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野口英世だけじゃない福島

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自分の身近を知ることこそが社会科学のはじまり
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記事一覧

天領小名浜にとってのホイアン・Hội An

ベトナムに渡った福島県人「南洋学院」という外地校  戦時中の昭和17(1942)年から昭…

戦後なき”若松連隊”

若松連隊こと歩兵第29連隊ベトナム語のポスターを貼るのは日本兵  写真は,既に”戦後”と…

昭和9年当時のソ連とウクライナに関する陸軍の認識

国防の本義と其強化の提唱「たたかひは創造の父,文化の母である。」   ここに,昭和9(1…

大久保利通邸の登記簿

麹町区三年町三番地の登記簿三年坂に三年町あり  霞が関の財務省と文部科学省の間に「三年坂…

若松連隊 奉天からサイゴンまで

若松連隊こと歩兵第二十九連隊 遡ること80年前,昭和16(1941)年12月8日に英米対…

令和に蘇る南モンゴルと日本の密接な関係

南モンゴルの地政学南モンゴルを支援する議員連盟  髙市早苗衆議院議員が会長を務め,自民党…

「満蒙は日本の生命線」その法的根拠

”満洲”の難しさ イギリスやアメリカとの戦争と比べ,10年前にその遠因となった満洲事変については,なかなか”弁護”が難しい。  日本が掲げた「満蒙は日本の生命線」とのスローガンも,戦後の価値観では他者加害にしか聞こえない。しかし,当時の国民が圧倒的に支持していたことも事実。  この辺り,端的に条約や協定などの法的根拠に沿って,時系列的にみてみると,意外にそれぞれの事象が一つの価値を運んで流れてくる。  その源泉は,明治28年の日清戦争に遡る。 日清戦争と三国干渉【1895.

戦後司法に流れた会津藩の命脈

”江戸”の終幕  明治2年5月18日,西暦の1869年6月27日は,五稜郭の開城・武装解…

会津の山川健次郎

 昭和6(1931)の6月26日は,会津藩出身の山川健次郎が亡くなった日。  山川健次郎…

柴五郎と「条約」

敗けたが賊軍下北半島に移住させられた会津藩  井伊直弼の暗殺により「安政」が終わり,文字…

第二師団が最後を迎えたサイゴン

 上の写真は,仙台市の榴岡公園内に「仙台市歴史民俗資料館」として保存されている,旧陸軍第…

磐越の海道

 あの大震災から令和3年3月11日で10年になる。  ”原発事故”の陰に消されてしまったが,こ…

コロナ禍のベトナム進出

 昨年(2020),世界中がコロナ禍にあったにも関わらず,果敢にもベトナム進出を決めた会社が…

芥川賞作家とサイゴン裁判

「プレオー8の夜明け」その書き出し  作家の古山高麗雄氏が,サイゴン裁判のC級戦犯容疑者としてチーホア刑務所とサイゴン中央刑務所(彼が収監された雑居房が「プレオー8」)に収監されていた日々を描き,昭和45年(1970)に芥川賞を受賞した「プレオー8の夜明け」は,次の書き出しで始まる。 「進軍歌 (Tiến quân ca)」 「ドアン クン…」で始まる”ヴェトミン独立歌”をベトナム語に戻すと,  これは「進軍歌 (Tiến quân ca)」と題される,当時のヴェトミ