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ベトナム通貨Đồngに名残る豊臣・徳川

豊臣時代に始まった日越の交流

平成25年に発見された「安南国副都堂福義侯阮粛書簡」

 平成25(2013)年4月15日,九州国立博物館がその発見を発表した日本とベトナムの公式交流の最古の資料となる「安南国副都堂福義侯阮粛書簡」。当時はこの漢字表記でベトナムでも通じたが(というよりもベトナム側が自身で書いた書簡),現在のベトナム語では「Bức thư tín của An Nam quốc Phó đô đường Phúc Nghĩa hầu Nguyễn」と表記する。

国の重要文化財に指定

 この「安南国副都堂福義侯阮粛書簡」は,平成30(2018)年,新たに国の重要文化財に指定されている。
 その内容や評価については,国立文化財機構が運営する「e国宝ー安南国副都堂福義侯阮粛書簡」に優るものはないので,以下これを参考とする。

安南国副都堂福義侯阮粛書簡

時代は天正19年

「安南国副都堂福義侯阮粛書簡」の日付は「光興十四年閏三月二十一日」となっている。
 「光興」とは,今でもベトナム各地の通り名に残るレ・ロイ(黎利/Lê Lợi)を祖として,現在のハノイを都として,1428年に始まり1789年まで続いた黎(レェ/Lê )王朝の元号である。
 ベトナム光興14年閏3月21日は,西暦では1591年5月13日にあたる。日本の元号では天正19年4月21日,その年の2月28日に千利休が切腹,豊臣秀吉による朝鮮出兵の前年である。

書簡の内容

 「安南国副都堂福義侯阮粛書簡」の内容(現代語訳)は以下のとおり。
 ちなみに当時の日本もベトナム(安南)も漢語が公用語であり,文字・筆談であれば,現在よりも容易に意思疎通ができた。

安南国副都堂福義侯の阮が日本国王に書を送ります。聞くところによれば,信義とは国の宝であり,保つべきものです。前年,日本国王の使者である陳梁山に面会したところ,梁山は本国(安南国)に対して,「日本国王は立派な象を好みます」と言いました。そこで象1頭を陳梁山に託し,国王のもとに帰らせようとしましたが,帰国する船が小さく、象を載せられませんでしたので,代わりに好香2株・雨油盖1柄・象牙1件・好紵2匹を国王に贈り,交誼を保とうとしました。ところが翌年,国王の使者の隆巌が本国を訪れ,「陳梁山と財物が到着しません」と言うので,雨油盖1柄を再び国王に贈り,信義を保つことにしました。もし国王が本国の珍奇な品を好み,再び隆巌を本国に遣わして,日本の好剣2柄・好甲衣1領を私に贈ってくださるのであれば,稀少品を買い集めて,日本国王に贈り,両国の往来交信の誼を通じましょう。

「e国宝ー安南国副都堂福義侯阮粛書簡」より

差出人 阮景端/Nguyễn Cảnh Đoan

 差出人の「安南国副都堂福義侯阮」とは,安南国(後黎朝)の有力な臣下で「福義侯」と称された阮景端(Nguyễn Cảnh Đoan)と推測されている。

宛所は豊臣秀吉

 宛所は,原文では「日本国○国王座下」となっている。
 ○はいわゆる闕字を意味している。
 当時の”国王”は,豊臣秀吉に他ならない。当時の秀吉は,朝鮮・琉球・高砂(台湾)・呂宋(フィリピン)に朝貢を要求しており,安南(ベトナム)に対しても同様の要求を行い,通交を模索していた可能性を「安南国副都堂福義侯阮粛書簡」は示している。
 いずれにせよ、本書簡は後期倭寇の時代から朱印船貿易の時代への過渡期における日本と安南との関係を示すもの。

徳川幕府と朱印船貿易

瑞国侯=阮潢/Nguyễn Hoàng

 冒頭で記したように,平成25(2013)年4月になって,天正・豊臣末期の日越通交史の新資料「安南国副都堂福義侯阮粛書簡」が発見された。
 しかし,この新資料の発見までは,ベトナムの年号で弘定二年五月初五日(西暦1601年6月5日),「安南国天下統兵都元帥瑞国公」が送った書簡が最古の日越往来書簡とされていた。
 ベトナムの弘定2年5月初5日・西暦1601年6月5日は,日本では慶長6年5月5日で,”天下分け目の関ヶ原”は前年慶長5年9月15日である。
 差出人の「安南国天下統兵都元帥瑞国公」とは,黎王朝の臣でありながら,ベトナム中部のフエ(順化/Huế)を中心に勢力を固め,なかば独立国としての「広南(クアン・ナム/Quảng Nam)国」を樹立したグエン・ホアン(阮潢/Nguyễn Hoàng)とされている。

「安南」と広南阮氏

 豊臣・徳川時代(その後もだが),日本やフランスなどの外国は現在のベトナムを「安南」と呼んでいた。「安南」というのは,あくまで外国からの呼称であり,自称ではない。
 徳川時代の半ばまで,”安南”においてはハノイの黎(レェ/Lê)王朝が正統政府ではあった。
 しかし,現在のフエ,ダナン及びホイアンなど”安南”の中部は,前述のように,黎(レェ/Lê)王朝の家臣であった瑞国侯ことグエン・ホアン(阮潢/Nguyễn Hoàng)を祖とするグエン(阮/Nguyễn)氏が支配し,広南(クアン・ナム/Quảng Nam)国を号していた。ベトナムには「阮」氏が昔も今も多いが,阮潢を祖とし広南国を立てた阮氏は,他の阮氏と区別するため「広南阮氏」とされている。
 後にこの広南阮氏の家系から出たグエン・フック・アイン(阮福暎/Nguyễn Phúc Ánh)は,西山阮氏ら対立勢力を打倒し,1802(享和2)年にベトナムを統一する。この広南阮氏の王朝は,後にフランスの植民地支配を受けながらも,ホー・チ・ミン率いるベトミンに打倒される1945(昭和20)年8月29日(八月革命)まで続くことになる。
 阮氏にも数多あるが,阮氏といえば,阮潢を租とする広南阮氏である。

徳川幕府と安南(広南国)との通交

 徳川幕府と安南(広南国)との書簡の往来は,慶長6(1601)年から鎖国前の寛永9(1632)年の間に,幕府側から15通,安南側から19通にのぼり,幕府がアジア地域で最も多く書簡を交わした相手の一つが安南(ベトナム)だったようだ。
 その目的は,言うまでもなく貿易。
 豊臣政権を承継し,同じく海外貿易に熱心だった徳川家康は,慶長9(1604)年に制度としての「朱印船貿易」を始める。幕府が発行する「朱印状」を携えた日本の”公式”船による東南アジア諸国との貿易であり,その主な相手が安南(広南国)。

ホイアンの日本人町

 朱印船貿易により,東南アジア各地に日本町が形成されるが,ベトナナム(安南)においては,広南国のホイ・アン(Hội An)に日本町があった。驚くべきことに,当時の日本人によって造られた「来遠橋」が今も残る。

来遠橋@ホイ・アン

 ただし,ホイ・アンに日本町が存在したのは約40年に過ぎない。
 承知のように,三代徳川家光時代の寛永18(1641)年に鎖国が完成する。日本からの日本人の出国だけでなく,海外からの日本人の帰国も禁じられ,ホイ・アンの日本町は,自然に消滅した。
 下掲の挿話は,その約100年後,鎖国が”国是”となって久しい頃の日越の交流に関するものである。

ベトナム通貨の語源

ベトナム通貨「ドンĐồng」

 現在のベトナムの通貨は「ドン(Đồng)」。
 本稿のタイトル写真である「朱印船貿易時代の日本人」によると,ベトナムの現在の通貨「ドン(Đồng)」は,どうやら日本に由来するらしい。

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ホーチミン市のファミリーマートにて

日本が持ち込んだĐồng (銅)

 Đồng はベトナム語で「銅」の意味。
 広南阮氏が未だベトナム中部のダ・ナン(Đà Nẵng)やホイ・アン(Hội An)を勢力範囲にするに止まっていた頃,西暦1500年代末から1600年代初頭,戦国時代末期から江戸初期すなわち豊臣秀吉と徳川家康の時代の日本と広南阮氏との間で,ホイ・アン(Hội An)を貿易港として行われたのが「朱印船貿易」。
 ベトナム中部では銅が産出しなかったことから,広南阮氏は,日本から良質の銅を大量に輸入し,これを貨幣に鋳造して用いたことが,勢力拡大の大きな要因になったようだ。
 その名残りで,通貨単位を「ドン(Đồng)」と呼ぶようになった。
 やがて広南阮氏の子孫がベトナムを統一,通貨「ドン(Đồng)」がベトナム全土に広まった。
 しかし,19世紀にベトナムを植民地支配したフランスは,フランス流に「ピアストル(Piastre)」を通過として使用した。

ベトナム戦争の結果

 1945(昭和20)年9月2日,ホー・チ・ミン主席がフランスからの独立を宣言,樹立されたベトナム民主共和国(Việt Nam Dân chủ Cộng hòa/北ベトナム)は,通貨としての「ドン(Đồng)」を復活させる。
 他方,フランス後にアメリカを後ろ盾とするベトナム共和国(南ベトナム)ではフランス植民地時代からの「ピアストル(Piastre)」が使われていた。そのため,ベトナム戦争時に南ベトナムに駐在した日本人が著した書籍では「ピアストル(Piastre)」が一般的。
 しかし,1975(昭和50)年4月30日のサイゴン”解放”による南北統一により,”みたび”ドン(Đồng)がベトナムの統一通貨単位となって,現在に至る。
 以上,たぶん本当だと思う。

東京で弁護士をしています。ホーチミン市で日越関係強化のための会社を経営しています。日本のことベトナムのこと郷土福島県のこと,法律や歴史のこと,そしてそれらが関連し合うことを書いています。どうぞよろしくお願いいたします。