福沢諭吉「Phúc Trạch Dụ Cát」維新「Duy Tân」と訳した”Minh Trị(明治)”のベトナム
「Huyết thơ diễn ca」が刷られた明治の日本
日本官憲監視下にあったベトナム
「Huyết thơ diễn ca」
そうベトナム語で題された本稿タイトル写真の書籍は,明治42(1909)年2月20日,(当時の)東亰市神田区表神保町保町十番地所在の関根石版印刷所において550部が印刷され,翌21日に「発行者」へ引き渡される予定だったが,その前に日本の公安当局に押収されたもの。
「Huyết thơ diễn ca」とは日本語・漢語では「海外血書」と訳される。
この「海外血書」押収事件の顛末については,明治42(1909)年2月20日付け「安南人の出版物に関する件」と題された書簡にて,警視庁を所管する平田東助内務大臣から,小村寿太郎外務大臣に報告されている。
発行者ファン・ボイ・チャウ(Phan Bội Châu)
この「安南人の出版物に関する件」によると,その発行者の居所,国籍及び氏名は,以下のとおり。
「安南人」とは現在のベトナム中部の人のこと。
安南人の「潘佩珠」とは「Phan Bội Châu」,あえてカタカナで表記すると「ファン・ボイ・チャウ」。ファン・ボイ・チャウは,現在のベトナム人でも知らない人はいない,対フランス独立運動の英雄であり,その目的達成のために近代日本へ渡来した最初のベトナム人でもある。
そのファン・ボイ・チャウは,”危険書”に指定された海外血書(Huyết thơ diễn ca)の発行人として,日本の公安当局の監視下にあった。
海外血書(Huyết thơ diễn ca)の意義
”危険書”とされた「海外血書」の内容は,簡単に言えば,フランスの目的がベトナム人種の絶滅にあるとして,ベトナム人の民族的な自覚と魂の回復を促したもの。
実に,漢語,字喃(漢語をアレンジした旧ベトナム語)及び国語(フランス人考案によるアルファベットを使った現ベトナム語)の3種の言語で書かれている。各語版とも内容はほぼ同じながら,そのタイトルは次のとおり言語ごとに微妙に異なる。
今のベトナム人にも分かる国語(Chữ Quốc ngữ)による「Huyết thơ diễn ca」は直訳すると「血で書かれた詩」という意味になる。
「安南人の出版物に関する件」には,日本語訳も付されているが,それは漢語による「海外血書」を訳したもの。
明治のこの時代においては,日本もベトナムもその知識階級においては,漢語・漢文は必須の教養であり,筆談であれば日本・ベトナム間で意思疎通ができた。当時,ファン・ボイ・チャウらベトナム人が日本で活動できた理由の一つは,ここにある。
要するに,小村寿太郎外務大臣が米国ポーツマスで日露講和条約に調印したのは明治38(1905)年9月5日。海外血書(Huyết thơ diễn ca)は,その僅か3年後,秘密裡ではあったが,日本で初めてベトナム語で印刷・発刊された書籍と言えるもの。
警告を受けるファン・ボイ・チャウ
ファン・ボイ・チャウ(Phan Bội Châu/潘佩珠)は,「海外血書」が押収された3日後の明治42(1909)年2月23日,日本の警察の警告を受けている。
その際のやりとりの報告書が下記のものであるが,このような趣旨の書類に,ファン・ボイ・チャウの言として「本国の情勢は実に心外であるため,今後も本国人教育のため出版物を発行し,本国に発送したい希望がある。」と記載するのは,むしろ日本側の同情・理解の表れなのかもしれない,と思わないでもない。
ベトナムが渇望した福沢諭吉
下の2枚の写真は海外血書(Huyết thơ diễn ca)の巻末。
赤色下線の dụ cát 。dụが諭,cátは吉を意味する。dụ cát で(福沢)諭吉となる。
福沢諭吉,現在はローマ字表記(FUKUZAWA YUKICHI)すればベトナム人にも通じるが,当時は,漢語を前提とし,「福(Phúc)沢( Trạch)諭(Dụ)吉( Cát)」と表現していたようだ。Phúc Trạch Dụ Cát で検索すると,意外に福沢諭吉に関して記したベトナム語の情報にヒットする。
ちなみに青色下線 Lo-soa(Lư Thoa)は(ジャン=ジャック)ルソー。
ファン・ボイ・チャウは,ベトナムの中からも福沢諭吉やルソーの如き人物が現れて欲しいとベトナム人へ訴えるように,海外血書(続編)を書き終えている。
現実的なところがあるベトナム人が感銘したのは,形而上的な儒学ではなく,実学を志向した慶應義塾を創設した福沢諭吉だったのかもしれず,その現実的な表現がハノイに生まれた「東京義塾」だったのかもしれない。
対仏独立運動の種に水を与えた日本
フランスによる植民地化
フランスによるベトナムの植民地化は,18世紀後半から”じわじわ”進められ,1884(明治17)年6月6日,フランスとベトナム阮(グエン/Nguyễn)王朝との間で締結された第二次フエ条約をもって完成する。
この経緯と日本との関係については,下掲の拙稿をご参照。
日露戦争そのベトナムへの波紋
植民地化の完成後も,阮(グエン/Nguyễn)王朝の一部の皇帝はフランスに抵抗したが,それらは文字どおり”あっ”と言う間に鎮圧される。
ベトナムにおける市井の独立運動家の登場は,ファン・ボイ・チャウ(Phan Bội Châu)を待たなければならず,彼をしてその後の苛烈な独立闘争へと掻き立てたは,1904(明治37)年2月10日,日本の対ロシア宣戦布告だった。
ファン・ボイ・チャウが密出国し,密入国してまで日本に行きたいと考えた理由は,前述の「海外血書」より後,1914(大正3)年に彼が記した「獄中記」,その第五章の次の書き出しからも理解できる。端的に言えば,日露戦争。ただし,その勝利ではなく,日本が大国ロシアに戦いを挑んだ事実そのものが,ファン・ボイ・チャウに「一新世界を開かしめた」のである。
維新会(Duy tân hội)の設立
ファン・ボイ・チャウの動きは早かった。
未だ乃木大将率いる日本陸軍第三軍が旅順要塞を攻めあぐねていた1904(明治37)年10月,彼は,同志らとともに「維新会(Duy tân hội)」を立ち上げた。
維(Duy)新( Tân)。文字どおり,明治”維新”にあやかったもの。
フランスの植民地支配を受けていたベトナム阮王朝においても,1907(明治40)年に始まった年号を「維新(Duy Tân)」とし,その御代の皇帝を”維新帝”としたほどの日本への傾倒ぶりだった。
維新会の当初目的は,明治維新を成し遂げ,列強の一国であるロシアに戦いを挑んだアジアの日本,しかも,肌の色が同じで,漢学という共通の基盤がある日本に対し,対仏独立闘争のための武器と資金の提供の協力を求めることにあった。
この維新会の盟主に仰がれたのが,ベトナム阮王朝の王子,クォン・デ(Cường Để)である。
ベトナムからみた「明治維新」
ちなみに,現ベトナムの中学生(4年間)が使う歴史の教科書でも,明治以降,戦後の復興までの日本が,かなりのページ数で描かれている。
なかんずく明治維新(cuộc Duy tân Minh Trị)については,フランス革命以上の扱いを受けており,明治天皇(Thiên hoàng Minh Trị )による親政とされている。このような理解に対しては,党の日本ではアレルギー反応を示す一定の傾向集団がいるが,海外からの評価は実はそのようなもの。
「明治」という時代についても,国民に圧政を敷いた”陰”ばかりが強調されて教えられる日本の中学生と違って,過去に植民地支配を受けた経験があり,現在では社会主義体制のベトナムの中学生は,明治を”光”として端的に以下のよう教えられているのである。
維新会からベトナム光復会へ
維新会は,1912(明治45)年6月,同じくファン・ボイ・チャウが,誕生したばかりの中華民国の広州市にて設立したベトナム光復会(Việt Nam Quang phục Hội)に発展解消する。
ベトナム光復会は,ベトナム民国(Việt Nam Dân quốc)の樹立を目的とした。同会の会長にも,クォン・デ(Cường Để)が担がれた。
日本的立憲民主制を志向した「ベトナム民国」
ファン・ボイ・チャウが夢見たベトナム民国(Việt Nam Dân quốc)。
仮にこれが成就した場合には,維新会・ベトナム光復会の盟主である王族のクォン・デが元首に就いたはずである。
少なくともファン・ボイ・チャウら維新会・ベトナム光復会は,後のホー・チ・ミンが依った共産主義でないことはもちろん,アメリカ式大統領制ではなく,また王政を力で排除したフランス式共和制でもなく,ある意味,”明治維新”を模し,天皇を中心とした日本的立憲民主制を目指していたのではないだろうか。
以下,ファン・ボイ・チャウやクォン・デらベトナム人が,密かに日本を訪れる経緯とその顛末について簡単に触れてみたい。
東遊運動と東京義塾
東遊運動(Phong trào Đông Du)
1904(明治37)年12月,ファン・ボイ・チャウは,日本を目指し,自ら維新会を代表してベトナムを密に出国している。ファン・ボイ・チャウが清国を経て横浜港に着いたのは翌年4月である。
バルチック艦隊との日本海海戦が始まるのは翌5月27日。初めての来日ベトナム人と言えるファン・ボイ・チャウが日本に着いたのは,そのような時機。
ファン・ボイ・チャウは,戊戌の変法に失敗し清国から亡命していた梁啓超,犬養毅や大隈重信などと交流したが,逆に,彼らからフランスとの独立闘争に必要となる人材育成の重要性を説かれ,ファン・ボイ・チャウ自身も武器提供などは現実的でないことを悟る。
維新会の目的変更も早かった。
日本からの武器・資金の援助ではなく,ベトナムから留学生を日本に送り,将来的にフランスを打倒する人材を育成することへに転換した。冒頭の海外血書によれば「福沢諭吉」のような人材の育成を目指したのである。
これが東遊運動(Phong trào Đông Du)と呼ばれる日本留学の一大潮流で,日露戦争が終わった1905(明治38)年から1908年の3年間に,実に科挙合格生など100名(一説には200名)ものベトナム人が来日するに至っている。
クォン・デもその一人。困難な過程を経て,1906(明治39)年3月,東京に着いた。
東京義塾(Đông Kinh Nghĩa Thục)
この時期に苦難を越えて日本に辿り着いたベトナム人を一人あげるとすれば,ファン・チャウ・チン(Phan Châu Trinh)となる。名前ファン・ボイ・チャウと似てはいるが別人。
ファン・チャウ・チンは,ファン・ボイ・チャウらによる「維新会」や「東遊運動(Phong trào Đông Du)」の潮流とは別に,独自に日本視察の必要性を感じ,密かにベトナムを脱して1906(明治39)年4月下旬に来日した。
ただし,チンとチャウは相剋する関係ではなかった。
ファン・チャウ・チンは,日本滞在期間中,先行者のファン・ボイ・チャウの案内で日本の工業設備や教育機関などを視察して回った。その結果,国内での活動の必要性を実感し,日本滞在を短期に切り上げ,帰国を急いだ。 帰国にあたり,ファン・ボイ・チャウから彼が著した「海外血書(初編)」を託されていたのである。
帰国したファン・チャウ・チンは,早速,明治40(1907)年3月,同志らとともに「 Đông Kinh Nghĩa Thục(東京義塾)」を設立した。場所はハノイのホアンキエム湖近く。
「東京(Đông Kinh)」とは,ハノイの古称。ベトナム語のĐông Kinh(トンキン)敢えて漢字をあてると「東京」となるに過ぎず,東京(Tokyo)に由来するものではない。
これに対し,「義塾 (Nghĩa Thục)」は,ファン・チャウ・チン自身が日本を視察した際,慶応義塾を訪問し,その実学を重視した教授内容にを感銘を受けたためと言われている。言うなれば「ハノイ義塾」である。
このあたり,ファン・ボイ・チャウが自身の著書「海外血書(続編)」に,ベトナムにも「諭吉(dụ cát)」の出現が必要と記したのと同じ,慶應義塾に対する当時のベトナム知識階級の評価かと思われる。
ファン・チャウ・チンが創立した東京義塾は,実学の教授のほか,秘密裏に,帰国時にファン・ボイ・チャウから託された「海外血書」を印刷し,これをベトナム内でベトナム人のために出版するという役割を果たしており,当然,現地の仏印インドシナ政府当局に警戒されていた。
東京義塾設立のわずか3ヶ月後に,東京義塾だけでなく東遊運動の運命を暗転させる日仏協約が締結されることになる。
フランスと手を握った明治日本
日仏協約の成立
日露戦争当時(明治38年),フランスはロシアと同盟関係にあった。ロシアのバルチック艦隊が最後に寄港し,石炭などを補給したのは,フランスの植民地だったベトナムのカムラン湾(Vịnh Cam Ranh)。
日本の”敵国”だったフランスは,日露戦争の僅か2年後の明治40(1907)6月10日,その日本と日仏協約を,パリで締結するに至る。
同日,協約書と同時に,仏領インドシナに関する宣言書が調印されている。
協約書も宣言書も下記に全文を引用するように,いずれも抽象的な内容で,密かに日本に留学したベトナム人の取締りなどを日本に義務付けるものではなかった。
しかし,日本がフランスと手を結んだという事実そのものが,フランスからの独立への夢を日本に託した在日ベトナム人の志を挫くには十分だった。
日仏協約書
仏領印度支那に関する宣言書
黙認から国外退去へ
ファン・ボイ・チャウが日本にやってきたのは1905(明治38)年4月。クォン・デは翌1906(明治39)年3月。
1907(明治40)年6月10日,日本とフランスとの間で日仏協約が結ばれるのは,彼らの密来日と無関係ではい。
ただし,日仏協約は主に清国における日仏それぞれの権益の尊重という抽象的な内容に止まる。仏領インドシナに関する宣言も,日本に居住する仏領インドシナ(ベトナム,ラオス及びカンボジア)のフランス人や保護民(ベトナム人など)の生命や財産の保護を日本に求め,フランスに対してはフランス領インドシナに居住する日本人の生命財産の保護を求めるというもの。
いずれも仏領インドシナを法を犯して出国して日本に身を潜めるフランスの”保護民(ベトナム人)”について,日本に取締・調査・引渡などを求めるものではない。
しかし,フランスは,日本が友好国となったことを受け,日本に対し,ファン・ボイ・チャウやクォン・デら密かに仏領インドシナから日本に渡った東遊運動の”志士”の調査などを求めた。
他方,フランスは,日本に在日ベトナム人の調査などを依頼するのと引き換えとして,日本に対し,上海フランス専管租界内の朝鮮人の調査などを提案していた。
日本が大韓帝国を併合は1910(明治43)8月29日だが,既に芽生え始めていた抗日運動は上海にフランスが獲得していた専管租界をその拠点の一つとしていた。フランスは,日本が日本国内の抗仏ベトナム人運動家に関する情報提供等をするのであれば,代わりに上海のフランス専管租界内の抗日朝鮮人の情報提供等を行う旨を申し出ていたのである。
当時のベトナムとその後の日越の歴史にとって不幸なことは,東遊運動により来日したベトナム人の存在を黙認していた日本が,ロシアとの戦争が終わった直後でフランスに対抗する力がなく,このフランスからの申出に応じざるを得なかったことである。
終焉
東京義塾の閉鎖とチンの逮捕
仏領インドシナ政府の独立運動家に対する取締りは,まずは仏領インドシナ内で始まる。
ベトナム内での抗仏運動は未だ武力・暴力を伴うものではなかったが,日本渡航経験者によるフランスからの独立を目的とした啓蒙活動は,フランス植民地主義者を警戒させには十分だった。
明治41(1908)年11月,仏領インドシナ政府当局は,「東京義塾」の解散を命じ,書籍などを押収した。それだけでなく,ファン・チャウ・チンを逮捕・拘束し,同人に対し終身刑を言い渡した。
海外血書の「初編」と「続編」
ハノイで東京義塾が閉鎖された3ヶ月後,明治42(1909)年2月20日,冒頭で触れたように,日本の警察によって「海外血書」が押収され,ファン・ボイ・チャウへの事情聴取などが行われている。
実のところ,この日本で押収された海外血書は「続篇」である。これが東京神田で印刷され,ベトナムに密かに持ち込み頒布する計画であった。
これに対し「初篇」は,やはりファン・ボイ・チャウ(Phan Bội Châu)によって明治39(1906)年に著されているが,印刷は東京義塾で秘密裏で行われ,ベトナム”産直”で発刊されていたのである。
ところが,東京義塾は明治41(1908)年11月に仏領インドシナ政府により閉鎖されてしまった。そのため,海外血書の「続編」を著したファン・ボイ・チャウは,ベトナムでの印刷が不可能となったため,日本(東京神田)で550部を印刷し,これをベトナムに密かに持ち込もうとした。
しかし,冒頭に記したように,この550部がファン・ボイ・チャウに引き渡される直前の明治42(1909)年2月20日,フランスの要請に応じた日本の警察当局がこれを押収したのである。
東遊運動の急所
これまで述べたような日仏関係の変化が,東遊運動が僅か3年で終焉した理由の一つである。
もう一つの理由は,現実的な"お金"の問題である。
この当時,仏領インドシナ当局に知られずにベトナムを脱出し日本に密航すること,かつその旅費や滞在費用を賄うというのは,裕福な家庭でなければできず,当時の日本留学生の殆どは,地主などの裕福な家の子弟であった。ベトナムにて民族独立主義に共産主義が同化するのは,後年のこと。
仏領インドシナ政府はベトナムから資金が日本に流れるのを徹底的に阻止した。
ベトナムにおける仏領インドシナ官憲の当該措置は,遠く日本に密かに”東遊”していた上記のような留学生を干上がらせるには,十分過ぎる効果を及ぼした。
Trần Đông Phong(陳東風/チャン・ドン・フォン)がその影響を受けた一人のうち大なる者。
彼について,ファン・ボイ・チャウは,明治41(1908)に「陳東風伝」を遺しているが,チャン・ドン・フォンは,明治41(1908)年5月2日,日本の東京で自ら首を吊って命を絶っている。
その自死の理由について,ファン・ボイ・チャウの「獄中記」におけるチャン・ドン・フォンについての注記では,次のように記されている。
下の写真は,チャン・ドン・フォン(Trần Đông Phong/陳東風)の雑司ヶ谷霊園にある墓。日本に残る”最古”のベトナ人墓かもしれない。
革命の血と地
チャン・ドン・フォン(Trần Đông Phong/陳東風) が生まれ育った「南塘県」とは,ベトナム中部のゲアン省(Nghệ An省)ナムダン県(Nam Đàn県/南塘県)のこと。
ファン・ボイ・チャウもゲアン省ナムダン県の出身で,同郷。
さらには,かのホー・チ・ミン(Hồ Chí Minh / 胡志明)主席も,同じゲアン省ナムダン県の出身。
ホー・チ・ミン主席がゲアン省ナムダン県で生まれたのは,1890(明治23)年5月19日。ファン・ボイ・チャウは1867(慶応3)年12月26日生まれ。
両者は一世代を隔てはいるが,地か血なのか,植民地支配からの独立という”事業”を同郷の”親子”が承継したかのようである。
流刑にされたベトナムの”維新”
1907(明治40)年9月5日に即位した維新帝であるが,第一次世界大戦を好機としてベトナム光復会が計画した対仏独立運動に参加すべく,1916(大正5)年5月2日,王都フエ(Huế)を密かに抜け出した。
しかし,ベトナムを抜け出せないまま僅か6日後にフランス官憲に捕らえられ,フランス植民地,アフリカの孤島レユニオン島に流刑となってしまった。
ちなみに,維新帝は第二次世界大戦が終わるまで存命した。戦中の1945(昭和20)年3月11日,ベトナムは,フランスから独立を宣言し,ベトナム帝国(Đế quốc Việt Nam)を樹立しているが,その御膳立てをした日本の中には,その経歴から維新帝を皇帝に擁立を推す者もあったが,実現することはなかった。
日本から惜別と共産主義への接近
フランスが日本に対し,日仏協約を理由に日本に身を潜めるベトナム人の調査や報告を求めるようになるのは,明治42年(1909)年初頭からであり,その一例が冒頭の同年2月20日に行われた「海外血書」の押収である。
この潮目の変化を悟ったファン・ボイ・チャウなど東遊運動により日本に”留学”していたベトナム人の殆どが日本を離れた。こうして約3年という短い期間で東遊運動は終焉した。これは同時に王族・富裕層による”上からの革命”の終焉を意味した。
以後,ベトナムにおけるフランスからの独立抗争は”下からの革命”にシフトし,それを主導したのがホー・チ・ミンである。
1917(大正6)年二度の革命を経て世界史に誕生したソ連という共産主義の国家。既に日欧米で危険視されていた「共産主義」という思想を「民族主義」という正義で隠すことで,”下からの革命”を進めたのがホー・チ・ミンであり,以後,フランス,日本,再びフランス,そしてアメリカ,最後に南ベトナムと,敵を変えながら半世紀にもわたる民族独立抗戦へベトナム人民を指導することになる。
クォン・デについて
ベトナム阮王朝のクォン・デ王子は,何度か日本を離れるも,フランスを敵にしてまで彼を受け入れる先がなく,その都度日本に戻り,戦前・戦中・戦後を日本で過ごした。
その間,彼をベトナムの元首に担ごうとする動きは日本陸軍内の一部にはあったが,実現することなかった。
結局,クォン・デは,一度もベトナムに帰ることなく,戦後も戦後の昭和27年(1952)4月6日,日本の東京で亡くなっている。
次稿以降では,このクォン・デが主人公となる。
東京で弁護士をしています。ホーチミン市で日越関係強化のための会社を経営しています。日本のことベトナムのこと郷土福島県のこと,法律や歴史のこと,そしてそれらが関連し合うことを書いています。どうぞよろしくお願いいたします。