若松連隊 奉天からサイゴンまで
若松連隊こと歩兵第二十九連隊
遡ること80年前,昭和16(1941)年12月8日に英米対戦を生起した因縁は,その10年前,昭和6(1931)年9月18日に起きた柳条湖事件と,それに続く満洲事変にまで遡る。
満洲事変は「関東軍」の仕業ではあるが,実際に軍事行動を取ったのは,たまたま満洲にいて関東軍の指揮下に入れられていた仙台を本拠とする第二師団である。
第二師団は,宮城,福島及び新潟の3県を師管とする。その隷下連隊の一つにして主力の歩兵第二十九連隊は,福島県の会津若松を衛戍地とし,その殆どが福島県内から集めた兵で編成されている。別称「若松連隊」,地元福島では「白虎連隊」と親しまれた。
その若松連隊は,奉天郊外の柳条湖で鉄道爆発事件が起きた正にその時,偶然か必然か,”敵”奉天派軍閥のドンたる張作霖・張学良の牙城にして,満洲の政治経済の中心地,奉天に駐屯していた。
満洲駐兵の法的根拠
日露講和条約(ポーツマス条約)
そもそも日本の軍隊が満洲の地に駐屯,しかも合法的にそてに至った根拠は,明治38(1905)年9月5日に締結された日露戦争に関する日露講和条約(ポーツマス条約)第6条1項に基づく。
同条項に基づいて日本が獲得した主な権益は以下の鉄道,駐兵及び炭鉱の3件。なお,これら権利等のロシアから日本への承継には清国の承諾が要件となっているが,清国は,同年12月22日に日本と締結した「満洲に関する条約」をもって之を承諾している。
・長春ー旅順間の鉄道及びその支線
これが南満洲鉄道(満鉄)である。
・鉄道に付属する一切の権利,特権及び財産
この権利等には,明治33(1900)年11月11日,ロシアが清国との間で締結した満洲に関する露清協定(第二次露清密約)に基づいて獲得した,上記鉄道を守備するための軍隊を駐兵する権利が含まれている(と日本は解釈している。)。
・炭鉱(撫順及び煙台)
上限があった駐兵数
ロシアは,南満洲鉄道を日本に譲渡したが,北満洲にあった東清鉄道を引き続き保有しその守備兵を駐兵させていた。満洲において日露両国の鉄道守備兵が併存することから,その兵員数について調整された。
その結論は,以下のように,日露講和条約(ポーツマス条約)追加約款第一第三項にて「守備兵の数は1キロメートル毎に15名を超過することを得ず」と規定された。
満洲事変時,日本がロシアから獲得した南満洲鉄道(長春ー旅順)は831.4km,支線の安奉線(安東ー奉天)275.8kmで,合計は1107.2km。1kmあたり15人以下のため,満洲において清国(中華民国)が認めた(と日本側が解釈する)日本軍の駐兵数の上限は1万6708人だった。
満洲事変時の関東軍
南満洲鉄道及びその支線(並びに鉄道付属地)を守備するべく,旅順に司令部を置いていたのが関東軍。
その成り立ちから満洲事変までの関東軍は,その隷下として独立守備隊6個大隊を置き,これに加え内地から2年交代で派遣される駐剳1個師団を得て,その指揮下に置いていた。その総兵力は,前記日露講和条約(ポーツマス条約)追加約款第一第三項を前提に,合計1万人程度だった。
終戦時には満洲に居留する日本人は約160万人いたが,満洲事変当時においても,既に約20万人が満洲国で生活及び経済活動を営んでいた。張学良軍閥が正規・非正規合わせて20万人とも50万人とも言われる。まさかの有事の際に,この大軍閥に対して約20万人の日本人の生命・財産を護るべく対峙するのは,ロシアとの調整で算出された1万程度の寡兵という危うい現状にあった。
要するに,関東軍は,満洲事変時まだ小所帯。
満洲事変の主力
若松連隊 奉天へ
第二師団隷下の歩兵第二十九連隊(若松連隊)は,以下の経緯で満洲事変が始まる約5ヶ月前に満洲の奉天に到着する。
関東軍の司令部,編制及びその所在
満洲事変直前の関東軍の司令部,編制及びその所在は下記のとおり。
満洲事変の震源地にして”敵”の拠点たる奉天にあったのは,独立守備隊第二大隊と,若松連隊である。
柳条湖は奉天近郊
昭和6(1931)年9月18日午後10時25分,奉天駅から北に僅か7.5kmの柳条湖(当時は「柳條溝」と書いた。)付近で,関東軍が守備する南満洲鉄道の線路が爆破された。
この爆破事件を首謀したのは,関東軍高級参謀の板垣征四郎大佐と,関東軍作戦主任参謀の石原莞爾中佐と言われる。
若松連隊 主力に
当時,その奉天に駐屯していたのは,上記のとおり,関東軍隷下の独立守備隊第二大隊と,関東軍の指揮下に入れられた歩兵第二十九連隊(若松連隊)の合計約1万1000人。このうち線路爆破を実行したのは,”地元”の独立守備隊第二大隊の一部の兵と言われている。”他所者”の若松連隊は真実を知ることはなかった。
事件発生直後,板垣征四郎参謀は,独立守備第二大隊に対しては北大営の攻撃を命じ,さらに若松連隊に対しては奉天城の攻撃を命じた。北大営は柳条湖付近にあり張学良軍閥の兵営があった。奉天城には張学良軍の司令部(張学良は北京にいて不在)があった。
奉天は,張作霖・張学良軍閥が「奉天派」と言われるようにその牙城にして,満洲の政治経済の要の地。日露戦争において最後の大会戦が行われた日本軍因縁の地。歩兵第二十九連隊(若松連隊)は,翌日には奉天城を攻略,緒戦にてその奉天を占領したことが,少ない兵力にも関わらず約6ヶ月の短期間で満洲全域を占領することに貢献したと言われる。
満洲国建国後
会津に帰還
昭和7(1932)年3月1日,若松連隊は,満洲にありながら,清朝ラストエンペラー愛新覚羅溥儀を元首とする満洲国の建国宣言をみた。
同年12月31日,内地帰還のため奉天を発つ。
翌昭和8年1月3日,朝鮮の釜山を出港,広島の宇品港に着。
同月6日,約2年の務めを終え,若松連隊は原衛戍地の会津に帰還する。
二・二六事件
昭和11(1936)年2月26日,帝都東京で二・二六事件が起きる。若松連隊は,同月27日に非常呼集があり,同月29日から同年3月20日,いわよる行政戒厳下の帝都東京にて戒厳勤務に従事した。
第二次満洲派遣
昭和7(1932)年9月15日,同年3月1日に建国を宣言した満洲国は日本との間で,下記内容の日満議定書を締結している。
この協定では「両国共同して国家の防衛に当るべきこと」が合意され,そのために「所要の日本国軍は満州国内に駐屯する」ことになった。その兵員数等は「所要の」なので,それまでの鉄道1Kmあたり15人という制限は無くなり,関東軍はその規模を拡大していく。
昭和12(1937)年4月18日,若松連隊は,二回目の満洲駐箚を命ぜられ,若松を出立。同月19日,新潟港を出帆,同月22日,現在の北朝鮮の羅律に上陸する。
以後,満洲国三江省の通河付近の警備に当たる。
支那事変後
盧溝橋事件
昭和12(1937)年7月7日,若松連隊が満洲国に到着して2ヶ月が経った頃,満洲国と”万里の長城”を国境として隣接する中華民国の北京市において,盧溝橋事件が起きる。
なお,盧溝橋事件以降の「事変」の呼称について日本政府は,昭和12(1937)年9月2日に「今回の事変は之を支那事変と呼称す」と閣議決定している。
その後,昭和16(1941)年12月8日,イギリスとアメリカと戦争に至った日本政府は,同月12日,今次戦争の呼称について,「今次の対米英戦争及今後情勢の推移の伴い生起することあるべき戦争は,支那事変をも含め大東亜戦争と呼称す」と閣議決定し,支那事変と対米英戦争を合わせた呼称を「大東亜戦争」とする旨,公式決定した。
ちなみに,その閣議では合わせて「平時,戦時の分界時期は,昭和16年12月8日午前1時30分とす」とも決定された。昭和16年12月8日午前1時30分(日本時間)以降が「戦時」とされたが,この時刻は,同日午前3時19分(日本時間)に開始されたアメリカ領真珠湾に対する攻撃開始ではなく,それより約2時間早く始まった開始されたイギリス領マレーシアへの上陸作戦が開始された時間である。
徐洲会戦
若松連隊は,昭和13(1938)年4月28日,哈爾濱(ハルビン)に移駐する。
同地付近の警備中,同年5月10日に応急派兵の命を受け,同月13日哈爾濱(ハルビン)を発つ。同月15日,中華民国北部の済寧に着,徐洲会戦(同年4月7日から同年6月7日まで行われた)に覆面部隊として参加,同年6月21日,原駐地である満洲国哈爾濱(ハルビン)に帰着する。
同年7月15日,満洲国牡丹江省の掖河(えきが)に移駐。
ノモンハン事件
昭和14(1940)年7月16日,再び応急派兵の命を受ける。ソ連軍とのノモンハン事件参加のため掖河(えきが)を発ち,同年9月1日,満洲国(南モンゴル)にあって,ソ連軍の侵攻に備えた要塞陣地ハイラルに着く。ただし,同月16日に停戦協定が成立したため,戦闘には参加せず。
しばしの帰還
昭和15(1940)年10月20日,内地帰還のため掖河(えきが)出発,同月22日に羅津港出帆,同月29日に大阪港に上陸し,31日,若松に帰り着いた。
対英米蘭開戦
南方へ
昭和16(1941)年12月1日,若松連隊は,南方派遣のため若松出発。これは支那事変が大東亜戦争となる1週間前。 翌17(1942)年1月19日,広島の宇品港を出港。
台湾高雄に寄港後,歩兵第二十九連隊を含む第二師団がフランス領ベトナムのカムラン湾に集結したのは,昭和17(1942)年2月10日。ベトナム中部にあるカムラン湾は,明治38(1905)年4月14日,ロシアのバルチック艦隊が立寄り,約1ヶ月の停泊後,日本海海戦へと向かった同艦隊最後の寄港地。
そのカムラン湾で第二師団はジャワ攻略の命令を受け,56隻の大船団を組み,昭和17(1942)年2月18日,カムラン湾を出港,ジャワ島を目指す。
同年3月1日,ジャワ島に上陸,ジャワ島攻略戦及び同島警備にあたる。
ガダルカナル島へ
米軍に奪われたガダルカナル島(ガ島)の奪還作戦の主力に選ばれたのが第二師団。
その隷下の歩兵第二十九連隊(若松連隊)は,昭和17年(1942)年9月17日,九州丸(8,660トン)に乗船してジャワ島を出航,同月29日午前10時半,ニューブリテン島ラバウルに上陸する。
こうして,若松連隊は,あのガダルカナル島奪還作戦に参加したが,上陸した2,453人のうち2,153人が戦死し,全滅に近い損害を受けた。
フィリピンで再編成
昭和18(1943)年2月1日以降,若松連隊は,ガ島からラバウルへの撤退を開始する。同年4月20日,ラバウルを出港,同年5月10日比島マニラに上陸。
マニラで郷里から兵員を補充して,全滅した連隊の再編成を図る。
ビルマ(ミャンマー)転進
昭和19(1944)年3月5日,若松連隊は,シンガポールを経由し,ビルマ(現在のミャンマー)に転進する。
日本軍は,”援蒋ルート”の遮断を目的に,米英開戦当初から英領ビルマの攻略に乗り出し,開戦直後の昭和16(1941)年12月21日に日泰攻守同盟条約を締結していた同盟国タイからビルマへ軍を進め,昭和17(1942)年3月8日,首都ラングーン(現在のヤンゴン)を占領,同年5月末までに全域を制圧し,イギリスを駆逐する。
イギリスから解放されたビルマは,昭和18(1943)年8月1日,他のアジアの国に先駆けて,日本軍が支援するアウン・サン将軍(スーチー氏の父親)を国防相,バー・モウを国家元首としてイギリスからの独立を宣言した。
しかし,昭和19(1944)年2月頃から,イギリスを中心とした連合国軍がビルマ奪還のために,英領インドとの国境付近に軍を配備。これを受け昭和19(1944)年3月8日以降,日本軍(第15軍)は,スバス・チャンドラ・ボース率いるインド国民軍との共闘である,英領インド内の英国軍の拠点”インパール”を攻撃する作戦(インパール作戦)を実行していた。
若松連隊をはじめとした第二師団はインパール作戦を支援するべく,ビルマに転進し,主に英領インドとビルマとの国境防衛にあたった。
雲南での米式重慶軍との死闘(龍陵会戦)
昭和19(1944)年5月11日,米軍による訓練を受け,しかも米国製兵器で武装した中華民国の雲南遠征軍(日本軍は「米式重慶軍」と呼んでいた。)15個師団(兵力約18万)が,ビルマとの国境近く雲南の龍陵地区に進軍してきた。
この地を守備していた久留米の第56師団(約1万8000兵)の援軍として,ビルマに駐留していた若松連隊が派遣された。同年10月4日,米式重慶軍を撃退し,守備任務を再び第56師団に移譲してビルマに戻った。この激戦で,若松連隊は,1,802名の参戦者のうち291名の戦死者,398名の負傷者という大きな損失を出した。
仏領インドシナ(ベトナム)へ
昭和20(1945)年1月27日,若松連隊を含む第二師団はビルマを出立する。映画「戦場にかける橋」で有名な泰緬(タイ=ビルマ)鉄道でビルマから南下してタイのバンコクへ移動する。
さらに昭和17(1942)年に日本軍が敷設したバンコク=プノンペン間の鉄道(ポル・ポト派により1976年に破壊されるが,2019年4月22日に再開通している。)を使って,仏領インドシナ(ベトナム,カンボジア及びラオス)に転進する。
若松連隊は,カンボジア内,メコン川沿いの都市ストゥントレン(Stung Treng)に連隊本部を置き,昭和20(1945)年3月6日には隷下の各連隊の配備も完了した。
第一大隊は,ベトナム南部のサイゴン(Sài Gòn)とその周辺のショロン(華僑の街,現在のホーチミン市5区)などに進駐。
第二大隊は,カンボジアのトレンサープ湖南岸地域コンポクナン,プルサット及びロメヤス(Romeas)などに進駐。
第三大隊は,ラオスのカンボジアとの国境線に沿うクラチエ,パークセー(Pakse),パクソン(Pakson)などに進駐した。
対フランス戦(明号作戦)
インドシナ(ベトナム,カンボジア及びラオス)転進の目的は,未だにこの地を植民地として支配・管理していたフランスを完全に排除するため。
英米開戦前の昭和15(1940)年9月22日,日本軍は,フランスとの協定に基づいてインドシナへ進駐している。その進駐は,インドシナでのフランスの主権を維持・尊重することが前提で,日仏はいわば協力関係に基づくもの。しかし,昭和19(1944)年8月25日,パリがドイツ占領から解放されるなど,情勢がフランスに有利に転じ,徐々にフランスが非協力に変化,やがては英米軍がベトナムに上陸した際にこれに駐フランス軍が呼応して日本軍を攻撃する可能性が出た。
この危険を未然に取り除くべく,これまで形だけでも”協力”関係にあったフランス軍を一気に打倒しようと作戦されたのが明号作戦。
明号作戦が発動したのは昭和20(1945)年3月9日午後10時(ベトナム時間)。フランス軍は,ほぼ1日で鎮圧された。
ベトナム,ラオス及びカンボジアの独立
翌同月11日,日本軍の後ろ盾を得て,それまでフランス支配下にあったベトナム阮王朝のバオ・ダイ帝は,フランスからの独立を宣言し,ベトナム帝国(Đế quốc Việt Nam)を樹立し,フランスを排除したベトナムと日本の新たな関係が始まろうとしていた。
ベトナムで聴いた玉音放送
昭和20(1945)年8月15日,いわゆる玉音放送は,ベトナムに駐屯する若松連隊にも届いた。
再びフランスと新たにイギリスが進駐してくる。日本の敗戦は,ベトナムにとっては抗戦の始まり,そして若松連隊にとっては必ずしも終戦を意味しなかった。
若松連隊の”終戦”後の闘い
ベトナム側では,日本の敗戦を予想し,ホーチミン首席により昭和16年(1941)5月19日に結成されたのが,ベトナム独立同盟会(Việt Nam Độc Lập Đồng Minh Hội ),いわゆるベトミン。
同年8月15日以降,ベトミンによる抗戦が激化。やがてイギリス軍やフランス軍の手に負えなくなる。イギリス進駐軍は,敗戦とともに”捕虜”となった日本軍に再び武器を持たせ,ベトミンの鎮圧とフランス市民の保護など,治安維持にあたらせた。特にサイゴンを中心としたベトナム南部については,終戦時にその地に駐留していた若松連隊に白羽の矢が立った。
こうして”敗戦”を受け入れたばかりの若松連隊は,”勝者”の都合で敵でもないベトミンとの交戦を強いられ,ベトナムにとっても日本にとっても不幸なことに,大義なき犠牲者を出してしまう。
旧日本軍の前にベトミンも鳴りを潜め,これを鎮圧と誤解したイギリス軍は,昭和21(1946)年3月までにベトナムから撤退し,フランス軍がこれを継承した。
若松連隊の多くは,昭和21(1946)年4月以降,ベトナムの”聖雀(サンジャック)岬”から復員船に乗り帰国を果たす。
Cap Saint -Jacques(サンジャック岬/聖雀岬)は,サイゴンから約100キロ弱の海岸の街,現在のブンタウ(Vũng Tàu)。若松連隊の大部分は,昭和21(1946)年4月29日,このサンジャックで米国リバティ号に乗船し,同年5月9日,広島県大竹港に上陸復員している。
その時の復員数は2,035名と記録されているが,若松連隊の一部には,自らの意思による者,よらざる者があったが,各々の理由のもとベトナムに残留した上での闘いが続いた。
ベトナムに残留した者の一部は,自らの意思ではなく,フランスによりBC級戦犯の容疑者として拘束され,裁かれた者である。
そして残留した者の大部分は,自らの意思により,ベトミンに軍事教官あるいは戦士として参与し,ベトナムの独立のために供にフランス軍と戦った者である。
東京で弁護士をしています。ホーチミン市で日越関係強化のための会社を経営しています。日本のことベトナムのこと郷土福島県のこと,法律や歴史のこと,そしてそれらが関連し合うことを書いています。どうぞよろしくお願いいたします。