もう一つのミッドウェー”会”戦
それぞれのターニングポイント
ベトナム戦争
「ミッドウェー」
日本人であれば,その名を聞くだけで苦虫を噛むかの記憶が蘇る。
そのミッドウェー島で,昭和44(1969)年6月8日,アメリカのニクソン大統領とベトナム共和国(Việt Nam Cộng Hòa/南ベトナム)のグエン・ヴァン・チュー大統領(Nguyễn Văn Thiệu)との会談が行なわれている。
下の写真は,これを報じる朝日新聞の記事。
ベトナム戦争において,それまで増派の一途だった米軍だったが,新たに就任したニクソン大統領は,このミッドウェー島における会談で,チュー大統領に対し南ベトナムからの「一方的な撤退」を通告,チュー大統領の抵抗も虚しく,これが合意される。
アメリカの南ベトナムからの「一方的な撤退」により,アメリカが支援する南ベトナムと,ソ連や中華人民共和国が支援する北ベトナム(ベトナム民主共和国/Việt Nam Dân chủ Cộng hòa)との軍事バランスが一方的に崩れた。
その意味で,昭和44(1969)年6月8日,ミッドウェー島で行われたニクソン大統領とチュー大統領との”会”戦は,ベトナム戦争と南ベトナムそのものの決定的なターニングポイントとなった。
大東亜戦争
ミッドウェー島の周囲の海域では,言うまでもなく,その27年前の昭和17(1942)年6月5日から同月7日にかけて,日米両海軍による空母機動部隊同士の海戦が行われている。
アメリカがこれに大勝,以後,日本が呼ぶ「大東亜戦争」の主導権をアメリカが握るターニングポイントとなったのは,承知のとおり。
以下,このミッドウェー海戦の経緯について,時系列から触れてみたい。
ミッドウェー海戦
参考にした資料
まず定番の「失敗の本質」。
続いてNHK「映像の世紀PREMIUM 戦場の黙示録」。
そして,NETFLIXでみることができる「WWⅡ最前線:カラーで蘇る第二次政界対戦ミッドウェー海戦」。
このアメリカ製ドキュメンタリーのニュアンスは,80年近く前のアメリカプロパガンダ映画そのままのN H K「映像の世紀PREMIUM 戦場の黙示録」」とはだいぶ違う。
露呈していた日本の作戦目的
日本軍の作戦は,まずミッドウェー島にある米軍基地を攻撃・占領(この占領を担うミッドウェー島占領部隊輸送船団もサイパンから出航している。)し,ミッドウェー島の奪還にくる空母を含む米太平洋艦隊を殲滅するというもの。
しかし,アメリカは日本の作戦の内容を暗号解読に事前に把握していた。ミッドウェー島基地の航空兵力を増強して警戒を強め,アメリカ太平洋艦隊も日本海軍を迎え撃つべくハワイを出港していた。
ミッドウェー島守備隊との交戦
昭和17(1942)年6月5日,日本艦隊は,当初の作戦どおりミッドウェー島基地の攻撃に着手し,アメリカの同島守備隊と交戦に至る。
時間はいずれの昭和17(1942)年6月5日の現地時間。
ミッドウェー島基地からの日本艦隊そのものへの攻撃は,日本艦隊にとっては意外だったようで,基地に攻撃を行った隊からも,ミッドウェー島基地再攻撃必要の報告を受けていた。
こうして南雲司令長官は,来るべきアメリカ艦隊に対する攻撃用に備え,魚雷など艦隊攻撃兵器を備えていた攻撃機に対し,陸上基地攻撃のための爆弾への兵装転換(海→陸)を命じることになる。
日米同時に”敵”を発見
この攻撃機の兵装転換(海→陸)の作業中のことである。
7時28分,日本の索敵機がアメリカ艦隊を発見する。同時にこの索敵機がアメリカ艦隊に発見される。
日本軍とアメリカ軍は,ほぼ同時に”敵”を発見している。
同じく”敵”を発見しながらも勝敗を決したのは,それぞれの艦隊の現況を踏まえた司令部の意思決定である。そして,その意思決定は,日米それぞれの国民性に由来すると言えなくもない。
運命を分けた”敵”発見後の意思決定
空母からは一斉に飛行機が飛び立てるわけではなく,航続時間が長い攻撃機(雷撃機や爆撃機)が先に飛び立ち,上空で待機,これら攻撃機を掩護するも航続距離が短い戦闘機を待って,全機一体となって敵艦隊に向かうのが原則。
しかし,日本の索敵機を発見したアメリカは,先に飛び立った攻撃機(雷撃機や爆撃機)に対し,掩護の戦闘機を待たずに日本艦隊への攻撃に向かうように命令した。戦闘機の掩護なく攻撃機のみで雷撃・爆撃に臨むというのは,後の日本軍による”特攻”に近い。
日本空母における混乱と意思決定
これに対し,日本の南雲司令長官は原則を遵守した。
第二航空戦隊(空母飛龍)を指揮する山口多聞中将は,直ちに発艦できる爆撃機の発進を打診したが,この提案は受け入れられなかった。
アメリカ艦隊発見の報を受け,7時45分,南雲司令官は,艦隊攻撃用から陸上基地攻撃用に兵装転換(海→陸)を命じたばかりでその作業中だったが,再び陸上基地用から艦隊用に攻撃機の兵装転換(陸→海)を命じるのである。とかく後世に批判されるこの「再」兵装転換であるが,その意思決定には,艦船攻撃の原則だけでなく,日本空母内・上における混乱が影響していた。
同じ頃,ミッドウェー島の基地を攻撃していた攻撃機の空母への帰艦が始まっていた。この帰艦と,新たにアメリカ艦隊への攻撃機の発艦が競合する事態となった。この空母の甲板このような混乱状況にあり,南雲司令長官は,空母甲板の使用について,アメリカ艦隊に対する攻撃機の発艦よりも,ミッドウェー島基地攻撃を行った航空機の収艦を優先する判断を下した。
仮に前者を優先すると,帰艦できずに,航空機だけでなく熟練パイロットまでも失う可能性がある。帰艦を求めるミッドウェー島基地攻撃機を海に不時着させてまで,基地攻撃用のための陸上用爆弾を搭載したままの攻撃機をアメリカ艦隊攻撃のために直ちに発艦させることを当時の南雲司令長官に求めるのは,結果・歴史を知る者からの無慈悲な批評かもしれない。
ちなみに,「WWⅡ最前線:カラーで蘇る第二次政界対戦ミッドウェー海戦」は,南雲司令長官は原理原則に忠実な将校で,淡々とと原理原則に従った判断としているのが,真実なのかもしれない。
南雲司令長官としては,仮に米空母艦載機が攻撃してきたとしても,ミッドウェー島基地からの攻撃機隊と同様にこれを撃退できると判断した。そのため,原則どおり戦闘機の掩護を含め全機攻撃体制が整った上でのアメリカ艦隊への攻撃を決定したのである。
事実,次に述べるように,アメリカ艦隊からの攻撃第一波である雷撃機隊については,日本艦隊は,これを迎撃し,全滅させている。
全滅する米雷撃機隊
ミッドウェー島に対する攻撃機隊の約半数を日本空母が収艦し終えた9時18分,空母ホーネットを飛び立った雷撃機15機が日本空母群に飛来し,攻撃を開始している。加えて,9時50分,空母エンタープライズの雷撃機14機が日本空母を発見し,攻撃を開始している。
雷撃機は魚雷を撃つ飛行機。
このアメリカ雷撃機隊約30機は,前述のように,そもそも掩護する戦闘機を待つことなく空母を発艦し,日本艦隊への攻撃へ向かったもの。結果,零戦や日本艦隊からの攻撃でこの雷撃機隊は全滅している。日本は,アメリカ艦隊への攻撃準備中にも関わらず,迎撃に成功した。
しかし,この犠牲が無駄にならなかったのは,この戦争について,勝利の女神が日本ではなく,アメリカに微笑んだためと思わざるえない。
「純然たる幸運」 米爆撃機隊
レーダーも無線もないに等しい当時,アメリカ軍とて日本艦隊の位置を把握できたわけではなく,敵の発見は目視に頼っていた。
雷撃機と同様に直掩機を待つことなくアメリカ空母を飛び立っていた(艦上)爆撃機隊は,日本艦隊を発見できず,燃料がなくなっため母艦への帰艦の途中にあった。
爆撃機は上空から艦船に爆弾を投下する飛行機。
しかし,アメリカ爆撃機隊は,その帰艦の途中,一隻の日本駆逐艦をきっかに,雲下に,その頃アメリカ雷撃機をほぼ全滅させていた日本空母群を発見することになる。
「WWⅡ最前線:カラーで蘇る第二次政界対戦ミッドウェー海戦」の言葉を借りれば,まさに「純然たる幸運」だった。
運命の10時23分
アメリカ爆撃機隊は,昭和17(1942)年6月5日10時23分,自身を掩護する戦闘機もない無防備のなか,日本空母に対し,直ちに急降下爆撃を開始する。
直前まで水面近くで魚雷を発射する雷撃機の攻撃を受けていた日本の零戦や艦隊の視線と戦力は海水面付近に集中,上空は無防備になっていた。
結果,上空からの爆撃機による急降下爆撃を防ぐことができず,数分の間に主力空母3隻が被弾し,後に沈没することになる。
アメリカ勝利の原因
このアメリカの勝利は,日本の油断や情報軽視だけが原因ではないと思う。日本海軍のミッドウェー島攻撃が事前に知られていたとしても,同時に”敵”を発見した7時28分の時点で,アメリカがようやく同じスタートラインに立ったという程度のこと。
むしろ,勝敗を分けたのは,”敵”を発見した時点での意思決定の差異。
両軍のアメリカの航空隊の攻撃が,ベンチャースピリットに基づく意思決定。原則を無視した”奇襲”だったのである。さらに,難度の高い急降下爆撃を実現できるほど,航空隊は練度を上げていた。
確かに「幸運」はあるが,その幸運は,ベンチャースピリット,つまりリスク承知で「とりあえず行動」した者のみが得られる果実。他方,「品質管理」は得意ながらも,新サービス・商品のリリースに慎重な傾向が強い日本。
この日米国民の国民性の違いに基づく行動が,むしろ劣勢だったアメリカ軍に「幸運」を招来した。
空母飛龍 山口多聞
赤城,加賀及び蒼龍の主要空母3隻がほぼ同時に被弾し撃沈されたが,唯一,空母の飛龍が残った。
日本空母内において攻撃機の兵装転換(海→陸)の作業中の7時28分,日本の索敵機がアメリカ艦隊を発見。第二航空戦隊(空母飛龍)を指揮する山口多聞司令官は,直ちに発艦できる爆撃機の発進を打診する。しかし,南雲長官は,この提案を受け入れず,ミッドウェー島基地攻撃隊の収艦と,米艦隊への攻撃隊の兵装”再”転換(陸→海)を命じた。これは先に記した。
最後に一隻残った空母飛龍は,艦載機群が唯一気を吐き,米空母ヨークタウンに多大な損害を与えて,航行不能に至らしめ(後に日本の潜水艦にって撃沈),一矢報いる。
しかし,空母ヨークタウンとエンタープライズの艦載機による集中攻撃を受けた飛龍も力尽き,山口多聞司令官は飛龍と運命を共にする。
山口多聞中将の墓は,東京都心の青山霊園にある。
対フランス独立戦争
ニ度の独立宣言
100年に及ぶフランスによるベトナムの植民地支配を終わらせたのは,実は日本。昭和20(1945)年3月9日,日本軍は,ほぼ1日でベトナム,ラオス及びカンボジアの地からフランス軍を消滅させる。同月11日には,ベトナム・グエン王朝のバオ・ダイ帝がフランスからの独立を宣言し,ベトナム帝国(Đế quốc Việt Nam)を樹立する。
しかし,同年8月15日,ベトナム帝国の後ろ盾であった日本がフランスを含む連合国に降伏する。
同月17日,ホー・チ・ミン氏は,ベトナム独立同盟会(Việt Nam Ðộc Lập Ðồng Minh Hội/いわゆるベトミン)を率いて蜂起,同月28日にはベトナム帝国を打倒し,同年9月2日,フランスや日本からの独立を宣言し,ベトナム民主共和国(Việt Nam Dân chủ Cộng hòa)を樹立する。
フランスによる再植民地化
他方,日本軍に追い出されたはずのフランス軍が,再植民地化を目指してベトナムに戻ってくる。1949(昭和24)年6月14日には,南部のサイゴンを首都として,バオ・ダイを元首とする傀儡国家,ベトナム国(Quốc gia Việt Nam)を打ち立てる。
ホー・チ・ミン率いるベトミンは,北部が中心のベトナム民主共和国の独立をめぐり,フランスとの間で以後8年にも及ぶ全面戦争に突入する(インドシナ戦争)。
なお,下掲の拙稿に記したが,フランスからの独立を目指して戦うベトミンに共感した多くの日本軍人が,ベトナムに残留し,一兵としてあるいは士官学校の教官としてベトミンに加わり,これに協力したという事実についても,忘れたくはない。
ディエン・ビエン・フー(Điện Biên Phủ)の戦い
旧宗主国フランスからベトナムが独立を獲得するための戦争は,1954(昭和29)年5月7日,ラオス国境近くのその名の通りの”辺境の地”ディエン・ビエン・フー(Điện Biên Phủ)でのベトミンの勝利をもって終わることになる。
ジュネーブ協定によるフランス支配の終焉
1954(昭和29)年4月26日,スイスのジュネーブにて,インドシナ戦争の終結を目的とした会議が始まる。会議の参加国は,フランス,ベトナム国(南ベトナム)及びベトナム民主共和国(北ベトナム)に加え,アメリカ,イギリス,ソ連及び中華人民共和国。
同年7月21日,いわゆるジュネーブ協定が署名される。
この協定により,北緯17度線がベトナム民主共和国(北ベトナム)とベトナム国(南ベトナム)の軍事境界線とされる。あくまで軍事境界線であり,朝鮮半島の38度線と同じく,国境を画するものではない。さらに,ジュネーブ協定では,2年後の1956(昭和31)年7月に南北統一のための総選挙がベトナム全土で実施されることが明記された。
しかしながら,肝心のベトナム国(南ベトナム)と,この後に影響力を増すアメリカは,会議に参加しながら,協定書への署名を拒否した。結果,2年後に行われることが協定された南北統一のための総選挙も行われなかった。
ソ連,中華人民共和国そしてベトナム民主共和国(北ベトナム)へと浸透していきた共産主義に対する防波堤としての南ベトナムへの介入を強めるアメリカは,カトリック教徒でベトナム国首相のゴ・ディン・ジエム(Ngô Ðình Diệm)を支援,そのジェム首相は,ベトナム国のバオ・ダイに退陣を迫り,1955(昭和30)年10月26日,ベトナム共和国(Việt Nam Cộng Hòa)を建国し,その初代大統領に就任している。
アメリカの傀儡国家と評される「南ベトナム」の誕生である。
アメリカのベトナムへの介入
南北分断
北緯17度線はおおよそベトナム・グエン王朝の都フエ(Huế)を境としている。
フエ以南がベトナム共和国(Việt Nam Cộng Hòa,南ベトナム),フエより北がベトナム民主共和国(Việt Nam Dân chủ Cộng hòa,北ベトナム)である。
南ベトナムにはアメリカが,社会主義国家である北ベトナムにはソ連と中華人民共和国が支援をしている。
共産主義化を嫌い,多くの資本家・地主・キリスト教徒などが北ベトナムから南ベトナムに逃れて(その数200万人ともいう),これらが主にアメリカによる支援・介入とそれを後ろ盾としたを南ベトナムのジェム政権を支持していた。
こうして,国境を画するものではないが,北緯17度線を境に,ベトナム民主共和国(北ベトナム)とベトナム共和国(南ベトナム)が対峙することになる。
南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)の真実
1960(昭和35)年12月20日,南ベトナム国内において,南ベトナム解放民族戦線(Mặt trận Dân tộc Giải phóng miền Nam Việt Nam)が結成される。
いわゆる「ベトコン/Việt Cộng / 越共」である。
この呼称は,南ベトナムあるいはアメリカによるもので,「南ベトナム解放民族戦線」は北ベトナムを後ろ盾とする共産主義の組織であるとの認識に基づいたもので,蔑視の意図がある。これに対し,アメリカや日本の大衆は,ベトコンの裏にある共産主義の存在に気づかず,純粋な民族主義に基づく独立運動組織と理解し,同情した。
南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)が結成されたのは,南ベトナム国内である。ベトコンは,外国(北ベトナム)から南ベトナムに攻め入ったのではなく,南ベトナム国内において,南ベトナムの親米ジェム政府を打倒,アメリカ軍を南ベトナムから追い出し,南ベトナム”人民”を南ベトナム政府とアメリカから解放しようとしていた。
いわゆるベトナム戦争の殆どは,あくまで南ベトナム(ベトナム共和国/Việt Nam Cộng Hòa)国内における「内戦」。この内戦をゲリラやテロで実行したのが南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)である。
ベトコンに相対したのは,南ベトナム政府軍であり,この南ベトナム政府軍を支援したのがアメリ軍や韓国軍など。他方,ベトコンを支援したのが北ベトナム(ベトナム民主共和国/Việt Nam Dân chủ Cộng hòa)であり,その北ベトナムを支援したのがソ連や中華人民共和国。
この実態を隠蔽して,あたかも”ベトナム”がアメリカによって侵略されているかのような印象を,米・日・欧の大衆に与えることに成功し,各国で「反戦運動」を惹起したのは,北ベトナムの情報戦の勝利とも言える。
民主党ケネディ大統領 軍拡・枯葉剤
アイゼンハワー政権下の1960年には,アメリカは南ベトナムに軍は派遣しておらず,派遣していた軍事顧問団も500人程度に過ぎなかった。
これを大幅に増員し,ベトコンこと南ベトナム解放民族戦線を制圧しようとしたのが,次代ケネディ大統領である。
1961(昭和36)年1月20日に就任した民主党のケネディ大統領は,アメリカ軍事顧問団を,同年末には3000人超に,さらに1963(昭和38)年11月には15000人超にまで増員した。
合わせて1962(昭和37)年2月8日には「南ベトナム軍事援助司令部(MACV)」を設立し,爆撃機や武装ヘリコプターなどの各種航空機や,戦車などの戦闘車両や重火器などの装備を南ベトナム送るなどして,南ベトナムへの軍事介入を階段を降りるように増強していった。
その大義は,南ベトナム国内でゲリラやテロなどを行なっていたベトコンを制圧し,南ベトナムの共産化を防ぎ,その「平和」を守ることにあった。
さらに,ケネディ大統領は,南ベトナム国内のジャングルに潜むベトコンを”燻り”出すため,1961(昭和36)年11月30日,南ベトナム国内における枯葉剤使用計画を承認し,現在にまで残る悲劇の最初の爪痕を残した。
民主党ジョンソン大統領 北爆
ケネディ大統領は,その後のベトナムを知ることなく,1963(昭和38)年11月22日に暗殺される。奇妙なことに,同じカトリック教徒としてケネディとの親交があった南ベトナムのゴ・ディン・ジエム(Ngô Ðình Diệm)大統領も,少し前の同月2日に軍のクーデターで暗殺されている。
そして,副大統領から大統領に昇格した民主党のジョンソン大統領は,ケネディ大統領が始めたベトナム軍事介入を引継ぎ,さらにそれを戦争へと発展させた。ジョンソン大統領は,1964(昭和39)年8月2日のトンキン湾事件を口実に,北ベトナムの軍事施設を標的にした爆撃(北爆)を始める。
ただ,あくまで戦場は南ベトナム内。
北ベトナムには,”軍事施設”に対する砲撃・空爆は行われたが,陸軍や海兵隊が進攻することはなかった。これは,北ベトナムとの背後にあるソ連や中華人民共和国との直接の衝突を避けるため。
共和党ニクソン大統領 名誉ある撤退
同じ民主党政権のケネディ大統領により始められ,ジョンソン大統領によって拡大されたベトナム戦争であるが,承知のとおり泥沼化する。
1969(昭和44)年1月20日,「ベトナムからの名誉ある撤退」を公約にして当選した共和党のニクソンが大統領に就任する。
ニクソン大統領は,就任早々,南ベトナムのグエン・ヴァン・チュー大統領(Nguyễn Văn Thiệu)との会談を模索した。
ミッドウェー会談 撤退の始まり
その実現をみたのが,冒頭で紹介した1969(昭和44)年6月8日のミッドウェー会談である。
このミッドウェーという意味深な場所で行われた首脳会談において,ニクソン大統領は,ケネディ大統領による本格的な軍事介入開始以降,増強の一途だった南ベトナム駐留米軍兵を,初めて撤退すること,その規模も2万5000人に及ぶことをチュー大統領に一方的に告げ,強引にも共同宣言の形でこれを世界に表明したのである。もちろんチュー大統領はこれに抵抗したが,抗える理由も力もなかった。
こうしてアメリカ軍の南ベトナムからの撤退は既定路線となった。
中華人民共和国の裏切り
ニクソン大統領は「ベトナムからの名誉ある撤退」のため,北ベトナムしいてはベトコンを支援していた中華人民共和国に接近する。
その表れが,1972(昭和47)年2月21日,ニクソン大統領の中華人民共和国への訪問。ちなみに日本は,同年9月28日,アメリカに先駆けて中華人民共和国と国交を樹立している。
アメリカが自ら首を突っ込んだ南ベトナムから撤退するために,南ベトナムだけでなく中華民国(台湾)が犠牲になったと言えなくもない。
他方,中華人民共和国のアメリカへの接近は,北ベトナム(及びベトコン)にとっては,中華人民共和国による裏切りであった。それは強気に拒否していたアメリカとの和平に応じざるを得ない理由の一つともなった。
パリ平和協定
アメリカ軍の完全撤退
米中の接近があり,強硬だった北ベトナム(ベトナム民主共和国)も妥協,1973(昭和48)年1月27日,アメリカ,北ベトナム(ベトナム民主共和国),南ベトナム(ベトナム共和国)及びベトコン(南ベトナム共和国臨時革命政府)の4者間でパリ和平協定(ベトナム和平協定)が締結された。
「民族自決」の美名のもと,南ベトナム内のベトコンは維持され,両者の問題解決はその協議に委ねられた。南ベトナムとしては,テロ・ゲリラ組織を内包したままでの「和平」であり,当然,不本意であり不安であった。他方,それまで南ベトナムを支援したアメリカ軍は,この協定調印後60日以内に南ベトナム内から完全撤退することが約されていた。
実際,律儀にも同年3月29日までに完全撤退が実現された。
アメリカとしては,”和平”が成立した上での「名誉ある撤退」が最優先,その後の南ベトナムの運命については,目を瞑った。
北ベトナムによる協定破棄
アメリカ軍は,遅くとも1973(昭和48)年3月29日までに南ベトナムから完全に撤退し,10年以上続いた自身のベトナム戦争を終わらせた。南ベトナムからすれば,ほんとうに完全に撤退してしまった。
しかし,南ベトナムは,自国で国防を担うという初めての事態に対応する術がなかった。
ところで,同年9月21日,日本は,”平和”なった北ベトナムとの間で国交を樹立している。南ベトナムとは,既に1951(昭和26)年5月13日に国交を樹立している。ここインドシナ半島にも”平和”が訪れ,朝鮮半島と同じように北と南で国家が併存するものと,日本も考えていた。
他方,アメリカでは,1974(昭和49)年8月9日,ウォーターゲート事件を契機にニクソン大統領が辞任する。
サイゴン陥落あるいは解放
「アメリカによる再介入はない」と判断した北ベトナムは,パリ平和協定を破棄し,1975(昭和50)年3月10日,北緯17度の軍事境界線(未だ国境ではない。)を超えて南ベトナムへ侵略し,南ベトナム内に合法的に残留するベトコンがこれに呼応する。
同月26日にはフエ(Huế)が同月29日にはダ・ナン(Đà Nẵng)が陥落,同年4月10日には中部高原の主要都市であるバー・メ・トート(Buôn Ma Thuột)が陥落して,南ベトナム首都サイ・ゴン(Sài Gòn)に迫る。
南ベトナムのチュー大統領は,アメリカに対し再派兵を要求するが,これが実現することはなかった。
結局,同年4月30日,南ベトナム・アメリカの見方では「サイゴン陥落」,北ベトナム・ベトコンの見方では「サイゴン解放」となった。
「ベトナムに平和を!」という勘違い
ベトナム戦争当時,かつて日本にも「ベトナムに平和を!市民連合(ベ平連)」なる団体があって,”ベトナム”からの米軍の撤退を求めていた。
彼らの目的であった「米軍の撤退」は,彼らの行動とは関係なく1973(昭和48)年3月29日に実現する。
しかし,その「米軍の撤退」こそが,1975(昭和48)年4月30日のサイゴン陥落を招いた。
結果,少なくとも80万人とも言われる南ベトナムからの難民(いわゆるボートピープル)を生み,多くの南ベトナム国民が再教育施設に収監された事実に鑑みると,べ平連が求めた米軍撤退は,(当時の)南ベトナム国民に「平和」を招来することはなかった。むしろ「平和」の美名のもとに,当初から北ベトナムによる南ベトナムの打倒を狙っていたと言えなくもない。
イメージで損するニクソン大統領
ニクソン大統領としては,“ミッドウェー”での戦勝“翌日”に「ベトナムからの名誉ある撤退」の始まりを宣言することで,ベトナム戦争の“ターニングポイント”をアピールする狙いがあった。が,お世辞にもセンスが良いとは言えない舞台演出と,内外の目には映ったようだ。
ベトナム戦争を終了させ,沖縄返還も実現し,少なくとも当時のアジア平和には貢献した共和党ニクソン大統領ではあるが,「(国内向けの)平和」を高らかに謳い,ベトナムへの本格的な軍事介入を開始し,沖縄を還そうと考えたこともなかった民主党ケネディ大統領と比べて,イメージが悪いのは,その外見やウォーターゲート事件だけが原因ではなさそうだ。