対中国戦に有利なる旨述べられたが,同様に英,米ないしは和蘭との間に万一戦争勃発の際にもそれが,日本にとり助力となるのではなかったろうか。 答 英・米・蘭よりする経済的,軍事的圧力は漸次加重されていた。佛印内の兵力駐屯は主として同国の安定を維持せんがためのものであった。しかし,この事は対中国作戦を有利ならしめ,かつ,平和的通商を招来する上にも実際役立ったのである。同国における兵力の駐屯は,防衛的軍事保護のためになされたのであり,国防上も適切なる措置であったと信ずる。
エピローグ~石油禁輸と対英米開戦 石油禁輸に対する国民の認識 前述のように,南部仏印進駐直後の1941年8月1日にアメリカは日本に対する石油の輸出を禁止する。これが英米蘭との開戦に至る原因というのが定説である。 アメリカは,1940年9月26日,日本軍による北部仏印進駐の直後に,石油ではなく屑鉄(鉄鉱石から鉄を造るより,はるかに容易かつ安価な戦略物資)の対日輸出を禁止している。 これについて,大阪朝日新聞は,同月28日,「今回,石油が除外されたことについては,今のところ二つの見解があり,第一は,アメリカとしてはすでに石油には許可制を実施しており(飛行機用ガソリン輸出禁止),これ以上何らの冒険を必要とせず単なる手心によっても対日輸出を全面的に禁止することが出来るから,わざわざ声明しなかったのだと解釈し,第二は,蘭印の石油の対日輸出が続く以上,アメリカのみ禁輸しても効果が少いのみならず,却って日本を刺激して蘭印侵略乃至は独伊への接近へと押しやることになってもつまらないから,今日はこの程度で止め,ひとまず日本の反響を見定めんとしているのだ,と解釈している。」 と報じている(神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫からの引用)。 記事にもあるように,1940年8月には既に飛行機用ガソリンの対日輸出が禁止されていた。それを含む「石油」全体の輸出禁止についても,大衆新聞紙が報じるぐらいであるから,日本の大衆レベルでも既に想定済みのことだったのではないだろうか。 アメリカは,当時の日本大衆も想定していたように「日本を刺激して蘭印侵略乃至は独伊への接近へと押しやること」を企図して,イギリスの同盟国となったオランダと歩調を合わせて,その想定どおりの行動をタイミングよく取ったのではないだろうか。 むしろ,予想外は,オランダ(蘭印)がイギリスと同調し対日禁輸を断行したことか。 以下,大阪朝日新聞の当該記事の全文。
昭和15年9月28日大阪朝日新聞 「屑鉄全面禁輸は明らかに対日報復」全文 【ニューヨーク特電二十六日発】 アメリカ政府は二十六日大統領声明の形式をもって第一級屑鉄輸出許可制に関する七月二十六日命令を取消しその代り十月十六日以降は第一級のみならず全部の屑鉄の輸出許可制を施行することおよび西半球とイギリスに対して特別の手心を加える旨発表した、当業者の談によれば七月二十六日以後今日まで第一級の屑鉄で輸出許可を申請すれば許可を与えられ実際の商取引には何らの支障も来さなかったが今後は全面的に禁止されるものと見、しかしてアメリカ当局が鋼材、地金、銑鉄類にいたるまで許可制拡大を研究しているとの情報も注目される。 西半球およびイギリスに対して手心を加えるならば黙ってやっても十分出来ることであるのにわざわざこれを明言したのは日本に対する嫌がらせであると同時に対内的に人気取り政策であり声明の冒頭における「アメリカ国防強化上必要なる原料を保存するため」云々の説明を無意義たらしめている。 今回石油が除外されたことについてはいまのところ二つの見解があり第一はアメリカとしてはすでに石油には許可制を実施しており(飛行機用ガソリン輸出禁止)これ以上何らの冒険を必要とせず単なる手心によっても対日輸出を全面的に禁止することが出来るからわざわざ声明しなかったのだと解釈し、第二は蘭印の石油の対日輸出がつづく以上アメリカのみ禁輸しても効果が少いのみならず却って日本を刺激して蘭印侵略乃至は独伊への接近へと押しやることになってもつまらないから今日はこの程度で止め一まず日本の反響を見定めんとしているのだと解釈している。【同盟ワシントン二十六日発】 ルーズヴェルト大統領は二十六日屑鉄および屑鋼の禁輸断行を宣言したがアーリー大統領秘書は当日新聞記者団と会見し屑鉄禁輸措置を説明して左のごとく語った ルーズヴェルト大統領の命令は国防諮問委員会、特に同委員会の原料品価格管理部と協議のうえ決定されたものである、屑鉄の種類は約七十五品目あるが実際に輸出されているものは十三品目にすぎず、その中ヘヴィー・メルティング型種が最も重要されている、これまでヘヴィー・メルティング種屑鉄に対しては自由に輸出許可証が発給されており、さらに十月十六日までは引続き自由に発給される、しかし同日以降七十五品目の屑鉄全部が許可制度のもとに置かれ輸出許可証は西半球諸国及びイギリスに限ってのみ発給されるものである【同盟ワシントン二十六日発】 ルーズヴェルト大統領が二十六日発表した屑鉄および屑鋼の対日禁輸措置は仏印問題に対する対日牽制策と見られているがアーリー大統領秘書は二十六日記者団との会見に際し「今回の発表は仏印問題の進展と何らか関連があるのか」との質問に対し「今回の措置は国務省の承認を得ている」とのみ答え、更に「ルーズヴェルト大統領は極東情勢に関しガーナー副大統領その他共和党領袖達と協議すべく考慮しているか」との質問には「ルーズヴェルト大統領は極東情勢の進展につきハル国務長官と絶えず電話で連絡を保っているが特別に会議を開くというような考えがあるかどうかは余は知らない」と答え次に「石油についても同様の措置を計画しているか」との質問に対しては「未だ何も聞いていない」と口を緘した。