日越 1945年9月2日 占領独立
ベトナムと日本にとっての1945年9月2日
所はバーディン広場
ベトナムにおける1945年の9月2日は,ハノイのバーディン広場(Quảng trường Ba Đình)で,ホーチミン主席が独立宣言(tuyên ngôn Độc lập)を読み上げ,ベトナム民主共和国(Việt Nam Dân Chủ Cộng Hòa)として独立を宣言した日。ベトナム時間にして同日午後2時。
タイトルの写真は,1945(昭和20)年9月2日,バーディン広場(Quảng trường Ba Đình)におけるホーチミン主席の独立宣言について記述するベトナムの教科書から。
所は戦艦ミズーリ艦上
時差2時間の日本では,7時間前の同日午前9時4分(日本時間),東京湾内のアメリカ軍戦艦ミズーリの艦上にて,連合国に対する降伏文書への調印が行われていた。
前後関係の意義
ホーチミンが,ベトナムの独立宣言を9月2日まで,さらには日本の降伏文書への調印を待ったのには,理由がある。
後述するように,昭和20(1945)年3月10日以降,それまで約100年間殖民地支配を続けてきたフランスを駆逐し,変わって日本がベトナムを事実上支配していた。
確かに,日本は,同年8月15日にポツダム宣言受諾を内外に発表したが,フランスを含む連合国に降伏したわけではなかった。
実際,8月15日以降も,内モンゴルや千島列島では侵略してくるソ連軍と戦闘が続いていたし,ベトナム内には,ほぼ無傷の日本軍が駐留しており,ベトナム民主国にその刃を向ける可能性も否定できなかった。
そのため,ホーチミンは,日本がフランスを含む連合国に正式に降伏するのを待って,ベトナムの独立を宣言した。
その後の日本とベトナム
その日以降,日本は,いかなる又いつまで続くか分からないアメリカの占領下に入り,他方のベトナムは,真の独立を確保するため,フランスさらにはアメリカとの抗戦を余儀なくされる。
ベトナム抗仏戦争のはじまり
バーディン広場の縁起
現在,ホーチミン廟の前に広がるバーディン広場は,19世紀にフランスが阮(グェン)王朝の城塞を破壊して作った公園が前身で,当時,フランス名でLe parc Pugininerと呼ばれていたそうだ。
日本による俄かの独立
昭和20(1945)年3月10日,日本軍は,それまで協定を結んで友好関係にあったフランス軍を,植民地ベトナムにて屈服させた。
これを受けた阮(グェン)王朝のバオダイ帝は,翌11日,フランスからの独立を宣言し,ベトナム帝国(Đế quốc Việt Nam)を建国する(カンボジアやラオスも同様に独立)。同年7月20日に成立したベトナム政府は,ハノイ市内のフランス名の通りや広場をベトナム名に改名する政策を取り,バーディン広場も,ホアンキエム湖北の東京義塾広場(Quảng trường Đông Kinh Nghĩa Thục)などと同様,現在に残るその一つだそうだ。その民族主義的な改名の経緯などについて,下掲の拙稿をご参照。
なお,ホーチミン主席率いるベトミン軍は,1945年8月30日,いわゆる八月革命によりバオダイを退位させ,自らベトナム民主共和国(Việt Nam Dân Chủ Cộng Hòa)を樹立しており,その年の3月に日本軍の後ろ盾で成立したベトナム帝国は短い命を終えていた。
旧日本軍人の協力
ミズーリ上で日本の降伏文書調印式に,のうのうと"戦勝国"として出席したフランス代表クレール将軍(tướng Lơ-cơ-léc)は,ミズーリ艦上で,アメリカのマッカーサー司令官からベトナム再植民地化のお墨付きを得たそうだ。早速,翌10月,フランス軍を率いてサイゴンに入城,いわゆるベトミン(Việt Nam Ðộc Lập Ðồng Minh Hội)と交戦状態に入る。
当時,ベトナムには未だ日本軍が残っていたが,ベトナムを舞台にした,当時の旧日本軍,ベトミン軍及びイギリス・フランス軍との鬩ぎ合いは,下掲の拙稿をご参照。
ベトナム独立宣言(全文)
日本の降伏を受けたホーチミン主席の独立宣言は,その後のフランスやアメリカの介入を予想してか,アメリカ独立宣言とフランス人権宣言を引用した上でその歴史的意義を讃え,さらに両国の敵であった日本に抵抗したことを強調するものであった。
これは,前述するように,昭和20(1945)年3月10日以降,それまで約100年間殖民地支配を続けてきたフランスを駆逐し,変わって日本がベトナムを事実上支配していたという,直近の出来事に起因する。独立宣言の文調が,フランスに比べ関わりが薄いはずの日本を非難する一方で,残念ながら戦勝国になってしまったフランスに「ベトナムに戻ってくるな」と請うように感じられるのは,そのためだと思われる。
しかし,世界を舞台にしたあれほどの大戦を体験し,事実上の敗戦国にも関わらず,フランスが,ホーチミンの意を汲むところがなかったことこそ,近現代という歴史の正体なのかもしれない。
以下の独立宣言全文とその日本語訳は,Wikipediaから引用したもの。
東京で弁護士をしています。ホーチミン市で日越関係強化のための会社を経営しています。日本のことベトナムのこと郷土福島県のこと,法律や歴史のこと,そしてそれらが関連し合うことを書いています。どうぞよろしくお願いいたします。