東遊運動その35年後の日本
年号が令和に変わった年の12月に訪れたベトナムの古都フエ(Huế)では,平成29年(2017)3月にこの地をご訪問された(当時の)天皇皇后両陛下と同じ,「Azerai La Residence, Hue」に滞在してみた。
香河(Sông Hương)沿いにあって,喧騒から離れた場所にあって静まれるだけでなく,その名のとおりのLe Parfumと冠されたカクテルも香り高く,足に豆ができるくらい歩いた身体が癒される。
天皇皇后両陛下のフエでのご訪問先の一つが「ファン・ボイ・チャウ記念館(Nhà lưu niệm Phan Bội Châu)」。
ファン・ボイ・チャウ(Phan Bội Châu)は,ベトナム独立運動家として教科書に載るほどで,ベトナムで知らない人はいない。
彼が1914年に記した”獄中記”に「日露大戦の報,長夜の夢を破る」とあるように,1904年(明治37)2月,日本がロシアに向けて撃ち込んだ砲声は,フランスによる植民地支配が固定化されたベトナムにも届き,既に独立運動の指導家として知られた存在ではあったが打つ手を失っていたファン・ボイ・チャウ(Phan Bội Châu)に響いた。
ファン・ボイ・チャウは,早くも1904年10月下旬には,皇族のクォン・デ(Cường Để)を盟主に仰ぎ,「維新会(Hội Duy tân)」を立ち上げ,その目的を,明治維新を成し遂げ,列強の一国であるロシアに戦いを挑んでいたアジアの日本,しかも,肌の色が同じで,漢学という共通の基盤がある日本に対し,対仏独立闘争のための武器と資金の提供の協力を求めることに定めた。そして,彼自身が維新会を代表し,日本に向かうことを決めた。
ファン・ボイ・チャウは,1904年12月にベトナムを密に出国,上海から日本海海戦直前の明治 38年(1905)4月中旬に横浜港に着いた。
戊戌の変法に失敗し清国から亡命していた梁啓超,犬養毅や大隈重信などと交流したが,逆に,彼らからフランスとの独立闘争に必要となる人材育成の重要性を説かれ,ファン・ボイ・チャウ自身も武器提供などは現実的でないことを悟った。維新会(Hội Duy tân)の目的を,ベトナムから留学生を日本に送ることに転換した。これが「東遊運動(Phong trào Đông Du)」と呼ばれる日本留学の一大潮流で,1905年から1908年のあの時代の僅か3年間に,科挙合格生など200名ものベトナム人が来日するに至った。
ファン・ボイ・チャウの生れは,ホーチミン主席と同じゲアン省(Nghệ An )で,そこにも「ファン・ボイ・チャウ記念館(Nhà lưu niệm Phan Bội Châu)」がある。フエ訪問と同じ年だが未だ"平成”の31年(2019)1月に訪問,生家などが保存されている。
フエの記念館は,ベトナムのエリート校「国学( Quốc Học)」に源を発するその名もファン・ボイ・チャウ 通り(Đường Phan Bội Châu)沿いの住宅街にあって,ファン・ボイ・チャウが1925年に上海でフランス官憲に捕らえられて以降,死ぬまで軟禁されていた家と,彼の墓がある。
下写真の石碑は,ファン・ボイ・チャウが起こした日本とベトナムの交流を記念し,2010年11月3日(明治天皇の誕生日),この記念館に日本側が建てたもの。
彼はこの地で1940年10月29日に亡くなった。
その年の9月には,彼が命を賭してまで武器を求めに渡った日本が,35年を経て今度は自ら武器を携えてベトナムに軍を進めてきていた。
東京で弁護士をしています。ホーチミン市で日越関係強化のための会社を経営しています。日本のことベトナムのこと郷土福島県のこと,法律や歴史のこと,そしてそれらが関連し合うことを書いています。どうぞよろしくお願いいたします。