「満蒙は日本の生命線」その法的根拠
”満洲”の難しさ
イギリスやアメリカとの戦争と比べ,10年前にその遠因となった満洲事変については,なかなか”弁護”が難しい。
日本が掲げた「満蒙は日本の生命線」とのスローガンも,戦後の価値観では他者加害にしか聞こえない。しかし,当時の国民が圧倒的に支持していたことも事実。
この辺り,端的に条約や協定などの法的根拠に沿って,時系列的にみてみると,意外にそれぞれの事象が一つの価値を運んで流れてくる。
その源泉は,明治28年の日清戦争に遡る。
日清戦争と三国干渉
【1895.4.17 日清講和条約】
明治28(1895)年4月17日,清国を相手とする初めての対外戦争に勝利した日本は,日清講和条約(下関条約)を締結し,賠償金のほか以下の権益を獲得する。
まず第一条にて,朝鮮国の清国からの完全無欠の独立を獲得する。
続いて第二条にて,台湾(及び台湾海峡の澎湖諸島)に加え,大連及び旅順を含む「奉天省南部の地」の永久的割譲(租借ではない。)を受ける。
条約の文中では「奉天省南部の地」を文章で説明しているが,下関条約に附属する下掲の地図が分かりやすい。要するに遼東半島であるが,文字通りの半島のみならず,鳳凰城,海城,営口などの内陸部も含み,遼河に至る広さは九州に匹敵した。
この割譲地の線引きを担当したのは,5年後の1900年,北京で起きた義和団の乱(北清事変)において,日本を含む領事館区域を暴徒及び清国軍から護る活躍をし,欧米からも賞賛された柴五郎(日清戦争時の)征清大総督府付参謀である。
しかし,柴参謀による渾身の経界づくりは,ロシアの圧力で無駄となってしまう。
【1895.11.8 奉天半島還付に関する条約】
日清講和条約(下関条約)締結から1週間も経たない明治28(1895)年4月23日,ロシアは,フランスとドイツを引き連れて,日本に対し「奉天省南部の地」の清国への返還を要求してきた(いわゆる三国干渉)。
日本は,明治28(1895)年11月8日,清国との間で奉天半島還付に関する条約を締結。日清戦争で獲得したばかりの奉天半島(遼東半島)を僅か半年で清国に「還付」することになる。それは無償ではなく対価を得るものではあったが。
この件をきっかけとして,日本国民の間では「臥薪嘗胆」という言葉が流行,反ロシア感情が高まった。
ロシアの清国への侵蝕
【1896.6.3 第一次露清条約】
まさかの日本に敗北した清国は,自国の防衛のためロシアに接近する。
明治29(1896)年6月3日,清国はロシアとの間で第一次露清条約を取交す。ロシアは,三国干渉及び同盟の見返りとして,北満洲に鉄道の敷設権を獲得する。これはモスクワから延びるシベリア鉄道を,北満洲を横断することにより最短でウラジオストクに到達することを狙ったもの。
加えて,その鉄道の敷設と経営は,ロシアとフランスの合弁による露清銀行に委ねられ,同銀行が出資する株式会社にて行うこととされた。
【1896.9.8 北清鉄道の敷設に関する契約】
3ヶ月後の1896年9月8日,その露清銀行は,清国代表の許景澄との間で東清鉄道の敷設に関する契約を結ぶ。
この契約により設立されたのが東清鉄道株式会社で,同社が設営したのが東清鉄道(辛亥革命後の東支鉄道)。東清鉄道は,明治34(1901)年に完成した。
後年の日本にとってそれ以上に重大なのは,当該契約でロシアが獲得した鉄道附属地という概念。これは鉄道に「附属」する地をロシアが収用できるとするもので,この概念に基づき,ロシアは,日露戦争までに,ハルビンなど東清鉄道沿いの地所を収用し,ロシア風の街並みや施設を建設した。「収用」なので対価は支払ったものの,当該地の所有権に加え,行政権も認められ,治外法権ある租界の様相を呈していた。
この鉄道附属地が日露戦争後,日本に承継されることになる。
ちなみに,明治42(1909)年10月26日,その鉄道附属地ハルビンにて,伊藤博文が朝鮮の安重根に暗殺される事件が起きた。安重根は行政権を有するロシア官憲により逮捕されたが,裁判に関しては,清国ではなく,ロシアと日本との間で管轄の問題が生じている。
また,鉄道附属地という概念は,満洲事変後,満洲全土に関東軍を展開していた日本に対し,「鉄道附属地」まで撤退することを求めた,昭和8(1933)年2月24日の国際連盟の勧告にも用いられている。
東清鉄道は,後の昭和10(1935)年3月23日,ソ連と満洲国との間で締結された北満鉄道譲渡協定により満洲国に譲渡され,満洲国国有鉄道とされた(南満洲鉄道株式会社の所有ではない。)。
【1898.3.27 旅順及び大連租借に関する条約】
ロシアは,不凍港である大連及び旅順を欲し,さらに満洲に侵食した。
明治31(1898)年3月27日,ロシアは,清国との間で旅順港及び大連湾租借に関する条約を締結し,三国干渉を受けた日本が清国に返還したはずの旅順及び大連の租借権を獲得する。
さらに,同年7月6日,東清鉄道の支線(南満洲支線)としてハルビンから旅順までの鉄道敷設権を獲得する。
南満洲支線は,日露戦争直前の明治36(1903)年1月に完成する。日露戦争の勝利を受け日本がロシアから獲得するのは南満洲支線のうち長春から旅順までの区間で,これを国策会社である南満洲鉄道株式会社が経営していくことになる。
ロシアは,シベリア鉄道に直結する東清鉄道本線及び南満洲支線を活用し,ロシアから資材や人員を送り,旅順港の整備とその要塞化を進めた。
この迫り来るロシアの脅威が日露戦争の原因となった。
【1900.11.11 第二次露清密約/満洲に関する露清協定】
明治33(1900)年11月11日,ロシアは,清国との間で満洲に関する露清協定(第二次露清密約)を取交し,奉天省内の鉄道保護及び治安維持のための駐兵権(鉄道守備兵の駐兵権)を獲得する。
この駐兵権についても,日本は,日露戦争後にロシアから(南満洲支線に関してだけだが)承継することになる。
日露戦争を契機とした大陸進出
【1904.2.6 開戦】
20世紀初頭には,ロシアは既に政治的,経済的及び軍事的に満洲全域を支配し,かつ旅順港の要塞化など着実に進め,ようやく清国から独立した朝鮮半島へ,さらには日本へとその触手を伸ばしていた。
明治37(1904)年2月6日,日本が宣戦布告し,満洲を戦場としたロシアとの大戦が始まる。
【1905.9.5 日露講和条約/ポーツマス条約】
明治38(1905)年9月5日,米国ポーツマスで,日露講和条約(ポーツマス条約)及びその追加約款が取り交わされる。
この終戦条約には通常敗戦国に課される賠償金の支払いがなかった。この点を当時のマスメディアが煽り,火が付いた民衆は日比谷焼き討ち事件を起こす。
しかしながら,この日露戦争での勝利により,後に「日本の生命線」と称することになる「満洲」に初めて権益を獲得することになった。
具体的には,明治29(1896)年以降,ロシアが清国から”強奪”していた下記の権利及び資産を,日本が譲受けるというもの。
・旅順・大連の租借権
・東清鉄道のうち長春から旅順までの南満洲支線(含む鉄道附属地)
・南満洲支線に関する鉄道守備兵の駐兵権
・炭鉱(撫順炭鉱及び煙台炭鉱)
賠償金を得られなかった日露講和条約にあって,ロシアから獲得した満洲の鉄道や炭鉱に対する「日本の生命線」との表現には,日本兵9万の命で購ったという意味も込められている。
なお,ロシアから承継した撫順炭鉱に関して,戦後の中華人民共和国遼寧省撫順市と福島県いわき市は,「炭鉱」つながりで昭和57(1982)年4月15日に友好都市協定を締結している。
【1905.9.5 日露講話条約の追加約款】
日露講和条約には追加約款が存在する。
追加約款第一第三項は,後に日中間で問題になる鉄道守備兵について規定している。
具体的には,日露両軍撤退後も,それぞれが権益を有する鉄道,すなわちロシアは東清鉄道本線,日本は南満洲支線について,これを保護するための守備兵を駐兵する権利が留保されているとしている。
その兵力も1キロメートルあたり15人以内と具体的に規定されている。講和条約の交渉時には,ロシア側がこれ以上の増員を求め,逆にロシアに脅威を抱いていた日本は減員を求め,15人に落ち着いたようだ。
ちなみに,当該追加約款第一第三項の規定は,後に中華民国との間で満洲における日本の駐兵権に関して論争が生じた際に,日本がその法的根拠としていた規定である。
【1905.12.22 満洲に関する条約】
日露講和条約(ポーツマス条約)が規定するロシアから日本への権益承継の効力発生は「清国政府の承諾」が条件となっている。租借権や駐兵権の”債務者”は清国であるから,その承諾を条件とするのは,法的には当然。
これを受け日本は,明治38(1905)年12月22日,清国との間で満洲に関する条約を締結し,清国の「承諾」を得た。
これにより,日本は日露講和条約でロシアが譲渡した旅順・大連租借権などの権益を,正式に確保した。
【1905.12.22 満洲に関する条約の附属協定】
満洲に関する条約は日露間の合意に対する清国の「承諾」を内容とするのみだが,当該条約には協定が附属(附属協定)し,日清間の新たな取極を定めている。
・附属協定第2条に関する見解の相違
後日,清国を打倒して成立した中華民国との間で,前述の日露講和条約追加約款第一第三項等を根拠として駐兵していた日本の鉄道守備隊について,その撤兵の要否が論争となった。
その際,条項解釈が問題になったのは,満洲に関する条約の附属協定第2条である。
附属協定第2条は,日本が設置する鉄道守備兵の撤退の条件について,
①露国においてその鉄道守備兵の撤退を承諾するか,あるいは清露両国間に別に適当の方法を協定したる時
②満洲地方,平靖に帰し外国人の生命財産を清国自ら完全に保護しうるに至りたる時
という二つの場合を規定している。
しかし,その先後関係や優劣関係は規定上明確でない。そこに,大正6(1917)年のロシア革命以降,ロシア・ソ連が東清鉄道に対する鉄道守備兵を実際に撤退させる事態が生じたため,その解釈が現実的な問題として浮上した。
中華民国は,ロシア撤兵をもって①条件を充足したのであるから日本も撤兵すべしとする。これに対し,日本は,①は必要条件に過ぎず,日本が鉄道守備兵を撤兵する十分条件が②であるとの立場を取った上で,未だ清国(中華民国)において満洲の治安を維持できない現状において,撤兵する十分条件は充していないと主張していた。
附属協定第6条は,安東県と奉天との間の短距離鉄道(安奉鉄道)に関するもの。安奉鉄道は,もともと日露戦争時に日本軍が軍用に敷設した軽便鉄道が前身で,当該附属協定第6条により日本が商用に発展させたもの。これに関し,中華民国は,日本が駐兵権を有する鉄道は,日露講和条約によりロシアから譲渡された鉄道に限られ,日本が自ら敷設した安奉鉄道に鉄道守備隊を置くことは認められないと主張していた。
この第2条及び第6条に関する法的論争については,本稿の主題であり,後記【日本の「生命線」をめぐる中華民国との論争】にて詳述する。
【1905.9.26 関東軍の誕生】
明治38(1905)年9月26日,ロシアから承継した租借地旅順・大連(遼東半島南部のこの辺りを「関東州」と呼んでいた。故に「関東軍」とした。)と,長春・旅順間の鉄道(後の南満州鉄道)の防衛と租借地行政のため,関東総督府が設置される。本部は遼陽に置いた。
明治39(1906)年9月1日,本部を旅順に移転,関東都督府に改組される。
大正8(1919)年4月,軍時と行政を分離,軍事を担う組織として”関東州”の旅順にて編成され,後に新京(長春)に本拠を移したのが,関東軍。
もっとも,当初の編制は,独立守備隊6個大隊を隷下に,また日本内地から2年交代で派遣される駐剳1個師団(隷下ではなくあくまで指揮下)のみの小規模な軍であった。兵力は合計1万人程度。
これは,日露講和条約追加約款第一第三項に「守備兵の数は1キロメートル毎に15名を超過することを得ず」と規定されていたことに起因する。どの鉄道まで含むかはあるが,満洲事変時で最大1万6000人。実際は1万人程度だった。「侵略」など考えていなかったのか,そもそも余力がなかったのか,律儀に中華民国(清国)との約定を守り,意外に小所帯であった。この小所帯は,昭和6(1931)年9月18日の満洲事変まで続いた。
関東軍の一部の参謀が,この約1万の兵力をもって,25万と言われる奉天軍(張学良軍)に仕掛け,日本が関与したことがない北満洲を含め満洲全域を占領するに至ったのが満洲事変。
【1906.11.26 南満洲鉄道株式会社設立】
日露講和条約により南満洲に「鉄道」を獲得した日本は,明治39(1906)年11月26日,政府の出資により,南満洲鉄道株式会社を設立する。
同社は,下掲南満洲鉄道株式会社関係法令に含む明治39年6月7日付け勅令第142号「南満洲鐵道株式會社に関する件」により名称,目的及び株主などが規定された,いわゆる特殊会社である。
同社の定款は「第三章 株主」で以下のように規定しているが,日本政府は,日露講和条約によりロシアから獲得した鉄道や炭鉱を1億円と評価,これを現物出資して100万株を引受けている。明治39年度の国家歳入が5億円程度なので相当な金額ではある。他に1億円に相当する株主を公募し,いわゆる満鉄は文字通り半官半民の資本金2億円で設立された。
また,定款第4条の「本会社の目的」の中には「鉄道附属地における土地及び家屋の経営」が規定されており,鉄道附属地の経営も満鉄が担うことになった。
【1909.9.4満洲五案件に関する協約】
撫順炭鉱は,奉天(瀋陽)の東約30キロに位置する。もともと1901年に清国人により開発されたものだが,日露戦争前後に,東清鉄道用石炭採掘のためロシア軍に占領された。
煙台炭鉱は,遼陽の北約12キロ,奉天(瀋陽)の南約42キロに位置した。煙台炭鉱は8坑区あり,そのうち5坑区を東清鉄道会社が買収し,3坑区を清国側が所有していたが,日露戦争中,日本軍がここを占領していた。
両炭鉱は,日露講和条約に基づき日本にロシアから承継することになり,これらを現物出資として日本政府から承継した南満洲鉄道株式会社がその経営にあたることになった。
しかし,清国は,撫順炭鉱及び煙台炭鉱とも日本に承継されたことを否認している。
この紛争を解決すべく,明治42(1909)年9月4日,日清両国間にて満洲五案件に関する協約が調印された。
当該協約においては日本も譲歩し,同協約第3条において,撫順及び煙台両炭鉱の主権(所有権)は清国に留保し,日本に採掘権のみを認め,その対価として清国への納税が規定されている。
辛亥革命とロシア革命
【1911.10.10 辛亥革命】
これまでの満蒙に関する問題の当事者は,日本,ロシア及び清国露清三者によるものだった。
ところが,後二者がそれぞれ革命を経て,政権交代どころではなく,国体自体が変わってしまう。清国では1911年10月10日に辛亥革命が勃発,翌年2月12日に清王朝は滅亡,2000年以上続いた帝政が終焉し,共和制国家である中華民国が成立する。
【1915.1.18 対華二十一条要求】
辛亥革命により清王朝が倒れ,新たに誕生した中華民国(孫文政府であれ袁世凱政府であれ)と日本との間では,第一次大戦が始まっていた1915年頃でも正式な外交的条約や協定は締結されていなかった。
そのため,果たして清国との間で締結した条約や協定が中華民国(この相手方自体が安定性を欠いていた)に対して継承されるのかは,必ずしも明確ではなかった。
とりわけ,日本が獲得した大連及び旅順に対する租借権については,明治31(1898)年3月27日,旅順及び大連租借に関する露清条約に基づいてロシアが獲得した25年間の租借権を,明治38(1905)年9月5日に締結した日露講和条約(ポーツマス条約)に基づいて日本が承継したものであった。そのため,仮に承継されていても,旅順及び大連に対する日本の租借権は,1898年から25年後,後述の1915年から8年後の1923年には,終期を迎えることになっていた。
かかる状況にあって,日本は,未だ混乱にあった”中華民国”の交渉相手を,広東政府の孫文や蒋介石ではなく,北洋政府の袁世凱と定め,大正4(1915)年1月18日,袁世凱に提示したのが,いわゆる対華二十一条要求である。
【1915.5.25 南満州及東部内蒙古に関する条約】
日本は,中華民国政府(袁世凱の北洋政府)と交渉を重ね,大正4(1915)年5月25日,南満州及東部内蒙古に関する条約を締結した(その他にも第一次世界大戦では敵国だったドイツ領の山東省についての条約も締結している。)。
これにより,1905年に調印された満洲に関する条約で清国が「承諾」した租借権や鉄道に関する権利が,中華民国によりあらためて承認され,さらにその期間も99年間に延長された。
加えて,弱いながらも東部内蒙古に権益を獲得した。当時の行政区分で熱河省を中心にしたあたり。現在の内モンゴル自治区の一部(現在のフルンボイル市,ヒンガン盟,通遼市及び赤峰市)である。ここが「日本の生命線」,「満蒙」の「蒙」である。
【1917.3.8 ロシア革命】
ロシア帝国においては,1917年,ロシア革命によりロマノフ王朝は滅亡,1922年12月22日,世界初の共産党が支配するソビエト社会主義共和国連邦が成立する。
後年の1924年5月31日,中華民国(孫文や蒋介石ではなく袁世凱系の北洋政府)とソ連との間で国交が樹立する。これにより宙に浮いていた東清鉄道(東支鉄道)はソ連と中華民国北京政府の共同経営となった。加えて,ソ連は,同年9月20日,東清鉄道を実質的な管理下に置いていた北洋軍閥奉天派の張作霖との間でも,同じような内容の奉ソ協定を結んでいる。これは当時の満洲の主権が誰に属していたか明確でなかったことの現れ。
日本にとっては,相手方二当事者の国体変更に伴う既締結条約の効力や満洲国の更なる不安定化について,懸念を抱くことになる。
・満蒙が日本の「生命線」へ
大正4(1915)年に締結された上記南満州及東部内蒙古に関する条約は,租借期限延長のほか,南満洲と東部内蒙古について,日本人の居住や,民間による農商工業を認めるというものである。
満蒙での日本人の居住や農商工業が意味を有するに至るのは,昭和4(1929)年10月にアメリカを震源とする世界恐慌の暴波が,日本を襲った昭和5(1930)年以降後である。歴史の教科書に載っていたとおり,当時の日本の東北地方では,凶作も重なって欠食児童や娘の身売りが社会問題となった。
松岡洋右が最初に「満蒙は日本の生命線」と帝国議会で演説したのは,この頃,昭和6(1931)年1月と言われる。満洲事変はこの年の9月に起きている。
(狭義の)満洲は,奉天省(遼寧省),吉林省及び黒龍江省の東三省からなるが,昭和6(1931)年9月18日に端を発する満洲事変で,関東軍は東三省に加え「蒙(東部内蒙古)」も占領した。
昭和7(1932)年に成立した満洲国は,関東軍が占領した東三省と「蒙(東部内蒙古)」を領土とした。
後述するが,日本政府は,昭和7(1932)年以降,この満蒙の地,すなわち満洲国へ,困窮した農民を満蒙開拓民を入植させる政策を取ることになる。
満洲事変
【1931.9.18 柳条湖事件】
当時の満洲は,中央政府(蒋介石政権)の統治が全く及ばず,馬賊が跋扈,安定した治安とは程遠い状態だったようだ。さらに,隣接するのは,万国共通の敵とも言うべき共産主義のソ連。
不安定かつ難治の地。
昭和6(1931)年9月18日,関東軍は,ここに満洲事変を引き起こす。
前述のように,満洲事変時の関東軍は,日露講和条約追加約款第一第三項の「守備兵の数は1キロメートル毎に15名を超過することを得ず」との規定に基づき,独立守備隊6個大隊を隷下に,日本内地から2年交代で派遣される駐剳1個師団を指揮下とし,合計兵力は合計1万人程度の小所帯。この約1万の兵力をもって,25万人と言われる奉天軍(張学良軍)を打倒,満洲全土を占領した。関東軍がその兵力を爆発的に増員するのは,満洲国が成立してからである。
当時の関東軍の司令部,編制及びその所在は下記のとおり。
関東軍の参謀都市と満洲事変を挙行した山形出身の石原莞爾,岩手出身の板垣征四郎,加えて満洲に偶然に?駐剳していた仙台第二師団に属する宮城,福島及び新潟3県出身の兵隊には,昭和恐慌により荒廃した故郷の惨状が脳裏になかったはずはない。
なお,この中には,満洲事変後,ガダルカナル島での全滅を経て,戦後をベトナムで迎えることになる第二師団隷下の歩兵第29連隊(若松連隊)の名もある。
・日本の「生命線」をめぐる中華民国との論争
昭和3(1928)年6月4日,蒋介石が率いる国民革命軍が,いわゆる北伐を完遂し,南は広東から北は北京を中心とした河北地方まで全国統一に成功した(満洲は依然として奉天軍閥が支配)。
この頃から,蒋介石は,国権回復運動という日本を含む諸外国との不平等条約の改正や清王朝が外国に与えた権益の回収に取り組むようになった。その一環で,中華民国は,関東軍が満洲に駐兵していることを問題を提するようになった。
以下の【満洲駐兵権問題】は,この問題ついての争点を整理し,主に満洲事変直後における日本側の法的見解をまとめたもの。
ちなみに「華府会議」とは,華府がワシントンの意味で1922年11月12日から翌年2月6日まで行われた会議のこと。日本も中華民国(袁世凱没後の北京政府)も参加していた。
【1932.3.1 満洲国建国】
満洲事変で満洲全土を関東軍が占領,昭和7(1932)年3月1日,清朝(満洲族)の忘れ形見,愛新覚羅溥儀を元首とする「満洲国」が建国される。
その建国宣言には,次のような一文が明記されている。
・満洲国を承認した国々
満洲国を承認した国は合計23国。
その国及び政府と承認形式は,以下のとおり。
国際連盟加盟国が約40国,独立国が約60国だった当時の地球上において,満洲国は意外に"国際的孤立”していない。ちなみに現在の中華民国(台湾)を正式承認しているのは15ヵ国である。
アメリカやイギリスは満洲国を承認していないが,奉天やハルビンに領事館を置いていた。「海賊と呼ばれた男」にて,満洲(南満洲鉄道)を舞台に出光が石油メジャーと争うことになるのは,治安が安定した満洲のフロンティアで,アメリカやイギリスの企業が貪欲にもビジネスを展開していたからに他ならない。
【1932.9.15 日満議定書】
昭和7(1932)年9月15日,日本国と満州国との間で日満議定書が締約された。日本はこの協定締結をもって満洲国を正式に承認した。
日本が「生命線」として護ろうとした権益はここに集約された。
また旅順や大連の租借権も,改めて満洲国との間で合意された。
この権益について下掲協定第一は「満洲国領域内において日本国又は日本国臣民が従来の日支間の条約,協定その他の取極及び公私の契約により有する一切の権利利益」と規定する。具体的には,鉄道,鉄道附属地及び炭鉱に関する権利に加え,1915年5月25日に中華民国との間で締結した南満州及東部内蒙古に関する条約により認められた居住権や農商工業を営む権利がこれに該当する。
この規定が昭和7(1932)年から実施された満蒙開拓団入植の法的根拠となった。
満蒙開拓団は,昭和10(1935)年までは試験移民という形で段階的に行われた。さらに関東軍司令部が昭和11(1936)年5月11日に「満洲農業移民百万戸移住計画」を作成,これを骨子として,当時の広田弘毅内閣は,同年8月11日,「二十カ年百万戸送出計画」を策定し,満洲国への農民の大規模移住を国策と定めた。
それは,昭和恐慌下の農村更生策の一つとして遂行された。
加えて,コメ余りの現代では想像し難いが,明治維新以降人口が増え続け,戦前の日本は(戦後も1970年頃までは),コメでさえ仏印(ベトナム)や,台湾や朝鮮から輸入していた。この食糧増産が長期的な政策目的であった。国民の生活維持のために確保すべきは石油だけではなかった。「機動戦士ガンダム」ではないが,増えすぎた人口を”コロニー”に移住させるよになったのである。
こうして「満蒙は日本の生命線」が,国民的なスローガンとなった。
・国際連盟の介入
国際連盟は,大正9(1920)年1月10日に発足している。
日本は,イギリス,フランス及びイタリア3国とともに,設立時から常任理事国を務めていた。
その常任理事国日本が,昭和6(1931)年9月18日,満洲事変を引き起こす。中華民国の国際連盟代表の施肇基は,3日後の同月21日,下掲国際連盟規約第11条(戦争の脅威)に基づき,国際連盟理事会に訴えを提起した。
これが国際連盟を脱退する契機となった。
昭和8(1933)年2月24日,国際連盟総会は日本への勧告を含む報告書を採択することになる。これが国際連盟規約第十五条第四項に依る国際連盟総会報告書であり,本稿ではその日本語訳を後掲する。
当該報告書9頁によると,中華民国の上記訴えの内容は「各国の平和を危殆ならしむる事態の此の上の進展を防止し,原状を回復し且つ中華民国に対して支払うことを要すと認めらるる賠償の金額及び種類を決定せんこと」を求めるというものだった。
以下のように,その後の満洲事変の進行と満洲国の樹立(加えて上海事変)は,国際連盟による訴えが継続している状態で行われた。
国際連盟を舞台にした日中間の紛争について,昭和7(1932)年2月19日,国際連盟理事会は,国際連盟規約第15条第9項に基づき国際連盟総会に付託した。
昭和8(1933)年2月24日,国際連盟総会は,同条4項に基づき日本に対する勧告などを内容とする報告書(国際連盟規約第15条第4項による国際連盟総会報告書)を採択する。
結果,日本のみが反対,後に日本と同盟し英米に宣戦布告するタイ国1国が棄権したが,他42カ国の賛成をもって可決された。
日本は,同年3月27日,創立時から常任理事国を常任理事国を務めていた国際連盟からの脱退を通告することになる。
・国際連盟総会報告書
国際連盟規約第十五条第四項による国際連盟総会報告書は,まず「支那領土の広大なる部分が宣戦なくして実力をもって奪取せられ且つ日本軍隊に依り占領せられたること並びに右行動の結果として該部分が支那の他の部分より分離せられ且つ独立を宣言せられたることは異論を挟む余地なし。」と事実認定している(69頁)。
そのため,当該報告書による日本に対する勧告は「満洲に対する主権は支那に属すること」を前提としている(76頁)。
しかし,他方で日支間紛争の解決のためには,「満洲における日本の権利及び利益は無視することを得ざる事実なり。之を承認せず且つ満洲との日本の史的関連をも考慮に入れざる如何なる解決も満足なるものに非ざるべし」という原則(満洲における日本の利益の承認)に適合するものでなければならないとしている(74頁)。
その上で,当該報告書は,日本に対し以下の内容を勧告している。
上記報告書(つまり国際連盟総会)は,確かに満洲国(及び日満議定書に基づく日本の権益)は承認はしておらず,それを前提とした日本軍の撤退を勧告してはいる。
しかし,日本が満洲から完全に徹底することを勧告したものではなく,これまでロシアや清国・中華民国との条約や協定などに基づいて獲得した,旅順大連の租借権や鉄道・炭鉱はもちろん,鉄道附属地に加え,日中間で紛争となっていた鉄道守備隊の駐兵についても,「満洲における日本の利益」として承認している。
どうやら,成立に至る経緯はともかく,条約や協定が存在することが,イギリス,フランス、オランダなど欧州中心僅か四十数カ国により構成されたLeague of Nations(国際連盟)が承認する合法的植民地支配のルールだったようだ。紛争の地に日本の後ろ盾で独立国を樹立し,この独立国と条約や協定を結ぶやり方は,既存の植民地支配の秩序を壊す可能性があったのか,League of Nations(国際連盟)に受け入れることはなかった。
この結果を受け,「満蒙は日本の生命線」を唱え,この総会に日本全権代表として出席していた松岡洋右は,総会による報告書採択を受け,以下の宣言文を読み上げ,他の日本政府全権とともに会場を退席している。
・余談
その後も日本は,中華大陸において,なぜか自らが後ろ盾となって独立国あるいは自治政府を樹立するやり方を貫いた。
結果,北京,南京及び上海などの主要都市を含む,北は満洲から南は広東まで満洲国(東三省と内蒙古東部),蒙古連盟自治政府(内蒙古西部),中華民国南京政府(北京から広東の沿岸部)という日本の後ろ盾がある国や自治政府が戦後まで中華大陸に存在していた。
加えて,後に進出した東南アジアにおいても,植民地支配をしていたイギリス,フランス及びアメリカを放逐後,その地を占領した日本軍は,旧王族などを擁立し,独立国を樹立する方法を取っている。
しかし,これら中華大陸や東南アジアで行った日本による独立国や自治政府の樹立は,結果としてこれらの国々の完全な独立を実現したにも関わらず,戦後の日本国内では「傀儡」と一言で片付けられ,頗る評判が悪い。
なお,関東軍は,満洲国の領土拡大のため河北省熱河を押さえ,北京に迫っていくが,その過程での”中国”による支配からの独立を熱望する南モンゴルとの関わりについては,下掲の拙稿をご覧ください。
東京で弁護士をしています。ホーチミン市で日越関係強化のための会社を経営しています。日本のことベトナムのこと郷土福島県のこと,法律や歴史のこと,そしてそれらが関連し合うことを書いています。どうぞよろしくお願いいたします。