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「満蒙は日本の生命線」その法的根拠

”満洲”の難しさ

 イギリスやアメリカとの戦争と比べ,10年前にその遠因となった満洲事変については,なかなか”弁護”が難しい。
 日本が掲げた「満蒙は日本の生命線」とのスローガンも,戦後の価値観では他者加害にしか聞こえない。しかし,当時の国民が圧倒的に支持していたことも事実。
 この辺り,端的に条約や協定などの法的根拠に沿って,時系列的にみてみると,意外にそれぞれの事象が一つの価値を運んで流れてくる。
 その源泉は,明治28年の日清戦争に遡る。

日清戦争と三国干渉

【1895.4.17 日清講和条約】

 明治28(1895)年4月17日,清国を相手とする初めての対外戦争に勝利した日本は,日清講和条約(下関条約)を締結し,賠償金のほか以下の権益を獲得する。
 まず第一条にて,朝鮮国の清国からの完全無欠の独立を獲得する。
 続いて第二条にて,台湾(及び台湾海峡の澎湖諸島)に加え,大連及び旅順を含む「奉天省南部の地」の永久的割譲(租借ではない。)を受ける。

【日清講和条約/下関条約(全11条)】
第一条
 清国は,朝鮮国の完全無缺なる独立自主の国たることを確認す。よって右独立自主を損害すべき朝鮮国より清国に対する貢献典礼等は,将来全く之を廃止すべし。
第二条
 清国は,左記の土地の主権並びに該地方にある城塁兵器製造所及び官有物を永遠日本に割与す。
一 左の経界内にある奉天省南部の地
 鴨緑江口より該江を遡り,安平河口に至り該河口より鳳凰城,海城,営口に亘り遼河口に至る折線以南の地,併せて前記の各城市を包含す。しかして遼河をもって界とする處は,該河の中央をもって経界とすることと知るべし。
 遼東湾東岸及び黄海北岸にありて奉天省に属する諸島嶼
二 台湾全島及びその附属諸島嶼
三 澎湖(ほうこ)列島すなわち英国グリニッジ東経119度ないし120度及び北緯23度ないし24度の間にある諸島嶼
(後略)

 条約の文中では「奉天省南部の地」を文章で説明しているが,下関条約に附属する下掲の地図が分かりやすい。要するに遼東半島であるが,文字通りの半島のみならず,鳳凰城,海城,営口などの内陸部も含み,遼河に至る広さは九州に匹敵した。

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 この割譲地の線引きを担当したのは,5年後の1900年,北京で起きた義和団の乱(北清事変)において,日本を含む領事館区域を暴徒及び清国軍から護る活躍をし,欧米からも賞賛された柴五郎(日清戦争時の)征清大総督府付参謀である。

 しかし,柴参謀による渾身の経界づくりは,ロシアの圧力で無駄となってしまう。

【1895.11.8 奉天半島還付に関する条約】

 日清講和条約(下関条約)締結から1週間も経たない明治28(1895)年4月23日,ロシアは,フランスとドイツを引き連れて,日本に対し「奉天省南部の地」の清国への返還を要求してきた(いわゆる三国干渉)。
 日本は,明治28(1895)年11月8日,清国との間で奉天半島還付に関する条約を締結。日清戦争で獲得したばかりの奉天半島(遼東半島)を僅か半年で清国に「還付」することになる。それは無償ではなく対価を得るものではあったが。
 この件をきっかけとして,日本国民の間では「臥薪嘗胆」という言葉が流行,反ロシア感情が高まった。

奉天半島還付に関する条約(全6条)】
第一条

 日本国は,明治28年4月17日即ち光緒21年3月23日締結の下関条約第二条に因り清国より日本国へ譲与したる奉天省南部の地方即ち鴨緑江口より安平河口に至り鳳凰城海城及び営口に亘る以南の各城市及び遼東湾東岸並びに黄海北岸にありて奉天省に属する諸島嶼の主権を挙げ本条約第三条の規定により日本国軍隊が総じて撤退する時,該地方に現在する城塁兵器製造所及び官有物と共に永遠清国に還付す。よって下関条約第三条及び同条約中陸路交通及び貿易を律するための一の条約を締結すべしとの規定は之を取消す。
第二条
 清国政府は奉天省南部の地還付の報酬として庫平銀三千万両を明治28年11月16日即ち光緒21年9月30日までに日本国政府へ払入れることを約す。
(後略)

ロシアの清国への侵蝕

【1896.6.3 第一次露清条約】

 まさかの日本に敗北した清国は,自国の防衛のためロシアに接近する。
 明治29(1896)年6月3日,清国はロシアとの間で第一次露清条約を取交す。ロシアは,三国干渉及び同盟の見返りとして,北満洲に鉄道の敷設権を獲得する。これはモスクワから延びるシベリア鉄道を,北満洲を横断することにより最短でウラジオストクに到達することを狙ったもの。
 加えて,その鉄道の敷設と経営は,ロシアとフランスの合弁による露清銀行に委ねられ,同銀行が出資する株式会社にて行うこととされた。

【1896.9.8 北清鉄道の敷設に関する契約】

 3ヶ月後の1896年9月8日,その露清銀行は,清国代表の許景澄との間で東清鉄道の敷設に関する契約を結ぶ。
 この契約により設立されたのが東清鉄道株式会社で,同社が設営したのが東清鉄道(辛亥革命後の東支鉄道)。東清鉄道は,明治34(1901)年に完成した。
 後年の日本にとってそれ以上に重大なのは,当該契約でロシアが獲得した鉄道附属地という概念。これは鉄道に「附属」する地をロシアが収用できるとするもので,この概念に基づき,ロシアは,日露戦争までに,ハルビンなど東清鉄道沿いの地所を収用し,ロシア風の街並みや施設を建設した。「収用」なので対価は支払ったものの,当該地の所有権に加え,行政権も認められ,治外法権ある租界の様相を呈していた。
 この鉄道附属地が日露戦争後,日本に承継されることになる。
 ちなみに,明治42(1909)年10月26日,その鉄道附属地ハルビンにて,伊藤博文が朝鮮の安重根に暗殺される事件が起きた。安重根は行政権を有するロシア官憲により逮捕されたが,裁判に関しては,清国ではなく,ロシアと日本との間で管轄の問題が生じている。
 また,鉄道附属地という概念は,満洲事変後,満洲全土に関東軍を展開していた日本に対し,「鉄道附属地」まで撤退することを求めた,昭和8(1933)年2月24日の国際連盟の勧告にも用いられている。
 東清鉄道は,後の昭和10(1935)年3月23日,ソ連と満洲国との間で締結された北満鉄道譲渡協定により満洲国に譲渡され,満洲国国有鉄道とされた(南満洲鉄道株式会社の所有ではない。)。

【1898.3.27 旅順及び大連租借に関する条約】

 ロシアは,不凍港である大連及び旅順を欲し,さらに満洲に侵食した。
 明治31(1898)年3月27日,ロシアは,清国との間で旅順港及び大連湾租借に関する条約を締結し,三国干渉を受けた日本が清国に返還したはずの旅順及び大連の租借権を獲得する。
 さらに,同年7月6日,東清鉄道の支線(南満洲支線)としてハルビンから旅順までの鉄道敷設権を獲得する。
 南満洲支線は,日露戦争直前の明治36(1903)年1月に完成する。日露戦争の勝利を受け日本がロシアから獲得するのは南満洲支線のうち長春から旅順までの区間で,これを国策会社である南満洲鉄道株式会社が経営していくことになる。
 ロシアは,シベリア鉄道に直結する東清鉄道本線及び南満洲支線を活用し,ロシアから資材や人員を送り,旅順港の整備とその要塞化を進めた。
 この迫り来るロシアの脅威が日露戦争の原因となった。

【1900.11.11 第二次露清密約/満洲に関する露清協定】

 明治33(1900)年11月11日,ロシアは,清国との間で満洲に関する露清協定(第二次露清密約)を取交し,奉天省内の鉄道保護及び治安維持のための駐兵権(鉄道守備兵の駐兵権)を獲得する。
 この駐兵権についても,日本は,日露戦争後にロシアから(南満洲支線に関してだけだが)承継することになる。

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日露戦争を契機とした大陸進出

【1904.2.6 開戦】

 20世紀初頭には,ロシアは既に政治的,経済的及び軍事的に満洲全域を支配し,かつ旅順港の要塞化など着実に進め,ようやく清国から独立した朝鮮半島へ,さらには日本へとその触手を伸ばしていた。
 明治37(1904)年2月6日,日本が宣戦布告し,満洲を戦場としたロシアとの大戦が始まる。

【1905.9.5 日露講和条約/ポーツマス条約】 

 明治38(1905)年9月5日,米国ポーツマスで,日露講和条約(ポーツマス条約)及びその追加約款が取り交わされる。
 この終戦条約には通常敗戦国に課される賠償金の支払いがなかった。この点を当時のマスメディアが煽り,火が付いた民衆は日比谷焼き討ち事件を起こす。
 しかしながら,この日露戦争での勝利により,後に「日本の生命線」と称することになる「満洲」に初めて権益を獲得することになった。
 具体的には,明治29(1896)年以降,ロシアが清国から”強奪”していた下記の権利及び資産を,日本が譲受けるというもの。
 ・旅順・大連の租借権
 ・東清鉄道のうち長春から旅順までの南満洲支線(含む鉄道附属地)
 ・南満洲支線に関する鉄道守備兵の駐兵権
 ・炭鉱(撫順炭鉱及び煙台炭鉱)
 賠償金を得られなかった日露講和条約にあって,ロシアから獲得した満洲の鉄道や炭鉱に対する「日本の生命線」との表現には,日本兵9万の命で購ったという意味も込められている。
 なお,ロシアから承継した撫順炭鉱に関して,戦後の中華人民共和国遼寧省撫順市と福島県いわき市は,「炭鉱」つながりで昭和57(1982)年4月15日に友好都市協定を締結している。

 【日露講和条約/ポーツマス条約(全15条)】
(前略)
第三条
 日本国及びロシア国は互いに左の事を約す。
一 本条約に附属する追加約款第一の規定に従い遼東半島租借権がその効力を及ぼす地域以外の満洲より全然かつ同時に撤兵すること。
二 前記地域を除くのほか現に日本国又はロシア国の軍隊において占領し又はその監理の下にある満洲全部を挙げて全然清国専属の行政に還附すること。
 ロシア帝国政府は清国の主権を侵害し又は機会均等主義と相容れざる何らの領土上利益又は優先的若くは専属的譲与を満洲において有せざることを声明す。
(中略)
第五条
 ロシア帝国政府は,清国政府の承諾をもって,旅順口,大連並びその付近の領土及び領水の租借権及び該租借権に関連し又はその一部を組成する一切の権利,特権及び譲与を日本帝国政府に移転譲渡す。ロシア帝国政府は前記租借権がその効力を及ぼす地域における一切の公共営造物及び財産を日本帝国政府に移転譲渡す。
 両締約国は前記規定に係る清国政府の承諾を得べきことを互いに約す。
 日本帝国政府においては前記地域におけるロシア国臣民の財産権が完全に尊重せらるべきことを約す。
第六条
 ロシア帝国政府は長春(寛城子)旅順口間の鉄道及びその一切の支線並びに同地方において之に付属する一切の権利,特権及び財産及び同地方において該鉄道に属し又はその利益のために経営せらる一切の炭鉱を補償を受くることなく,かつ清国政府の承諾をもって,日本帝国政府に移転譲渡すべきことを約す。
 両締約国は前記規定に係る清国政府の承諾を得べきことを互いに約す。

【1905.9.5 日露講話条約の追加約款】

 日露講和条約には追加約款が存在する。
 追加約款第一第三項は,後に日中間で問題になる鉄道守備兵について規定している。
 具体的には,日露両軍撤退後も,それぞれが権益を有する鉄道,すなわちロシアは東清鉄道本線,日本は南満洲支線について,これを保護するための守備兵を駐兵する権利が留保されているとしている。
 その兵力も1キロメートルあたり15人以内と具体的に規定されている。講和条約の交渉時には,ロシア側がこれ以上の増員を求め,逆にロシアに脅威を抱いていた日本は減員を求め,15人に落ち着いたようだ。
 ちなみに,当該追加約款第一第三項の規定は,後に中華民国との間で満洲における日本の駐兵権に関して論争が生じた際に,日本がその法的根拠としていた規定である。

【追加約款(第一及び第二】
第一 第三条に付
 日本帝国政府及びロシア帝国政府は同時にかつ講和条約実施後直ちに満洲の地域より各その軍隊の撤退を開始すべきことを互いに約す。しかして講和条約実施の日より18カ月の期間内に両国の軍隊は遼東半島租借地以外の満州より全然撤退すべし。
 前面陣地を占領する両国軍隊は最先に撤退すべし。
 両締約国は,満州における各自の鉄道線路を保護せむがため守備兵を置くの権利を留保す。該守備兵の数は1キロメートル毎に15名を超過することを得ず。しかして日本国及びロシア国軍司令官は,前記最大数以内において実際の必要に鑑み之に使用せらるべき守備兵の数を双方の合意をもってなるべく少数に限定すべし。
 満州における日本国及びロシア帝国軍司令官は,前記の原則に従い撤兵の細目を協定し,なるべく速やかにかつ如何なる場合においても18カ月を超えざる期間内に撤兵を実行せむがため,双方の合意をもって必要なる措置を執るべし。
(第二省略)

【1905.12.22 満洲に関する条約】

 日露講和条約(ポーツマス条約)が規定するロシアから日本への権益承継の効力発生は「清国政府の承諾」が条件となっている。租借権や駐兵権の”債務者”は清国であるから,その承諾を条件とするのは,法的には当然。
 これを受け日本は,明治38(1905)年12月22日,清国との間で満洲に関する条約を締結し,清国の「承諾」を得た。
 これにより,日本は日露講和条約でロシアが譲渡した旅順・大連租借権などの権益を,正式に確保した。

【満洲に関する条約(全3条)】
第一条
 清国政府は,露国が日露講和条約第五条及び第六条により日本国に対してなしなる一切の譲渡を承諾す
第二条
 日本国政府は,清露両国間に締結せられたる租借地並びに鉄道敷設に関する原条約に照らし,努めて遵行すべきことを承諾す。将来何等案件の生じたる場合には,随時清国政府と協議の上之を定むべし。
(第三条省略)

【1905.12.22 満洲に関する条約の附属協定】

 満洲に関する条約は日露間の合意に対する清国の「承諾」を内容とするのみだが,当該条約には協定が附属(附属協定)し,日清間の新たな取極を定めている。

【満洲に関する条約の附属協定(全12条)】
(第一条省略)
第二条
 清国政府は,満洲における日露両国軍隊並びに鉄道守備兵のなるべく速やかに撤退せられむことを切望する旨を言明したるにより,日本国政府は,清国政府の希望に応うぜむことを欲し,もし露国においてその鉄道守備兵の撤退を承諾するか,あるいは清露両国間に別に適当の方法を協定したる時は,日本国政府も同様に照辦すべきことを承諾す。もし満洲地方,平靖に帰し外国人の生命財産を清国自ら完全に保護しうるに至りたる時は,日本国もまた露国と同時に鉄道守備兵を撤退すべし。
(中略)
第六条
 清国政府は,安東県ー奉天間に敷設せる軍用鉄道を日本政府において各国商工業の貨物運搬用に改め引続き経営することを承諾す。該鉄道は改良工事完成の日より起算し(但し軍隊送還のため遅延すべき期間12箇月を除き2箇年をもって改良工事完成の期限とす)15箇年をもって期限となし。即ち光緒49年に至りて止む。右期限に至らば双方において他国の評価人1名を選み該鉄道の各物件を評価せしめて清国に売渡すべし。その売渡前にありて清国政府の軍隊並びに兵器糧食を輸送する場合には東清鉄道条約に準拠して取り扱うべく又た該鉄道改良の方法に至りては,日本国の経営担当者において清国より特派する委員と切実に商議すべきものとす。該鉄道に関する事務は東清鉄道条約に準じ清国政府より委員を派し,査察経理せしむべく又た該鉄道に由り,清国公私貨物を運搬する運賃に関しては別に詳細なる規程を設くべきものとす。

・附属協定第2条に関する見解の相違

 後日,清国を打倒して成立した中華民国との間で,前述の日露講和条約追加約款第一第三項等を根拠として駐兵していた日本の鉄道守備隊について,その撤兵の要否が論争となった。
 その際,条項解釈が問題になったのは,満洲に関する条約の附属協定第2条である。
 附属協定第2条は,日本が設置する鉄道守備兵の撤退の条件について,
①露国においてその鉄道守備兵の撤退を承諾するか,あるいは清露両国間に別に適当の方法を協定したる時
②満洲地方,平靖に帰し外国人の生命財産を清国自ら完全に保護しうるに至りたる時
 という二つの場合を規定している。
 しかし,その先後関係や優劣関係は規定上明確でない。そこに,大正6(1917)年のロシア革命以降,ロシア・ソ連が東清鉄道に対する鉄道守備兵を実際に撤退させる事態が生じたため,その解釈が現実的な問題として浮上した。
 中華民国は,ロシア撤兵をもって①条件を充足したのであるから日本も撤兵すべしとする。これに対し,日本は,①は必要条件に過ぎず,日本が鉄道守備兵を撤兵する十分条件が②であるとの立場を取った上で,未だ清国(中華民国)において満洲の治安を維持できない現状において,撤兵する十分条件は充していないと主張していた。
 附属協定第6条は,安東県と奉天との間の短距離鉄道(安奉鉄道)に関するもの。安奉鉄道は,もともと日露戦争時に日本軍が軍用に敷設した軽便鉄道が前身で,当該附属協定第6条により日本が商用に発展させたもの。これに関し,中華民国は,日本が駐兵権を有する鉄道は,日露講和条約によりロシアから譲渡された鉄道に限られ,日本が自ら敷設した安奉鉄道に鉄道守備隊を置くことは認められないと主張していた。
 この第2条及び第6条に関する法的論争については,本稿の主題であり,後記【日本の「生命線」をめぐる中華民国との論争】にて詳述する。

【1905.9.26 関東軍の誕生】

 明治38(1905)年9月26日,ロシアから承継した租借地旅順・大連(遼東半島南部のこの辺りを「関東州」と呼んでいた。故に「関東軍」とした。)と,長春・旅順間の鉄道(後の南満州鉄道)の防衛と租借地行政のため,関東総督府が設置される。本部は遼陽に置いた。
 明治39(1906)年9月1日,本部を旅順に移転,関東都督府に改組される。
 大正8(1919)年4月,軍時と行政を分離,軍事を担う組織として”関東州”の旅順にて編成され,後に新京(長春)に本拠を移したのが,関東軍
 もっとも,当初の編制は,独立守備隊6個大隊を隷下に,また日本内地から2年交代で派遣される駐剳1個師団(隷下ではなくあくまで指揮下)のみの小規模な軍であった。兵力は合計1万人程度。
 これは,日露講和条約追加約款第一第三項に守備兵の数は1キロメートル毎に15名を超過することを得ず」と規定されていたことに起因する。どの鉄道まで含むかはあるが,満洲事変時で最大1万6000人。実際は1万人程度だった。「侵略」など考えていなかったのか,そもそも余力がなかったのか,律儀に中華民国(清国)との約定を守り,意外に小所帯であった。この小所帯は,昭和6(1931)年9月18日の満洲事変まで続いた。

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 関東軍の一部の参謀が,この約1万の兵力をもって,25万と言われる奉天軍(張学良軍)に仕掛け,日本が関与したことがない北満洲を含め満洲全域を占領するに至ったのが満洲事変

【1906.11.26 南満洲鉄道株式会社設立】

 日露講和条約により南満洲に「鉄道」を獲得した日本は,明治39(1906)年11月26日,政府の出資により,南満洲鉄道株式会社を設立する。
 同社は,下掲南満洲鉄道株式会社関係法令に含む明治39年6月7日付け勅令第142号「南満洲鐵道株式會社に関する件」により名称,目的及び株主などが規定された,いわゆる特殊会社である。
 同社の定款は「第三章 株主」で以下のように規定しているが,日本政府は,日露講和条約によりロシアから獲得した鉄道や炭鉱を1億円と評価,これを現物出資して100万株を引受けている。明治39年度の国家歳入が5億円程度なので相当な金額ではある。他に1億円に相当する株主を公募し,いわゆる満鉄は文字通り半官半民の資本金2億円で設立された。
 また,定款第4条の「本会社の目的」の中には「鉄道附属地における土地及び家屋の経営」が規定されており,鉄道附属地の経営も満鉄が担うことになった。

第三章 株主
第二十一条
本会社の株主は日支両国政府及び日支両国人に限るものとす。
第二十二条
日本帝国政府は左の財産を出資し本会社はその財産価格金一億円に対し百万株を与うるものとす。
一 既成の鉄道(現在使用する車両並びに奉天ー安東県間軽便鉄道の軌条及び附属品は之を除く)
一 右鉄道に附属せる一切の財産ただし租借地内の財産にして政府の指定するものは之を除く。
一 撫順及び煙台の炭鉱

【1909.9.4満洲五案件に関する協約】

 撫順炭鉱は,奉天(瀋陽)の東約30キロに位置する。もともと1901年に清国人により開発されたものだが,日露戦争前後に,東清鉄道用石炭採掘のためロシア軍に占領された。
 煙台炭鉱は,遼陽の北約12キロ,奉天(瀋陽)の南約42キロに位置した。煙台炭鉱は8坑区あり,そのうち5坑区を東清鉄道会社が買収し,3坑区を清国側が所有していたが,日露戦争中,日本軍がここを占領していた。
 両炭鉱は,日露講和条約に基づき日本にロシアから承継することになり,これらを現物出資として日本政府から承継した南満洲鉄道株式会社がその経営にあたることになった。
 しかし,清国は,撫順炭鉱及び煙台炭鉱とも日本に承継されたことを否認している。
 この紛争を解決すべく,明治42(1909)年9月4日,日清両国間にて満洲五案件に関する協約が調印された。
 当該協約においては日本も譲歩し,同協約第3条において,撫順及び煙台両炭鉱の主権(所有権)は清国に留保し,日本に採掘権のみを認め,その対価として清国への納税が規定されている。

第三条
 日清両国政府は日本国政府は撫順及び煙台両処の炭鉱に関し和平商定すること左の如し。
甲 清国政府は日本国政府が上記両炭鉱採掘権を有することを承認す。
乙 日本国政府は清国の一切の主権を尊重し並びに上記両炭鉱の採炭に対し清国政府に納税することを承諾す。右の税率は清国他処の石炭に対する最恵の税率を標準とし別に協定すべし。

辛亥革命とロシア革命 

【1911.10.10 辛亥革命】

 これまでの満蒙に関する問題の当事者は,日本,ロシア及び清国露清三者によるものだった。
 ところが,後二者がそれぞれ革命を経て,政権交代どころではなく,国体自体が変わってしまう。清国では1911年10月10日に辛亥革命が勃発,翌年2月12日に清王朝は滅亡,2000年以上続いた帝政が終焉し,共和制国家である中華民国が成立する。

【1915.1.18 対華二十一条要求】

 辛亥革命により清王朝が倒れ,新たに誕生した中華民国(孫文政府であれ袁世凱政府であれ)と日本との間では,第一次大戦が始まっていた1915年頃でも正式な外交的条約や協定は締結されていなかった。
 そのため,果たして清国との間で締結した条約や協定が中華民国(この相手方自体が安定性を欠いていた)に対して継承されるのかは,必ずしも明確ではなかった。
 とりわけ,日本が獲得した大連及び旅順に対する租借権については,明治31(1898)年3月27日,旅順及び大連租借に関する露清条約に基づいてロシアが獲得した25年間の租借権を,明治38(1905)年9月5日に締結した日露講和条約(ポーツマス条約)に基づいて日本が承継したものであった。そのため,仮に承継されていても,旅順及び大連に対する日本の租借権は,1898年から25年後,後述の1915年から8年後の1923年には,終期を迎えることになっていた。
 かかる状況にあって,日本は,未だ混乱にあった”中華民国”の交渉相手を,広東政府の孫文や蒋介石ではなく,北洋政府の袁世凱と定め,大正4(1915)年1月18日,袁世凱に提示したのが,いわゆる対華二十一条要求である。

【1915.5.25 南満州及東部内蒙古に関する条約】

 日本は,中華民国政府(袁世凱の北洋政府)と交渉を重ね,大正4(1915)年5月25日,南満州及東部内蒙古に関する条約を締結した(その他にも第一次世界大戦では敵国だったドイツ領の山東省についての条約も締結している。)。
 これにより,1905年に調印された満洲に関する条約で清国が「承諾」した租借権や鉄道に関する権利が,中華民国によりあらためて承認され,さらにその期間も99年間に延長された。
 加えて,弱いながらも東部内蒙古に権益を獲得した。当時の行政区分で熱河省を中心にしたあたり。現在の内モンゴル自治区の一部(現在のフルンボイル市,ヒンガン盟,通遼市及び赤峰市)である。ここが「日本の生命線」,「満蒙」の「蒙」である。

【南満州及東部内蒙古に関する条約(全9条)】
第一条
 両締約国は,旅順大連の租借期限並びに南満州鉄道及び安奉鉄道に関する期限を何れも九十九箇年に延長すべきことを約す。
第二条
 日本国臣民は,南満州において各種商工業上の建物を建設するため又は農業を経営するため必要なる土地を商租することを得。
第三条
 日本国臣民は南満州において自由に居住往来し各種の商工業その他の業務に従事することを得。
第四条
 日本国臣民が東部内蒙古において支那国国民と合辨により農業及び附随工業の経営をなさむとするときは支那国政府之を承認すべし。
(中略)
第六条
 支那国政府はなるべく速やかに外国人の居住貿易のため自ら進みて東部内蒙古における適当なる諸都市を開放すべきことを約す。
(後略)

【1917.3.8 ロシア革命】

 ロシア帝国においては,1917年,ロシア革命によりロマノフ王朝は滅亡,1922年12月22日,世界初の共産党が支配するソビエト社会主義共和国連邦が成立する。
 後年の1924年5月31日,中華民国(孫文や蒋介石ではなく袁世凱系の北洋政府)とソ連との間で国交が樹立する。これにより宙に浮いていた東清鉄道(東支鉄道)はソ連と中華民国北京政府の共同経営となった。加えて,ソ連は,同年9月20日,東清鉄道を実質的な管理下に置いていた北洋軍閥奉天派の張作霖との間でも,同じような内容の奉ソ協定を結んでいる。これは当時の満洲の主権が誰に属していたか明確でなかったことの現れ。
 日本にとっては,相手方二当事者の国体変更に伴う既締結条約の効力や満洲国の更なる不安定化について,懸念を抱くことになる。

・満蒙が日本の「生命線」へ

 大正4(1915)年に締結された上記南満州及東部内蒙古に関する条約は,租借期限延長のほか,南満洲と東部内蒙古について,日本人の居住や,民間による農商工業を認めるというものである。
 満蒙での日本人の居住や農商工業が意味を有するに至るのは,昭和4(1929)年10月にアメリカを震源とする世界恐慌の暴波が,日本を襲った昭和5(1930)年以降後である。歴史の教科書に載っていたとおり,当時の日本の東北地方では,凶作も重なって欠食児童や娘の身売りが社会問題となった。
 松岡洋右が最初に「満蒙は日本の生命線」と帝国議会で演説したのは,この頃,昭和6(1931)年1月と言われる。満洲事変はこの年の9月に起きている。
 (狭義の)満洲は,奉天省(遼寧省),吉林省及び黒龍江省の東三省からなるが,昭和6(1931)年9月18日に端を発する満洲事変で,関東軍は東三省に加え「蒙(東部内蒙古)」も占領した。
 昭和7(1932)年に成立した満洲国は,関東軍が占領した東三省と「蒙(東部内蒙古)」を領土とした。
 後述するが,日本政府は,昭和7(1932)年以降,この満蒙の地,すなわち満洲国へ,困窮した農民を満蒙開拓民を入植させる政策を取ることになる。

満洲事変

【1931.9.18 柳条湖事件】

 当時の満洲は,中央政府(蒋介石政権)の統治が全く及ばず,馬賊が跋扈,安定した治安とは程遠い状態だったようだ。さらに,隣接するのは,万国共通の敵とも言うべき共産主義のソ連。
 不安定かつ難治の地。
 昭和6(1931)年9月18日,関東軍は,ここに満洲事変を引き起こす。
 前述のように,満洲事変時の関東軍は,日露講和条約追加約款第一第三項の守備兵の数は1キロメートル毎に15名を超過することを得ず」との規定に基づき,独立守備隊6個大隊を隷下に,日本内地から2年交代で派遣される駐剳1個師団を指揮下とし,合計兵力は合計1万人程度の小所帯。この約1万の兵力をもって,25万人と言われる奉天軍(張学良軍)を打倒,満洲全土を占領した。関東軍がその兵力を爆発的に増員するのは,満洲国が成立してからである。
 当時の関東軍の司令部,編制及びその所在は下記のとおり。
 関東軍の参謀都市と満洲事変を挙行した山形出身の石原莞爾岩手出身の板垣征四郎,加えて満洲に偶然に?駐剳していた仙台第二師団に属する宮城,福島及び新潟3県出身の兵隊には,昭和恐慌により荒廃した故郷の惨状が脳裏になかったはずはない。
 なお,この中には,満洲事変後,ガダルカナル島での全滅を経て,戦後をベトナムで迎えることになる第二師団隷下の歩兵第29連隊(若松連隊)の名もある。

〔関東軍司令部〕
司令官 中将本庄繁
参謀長 少将三宅光治
軍司令部附 歩大佐土肥原賢二(奉天特務機関長)

〔旅順要塞〕
司令官 中将厚東篤太郎
参謀 歩少佐松下金雄
旅順重砲兵大隊(旅順)長 砲中佐 山村新

〔独立守備隊〕約5000人
司令部(公主嶺)司令官 中将森連
独立守備第一大隊(公主嶺)長 中佐小河原浦治
独立守備第二大隊(奉天)長 中佐島本正一
独立守備第三大隊(大石橋)長 中佐岩田文男
独立守備第四大隊(連山関)長 中佐板津直純
独立守備第五大隊(鉄嶺)長 中佐田所定右衛門
独立守備第六大隊(鞍山)長 中佐上田利三郎

〔駐剳第二師団(仙台)〕約5000人 
司令部(遼陽)長 中将多門二郎
参謀長 歩兵大佐上野良烝
歩兵第三旅団司令部(長春/仙台)長 少将長谷部照俉
歩兵第四連隊(長春/仙台)長 大佐大島陸太郎
歩兵第二十九連隊(奉天/会津若松)長 大佐平田幸弘
歩兵第十五旅団司令部(遼陽/高田)長 少将天野六郎
歩兵第十六連隊(遼陽/新発田)長 大佐浜本喜三郎
歩兵第三十連隊(旅順/高田)長 大佐坪井善明
騎兵第二連隊(公主嶺/仙台)長 中佐若松晴司
野砲兵第二連隊(海城/仙台)長 大佐河村圭三
工兵第二大隊第二中隊(鉄嶺/仙台)長 工大尉花井京之助

・日本の「生命線」をめぐる中華民国との論争

 昭和3(1928)年6月4日,蒋介石が率いる国民革命軍が,いわゆる北伐を完遂し,南は広東から北は北京を中心とした河北地方まで全国統一に成功した(満洲は依然として奉天軍閥が支配)。
 この頃から,蒋介石は,国権回復運動という日本を含む諸外国との不平等条約の改正や清王朝が外国に与えた権益の回収に取り組むようになった。その一環で,中華民国は,関東軍が満洲に駐兵していることを問題を提するようになった。
 以下の【満洲駐兵権問題】は,この問題ついての争点を整理し,主に満洲事変直後における日本側の法的見解をまとめたもの。
 ちなみに「華府会議」とは,華府がワシントンの意味で1922年11月12日から翌年2月6日まで行われた会議のこと。日本も中華民国(袁世凱没後の北京政府)も参加していた。

【満洲駐兵権問題】
一、緒言
 帝国の満洲駐兵権問題は,華府会議における日支両国全権論争の対象であったが,昭和4年遼寧省国民外交協会は宣言書を発して之を否認し,奉天当局また之をもって条約上の根拠なきものと妄断したが,更に同年の太平洋会議また本問題を蒸返し,日支両国委員の間に論争を交えた。
 然るにまた昭和6年1月5日,南京政府外交部は本年度外交方針を発表し外国軍隊撤退の実現を宣言し,更に満洲事変に関する帝国政府の声明に対し,9月26日南京外交部は左の如き声明書を発表した。
 「日本は満洲駐兵は1905年のポーツマス条約及び北京条約に基づく権利だと主張しているが,同附属協定第二条はロシアが鉄道守備兵を撤退せば日本も同時に撤退すべしとの明文あり,ロシアは既に東支鉄道守備兵を撤退しているに拘らず日本のみが満洲に駐兵する理由はない。」
 右は南京政府が従前より唱え来った駐兵権否認の理由である。固より満洲における帝国の地位並びに同地方の現情に鑑みる時,支那側主張の如きは到底考慮の余地なきは論を俟たざる所ではあるが過去の経緯と現在の情勢とに徴し本問題に就き攻究するは決して徒爾でないことを信ずるものである。

二、法的根拠
 日露両国が夫々(それぞれ)南満洲鉄道(安奉鉄道を含む。)及び東支鉄道に守備兵を置くに至ったのは,日露講和条約追加約款第一第三項において
『両締約国は,満州における各自の鉄道線路を保護せむがため守備兵を置くの権利を留保す。該守備兵の数は1キロメートル毎に15名を超過することを得ず。しかして日本国及びロシア国軍司令官は,前記最大数以内において実際の必要に鑑み之に使用せらるべき守備兵の数を双方の合意をもってなるべく少数に限定すべし。』と規定せるに起因している。而して明治38年日清条約(満洲に関する条約)附属協定第二条により『清国政府は,満州における日露両国軍隊並びに鉄道守備兵のなるべく速やかに撤退せられむことを切望する旨を言明したるにより,日本国政府は,清国政府の希望に応うぜむことを欲し,もし露国においてその鉄道守備兵の撤退を承諾するか,あるいは清露両国間に別に適当の方法を協定したる時は,日本国政府も同様に照辦すべきことを承諾す。もし満州地方,平靖に帰し外国人の生命財産を清国自ら完全に保護しうるに至りたる時は,日本国もまた露国と同時に鉄道守備兵を撤退すべし。』と規定し,支那もまた日露両国の駐兵権を確認するに至った。

三、本問題に関する日支両国の論争
 露国革命後その国情の変転に伴い東支鉄道の守備は事実上支那軍隊において之に代わるに至ったが之をもって露国はその駐兵権を自ら進んで放棄せりとは即断し難く,寧ろ革命後東支鉄道守備兵の綱紀紊乱を極めたるに乗じ支那側が強力をもって露国軍隊を駆逐せりと認るを至当とする。華府会議において我満洲駐兵問題はその他駐支外国軍隊問題と共に討議せられたが,その際支那全権は前掲日清条約附属協定第二条を引用し,露国軍隊が全く満洲より撤退したる今日,日本軍のみ駐屯を継続するはその理由を認め難きを主張した。然るに既に記した如く満洲より露国の撤兵したのは露国国情の急変い伴う過渡的措置であって之が直ちに条約に影響を及ぼすことなきは疑いを容れない所であるから帝国全権は帝国の満洲駐兵権は条約上に明示せる権限なるのみでなく,不安なる満洲の現状において駐兵は絶対に必要なる所以を指摘して之を反駁し両者の主張遂に一致を見るに至らなかった。米国全権は外国軍隊駐屯の要否は結局事実上支那が外国人の生命財産を保護し得るや否やの事実問題の審査に依らざるべからずとなし,英仏両全権また之に和し同会議附録決議第六を通過した。帝国全権は右決議案通過に先ち『日本の南満洲鉄道守備隊の駐屯は条約上明らかに定められたる権限に基づくものなりとの見解を有することを茲に重ねて言明す』と念を押し,支那全権は他日更めて論駁するの権利を留保しる旨応酬したが議長は駐兵の合法不合法に関し,他日当事者国間に意見を交換することは固より任意なりと之を抑え,本問題の討議を打ち切った。然るに後年(1924年5月)締結せられたる露支協定はその第三条において露国旧帝政政府が支那政府と締結せる条約,協定等は一切取り消さるべきを規定し,また同第九条において東支鉄道問題解決の条件として同附属地の市政,警察,軍務等に関する事項は支那側官憲において処置せらるべきを規定した。
 右は一見支那側をして帝国に対し日清条約附属協定第二条を援用し露国側の守備隊廃止せられたる以上,日本側もまた満洲鉄道守備隊を撤退すべきものなりとの主張をなすの理由を得さしめ,華府会議当時に比し支那の立場を一層有利ならしめたる感がある。
 茲においてか皮相的見解に捉えらるるもの動もすれば之をもって日清条約第二条前段において予想せる我が鉄道守備兵撤退の事由発生したるものと看做し帝国はその駐兵権の根拠を失いたるものの如く悲観論を吐くものなきにあらざるも仔細に究明すれば決して斯くの如く軽々に論断することが出来ない。

四、守備兵支持の法的見解
 元来,日露両国が駐兵権を留保せる目的は日露講和条約追加約款第一第三項において『両締約国は満州における各自の鉄道線路を保護せむがため・・・』と規定せるに依りて明白である。即ち満洲は,当時馬賊跳梁せるに拘らず,支那政府は自らその治安を維持するの能力なく,従って日露両国共に軍隊撤退後,各々自ら鉄道保護のため適当の手段を講ずるの要ありしに基づいている。
 日清条約附属協定第二条全段に『露国においてその鉄道守備兵の撤退を承諾するか,あるいは清露両国間に別に適当の方法を協定したる時は,日本国政府も同様に照辦すべきことを承諾す』とあるは,蓋し当時帝国は露国が撤兵を承諾するの時機は必ずや満洲地方の治安維持せられ鉄道の保護に付き懸念なきか又は之に準ずべき事態の下に清露両国間に適当の方法協定せられたる場合なるべきを予想したるがためなるは,既述駐兵の目的より見るも事理の当然である。もし然らずとせば同条後段に『もし満州地方,平靖に帰し外国人の生命財産を清国自ら完全に保護しうるに至りたる時は,日本国もまた露国と同時に鉄道守備兵を撤退すべし。』とあることと主旨一貫しないからである。
 叙上の理由に依り同条は前段後段相独立して撤兵原因を構成するものと解するのは適当でない。同条は講談において帝国の撤退時期を,また前段において撤退の手段より見たる日露両国間の関係を規定し,よってもって帝国は満洲における治安維持を絶対的前提条件として露国共に鉄道守備兵を撤退すべきものなることを定めたものである。
 支那側が同条前段のみを切り離し●に露国の撤兵の事実が帝国の撤兵の原因となるべきを主張せるは,鉄道保護の目的を度外視したる所論であって,鉄道守備兵存置本来の目的に背反するものと謂わなければならぬ。既に述べたる如く,華府会議の附録決議第六は,支那における列国の駐兵問題に関したと同様の思想の下に議決せられたものであって,之に拠るも右主張の公正妥当なるを窺うるのである。

五、実際的見地よりする解釈
 以上述べたる如く帝国の満洲駐兵の要否は満洲の治安如何によって解決せらるべく現実の問題であって理論の問題ではない。東四省における馬賊の数は今日,二万五,六千を算する。彼らが近年満鉄治線に加えたる事故数は,我が軍部の調査に依れば昭和3年中に288件,同4年中に301件,4,5年中には守備兵の配置移動が一種の威嚇を彼らに与えた結果,多少の減退を見たが尚且つ144件を示している。
 先年,華府会議において帝国全権は『馬賊は帝国軍の駐屯するに拘らず屢々(しばしば)鉄道を侵さんと企て電線切断その他暴行を敢えてしたる例,極めて多く,帝国軍の存在に依りてその不逞の行動は広き地域において有效(有効)に阻止せられ鉄道附属地及びその周囲に住居せる人民の一般的安全は為に確保せられあるの実情にあり。もし南満州鉄道守備隊の撤退を見ることあらんか鉄道附属地及びその付近は奥地と同様,馬賊の横行に委ねられ不安の状態を現出すること疑いを容れざる所』なるを極力指摘した。
 爾来,満洲における治安維持の状態は依然として改善の跡を認めざるのみならず近年却って馬賊土匪の横行益々頻繁なるに加えて一般思想の悪化に伴い労資の闘争事実頻発して赤化運動は排外思想の増長と相俟って益々治安を紊乱せんとしている。況や(いわんや)今回の満洲事変は駐兵の必要を如実に物語るに●●をや。また東支鉄道は,露軍の撤兵以後引続き支那軍隊の守備に依り鉄道の保護を維持している状態である。因是観之(是に因りて之を観れば)支那が満洲において自ら治安を維持するの能力に缺如せる事実明らかである。然るに拘らず支那が漫然として寧ろ附帯条件たる露国撤兵の事実を楯として帝国の鉄道守備兵の撤退を迫るが如きは条約の根本精神を全然無視するものと謂わねばならぬ。

六、安奉線における鉄道守備兵に関する経緯
 安奉鉄道は素と日露戦争中軍用のため我軍が急速に敷設した軽便鉄道を明治38年満洲に関する日清条約附属協定第六条に依り日本政府が各国商工業の貨物運搬用の鉄道に改築し引続き経営するの権利を獲得したものであるが,明治40年5月本鉄道の沿線,本渓湖における日本軍駐屯及び警察官出張所設置に対し支那側は安奉鉄道はその性質,東清鉄道と同じからず撤兵後は当然清国の保護に帰すべきものなりとして之が撤退を要求して来た。また同月,支那側は,安東県における鉄道守備隊に関し,満洲条約附属協定第二条に規定せる鉄道守備隊は,専ら長春旅順間の鉄道に関するもので,安奉鉄道に守備兵を置くの規定なしとの理由に依り抗議して来た。
 右支那側の抗議に対し我国は,安奉鉄道はその性質上長春旅順間鉄道の支線にして馬賊の襲撃等に備ふるため守備隊を要するのみならず却って邊陬(へんすう)の地を通過する安奉線において一層その必要がある。然るに清国政府が長春大連間鉄道に守備隊駐屯権を認めつつ,安奉鉄道に之を認めずと云うが如きは理論上実際上共に極めて不当にして警察官の派遣もまた実際の必要に基づくこと他の南満鉄道線路と異なることなしとして之を斥けた。
 その後支那側は屢々(しばしば)我国に対し守備兵撤去等の問題の解決を迫って来たが明治42年末,米国の満洲鉄道中立の提議あり我国においては該根本問題の解決せられたる後に非ざれば守備兵問題等の如き細目を議するに便ならずと認め守備兵撤去等の支那側の要求を斥け駐兵を継続して今日に至っている。
 駐兵権発生の条文には,東支鉄道並びに南満鉄道等と限定することなく満洲における各自の鉄道と明記しある。本明文に従えば南満鉄道の支線たる安奉線に駐兵権あること呶々(どど)を要しない。
 今仮に一歩を譲り該条約締結時の精神が専ら露国の経営管理せし鉄道のみに限るとするも安奉線は南満線の支線にして邊陬(へんすう)危険の地域を走る関係上守備の必要さらに大なるものがある。現に帝国が警備を実施して以来既に20年に及んでいる。乃ち今更,安奉線を除外する根拠は理論上実際上共に毫も之れ無きものと断じ得るのである。

七、結語
 満洲における帝国の駐兵権に根拠を与うる日清条約第二条は満洲における実際上の必要条件を確認せるものである。従って支那にしても帝国に対し満洲撤兵を要求せんと欲せば先ずもって自ら満洲における治安を維持するの能力を有することを現実に立証することを絶対条件とせなければならぬ。この前提条件の充足せざる限り露国の意思もしくは露支間の協定の如きをもってするも本条約の効果に微動だも与え得ざる所である。
 此の如きは独り帝国の独断的主張に非ず。華府会議また之を裏書せる所であって客観的公正の主張たることは疑いを容れざる所である。
 満洲における治安紊乱せるは之を統計的に証明し得る所にして東支鉄道がその露国軍たると支那軍たるとを問わず苟も軍隊に依て警備せられあるの事実は之を雄弁に立証し得て余りがある。事情かくの如くなる以上,帝国の撤兵の理由は豪にも存立せず依然として駐兵権を主張するの事理明瞭なりと謂わなければならぬ。

【1932.3.1 満洲国建国】

 満洲事変で満洲全土を関東軍が占領,昭和7(1932)年3月1日,清朝(満洲族)の忘れ形見,愛新覚羅溥儀を元首とする「満洲国」が建国される。
 その建国宣言には,次のような一文が明記されている。

 應(まさ)に即ち三千万民衆の意向をもって即日宣告して中華民国との関係を脱離し,満洲国を創立す。

・満洲国を承認した国々

 満洲国を承認した国は合計23国。
 その国及び政府と承認形式は,以下のとおり。
 国際連盟加盟国が約40国,独立国が約60国だった当時の地球上において,満洲国は意外に"国際的孤立”していない。ちなみに現在の中華民国(台湾)を正式承認しているのは15ヵ国である。
 アメリカやイギリスは満洲国を承認していないが,奉天やハルビンに領事館を置いていた。「海賊と呼ばれた男」にて,満洲(南満洲鉄道)を舞台に出光が石油メジャーと争うことになるのは,治安が安定した満洲のフロンティアで,アメリカやイギリスの企業が貪欲にもビジネスを展開していたからに他ならない。

【正式承認17国】
 日本,ドイツ,イタリア,スペイン,バチカン(ローマ法王庁),ポーランド,クロアチア,ハンガリー,スロバキア,ルーマニア,ブルガリア,フィンランド,デンマーク,エルサルバドル及び中華民国南京国民政府(汪兆銘政権),蒙古連合自治政府及びタイ

【国書交換(準承認)3国】
 エストニア,リトアニア及びドミニカ
【戦時中に樹立され承認した国・政府3国】
 ビルマ,フィリピン及び自由インド仮政府

【1932.9.15 日満議定書】

 昭和7(1932)年9月15日,日本国と満州国との間で日満議定書が締約された。日本はこの協定締結をもって満洲国を正式に承認した。
 日本が「生命線」として護ろうとした権益はここに集約された。
 また旅順や大連の租借権も,改めて満洲国との間で合意された。
 この権益について下掲協定第一は「満洲国領域内において日本国又は日本国臣民が従来の日支間の条約,協定その他の取極及び公私の契約により有する一切の権利利益」と規定する。具体的には,鉄道,鉄道附属地及び炭鉱に関する権利に加え,1915年5月25日に中華民国との間で締結した南満州及東部内蒙古に関する条約により認められた居住権や農商工業を営む権利がこれに該当する。
 この規定が昭和7(1932)年から実施された満蒙開拓団入植の法的根拠となった。
 満蒙開拓団は,昭和10(1935)年までは試験移民という形で段階的に行われた。さらに関東軍司令部が昭和11(1936)年5月11日に「満洲農業移民百万戸移住計画」を作成,これを骨子として,当時の広田弘毅内閣は,同年8月11日,「二十カ年百万戸送出計画」を策定し,満洲国への農民の大規模移住を国策と定めた。
 それは,昭和恐慌下の農村更生策の一つとして遂行された。
 加えて,コメ余りの現代では想像し難いが,明治維新以降人口が増え続け,戦前の日本は(戦後も1970年頃までは),コメでさえ仏印(ベトナム)や,台湾や朝鮮から輸入していた。この食糧増産が長期的な政策目的であった。国民の生活維持のために確保すべきは石油だけではなかった。「機動戦士ガンダム」ではないが,増えすぎた人口を”コロニー”に移住させるよになったのである。
 こうして「満蒙は日本の生命線」が,国民的なスローガンとなった。

【日満議定書】
 日本国は満洲国がその住民の意思に基づきて自由に成立し独立の一国家をなすに至りたる事実を確認したるにより,
 満洲国は中華民国の有する国際約定は満洲国に適用しうべき限り之を尊重すべきことを宣言せるにより
 日本国政府及び満洲国政府は日満両国の善隣の関係を永遠に鞏固にし互いにその領土権を尊重し東洋の平和を確保せんがため左の如く協定せり
一 満洲国は,将来日満両国間に別段の約定を締結せざる限り,満洲国領域内において日本国又は日本国臣民が従来の日支間の条約,協定その他の取極及び公私の契約により有する一切の権利利益を確認尊重すべし
二 日本国及び満洲国は,締約国の一方の領土及び治安に対する一切の脅威は同時に締約国の他方の安寧及び存立に対する脅威たるの事実を確認し両国共同して国家の防衛に当るべきことを約す。これがため所要の日本国軍は満州国内に駐屯するものとす。

・国際連盟の介入

 国際連盟は,大正9(1920)年1月10日に発足している。
 日本は,イギリス,フランス及びイタリア3国とともに,設立時から常任理事国を務めていた。
 その常任理事国日本が,昭和6(1931)年9月18日,満洲事変を引き起こす。中華民国の国際連盟代表の施肇基は,3日後の同月21日,下掲国際連盟規約第11条(戦争の脅威)に基づき,国際連盟理事会に訴えを提起した。
 これが国際連盟を脱退する契機となった。
 昭和8(1933)年2月24日,国際連盟総会は日本への勧告を含む報告書を採択することになる。これが国際連盟規約第十五条第四項に依る国際連盟総会報告書であり,本稿ではその日本語訳を後掲する。
 当該報告書9頁によると,中華民国の上記訴えの内容は「各国の平和を危殆ならしむる事態の此の上の進展を防止し,原状を回復し且つ中華民国に対して支払うことを要すと認めらるる賠償の金額及び種類を決定せんこと」を求めるというものだった。

国際連盟規約第十一条〔戦争の脅威〕
一 戦争又ハ戦争ノ脅威ハ、聯盟国ノ何レカニ直接ノ影響アルト、否トヲ問ハス、総テ聯盟全体ノ利害関係事項タルコトヲ茲ニ声明ス。仍テ聯盟ハ、国際ノ平和ヲ擁護スル為適当且有効ト認ムル措置ヲ執ルヘキモノトス。此ノ種ノ事変発生シタルトキハ、事務総長ハ、何レカノ聯盟国ノ請求ニ基キ直ニ聯盟理事会ノ会議ヲ招集スヘシ。
二 国際関係ニ影響スル一切ノ事態ニシテ国際ノ平和又ハ其ノ基礎タル各国間ノ良好ナル了解ヲ攪乱セムトスル虞アルモノニ付、聯盟総会又ハ聯盟理事会ノ注意ヲ喚起スルハ、聯盟各国ノ友誼的権利ナルコトヲ併セテ茲ニ声明ス。

 以下のように,その後の満洲事変の進行と満洲国の樹立(加えて上海事変)は,国際連盟による訴えが継続している状態で行われた。

1931年9月18日 満洲事変勃発
1931年9月21日 中華民国訴え提起 
1932年3月1日 満洲国建国
1932年4月 リットン調査団が満洲視察
1932年9月25日 日満議定書締結(日本が満洲国を承認)
1932年10月2日 リットン調査団報告書を公表
1933年2月24日 国際連盟総会報告書の採択 

 国際連盟を舞台にした日中間の紛争について,昭和7(1932)年2月19日,国際連盟理事会は,国際連盟規約第15条第9項に基づき国際連盟総会に付託した。
 昭和8(1933)年2月24日,国際連盟総会は,同条4項に基づき日本に対する勧告などを内容とする報告書(国際連盟規約第15条第4項による国際連盟総会報告書)を採択する。
 結果,日本のみが反対,後に日本と同盟し英米に宣戦布告するタイ国1国が棄権したが,他42カ国の賛成をもって可決された。
 日本は,同年3月27日,創立時から常任理事国を常任理事国を務めていた国際連盟からの脱退を通告することになる。 

国際連盟規約第十五条〔紛争解決手続〕
(一ないし三略)
四 紛争解決ニ至ラサルトキハ、聯盟理事会ハ、全会一致又ハ過半数ノ表決ニ基キ当該紛争ノ事実ヲ述へ、公正旦適当ト認ムル勧告ヲ載セタル報告書ヲ作成シ之ヲ公表スヘシ。
(五ないし八略)
九 聯盟理事会ハ、本条ニ依ル一切ノ場合ニ於テ紛争ヲ聯盟総会ニ移スコトヲ得。紛争当事国一方ノ請求アリタルトキハ、亦之ヲ聯盟総会ニ移スヘシ。但シ右請求ハ、紛争ヲ聯盟理事会ニ付託シタル後一四日以内ニ之ヲ為スコトヲ要ス。
(一〇略) 

・国際連盟総会報告書

 国際連盟規約第十五条第四項による国際連盟総会報告書は,まず「支那領土の広大なる部分が宣戦なくして実力をもって奪取せられ且つ日本軍隊に依り占領せられたること並びに右行動の結果として該部分が支那の他の部分より分離せられ且つ独立を宣言せられたることは異論を挟む余地なし。」と事実認定している(69頁)。
 そのため,当該報告書による日本に対する勧告は「満洲に対する主権は支那に属すること」を前提としている(76頁)。
 しかし,他方で日支間紛争の解決のためには,「満洲における日本の権利及び利益は無視することを得ざる事実なり。之を承認せず且つ満洲との日本の史的関連をも考慮に入れざる如何なる解決も満足なるものに非ざるべし」という原則(満洲における日本の利益の承認)に適合するものでなければならないとしている(74頁)。
 その上で,当該報告書は,日本に対し以下の内容を勧告している。

南満洲鉄道附属地外における日本軍隊の駐屯及び同附属地外における右軍隊の行動は,紛争の解決を規律すべき法的諸原則と両立せざること並びに右諸原則と両立する事態を能う限り速やかに確立するの要あることを思い,総会は右軍隊の撤収を勧告す。

 上記報告書(つまり国際連盟総会)は,確かに満洲国(及び日満議定書に基づく日本の権益)は承認はしておらず,それを前提とした日本軍の撤退を勧告してはいる。
 しかし,日本が満洲から完全に徹底することを勧告したものではなく,これまでロシアや清国・中華民国との条約や協定などに基づいて獲得した,旅順大連の租借権や鉄道・炭鉱はもちろん,鉄道附属地に加え,日中間で紛争となっていた鉄道守備隊の駐兵についても,「満洲における日本の利益」として承認している。
 どうやら,成立に至る経緯はともかく,条約や協定が存在することが,イギリス,フランス、オランダなど欧州中心僅か四十数カ国により構成されたLeague of Nations(国際連盟)が承認する合法的植民地支配のルールだったようだ。紛争の地に日本の後ろ盾で独立国を樹立し,この独立国と条約や協定を結ぶやり方は,既存の植民地支配の秩序を壊す可能性があったのか,League of Nations(国際連盟)に受け入れることはなかった。
 この結果を受け,「満蒙は日本の生命線」を唱え,この総会に日本全権代表として出席していた松岡洋右は,総会による報告書採択を受け,以下の宣言文を読み上げ,他の日本政府全権とともに会場を退席している。

 報吿書草案が今この總會によつて採擇されたことは、日本代表部並に日本政府にとり深く遺憾とするところである。日本は國際聯盟創立以來その一員である、一九一九年パリ會議の我が代表は聯盟規約の起草に參加した、我々は聯盟の一員として人類共同の一大目的の爲に世界の指導的國家と相協力して來たことを誇りとするものである、日本は外の同僚聯盟國と共に人類共同の然く永く抱懷されたる一大目的を達成するに努めて來たのである。余は同一の目的卽ち恒久平和の確立を見んとする希望が、總て我々の審議並に行動に際して我々の總てを動かしてゐることを疑はぬものであるが故に、今我々が當面しつつある情勢を深く遺憾とするものである。日本の政策が極東における平和を保障し、斯くして全世界を通じて平和の維持に貢獻せんとする純眞なる希望によつて根本的に鼓吹されてゐるものであることは周知の事實である。然しながら總會によつて採擇された報吿書を受諾することは爲し能はざるところであり、特に右報吿書に包含された勸吿が世界の此の部分(極東)に於ける平和を確保するものと思惟し得ないものであることを指摘せざるを得ない。之は日本の苦痛とするところである、日本政府は今や極東に於て平和を達成する樣式に關し、日本と他の聯盟國とが別個の見解を抱いて居るとの結論に達せさるを得ず。然して日本政府は日支紛爭に關し國際聯盟と協力せんとする其の努力の限界に達したことを感ぜざるを得ない。

 然しながら日本政府は極東に於ける平和の確立並に他國との間に於ける親善良好關係の維持並に强化の爲には依然最善の努力を盡すであらう。余は日本政府が飽くまで人類の福祉に貢獻せんとする其の希望を固持し、世界平和に捧げられる事業に誠心誠意協力せんとする政策を持續すべきことを、こゝに付言する必要はあるまいと信ずる。

・余談

 その後も日本は,中華大陸において,なぜか自らが後ろ盾となって独立国あるいは自治政府を樹立するやり方を貫いた。
 結果,北京,南京及び上海などの主要都市を含む,北は満洲から南は広東まで満洲国(東三省と内蒙古東部),蒙古連盟自治政府(内蒙古西部),中華民国南京政府(北京から広東の沿岸部)という日本の後ろ盾がある国や自治政府が戦後まで中華大陸に存在していた。

満洲国樹立(1932年3月1日)
冀東防共自治政府樹立(193511月25日)
 ※1938年1月30日,中華民国臨時政府に合流する。
蒙古連盟自治政府樹立(1937年10月28日)
中華民国臨時政府樹立(1937年12月14日)
 ※1940年3月30日,中華民国南京政府(汪兆銘)に合流する。
中華民国維新政府樹立(1938年3月28日)
 ※1940年3月30日,中華民国南京政府(汪兆銘)に合流する。
中華民国南京政府(汪兆銘)樹立(1940年3月30日)

 加えて,後に進出した東南アジアにおいても,植民地支配をしていたイギリス,フランス及びアメリカを放逐後,その地を占領した日本軍は,旧王族などを擁立し,独立国を樹立する方法を取っている。

ビルマ独立(1943年8月1日)
フィリピン独立(1943年10月14日)
ベトナム独立(1945年3月11日)
カンボジア独立(1945年3月13日)
ラオス独立(1945年4月8日)
インドネシア独立(1945年8月17日)

 しかし,これら中華大陸や東南アジアで行った日本による独立国や自治政府の樹立は,結果としてこれらの国々の完全な独立を実現したにも関わらず,戦後の日本国内では「傀儡」と一言で片付けられ,頗る評判が悪い。
 なお,関東軍は,満洲国の領土拡大のため河北省熱河を押さえ,北京に迫っていくが,その過程での”中国”による支配からの独立を熱望する南モンゴルとの関わりについては,下掲の拙稿をご覧ください。


東京で弁護士をしています。ホーチミン市で日越関係強化のための会社を経営しています。日本のことベトナムのこと郷土福島県のこと,法律や歴史のこと,そしてそれらが関連し合うことを書いています。どうぞよろしくお願いいたします。