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ランソンで烈士となった日本人

ベトナム北部,中華人民共和国との国境に近いランソン市(TP Lạng Sơn)の烈士墓地(Nghĩa trang Liệt sỹ Tp Lạng Sơn)に,一人の日本人の記念碑が建てられている。しかも別格扱いで。

記念碑には次のように刻まれている。

同志
高野功
赤旗記者(日本)
ランソン市で犠牲になる
1979年3月7日

この墓地は,いわゆる越中戦争で犠牲になった烈士を弔う施設。
1979年(昭和54年)2月17日,中国共産党の人民解放軍が国境を越え,ベトナムに侵略してくる。中共はこの戦争を「懲罰戦争」と呼んでいるが,自身が支援していたカンボジアのポル・ポト政権をベトナムが打倒したことが許せなかったようだ。ポル・ポトといえば,自国民を大量虐殺しただけでなく,国内のベトナム人も虐殺の限りを尽くしていた。今でこそ虐殺の実態が明らかになって,正義がベトナムにあることが公知となっているが,当時はカンボジアに侵攻したベトナムを非難する声が大きかった。

高野記者はカンボジアでの取材歴もあり,「懲罰戦争」の真実を報道すべく,同年3月7日,国境近くのランソン(Lạng Sơn)に入った。ランソンの街は中共人民解放軍により九割がた破壊されていたらしい。
人民解放軍の狙撃者は約70メートルの距離から高野記者の“こめかみ"を射抜いた。
高野記者が狙撃され命を落とした場所については,「三月七日、ランソンにて」の169頁に地図が掲載されている。

現場となった通りはクアン・チュン(Quang Trung)通りとある(182頁)。
現場付近に現在建っているシェラトンホテル19階から見下ろしてみると,キイクン(Kỳ Cũng)河との間に二区画あり,ホテルが建つ場所は当時は,市党委員会事務所だったことが分かる。
現在,キイクン橋に繋がる大通りは,当時は鉄道が走りランソン駅があった。しかし,中共人民解放軍の容赦のない攻撃で破壊され,戦後,キイクン河対岸の現在の場所に鉄道と駅が移設されている。

要するに,クアン・チュン(Quang Trung)通り上,市党委員会事務所の裏が狙撃場所であるから,高野記者が中共人民解放軍の犠牲になったのは,今,私がこの原稿を書いているシェラトンホテルの真裏ということになる。
下のGoogleマップ上に青で記しをつけた場所である。

現在はそれを思い起こさせるものはないが,1992年頃,現在の姿に再開発されるに伴い,新たに整備された文頭の烈士墓地に移されるまで,かの記念碑はこの現場に置かれていたそうだ。

1949年10月の金門島の戦いにおいて,台湾側に加わった旧日本軍人が戦死した記録はないから,高野の記者は人民解放軍の犠牲になった唯一の日本人かもしれない。

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佐川明生@法律家
東京で弁護士をしています。ホーチミン市で日越関係強化のための会社を経営しています。日本のことベトナムのこと郷土福島県のこと,法律や歴史のこと,そしてそれらが関連し合うことを書いています。どうぞよろしくお願いいたします。