見出し画像

インド独立の英雄チャンドラ・ボース

独立記念日8月15日

 インドの独立記念日は8月15日。
 ただし1945(昭和20)年ではなく1947(昭和22)年。

落命日8月18日

 他方で,1945(昭和20)年8月18日は,インドの独立運動家で,本国ではガンジーと同等かそれ以上に評価されているスバス・チャンドラ・ボースが,日本の敗戦を知ってベトナム・サイゴンから台湾経由で日本に向かう途中に,台湾での飛行機事故で亡くなった日。

武闘派独立家の本領

 ボースは,ガンジーの「非暴力主義」に限界を感じ,ガンジーと袂を分かって,1941(昭和16)年4月2日,イギリスからの独立への協力を求めに,イギリスと交戦状態にあるナチス・ドイツの首都ベルリンに渡る。しかし,実際にはアジアを差別するヒトラーの協力を得ることはできなかった。
 ところが,ドイツ滞在中,インドと同じアジアの日本が,イギリス,アメリカ及びオランダとの開戦に至る。そこでボースはドイツを諦め日本の協力を求める決意をする。こうして,ボースは,ドイツ潜水艦Uボートからマダガスカル島辺りで日本の伊号潜水艦に乗り継いで,1943(昭和18)年5月16日,日本に到着した。

大東亜会議に出席

 1943(昭和18)年11月5日,ボースは,東京で開催された大東亜会議に自由インド仮政府をの首班として出席している。
 同会議の出席者は(写真左から),ビルマ国国家代表兼内閣総理大臣のバー・モウ,満洲国国務総理大臣の張景恵,中華民国(南京国民政府)主席の汪兆銘,東條英機首相,タイ王国のワンワイタヤーコーン親王,フィリピン共和国のホセ・ラウレル大統領及び自由インド仮政府主犯のスバス・チャンドラ・ボースである。

インパール作戦の共作・共闘

 ボースは,シンガポールやマレーシアなどで捕虜となっていた旧イギリス兵インド人を中心に,自身を最高司令官としたインド国民軍約4万5000人を組織し,1944(昭和19)年,悲願のインド独立を目指し,9万人の日本軍とともにインパール作戦を共作し,共闘する。

 しかし,日本陸軍と,ボース率いるインド国民軍との共作によるインパール作戦は,戦後最も評判の悪い作戦の一つ。
 ボースの雄弁と熱意に日本陸軍が酔わされたことが作戦決行の要因の一つで,両軍の連携の悪さが作戦失敗の原因の一つとも言われている。

独立の夢はたせず

 インド独立の夢を諦めなかったボースは,日本の敗戦を知って,ベトナム・サイゴン,台湾,東京,大連を経てソ連にイギリスからの独立への支援を求めに行こうとした。 
 しかし,その途中の台湾での飛行機事故で,1945(昭和20)年8月18日,その命を落とした。
 タイトルと下の写真は杉並区の蓮光寺にある,台湾から送られたボースの遺骨を納めた墓碑。

インドの独立と日本

 ボースが率いたインド国民軍兵は,戦後1945年11月,「英国王への反逆罪」によりイギリス植民地政府により死刑に処せられている。
 しかし,これが契機となってインド各地で大暴動が勃発,宗教間の対立にも発展し,ガンジーの「非暴力」は狡猾に“いなし“ていたイギリスも,暴動鎮圧を断念して遂に統治権を放棄,1947(昭和22)年の8月15日に約90年ぶりの独立を認めることになる。インドは武力で独立を自ら勝ち取った。
 この独立の実現についてインド人がどのように評価しているかは,(旧)デリーにあるチャンドラ・ボース公園には,インド国民軍を率いて日本軍兵と共に戦うボースの銅像が建てられていることからも窺い知ることができる。

東京裁判への一穴

 最後に,インド国民軍捕虜に対するイギリス植民地政府による「英国王への反逆罪」での処罰が,東京裁判でのパール判事の意見に影響を与えたということを付言したい。


東京で弁護士をしています。ホーチミン市で日越関係強化のための会社を経営しています。日本のことベトナムのこと郷土福島県のこと,法律や歴史のこと,そしてそれらが関連し合うことを書いています。どうぞよろしくお願いいたします。