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天領小名浜にとってのホイアン・Hội An

ベトナムに渡った福島県人

「南洋学院」という外地校

 戦時中の昭和17(1942)年から昭和20(1945)年にかけて,ベトナムのサイゴン(現在のホーチミン市)に,日本が設立した「南洋学院」という学校があった。
 所管は,陸海軍ではなく,文部省と外務省の共管。「大東亜共栄圏」の題目のもと,ベトナムなど東南アジアにおいて,現地住民と意思疎通を図りつつ施政を担う日本人人材の育成を目的とした。実際,ベトナム語などを集中的に学ぶカリキュラムが組まれており,選考に合格した生徒は,非軍人の若者である。。
 「南洋学院」については下掲の拙稿で詳述しているが,その第一期生で福島県福島市出身の亀山哲三氏が著したのが「南洋学院 戦時下のベトナムに作られた外地校」である。

「日本人の東南アジアへの漂流」という記録

 「南洋学院 戦時下のベトナムに作られた外地校」のなかで,その著者の亀山哲三氏が,日本とベトナムとの交流について勉強していた際に行き着いたのが「日本人の東南アジアへの漂流」という記録である。
 次のように記されている。

 陸奥国磐城郡小名浜村,住吉丸船頭善四郎ら六名,明和2年11月(1765年),江戸への廻米中に漂流し,安南国へ翌年正月,漂着,同四年のち三名帰国す

「南洋学院 戦時下のベトナムに作られた外地校」より

 「陸奥国磐城郡小名浜村」とは,現在の福島県いわき市小名浜のこと。「安南国」とは,現在のベトナムのこと。
 昭和時代の亀山氏からすれば,江戸時代,郷里福島県の小名浜を出航した住吉丸(当然に帆船)の乗員が,遥か南方であり遥か東方のベトナムに漂着し,さらに,後に日本へ帰国したという歴史の存在に驚いたはずである。
 令和の我々は尚更である。

「南洋学院 戦時下のベトナムに作られた外地校」より

鎖国前の日越交流

 いわゆる鎖国前における「朱印船貿易」と呼ばれる日本と安南(ベトナム)との交流については,下掲の拙稿をご覧ください。

鎖国中のベトナムへの漂着

天領小名浜・住吉丸の漂流

 住吉丸は,明和2年11月3日(1765年12月15日)に小名浜港を出発,銚子を目指した。「銚子内海江戸廻り」という航路で,銚子から利根川を上って最終的には江戸に運ばれた。
 しかし,銚子に達することなく,その晩に遭難している。
 3ヶ月近い漂流の後,翌年正月25日,ようやく陸地を発見する。上陸地はベトナムであるが詳細は不明。当地の官憲に拘束される。その後,フエ(Huế)を経て,同年6月10日に,ホイ・アン(Hội An)へと移送されることになる。
 当時,2ヶ月も洋上を漂流した上に,太平洋とは反対側の遥か南のベトナムに辿り漂着するという事実は,小説でも描けない。しかも,遠くない後に日本に帰国しているのである。
 当時の小名浜は天領。つまり徳川氏の領地。
 天領・小名浜の港からは,東北諸藩から集められた年貢米(これが「廻米」)が江戸に向け,主に銚子に海送されていた。
 この住吉丸の船主は,小名浜にて「升屋」の屋号で海運業を営んでいた小野四郎右衛門とされている。小野四郎右衛門は,安永5(1776)年,「御代の大仏」を(現在のいわき市鹿島)光西寺の安置に尽力したそうで,大仏台座正面にもその名が刻まれている。
 ともかく,住吉丸は遭難にも耐えうる立派な船だったであろうし,銚子に着く前に遭難したことから,江戸に運ぶ年貢米(廻米)を食べ命を繋いだのかもしれない。

水戸徳川家領内磯原村・姫宮丸の漂流

 風が招いた偶然だろうか。
 小名浜の住吉丸と同じ頃,水戸徳川藩領内の磯原村(現在の北茨城市磯原町)の姫宮丸も,小名浜から江戸(銚子)への廻米の海送の途中,遭難し,ベトナムにまで漂流。しかも,後に長崎に帰国している。
 姫宮丸の船主は,廻米問屋の野口弥八郎。「七つの子」や「赤い靴」など童謡作詞家として知られる野口雨情の先祖である。野口家は代々の廻米問屋の名家で,雨情が生まれた明治時代でも裕福だったそうだ。
 姫宮丸は,(現在の茨城県)笠間藩から年貢米(廻米)の江戸・銚子への海送の任にあたっていた。

安南国漂流記

主演の姫宮丸と特別出演の住吉丸

 姫宮丸の漂流については「安南国漂流記」という記録が残されている。これは,帰国した姫宮丸の乗員を長崎まで引取りに来た水戸藩の役人で地理学者の長久保赤水が乗員から聞き取った内容をまとめたもの。
 この「安南国漂流記」こそ本稿タイトルの写真であり,国立国会図書館に書蔵されている下掲の資料である。

 ちなみに,住吉丸については,小名浜も長崎と同じく幕府代官が管理する天領(幕府領)なので,水戸藩領の姫宮丸とは別な措置がなされたのであるが,実は,水戸藩(姫宮丸)の記録である「安南国漂流記」,その終盤で小名浜の住吉丸も”特別出演”しているのである。

明和2年10月15日(1765年) 小名浜へ

 水戸徳川家領内磯原村(現在の茨城県北茨城市磯原町)の野口弥八郎が所有する姫宮丸は,乗組員6人で,明和2年10月15日(1765年11月27日),海路,天領の奥州小名浜に向かった。奥州とはいっても,磯原から小名浜は歩いても5時間程度の距離。
 姫宮丸は,小名浜で「牧野越中守様」の廻米620俵(約300石)を積み込む。「牧野越中守」とは(茨城)笠間藩。姫宮丸が笠間藩から依頼された任務も,住吉丸と同じく年貢米(廻米)の江戸・銚子への海送であったが,なぜ(茨城)笠間藩の年貢米を(福島)天領・小名浜で積み込むことになったのかについては,本稿の最後で記す。

明和2年10月25日 小名浜出航

 明和2年10月25日夕方,笠間藩(飛び地)の廻米を積み込んだ姫宮丸は,小名浜を出帆する。

明和2年10月28日 銚子に着船

 同月28日午前8時頃,下総国銚子浦へ着船している。銚子は,譜代高崎藩大河内松平家の”飛び地”。前述のように,年貢米をはじめ太平洋側の東北諸藩の物産は「銚子内海江戸廻り」という航路で,銚子に運ばれ,銚子から利根川を上って最終的には江戸に運ばれた。
 同年11月1日,姫宮丸は,廻米の全てを河岸へ上げて,役人方から受取証文を受領する。
 これで姫宮丸の笠間藩から依頼された役目は果たしたことになる。
 しかし,姫宮丸の乗組員にとっての不幸は,この帰帆の際に起こる。

明和2年11月5日 銚子出航・遭難・北東へ

 同年11月5日午前8時,姫宮丸は,磯原への帰帆に向けて銚子浦を発ち,順風のもと6〜7里を北に達した頃,急に西南からの難風が吹き,東の方へ吹き飛ばされた。姫宮丸は,帆を下し碇を二つも下したが,風は次第に烈しくなり,碇綱が切れて船が止まらなくなった。非常に危険な状態なので帆柱を伐倒した。
 しかし,波が高く海水が船中に流込み,必死に水を汲出しましたが追いつかず,乗組員一同覚悟を決め髷を切り神仏に祈願した。大綱をたらしに引かせて同年11月6日晩方まで東北の方へ流された。この辺りの位置について,安南国漂流記には「方角も不明ですが奥州相馬沖あたりではと思います。」とある。一旦,銚子沖から北東方向に流され,現在の福島県相馬沖に流されたようだ。

明和2年11月6日 相馬沖で東南に

 同年11月6日晩方より風は静かになり少し北西の風に変った。この風向きの変更について,安南国漂流記には「昔から難風に遭遇して北に流されて助かる者はなく,西南へ流された者は助かると聞いていたので良い風であり,たらしを引上げて帆桁を柱にし,十二反の帆を八反に縮めて,風任せで東南の沖へ吹き返されました。」とある。
 風任せだった漂流,その風が希望の東南に運ぶものに変わった。
 同年11月8日の夕方より強い北風と大雨で西南方へ同年11月10日の晩まで流された。しかし島も山も全く見えない。それよりも北西の風が吹き同年11月11日まで東南へ走り方角も分らなくなった。また,その夜から翌12日まで雹交じりの雨風の大嵐が西から東の沖へ吹き,綱を有るだけたらしに引かせたが,風は益々強くなり船も転覆しそうになった。そこで帆桁も倒し,伝馬船も捨てた。
 安南国漂流記にこの時の心境について「この時はもう逃れられないと思いました。」とある。
 この風は同年11月11日から同月13日まで続き,姫宮丸は三日三晩東へ流された。同月13日から北西の風が毎日吹き,東南の方へ同月23日まで風任せに走りました。安南国漂流記には「この時,見たことのない大鳥が船の前後を飛廻り,こんな見馴れぬ鳥がいるとはどんなに遠い大海かと心細く思いました。」とある。「見たことのない大鳥」とは,伊豆鳥島がその繁殖地として有名なアホウドリかと思われる。

明和2年11月23日 硫黄島付近で西南西に

 ここで風向きが再び変わり,姫宮丸の運命も逆転する。
 同年11月23日の10時頃から,東からの風に変り,姫宮丸は西南西へ走りはじめた。
 この”運命の”方向転換の位置について,正確なものは不明ながら,「安南国漂流記の解説」は硫黄島の近くとしている。いずれにしても,明和2年11月23日,姫宮丸は,硫黄島付近と思われる地点から西に方向を変え,ベトナムに向かうことになった。そのまま東に向かっていたら,対岸のアメリカまでは絶望的である。
 同年11月23日から同年12月10日まで毎日西へ西へと東風に乗って走る。

明和2年12月10日 「島」を発見

 同年12月10日の朝,初めて山を見付け,6人ともに大いに喜び人里があるのではと船を寄せたが,無人の焼山の島だった。そのほかにも6,7つの島を見ましたが何れも無人島。更に西の方には国土があるに違いないと,また風任せで同年12月10日から同月17日まで七日七夜休まず走った。 
 こうして,安南国漂流記にある「実に神の助けと思いました。」という奇跡が起きる。 

明和2年12月17日 ベトナム上陸

 同年12月17日の午前8時頃,西南の方に陸山が見えたので,大喜びで陸地へ方へ近付くと,漁船を一艘見付けるに至った。人懐かしく大声で呼びかけたが,飢えと疲れで声も出ず,筵旗で合図する力もなく足も立たず倒れる様な状態だった。漁船は,姫宮丸を見付け驚いて様子で,たちまち見失ってしまった。
 しかし,漁船があることは,近くの陸に人が住んでいることは明らか。
 それから渚へ漕ぎ寄せたところ,遠浅で船を着けることができないので碇を下げ,善右衛門と庄兵衛の両人が陸へ上った。伝馬船が無いので裸になり衣類を捧げて行った。船中では立てぬほど疲れていたが,陸へ上る嬉しさで波にゆられて楽々と行った。
 両名が上陸した地について,安南国漂流記には「安南国マイニケハマ」とある。現在のベトナムのどこかは不明だが,ホイ・アン(Hội An)から30km北のダ・ナン(Đà Nẵng)辺りの小村と思われる。
 この時は米も水も全く無くなっており,米を調達する為に銭四百文持参している。そこへ,村人が70から80人,手に手に竹鎗や山刀などを持ち一斉に渚へ来た。
 善右衛門と庄兵衛の両人が初めてみた安南人(ベトナム人)の印象は,安南国漂流記に「総髪で歯は黒く,何か赤い物と食べたか,口の両脇は赤い汁で汚れ,恐ろしい様子です。」とある。両人は大いに驚いたが,覚悟を決め,たとえ鬼であろうが逃げ帰るものかと側へ近寄り言葉をかけたが,全く通じなかった。 
 庄兵衛は,直ぐに「日本水戸国」と砂に書いて見せたが「本」の字が分らぬ様に見えたので,「本」を正字に書き換えると理解した様子だったという。
 当時,日本でもベトナムでも知識階級の公用語は「漢語」であり,漢語を使うことで意思疎通の可能性があったが,この浜辺で遭遇した日本とベトナム人にも若干の知識はあったようだ。
 その後,「飢えているので食べ物をくれ」と手真似で伝えたが,少しも通じない。庄兵衛は,姫宮丸へ戻りその旨を報告し,左平太と十三郎も陸へ上って「米」という字を書いて見せたところ,早速米四升程を持って来てくれた。非常に飢えていたので,四人共集まり二握ずつ噛み砕き食べたという。もうひと握りと手を出すと,村人はその手を押さえ,生米は腹に良く無いので飯を炊いてあげるとの手真似したので,我々もまた船中の二人の分も少し下さいと手真似し,残りを炊いて貰ったという。
 それから村人が粥を持って来たので,陸の四人が先ず少しずつ食べた。暫くして晩方にも粥を持って来たのでこれも食べた。その後,角柱に穴を空けた足枷を持って来て,上陸していた四人の足を片足ずつ一本にはめ,両端を縄で縛り,その夜は砂上で寝た。
 銚子を出帆してから43日のことである。
 翌12月18日,残り二人も船から上げ彼等にも足枷をはめ,村人達は船から荷物や衣類持運び,姫宮丸を川へ引込んでくれた。乗員が所持していた銭四貫文も取上げられ,姫宮丸の乗員は砂の上に。食事は諸役人が作って運んでくれました。 番人も始に上陸の時は八十人で後には六・七十人が番をしていました。冬ではあったが昼は日差しが強く堪らないので山から木を伐り出して日除けをしてくれた。
 同年12月23日の夜前,足枷を外して2,3丁陸の家屋の空家に連れて行かれ,そこで食事をした。その後,別の役人らしき家へ引出され,色々話があったが,やはり少しも通じない。また空家へ帰り縄で片足を縛られていたが,同月25日には縄も解かれ,そこで越年(明和3年へ)をした。

明和3年1月 越年

 正月の様子は葉竹一本づつ門に立てて祝うというもので,当時の日本は今昔ベトナムと同じく旧暦を使っており,日本と比較しても余り変ったところはなかったようだ。
 明和3年1月15日(1766年2月23日)から人足が二人づつ姫宮丸乗員に付添い,近所の家々から米を貰って食事をすることになる。同年1月15日より前の食事については,先に渡した銭四貫文で与えてくれた様だが,残りは返してはくれなかった。乗員も漸く村人と付合いもでき,米搗屋等の手伝で働き,米を求めて命を繋いだ。

明和3年2月〜6月 清国人の詐欺に遭う

 同年2月になると,(清国)南京のコククワンサンという者が日本語で話しかけて来た。姫宮丸の乗員も興味を持ち,日本へ帰る便が無いものかと尋ねた。彼は「簡単なことだ」と言い,乗員を役人の所へ連れて行き,役人と話をして帰っていった。「長崎へ渡ることができるのか」と尋ねると「簡単だ」と言うだけで何処かへ行ってしまった。
 その後,同年2月23日,コククワンサンが来て「いよいよ日本に同伴する,先ずここから十四・五里南に会安(ホイ・アン/Hội An)と云う大きな港へ行くのだ」と言った。同月26日,在所の役人に暇乞いをした上で,姫宮丸にコククハンサンも同乗して会安(ホイ・アン/Hội An)へ向かった。 風向きが良くなく所々に立寄り,川は引船に頼り,漸く同年3月1日に会安(ホイ・アン/Hội An)へ着船した。
 翌日,コククワンサンは,会安(ホイ・アン/Hội An)の役所へ行き,何か話をしていたが,姫宮丸の乗員には通じなかった。役人から米銭など貰って船に戻り,以後,コククワンサンの世話で同年6月まで姫宮丸に滞留した。船道具の中で大綱,引綱,碇や水樽をコククワンサンが売り払った。代金が幾らかは知らされてなかったが,この間の食料代になったようだ。
 この時,南京船が会安(ホイ・アン/Hội An)に逗留していたので,「何とか便船で日本までは行かずとも,せめて南京迄は渡航したい」と願うと,コククワンサンは「金さへあれば米や薪等の費用を前金で船長に渡して直ぐにも便船に乗せられる」と述べたのである。
 そこで,姫宮丸の乗員は「是非に宜しく頼みます」と金四両をコククワンサンに渡し,コククワンサンは金四両を受けとって姫宮丸を出て行った。
 しかし,同年6月15日に船から出て後,コククワンサンとの連絡が途絶えた。現地の役人にも彼の行方について相談したが,言葉も通じず全く埒が明かず放置せざるを得なかった,という。
 それぞれの国民性は明和の頃も令和になっても変わらない。

明和3年6月 姫宮丸と住吉丸の”会安”

 明和3年6月15日,金四両を渡して日本への帰国を託した南京人コククワサンが姿を消して以降,途方に暮れていた姫宮丸の乗員に,次のような情報が耳に入った旨が安南国漂流記に記されている。

奥州岩前郡小名浜の者三人がこの辺に漂着しているとの情報を役人から聞き,私等三人が行って面会しました。彼等は船も失っているので私達の船へ同道して一緒に住みました。

 磯原・姫宮丸の乗員がホイ・アン(Hội An )に着いたのは,明和3年(1766年)3月1日。他方,小名浜・住吉丸の乗員がホイ・アン(Hội An )に着いたのは,同年6月10日。その数日後の同年6月15日頃,磯原・姫宮丸は,安南人コククワンサンに騙され,途方に暮れていた。
 方言レベルで言葉が通じる両者が,文字どおりの”会安ホイ・アン(Hội An )”で出会うことになるは,その頃である。磯原の姫宮丸も小名浜の住吉丸も,明和2年11月に小名浜ー銚子間で遭難,太平洋・南シナ海を漂流し,翌明和3年正月頃にベトナム中部に漂着している。奇しくも同年6月15日頃に,その乗員たちがホイ・アン(Hội An )落ち合うことになるのである。全くの異国で,言葉が通じるほぼ同郷人と遭遇することは,さぞ勇気づけられたことであろう。
 当然,行動をともにすることになる。
 なお,姫宮丸の善右衛門は,同年5月末以来病気にかかっており,医者にも診て貰っていたが,同年7月15日頃から病状が悪化し,同月24日に44歳で亡くなった。これを現地役人に届けると,銭一貫文と棺を人足2,3人が持参してきたので,乗員でこれを墓場へ葬った。同年8月13日になると十三郎も病気にかかり,これも医薬の効なく同年9月5日に33歳で亡くなった。同様に,役人から棺と銭が届けられ,葬られた。
 住吉丸の生き残り3人と,姫宮丸の生き残り4人の合計7人が行動を共にすることになる。
 明和3年7月10日,役人に面会し「何とか便船で日本までは行かずとも,せめて南京迄は渡航したい」と願い出たところ,はじめはその可能性を示唆していたが,同月13日に再度訪ねると「当年は不可能」との回答だった。力を落として悲嘆にくれたが,その後,船中から代わる代わる出掛けて町で仕事をしたり,あるいは米搗屋の手伝い等で日雇いとなり,米や銭を求めて暮した。
 住吉丸の乗員も姫宮丸の乗員の合計7人は,このホイ・アン(会安/Hội An )で越年することになる(明和4年へ)。

明和4年2月15日 ”情け深い”清国人

 明和4年2月15日,「日本人がここに漂着している」と聞いていたとする南京船の船長のトンタイクンシという者が,彼の旅宿に住吉丸・姫宮丸の乗員を招き,「日本への便船で送るから,ここに来て一緒に食事して出船を待ちなさい」と日本語で語りかけてきた。安南漂流記には「仏に逢った様な気持ち」とあるが,同月18日から7人全員が船から上り,この南京人の世話になった。
 トンタイクンシ,タイフウサン及び遊横庵らは皆情け深い人々で親切にしてくれ。なかでもトンタイクンシは親方の様で年頃は60余の高潔な紳士だったという。住吉丸・姫宮丸7人へ単物14着,雪踏14足,銭九貫文を援助してくれ,そのほかに煙草なども時々与えてくれた。同年5月2日には,姫宮丸を南京人の世話で安南銭六貫文で売り払って代金を受け取ることができた。

明和4年6月20日 ホイ・アン出航

 こうして,同年6月20日にホイ・アン(会安/Hội An )を出帆することができた。
 安南国漂流記には,帰国の航路について「道すがら左の方に大清国の陸山が幽に見え,日本の海よりも波は静かでに島もありません。一つの灘を走っている時,台湾島を右に見ましたが,たいへん大きな島です。それからウンシン島を目標にして日本へ近寄り,安南から長崎まで昼夜休まずに北北東に走り日数27日で到着しました。道程860里と聞きました。」とある。

明和4年7月16日 長崎に帰国

 住吉丸・姫宮丸の7人と,船長ら水夫67人の合計74人が,同年7月16日に長崎に到着した。
 住吉丸の3人は明和2年11月3日に小名浜を発ったその日に,姫宮丸の4人は同月5日に銚子を発ったその日という,殆ど同じ日に遭難し,漂流することになったが,奇しくも明和3年6月にホイ・アン(会安/Hội An )で出会い,助け合いながら漂流から約1年6ヶ月後に日本への帰国を果たす。
 住吉丸と姫宮丸の合計7人を乗せた南京船は,台湾海峡を通り,”ウンシン島”がどこの島かは不明であるが,ホイ・アン(会安/Hội An )から長崎まで途中寄港することなく,27日に航海を経て,同年7月16日に長崎に帰着した。
 漂流民たちは,安南(ベトナム)から長崎へ送還された際,長崎奉行所へ呼び出され,そこで「踏絵」を命じられ,その後,漂流から帰国までの事についての尋問を受け,揚屋あがりや(牢屋)へ収容された。これは特別のものではなく,漂流民が長崎奉行所へ送られてきた場合の通常の措置。特に①キリスト教への入信・勧誘の有無,②船に武具の類を積載していないか,③外国で商売を行わなかったのかの3点については,厳しく取り調べられたそうだ。

漂流・帰国航海図

 下の地図は「安南国漂流記 解説」から引用したもので,右黒線は姫宮丸が漂流したルートを推定したもの。左黒線は,住吉丸と姫宮丸の7人を乗せいた南京船がホイ・アンから長崎に向かったルートを推定したもの。

参考資料

いわき市にあった天領と笠間藩領

磐城平藩領内の”飛び地”

 ところで,(現在の北茨城市)水戸藩領磯原村の野口弥八郎に対し,廻米(年貢米)の江戸(銚子)への海運を依頼したのは笠間藩である。
 当時,笠間藩は,(現在の福島県いわき市)磐城平藩領内の神谷かべや,草野,四倉及び三和など,現在でも米作が盛んな土地に”飛び地”を有していた。
 これら”飛び地”の管理のために神谷に「神谷陣屋」が置かれ,これが幕末まで続いた。
 ちなみに,戊辰戦争時,笠間藩は新政府側に着いたために,旧幕府側に着いた(安藤家)磐城平藩からすれば,獅子身中の虫となった。
 ちなみに下の写真は,私が頂いた平成28(2016)年産の純米吟醸原酒「神谷」。知る人もなかなか知らない酒。福島県いわき市神谷(かべや)地区産の酒米「天のつぶ」を使い,郡山市の渡辺酒造で醸した,浜・中連合による,会津地方に負けない,六次産業化の銘酒。ラベルの白居易の詩もいわき市の書家によるもの。江戸時代も現在も,いわき市内神谷地区は銘米の産地。

 なお,笠間藩神谷陣屋は,現在のいわき市立平第六小学校にあった。福島県いわき市教育委員会が管理運営する下掲のWebサイトに,笠間藩神谷陣屋についての記述がある。

延享四年3月(1747年) 三方領地替

 磐城平藩領内に笠間藩の”飛び地”が生じたのは,内藤氏,牧野氏及び井上氏という徳川家康”岡崎”や”駿河”の頃からの譜代大名間での領地替(三方領地替)により生じたものである。
 これは,九代将軍徳川家重の時代延享四年3月(1747年)に行われたもので,住吉丸が小名浜を発ったのが明和2年11月3日(1765年12月15日)であるから,約17年前のことである。
 下記のように,三方領地替により,磐城平藩の内藤家が(宮崎)延岡藩へ領地替となる。その磐城平藩には,笠間藩から井上家が入封する。笠間藩には延岡藩から牧野家が入封する。この三方領地替において,磐城平藩領が約10万石から約3万石に減らされたが,その調整の過程で,旧磐城平藩領の土地が,例えば小名浜などが天領(幕府領)になったり,笠間藩領となったりした。

  • 磐城平藩内藤家→延岡藩へ

  • 延岡藩牧野家→笠間藩へ

  • 笠間藩井上家→磐城平藩へ

四倉地区

 いわき市の公式Webサイト内にある「四倉地区」。
 今でも水田が広がる大野地区及び大浦地区は笠間藩領とされたが,海岸・港付近は天領とされた。
 徳川幕府の基本的な思想が理解できる。

 東京都目黒区にある祐天寺。天領となる前ではあるが,1711年

久之浜・大久地区

 「四倉地区」に北に隣接する現在いわき市の久之浜・大久地区も,三方領地替により天領とされた。現在は長閑な漁港である。

 久之浜・大久地区は,戦後も「双葉郡」に属していた。
 しかし,原子力発電所に未来を見た以北の町村と袂を分かって,昭和41(1966)年10月1日,石炭を捨て「日本のハワイ」に舵をとって新たに成立した「いわき市」に加わった。
 平成23(2011)年3月11日の大津波で流される前,久之浜町に,意外な立派な蔵や屋敷が並んでいたのは,天領時代の名残りだったのかもしれない。
 ちなみに,いわき市成立後の昭和43(1968)年,「のび太の恐竜」のモデルになったフタバ・スズキ竜の化石が,旧天領,大久町の大久川沿いの双葉地層から鈴木直氏によって発見されている。

フタバスズキリュウ産出地@福島県いわき市大久町

三和地区

 阿武隈高地に位置し,「日本のハワイ」や「東北の湘南」を自称するいわき市内でも唯一雪が降ると言っていい「三和地区」。
 三方領地替により,渡戸,中寺,下市萱,上市萱,上三坂,中三坂,下三坂及び差塩は笠間藩領とされ,同藩の神谷陣屋により管理された。
 他方,上永井及び下永井は,天領とされ小名浜の代官所により管理された。平成27年3月31日,地元の永井小学校が閉校となったような地域であり,なぜ敢えて幕府領とされたのかは,私には分からない。




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佐川明生@法律家
東京で弁護士をしています。ホーチミン市で日越関係強化のための会社を経営しています。日本のことベトナムのこと郷土福島県のこと,法律や歴史のこと,そしてそれらが関連し合うことを書いています。どうぞよろしくお願いいたします。