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令和に蘇る南モンゴルと日本の密接な関係

南モンゴルの地政学

南モンゴルを支援する議員連盟

 髙市早苗衆議院議員が会長を務め,自民党議員有志によって令和3(2021)年4月21日に発足したのが「南モンゴルを支援する議員連盟」。
 中華人民共和国にあって同国が「内政問題」と主張する南モンゴルの問題を,「なぜ」日本の国会議委員が支援するのか。

南と北のモンゴルは天と地

 南モンゴルは,今の中華人民共和国では「内モンゴル自治区」とされ,その内実は外部に漏れる程度だが,自治とは名ばかりの支配が行われている。1960年代の文化大革命時をピークとして,南モンゴル(内モンゴル自治区)については,現在の新疆ウイグル自治区と比較しても,中国共産党による苛烈な民族弾圧が間断なく行われ,現在でもモンゴル語教育を禁じるなどの同化政策が強制されている。これは,戦前,日本に協力していたことが理由の一つとも言われている。
 日本人が思い描く”モンゴル”は,横綱朝青龍などを輩出し,ウランバートルを首都とする現在のモンゴル国かと思う。そこは北(外)モンゴルと呼ばれた地域で,本稿の対象である南(内)モンゴルとは異なるが,民族は同一である。”北(外)”のモンゴル国は,平成4(1992)年2月13日,民主化とともに国名をそう変えたが,それまではモンゴル人民共和国と称する共産主義の国で,大正13(1924)年11月26日,ソ連の工作により中華民国から分離独立して成立している。
 要するに,日本が満洲に進出し,”モンゴル”と隣接することになる1930年代,モンゴルは既に南北に分かれていた。

独立への歴史と弾圧

 漢民族による明王朝は,南モンゴルを含む”モンゴル”を併合するどころではなく,首都北京の周囲に長城を築いて国境を高くして,むしろ蒙古の襲来を恐れた。ところが,満洲にて女真族が興した清王朝は,弱体化したモンゴル民族を支配下に置き,”モンゴル”を自領化した。モンゴル民族は,清朝滅亡後も,漢民族(中華民国)にそのまま支配されていた。
 北モンゴルは,ソ連の支援を受け,曲がりなりにも漢民族から独立したモンゴル人民共和国を樹立(1924年),隣の満洲も,日本の支援で曲がりなりにも漢民族から独立した満洲国を樹立した(1932年)。
 必然,南モンゴルでも中国からの独立の機運が高まった。そして,独立を目指すにあたり頼ったのは,ソ連ではなく,日本だった。
 本稿では,この日本と南モンゴルとの意外に深い関係,すなわち,日本はソ連や中国共産党など「防共」のために南モンゴルを利用し,南モンゴルは中国からの独立するために日本を利用する関係を記する。しかし,この深い関係こそが,新疆ウイグル自治区のジェノサイドと勝るとも劣らない,南モンゴルでの民族弾圧の遠因になったと言われる。とりわけ1960年代の文化大革命時,「日帝に協力した」南モンゴル人に対する粛清が行われた。現在でも,中国共産党によりモンゴル語教育を禁じるなどの同化政策が強制されているそうだ。

「蒙疆」とは

 戦前の日本は,「南モンゴル(内モンゴル自治区)」の,さらにその西半分を「蒙疆」と呼んでいた。
 これに対し,南モンゴルの東半分については,その東側は満洲国の領土となり(1932年),西側には,昭和10(1935)年11月25日,中華民国(蒋介石政権)から独立した冀東防共自治政府が成立していた。
 冀東防共自治政府の代表である殷汝耕は,日本に留学し,早稲田大学政治学科を卒後,日本人と結婚している。この経歴から分かるように,日本の後ろ盾をもって成立した親日的な政権である。冀東防共自治政府は,昭和13(1938)年2月1日,日本占領下の北京に成立した中華民国臨時政府に吸収され,中華民国臨時政府も昭和15(1940)年3月30日に成立した中華民国国民政府(南京政府/汪兆銘政権)に合流することになる。
 要するに,戦前の日本は,南モンゴル東側は,満洲国と中華民国(汪兆銘政権)を通じてその影響下に置き,南モンゴル西側については,「蒙疆」と呼んで,独立か自治かその政治体制を模索することになる。
 参考までに,写真の地図は1940年頃の中国・南蒙古・満洲の位置関係を示したもの(毎日頭條から引用)。中国のプロパガンダ系サイトなので,偽満洲国など全ての国・政府に「偽」が冠されている。
 青色部分が蒙疆(蒙古連合自治政府)
 黄色部分は中華民国南京政府(汪兆銘政権)
 橙色部分は満洲国 
 重慶にある中華民国国旗が日本と交戦した蒋介石政権

配置図

満洲事変

独立運動への端緒

 日本とモンゴルの直接の関わりは,満洲事変に遡る。
 昭和6(1931)年9月18日,満洲事変が勃発し,昭和7(1932)年3月1日,満洲国の建国が宣言される。
 その間及び前後については,下記の記事をご参照。

塘沽停戦協定

 昭和8(1933)年5月31日,日本軍(関東軍)と国民党軍(蒋介石軍)との間で,塘沽において満洲事変の停戦に関する協定が締結された。
 これにより万里の長城(長城線)が満洲国と中華民国との国境となった。
 長城線の南から「延慶,昌平,高麗営,順義,通州,香河,宝坻,林亭口,寧河,蘆台を通する線」までの間は,非武装地帯とされ,中国軍は兵を退いた(1項)。

【停戦に関する協定】
 関東軍司令官元帥武藤信義は,昭和8年5月25日,密雲(北京市の北東)において,国民政府軍事委員会北平分会代理委員長何應欽より,其の軍使同分会参謀徐燕謀をもってせる正式停戦提議を受理せり。
 右に依り関東軍司令官元帥武藤信義より停戦協定に関する全権を委任せられたる同軍代表関東軍参謀副長陸軍少将岡村寧次は,塘沽において,国民政府軍事委員会北平分会代理委員長何應欽より,停戦協定に関する全権を委任せられたる北支中国軍代表北平分会総参議陸軍中将熊斌と,左の停戦協定を締結せり。
一 
 中国軍は,速かに延慶,昌平,高麗営,順義,通州,香河,宝坻,林亭口,寧河,蘆台を通する線以西及び以南の地区に一律に撤退し,爾後同線を越えて前進せず。また一切の挑戦攪乱行為を行うことなし。
二 
 日本軍は,第一項の実行を確認するため,随時飛行機及びその他の方法に依り之を視察す。
 中国側は之に対し保護及び諸般の便宜を与うるものとす。
三 
 日本軍は,第一項に示す規定を中国軍が遵守せる事を確認するに於ては,前記中国軍の撤退線を越えて追撃を続行する事なく自主的に概ね長城の線に帰還す。
四 
 長城線以南にして第一項に示す線以北及以東の地区内に於ける治安維持は,中国側警察機関之に任ず。
 右警察機関の為には,日本軍の感情を刺戟するが如き武力団体を用ふることなし。
五 
 本協定は,調印とともに効力を発生するものとす。

梅津美治郎・何應欽協定

 昭和10(1935)年6月10日,天津の日本租界で発生した親日的な新聞社の中国人社長二人が殺害された事件をきっかけに,日本軍(支那駐屯軍司令官)と国民党軍(蒋介石軍)との間で,下記内容の梅津美治郎・何應欽協定が締結された。
 当該協定では,河北省から国民党と国民党軍(蒋介石軍)が撤退すべきことが合意されている。
 これにより,上記の塘沽停戦協定と合わせると,北京や天津を含む河北省から,国民党党部と国民党軍が消えた。河北省は万里の長城を挟んで南モンゴルに接している。南モンゴルから見ると,南方に中国勢力の空白地ができたことになる。

一 干學忠以下の事件責任者の罷免
二 憲兵第三団並びに軍事分会政治訓練所の北支よりの撤退
三 河北省の党部撤退
四 第五十一軍の河北省外への撤退
五 中央軍二ヶ師団(注:当時は第二師団及び第二十五師団があった。)の河北省外への移駐
六 日支国交を害する秘密機関を厳重取締り其の存在を許さざること
七 国民政府は全国に対し排外排日禁止命令を出すこと

土肥原・奏徳純協定

 昭和10(1935)年6月27日,察哈爾省の張北で発生した日本軍の特務員機関員が国民党軍から凌辱を受けるという事件をきっかけに,日本軍(関東軍)と国民党軍(蒋介石軍)との間で,土肥原・奏徳純協定が締結された。
 当該協定により,察哈爾省からも蒋介石の国民党軍が消えた。
 察哈爾省は南モンゴルの西側半分を占めており,南方に加え西方に国民党軍の空白地ができた。

一 宋哲元は察哈爾(チャハル)省主席並びに第二十九軍長の職を退くこと
二 事件を起こしたる第百三十二師団を陽高に移駐し直接責任者たる参謀長を罷免すること
三 以後,察哈爾省内にて排日を行わしめず
  排日団体の組織を禁じ,党部を解散すること
四 停戦区域を沽源,獨石口,懐来,延慶の線まで拡大し,同地域内に駐兵せざること

蒙古軍と関東軍との相互利用関係

 塘沽停戦協定,梅津美治郎・何應欽協定及び土肥原・奏徳純協定により,南モンゴルの周囲から,仇敵の中国軍が姿を消した。
 この日本軍の進出の過程では,南モンゴル人が陰に陽に力を貸していた。日本は南モンゴル人を利用し,南モンゴルは悲願の中国からの独立のため,”北”がソ連に頼ったのに対し,”南”は新たにやって来た姿形が自分と似ている日本人を利用する道を選んだ。
 この際の南モンゴルにおける政治面での代表がチンギスハーンの直系子孫の徳王(徳穆楚克棟魯普/デムチュクドンロブ)。軍事面での代表がモンゴル人の李守信。両名とも,昭和13(1938)年10月21日,天皇に拝謁し,徳王は勲一等旭日大綬章を,李守信は勲二等瑞宝章を受章しているが,満洲事変後の彼らの日本に対する協力については,本稿の末尾に掲載したその受章理由に詳しい。

蒙古軍政府の樹立

 中国軍が周囲から姿を消したこの機を受けて,徳王と李守信は,昭和11(1936)年5月12日,南モンゴル(西部)に蒙古軍政府を樹立することに成功する。
 こうして南モンゴルの中国からの独立への第一歩が始まった。

支那事変後

盧溝橋事件

 昭和12(1937)年7月7日,北京市内で盧溝橋事件が発生,当該事件の当事者は北京市に駐屯していた支那駐屯軍だが,これに乗じて満洲国から関東軍が「蒙彊」に進出してきた。
 関東軍,時の参謀長は東條英機中将。

察南自治政府・晋北自治政府・蒙古連盟自治政府の成立

 昭和12(1937)年8月27日,関東軍は察哈爾省の張家口を占領。同年9月4日,張家口に察南自治政府を成立させる。ただし漢人が中心の政府。「察」は察哈爾(チャハル)のこと。
 昭和12(1937)年9月13日,関東軍は山西省の大同を占領。同年10月15日,大同に晋北自治政府を成立させる。やはり漢人が中心の政府。「晋」は山西省の古称。
 昭和12(1937)年10月17日,関東軍は察哈爾省の包頭まで占領。南モンゴルのほぼ西半分を占領するに至り,同月28日,徳王及び李守信は,厚和(現フフホト)において,新たに蒙古連盟自治政府を樹立した。
 こうして支那事変が始まって間もなくして,南モンゴル(蒙疆)には,いずれも日本を後ろ盾とする三つの自治政府が成立し,併存した。

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蒙疆への日本軍駐留の法的根拠

蒙彊連合委員会の設立と関東軍への駐軍要請

 昭和12(1937)年11月22日,察南自治政府,晋北自治政府及び蒙古連盟自治政府の三自治政府の利害関係を調整して活動の円滑化を図るため,蒙疆連合委員会が設立された。
 同日,さっそく蒙疆連合委員会は,関東軍司令官植田謙吉に対し,下掲の蒙疆連合委員会設定に際し蒙疆連合委員会と関東軍司令官との秘密交換公文をもって全6項からなる要望を提示,同月25日,同司令官がこれを了承している。
 このうち第5項は,以下のとおりであり,蒙疆連合委員会が日本軍に対して駐兵を希望し,財政状況により経費も負担する旨が規定されている。

 本委員会は当分貴帝国軍の駐兵を希望し,之がためその管理又は経営する事業に関し財政上の余力を生ずるに至れば,貴帝国軍駐兵に伴う経費に関し現金又は物納の形式を持って努めて之を分担すること

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関東軍から駐蒙兵団(駐蒙軍)への承継

 昭和12(1937)年12月27日,関東軍に代わり蒙疆に駐屯する軍として,張家口にて新たに駐蒙兵団が編成される。
 これを受け,関東軍司令官植田謙吉は,同月30日,蒙疆連合委員会に対し,下掲の駐蒙兵団設置に際し関東軍司令官と蒙疆連合委員会との交換公文をもって全5項からなる要望を提示した。同日,蒙疆連合委員会は,「貴軍司令官に対すると同様,駐蒙兵団司令官にも斉しく信頼しその指導を受くべく,爰(ここ)に確約仕候」と返答している。
 このうち第1項では,前記同年11月22日付け関東軍と蒙疆連合委員会間の交換公文の内容が,駐蒙兵団と蒙疆連合委員会との間に承継される旨が規定されている。これより,関東軍に代わって駐蒙兵団が,蒙疆連合委員会の要請を受けた形で,蒙疆に駐屯することになった。

 昭和12年11月22日すなわち成吉斯汗紀元732年11月22日,蒙疆連合委員会と関東軍司令官との間に取換したる秘密交換公文中,関東軍司令官との関係は,駐蒙兵団司令部設置と共に駐蒙兵団司令官に移行せらるる儀と承知相成り度し。

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モンゴル軍は日本軍の指揮下へ

 昭和13(1938)年1月14日,蒙古連盟自治政府副主席としての徳王と蒙古軍総司令の李守信は,連名にて蒙古軍の統帥に関する駐蒙兵団と蒙古連盟自治政府との交換公文をもって,駐蒙兵団司令官蓮沼蕃(しげる)に対し,駐兵に止まらず,以下のように蒙古軍を日本軍(駐蒙兵団)の統帥下(指揮下)に置くこと等を要請し,同日,駐蒙兵団司令官蓮沼蕃がこれを諒承した。

 今般貴兵団,蒙疆地方に設定せらるるに当たり,蒙古連盟自治政府副主席徳王及び蒙古軍総司令李守信は,主席雲王を代表し,日本軍の蒙疆地方に駐屯又は作戦する間,蒙古軍統帥権の運用を在蒙疆日本軍最高指揮官に委任致したく,就いては日本軍に於いては蒙古軍の建設育成に十分なる協力を与えられたし。

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駐蒙兵団から駐蒙軍への改組

 昭和13(1938)年7月4日,駐蒙兵団は駐蒙軍に改組される。
 内地から遠く離れた蒙疆の地に於いて,昭和20(1945)年8月15日,玉音放送を聞くことになるのは,この駐蒙軍である。
 駐蒙軍は,関東軍の傘下ではなく,別系統の支那派遣軍ー北支那方面軍に属していた。そのため,戦後,満洲において早々に武装放棄に応じ,自身や在留邦人に惨禍を招いた関東軍とは真逆に,駐蒙軍は,武装放棄を拒否して侵攻するソ連軍と抗戦,結果,約4万人の在留邦人を護ることになる。

駐蒙軍による蒙疆進駐の方針

政治主導だった蒙疆の方針

 関東軍は,蒙疆から離れて満洲に戻り,本来の目的であるソ連に相対する。実際,昭和14(1939)年5月11日からノモンハン事件が発生,ソ連軍と抗戦状態に入る。
 この後の日本の南モンゴルへの対応については,戦後の定説では「関東軍の暴走」とされるが,むしろ政治主導である。そもそも関東軍は駐兵の役割を駐蒙軍に代わり,既に蒙疆を離れて,本来の満洲に戻っている。
 そして,その日本政府内では,南モンゴル(蒙疆)について,南モンゴル人の願望を汲み独立まで認めるべくとする論と,高度な自治に止めるべきという論があった。
 ここで言う「独立」や「高度自治」とは,日本との関係(だけ)ではなく,むしろ中華民国(漢人)との関係で論じられている点に特徴がある。

対蒙政策要綱〜自治か独立か

 昭和13(1938)年10月1日,外務省の企画委員会書記局は「対蒙政策要綱」を取り纏めた。
 結論,「内蒙古独立論」に配慮しながら,完全な独立ではなく,内政上の自主権を与え支那連邦の一構成員とすべしとしている。

対蒙政策要綱
一、方針
蒙古連盟政府に内政上の自主権を与え支那連邦の一構成員たらしむ。
理由
(イ)蒙古連盟政府に内政上の自主権を与う。
 内蒙古に如何なるステイタスを与うべきやは,我が大陸政策の全般的考慮の下に慎重決定すべき問題にして蒙古民族の宿望たる内蒙古の独立も,其の我が大陸政策に及ぼす影響を考慮すれば,軽々に之を容認することを得ず。
 内蒙古独立論の論拠は,蒙古民族の宿昔の希望を達成せしめ,ひいては支那邊疆(辺境)諸民族の民心を把握(外蒙及び西域回教圏の誘引)せんとするにあるところ,もし蒙古民族の要望が空名なりとも独立の名分を獲得するにありとすれば,其の蒙を啓く(ひらく/啓蒙)要あるべく,蒙古民族としては実質上の独立を赢得(勝ち得)て民力の充実を図る方,むしろ民族復興の捷径なる所以(ゆえん)を彼等に納得せしめざるベからず(納得させなければならない。)。
 また対ソ工作上,外蒙ブリヤート・モンゴル等を包含する大蒙古問題を考慮するの要あることは勿論なるが,将来に於ける外蒙,新疆,再蔵等邊疆(辺境)諸民族の把握は,結局実力関係に依ること多大にして,ソ連及び英国の実権を排除せざる限り困難と言うべく,仮令(けりょう)早急に内蒙古を独立せしむるも,邊疆(辺境)民族が翕然(きゅうぜん)之に呼応することは之を予想し難し。あるいはソ連及び英国が却って外蒙,新疆,西蔵等の把握を強化するやも知れず,内蒙古の独立に邊疆(辺境)民族誘引の効果を多く期待することは困難なるべし。
 よって内蒙古独立論の論拠は必ずしも妥当にあらず。加之(しかのみならず)内蒙古独立が所謂民族自決主義に基づきたるやの誤解を与うるときは,五族協和を建国精神とする満州国の国権を危殆ならしむるのみならず。ひいては内鮮融和政策等我国植民政策にも悪影響を及ぼす惧あるをもって,内蒙古を形式的に独立国とすることは之を避け,蒙古連盟政府に内政上の自主権を与うると共に,一方,蒙人治蒙の理想は能う限り之を達成せしむるよう施策すること,最も妥当なる政策なるべし。
(ロ)蒙古連盟政府を支那連邦の一組成員たらしむ
 内蒙古独立の理想が漢人の支配より離脱するにあることは明瞭なるが,漢人政権と対等の立場に於いて支那連邦を組織することは,何ら蒙古連盟政府の権威を失うものにあらざるが故に,蒙古連盟政府をして東亜安定のため進んで連邦の一員として貢献せしむべし。殊に内蒙古は地理的条件頗る悪く,現在のところ交通貿易等経済的には北支に連携せざれば発展困難なる状態にあるをもって,蒙古連盟政府としても,北支と経済的提携をなすに都合好き連邦の一員たる立場を採ること寧ろ賢明なるべし。

 対蒙政策要綱は,続いて「内政上の自主権」と「支那連邦の一構成員」を実現する措置として,次の提案をしている。

二、措置
(イ)
 蒙古連盟政府の領域は現在のところ長城線以北の察哈爾(チャハル)省及び綏遠(すいえん)省の二省とし,晋北,察南両地方は適当の時期に於いて之を北支政権に編入す。
 蒙人治蒙政策遂行上の障害は能う限り之を除去する必要あり,先般行われたる蒙疆連合委員会の改組の如きも,蒙古側の甚しき不満を招きたる経緯もあるにより,漢人政権たる晋北,察南両自治政府は北支の事態確立し,我方が北支政権指導力を確保するに至りたる時を待って北支政権に合流せしめ,蒙疆連合委員会は之を解散せしむべし。晋北,察南を分離したる蒙古連盟政府の財政は,必ずしも自立し得ざるにあらず(自立できないものではない)。我方としてもある程度の援助を与うることとすれば可なるべし。
(ロ)
 蒙古連盟政府の統治組織は,急激なる近代国家化の幣に陥らざるよう,我方に於いて適当指導するを要す。
(ハ)
 蒙古連盟政府領域内の漢人統治方針に付いては,我方に於いて適当なる監視を加え,極端なる漢人圧迫政策を執らしめざることとすべし。
(ニ)
 日支軍事協定に基づき蒙古連盟政府領域内に日本軍を駐屯せしむ。
(ホ)
 日支顧問協定に基づき蒙古連盟政府に地方顧問を傭聘(ようへい)せしむ。
(ヘ)
 北支政権との間に経済協定を締結せしめ,両政府間の経済提携関係を強化せしむ。

 対蒙政策要綱には,参考資料としてその反対論に相当する「内蒙古独立に関する件」(蒙古独立論者の要旨)が添付されているが,これは下掲のものである。

 帝国は内蒙古をして其の宿昔の希望により漢人の掣肘を受けざる独立国家を建設せしめ,実質的には帝国に於いて之が枢機を掌握すると共に新国家と中華民国との間に摩擦を生ずる虞ある因子は努めて之を除き経済的には能う限り両者間に牆壁(しょうへき)を設くるを避け,支蒙を一単位として日満両国との経済ブロックに参加せしむる如く考慮す。

御前会議による日支新関係調整方針の決定

 昭和13(1938)年11月28日,下記の日支新関係調整方針(含む別紙「要項」)が五相会議で,さらに同月30日に御前会議にて,それぞれ決定された。
 同年1月18日,近衛内閣は,南京陥落を受け重慶に逃れた蒋介石政権に対し「帝国政府は爾後国民政府を対手とせず」という方針を示していた。他方,南京政府(汪兆銘政権)が成立するのは,未来の昭和15(1940)年3月30日であり,この当時,汪兆銘自身まだ蒋介石とともに重慶にいた。
 その意味で,この日支新関係調整方針が決定された時点では,肝心の調整相手として日本が認める政権が,中国には未だ存在せずという状況であった。
 この状況下で蒙疆は,独立した国家ではないものの,中国における高度の自治区域とされた。加えて,ソ連,外モンゴル(モンゴル人民共和国)さらには中国共産党という共産主義勢力に隣接するという地理的要因から,中国及び満洲国とともに,「防共」という当時の日本の最重要課題を担わされることになった。
 なお,この方針・要項は,「極秘」として外面を装う必要ないものであるが,その中からは,中国や南モンゴルを「植民地」と位置付けて支配・搾取しようという意図は,読み取れないように思える。

【日支新関係調整方針】
 日満支三国は,東亜に於ける新秩序建設の理想の下に相互に善隣として結合し,東洋平和の枢軸たることを目標となす。之がため基礎たるべき事項左の如し。
一、互恵を基礎とする日満支一般提携,就中(なかんずく)善隣友好,防共共同防衛,経済提携原則の設定
二、北支及び蒙彊における国防上並びに経済上(特に資源の開発利用)日支強度結合地帯の設定
蒙彊地方は前項のほか特に防共のため軍事上ならびに政治上特殊地位の設定
三、揚子江下流域に於ける経済上日支強度結合地帯の設定
四、南支沿岸特定島嶼に於ける特殊地位の設定
之が具体的事項に関しては別紙要項に準拠す。

【別紙 日支新関係調整要項】※抜粋
第一 善隣友好の原則に関する事項
五、新支那の政治形態は分治合作主義に則り施策す。
蒙彊高度の防共自治区域とす。
上海,青島,厦門は各々既定方針に基づく特別行政区域とす。

第二 共同防衛の原則に関する事項
二、日支共同して防共を実行す。
之がため日本は所要の軍隊を北支及び蒙彊の要地に駐屯す。

第三 経済提携の原則に関する事項
二、資源の開発利用に関しては,北支蒙彊において,日満の不足資源,就中(なかんずく)埋蔵資源を求むるをもって施策の重点とし,支那は共同防衛ならびに経済的結合の見地より,之に特別の便益を供与し,その他の地域に於いても特定資源の開発に関し,経済的結合の見地より必要なる便益を供与す。

興亜院と蒙疆連絡部

興亜院の設置

 昭和13(1938)年12月15日,近衛内閣のもと,興亜院官制(昭和13年勅令第758号)が公布され,後の大東亜省の前身である興亜院が設置された。
 興亜院官制第1条は興亜院が行う事務が規定されている。日本の後ろ盾により中国内に樹立された各自治政府に対する政治,経済及び文化の面からのサポートである。
 同20条は,その現地に「連絡部」を置く旨が規定されている。

第一条
 支那事変中,内閣総理大臣の官吏の下に興亜院を置き,左の事務を掌らしむ。但し外交に関するものは之を除く。
一 支那事変にあたり,支那に於いて処理を要する政治,経済及び文化に関する事務
二 前号に掲ぐる事項に関する諸政策の樹立に関する事務
三 支那に於いて事業を為すを目的として特別の法律に依り設立せられたる会社の業務の監督及び支那に於いて事業を為す者の支那に於ける業務の統制に関する事務
四 各庁の支那に関係する行政事務の統一保持に関する事務

第二十条
興亜院には別に定むる所に依り必要の地に連絡部を置く。

張家口に蒙疆連絡部

 興亜院官制第20条に基づき,華北(北京,青島に出張所),華中(上海),厦門,そして蒙疆(張家口)に,連絡部が置かれた。
 張家口に置かれたのが蒙彊連絡部である。

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興亜院と戦後親中派

 宏池会,その旗揚げ時の幹部にして,後に内閣総理大臣となる大平正芳は,若き大蔵官僚時代の昭和14(1939)年6月から昭和15(1940)年10月まで,蒙疆連絡部の経済課主任(後に課長)として張家口に赴任していた。
 大平の政治的盟友となる伊東正義も,同じ時期に農林省から興亜院に出向,華中連絡部(上海)に赴任しており,当時,張家口と上海との間で交流があった。伊東正義は福島県会津若松市出身の衆議院議員。会津中学(現在の会津高校)在学時,旧会津藩士にて東京帝国大学の山川健太郎博士の講演に感銘を受け,東京帝国大学を目指す。同大学入学・卒業後,農林省に入省,後に政界へ進出した。
 大平正芳は,昭和47(1972)年9月29日,田中角栄内閣の外務大臣として,田中首相ともに中華人民共和国を訪問,同国との間で「日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明」を取り交わし,アメリカよりも早く国交を樹立する。その副作用として,台湾を国際社会から排除することになる。
 昭和54(1979)年11月9日に発足した第二次大平内閣は,首相の大平正芳(大蔵省から蒙彊連絡部),内閣官房長官の伊東正義(農林省から華中連絡部),外務大臣の大来佐武郎(逓信省から華北連絡部),通産大臣の佐々木義武(満鉄から華北連絡部)と,興亜院出身の同僚同士が多く入閣したため,”興亜院内閣”と揶揄された。大来佐武郎は民間からの入閣だったが,大平正芳,伊東正義及び佐々木義武はいずれも,宏池会(現会長は岸田文雄氏)に属している。
 平成元(1989)年6月4日,中華人民共和国において,天安門事件が発生する。中国共産党は,世界の非難を浴び,制裁を受けて孤立化を深めていた。事件から3ヶ月後の同年9月17日,当時,自民党総務会長にして日中友好議員連盟の会長を務めていた伊東正義を団長とする超党派訪中団が中華人民共和国を訪問し,李鵬首相,江沢民総書記,鄧小平らと会談,その3年後に天皇訪中が行われるなど,中国共産党を国際的孤立化から助け,現在の体制へと育てる大きな原因となる。
 当時の資料からも明らかなように,戦前戦中の日本は,ソ連や中国共産党などの共産主義勢力に対する「防共」が日本の最重要課題であり,かつそれが正しい方針だったことはその後の歴史が証明しているのだが,なぜか戦後の教科書でこの点が触れられることはない。

蒙疆三つの自治政府の統一

蒙疆統一政権設立要綱の閣議決定

 興亜院は,昭和14(1939)年7月28日,以下の内容の蒙疆統一政権設立要綱を会議決定。同年8月4日,近衛文麿内閣はこれを閣議決定している。
 三自治政府を統合した統一政権としての蒙古連合自治政府の樹立を企図するものだが,高度の自治制を敷き,新日・防共・民生向上を施政の綱領とするなど,政府の基本方針が示された。

一、蒙疆連合委員会及び三自治政府を統合し統一政権を樹立し,之を蒙古連合自治政府と称す。
二、蒙古連合自治政府は高度の自治制とす。
三、蒙古連合自治政府は,民族協和を基調とし,親日・防共・民生向上をもって施政の綱領となす。
四、首都は〇〇〇に定め其の名称は〇〇と定む。但し当分の間は張家口とす。
五、紀元年号は成吉汗紀元に依り,暦年号は支那中央政府の年号に依る。政権旗は別に之を定む。
(六、以下略)

蒙古連合自治政府への統合

 この要綱を前提に,昭和14(1939)9月1日,蒙疆連合委員会と三自治政府を統合した統一政権として,蒙古連合自治政府が成立する。「連盟」ではなく「連合」である。
 蒙古連合自治政府の主席には,蒙古連盟自治政府主席の徳王が就いた。蒙古軍の司令官にも引き続き李守信が就いた。
 首都は張家口に置いた。ちなみに南モンゴル の首都だった張家口は,昭和27(1952)年11月25日,中国共産党により,内モンゴル自治区から切り離され,漢民族の地たる河北省に編入されてしまう。令和4(2022)年2月4日から開催される(予定の)北京冬季五輪では,スキージャンプ,クロスカントリー及びスノーボードなどの競技会場となっている。
 前掲の交換公文に使われているが,年号は引き続きチンギスハーン生誕を紀元とする成吉汗紀元が用いられた。
 中国内の自治政府ではあるが,下掲の組織表を見る限り,独立国家としての統治機構は備えていたとも言える。

画像14

李守信・汪兆銘会談

 昭和15(1940)年1月24日から同月26日まで,青島(チンタオ)にて,中国の各”政府”首脳が集った会談が行われた。
 これは,同年3月30日の中華民国(新)国民政府(南京政府/汪兆銘政権)の成立に向け,その代表汪兆銘と,昭和12(1937)年12月14日に成立した中華民国臨時政府(北京や天津を管轄)代表王克敏と,昭和13(1938)年3月28日に成立した中華民国維新政府(上海や南京が管轄)代表梁鴻志の三者が青島に集って行われた会談である。

蒙古・臨時・維新政府

 この青島会談では,中華民国臨時政府と中華民国維新政府は,新しく成立する中華民国南京政府(汪兆銘政権)に合流,同政府に統合されることが合意されている。
 汪兆銘の青島訪問に合わせ,李守信は蒙古連合自治政府を代表して青島を訪れた。李守信は,青島会談前日の昭和15(1940)年1月22日,日本側の梅機関(影佐禎昭大佐を長として汪兆銘政権樹立を計画した特務機関)と会談を行い,続いて翌23日,汪兆銘と会談している。
 汪兆銘との会談では,新中華民国からの独立を獲得するには至らなかったが,そうかと言って吸収統合されることはなく,蒙古連合自治政府について,日本が方針とした「高度な自治制」が約束された。

「蒙古自治邦」の発布

 一般に独立した国家は,支配地域(領土)を有し,日本国や満洲国のような国号を有する。
 徳王と李守信は,これまでの「・・政府」ではなく,南モンゴル西部を支配地域とした国号に相当するものを欲した。それまでは日本式の「蒙疆」という地域を表現する名称があるだけだった。
 徳王らは,「・・・国」と号することを望んだが,中華民国(汪兆銘政権)への配慮から,妥協的なところで「国」ではなく「邦」をつけ,「蒙古自治邦」とした。漢字の「国」や「邦」も,モンゴル語では同じ「ULUS(ウルス)」らしく,少なくともモンゴル人の間では歓迎された。
 日本側は,このモンゴル名称問題のタイトルを「蒙疆高度自治区域の名称に関する件」とし,検討していた。
 昭和16(1941)年4月5日,陸軍次官阿南惟幾中将は,駐蒙軍参謀長高橋茂寿慶少将に対し,「蒙疆の高度自治区域の名称に関し別紙第一の如く決定せられしに付き,別紙第二の要領に基づき処理せられたし通牒す」とする陸支密第969号を発した。
 陸支密第969号にて引用されている別紙第一は,前日の昭和16(1941)年4月4日に行われた興亜院の以下の会議決定である。

陸支密第969号 別紙第一
 蒙古連合自治政府は,その行政力の浸透を促進し民心を把握安定し治安の確立を期せんがため,政府の名称変更を企図しあるところ,帝国官憲に於いては,蒙疆の高度自治地域としての性格に基づく,南京政府との関係に何ら変更なき限りに於いては,蒙疆の実情に応ずる適宜の名称を採用することに異存なきものとす。

 興亜院の決定を受け,陸軍中央が決定した内容を記した別紙第二が以下の「蒙疆自治邦に関する件」である。
 陸軍中央は「蒙古自治邦」の名称使用を黙認することとした。ただし,対外的に使用することについては,中華民国南京政府(汪兆銘政権)に配慮し,保留とした。

陸支密第969号 別紙第二

蒙疆自治邦に関する件

 爾今(今後),蒙疆が「自治邦」の名称を使用することを黙認す。 
 ただし,当分の間,外部に宣伝し,あるいは対外公文書に使用する等国民政府との間に紛糾を生ずるが如きことを避け,全然蒙疆自体の名称問題とし,国民政府との関係には何ら変化なからしめ,暗々裡に既成事実たらしむる如く指導するものとす。
 対外公文書に使用し若しくは外部に発表する時機は当方より指示す。

 同じ年(昭和16年/1941年)の7月5日に至り,現場で徳王や李守信らと接する駐蒙軍(戊集団)の参謀長高橋茂寿慶少将は,電報(戊集参電第558号)をもって陸軍次官木村兵太郎中将に対し,以下の理由等で「蒙古自治政邦」の名称を設定するべきであることを意見した。


 独ソ開戦,独伊その他枢軸5ヶ国の南京国民政府承認せる新情勢に於いて,近く「蒙古自治邦」の名称を設定致したし意見具申す。
 速やかに教示を得たし。総軍の意見は総参4電371号に依る。

 当蒙古連合自治政府の統治地域に対しては未だ之に代表すべき固有名詞なく単に自然的に発生せる蒙疆の仮名称を有するのみなり。したがって,地域内民心の融合団結愛国思想を涵養発露等至大の不便を来たしあるのみならず,建設事業にも大なる支障を与えつつあり。

 右は全く名称設定のみにして何ら独立問題等の特別の意味なく単なる内政問題なり本名称設定後といえども,対南京関係境内政治機構その他従前どおり何ら変わるところなし。

 右名称を使用する場合は,本情勢に於いては特に対外蒙西北ルート周辺等の蒙界北方地区に対する施策に良好なる影響を与うるのみならず,蒙疆内諸民族に対する融合団結の思想(国家観念)を与えて自ら自己の郷土建設に邁進せしむることとなり,東亜共栄圏建設,即ち日支事変処理に好影響を与え得べし。

 これに対し,昭和16(1941)年7月7日,陸軍次官木村兵太郎中将は,次のように回答し,前出の陸支密第969号のとおり,「蒙古自治邦」の対外的な使用については,引き続き保留とした。

 世界情勢の推移は愈々(いよいよ)蒙古民族のため有利に進展しあるが,蒙古連合自治政府の名称変更に関しては,陸支密第969号の通りにして,目下なお暫く対外公文書に使用し又は外部に発表する時機に非ざるをもって承知相成りたし。

 蒙古連合自治政府は,これらを踏まえ,昭和16(1941)年8月4日,「蒙古自治邦」を発布,つまり内部的に発表するに至った。対外的に公布しなかったのは,以上に述べた陸軍中央の方針に従ったもの。

「蒙古自治邦」発布に対する各民族の反響

 「蒙古自治邦」の宣言が内部での発表(発布)にとどまったものの,日本もその反響が気になったのか,陸軍次官木村兵太郎中将は,現地の駐蒙軍(戊集団)参謀長高橋茂寿慶少将に,昭和16(1941)年9月1日付で「蒙古自治邦発布に対する反響に関する件」を報告させている。
 その内容は下記のとおりであるが,日本人,蒙古人,漢人,回民(イスラム教徒)及び白系ロシア人という民族ごとの反響を取り纏めたもの。蒙古人はもちろん日本人にも好評ではあるが,漢人が否定的であることが,この問題の本質を物語っている。
 このように漸次前進していた南モンゴル(蒙疆)の中国からの独立であるが,しかしながら,この時がピークとなる。戦後,むしろ逆行し,現在に至るまで中国共産党の支配が続いているが,この事態は,「防共」に協力した当時の徳王らからすると実は何より恐れていたことかもしれない。

 蒙古自治邦発布に伴う反響に関しては,本発布が元来内面的にして外部公布ないしは宣伝等を実施せしめざりしため,之が一般的民衆の反響としては,目下具体的に認められず。むしろ民衆の多くは其の事実を未だ知らざる状態にして,かつまた知得せし者といえども,其の発布理由抽象的なりしをもって意見発表は差控え居れり。
之が反響を各民族別に見るに

一、日本人
 概して好評にして,蒙疆が東亜共栄圏の一環として高度広範なる自治権を有する以上,当然なることとし,あるいは蒙疆を巡る客観的情勢の逼迫せる現れにして,これより一層鞏固なる体制に移行するならんと観しあるも,一部には之れがため南京政府へは衝動大なるを憂慮し時機尚早なりとする悲観的見解を有する者あり。

二、蒙古人
 徳王及び松王らの視察宣伝旅行により漸く名称の変更を知り好評にして
1 蒙古独立の前兆
2 大蒙古建設の希望の軌道に乗れり
3 なお一歩を前進して完全宗主権を獲得すべし
等の点に関し慶祝しあり。
 然れども一部に於いては,時機適切なりや否やに付いて躊躇的態度を持する者も認めらる。

三、蒙古軍
 日本軍の蒙古民族復興に関する熱意を感謝すると共に,蒙古民族復興への●鐘なりとし,一般に感銘大なり。
 特に将校に於いては然りとす。今次募兵に方り凡ゆる階級より応募者多く之の反響と思料せらる。
 なお将校中には此の如く蒙古民族復興の暁光を認めたる以上,自軍内容を反省し,一層奮起を決意するを要すると叫ぶ者あり。

四、漢人
 概して雲烟過眼(うんえんかがん)しおるも,有識者間には内心稍不満を蔵するものあり。また一部には其の理由判明せざるため之に依り新中国より離脱するに非ずやとの疑念不安を蔵す。
 また一部には,蒙古人をして日本を信頼せしめ,日本と蒙古とを不可分の関係に置かんとする日本の極めて巧妙なる政策にして,蒙古人よりは寧ろ日本自身のためなりと観するものあり。
 然れども反面,有力紳商中には,躍進蒙疆にとり意義深きものとして首肯するもの少なからず。
本発布に対する漢人側は賛否相半ばすと認めらる。

(回民及び白系ロシア人については略)

蒙疆の戦後

最後の駐蒙軍司令官根本博中将

 昭和16(1941)年12月8日以降,日本はアメリカやイギリスらとの戦争に突入する。 
 蒙疆すなわち南モンゴルに駐屯していたのは,駐蒙軍,昭和19(1944)年11月22日,その司令官に親補されたのが,根本博中将。
 根本博中将は,昭和14(1939)年3月10日,興亜院華北連絡部の次長に就くなど(それだけではないが),陸軍きっての中国通として知られた。
 昭和20(1945)年8月9日,ソ連軍は,日ソ不可侵条約を一方的に破棄して日本に宣戦布告,満洲だけでなく,ここ蒙疆にも侵攻し,同月13日には,蒙古自治邦の首都である張家口の近くまで迫った。
 蒙疆においては,内地と違って人命の危機が差し迫った正にその時に,玉音放送が終戦を告げた。
 隣の満洲関東軍は,直ちに武装解除に応じ,ソ連と戦うことはなかった。結果,シベリアに抑留された軍人だけでなく,満洲に居留する日本人にもソ連軍による暴行略奪の悲劇をもたらした。さらには,放棄した武器が中国共産党軍(八路軍)に渡り,戦後,八路軍が国民党軍を圧倒し,中華人民共和国が成立する原因を作ってしまった。
 関東軍と違って,駐蒙軍司令官の根本博中将は,武装解除を拒否。支那派遣軍総司令官岡村寧次からの再三に渡る武装解除命令にも応じず,侵攻するソ連軍に対し徹底抗戦した。
 昭和20(1945)年8月20日まで抗戦を続け,その間,約4万人の蒙疆在留日本人を列車にて北京まで退避させることに成功,それを見届けた駐蒙軍は,同日,張家口からの撤退を開始した。
 北京や天津などに滞在していた日本人を含め,無事に日本に帰国させることができた根本博については,別な機会に記してみたい。

戦後の徳王と李守信

 徳王と李守信は,根本博司令官と話し合った結果,昭和20(1945)年8月19日,日本居留民とともに列車で張家口を離れ,同月21日,北京に着いた。
 二人は,戦後,蒋介石に請われ国民党軍に協力し,その中から南モンゴル独立を目指した。
 徳王と李守信の運命が激変したのは,日本の敗戦ではなく,国民党軍が台湾に敗退し,昭和24(1949)年10月1日に中国共産党による中華人民共和国が建国されてからである。
 徳王と李守信は,外モンゴル(モンゴル人民共和国)に亡命していたが,1950年9月,同民族に裏切られる形で逮捕され,中華人民共和国に身柄が引き渡された。
 中華人民共和国では,戦犯として禁固刑と思想改造受け,徳王は1963年,李守信は1964年に特赦で釈放されるまで収監されていた。

叙勲とその理由

 徳王と李守信は,昭和13(1938)年10月と,昭和16(1941)年2月の二度来日している。
 一回目の来日時,昭和13(1938)年10月21日,二人は天皇に拝謁し,徳王は勲一等旭日大綬章を,李守信は勲二等瑞宝章をそれぞれ受章している。
 後掲する二人の受章理由が,実は満洲国成立以後の南モンゴル(蒙疆)と日本との協力関係の事実を知る,意外にも最良の資料。よく読むと,満洲国や汪兆銘政権と比較し,南モンゴルと日本とは中国に対し共闘したという印象が強く残る。
 ところで,昭和15(1940)年9月4日,日蒙双方にとって不幸な事故が起きていた。
 幕末最後の輪王寺宮にして,明治28(1895)年,台湾征討近衛師団長として出征中に台南で亡くなった北白川宮能久親王の孫,北白川宮永久王が,昭和15(1940)年6月17日から駐蒙軍の参謀として張家口に赴任していた。この永久王が,同年9月4日,訓練中に不時着した戦闘機に巻き込まれ,永久王が亡くなるという悲劇が張家口で起きた。
 徳王と李守信は,昭和16(1941)年2月,二回目の来日をしている。同月16日,近衛首相に「蒙古建国促進案」を提出し,南モンゴルを「国」として中国から完全に独立することへ,引き続き支援を求めるなどした。その前日の2月15日,徳王と李守信は,高輪の北白川宮邸に永久王の母親(明治天皇の第七皇女)を見舞っている。二人は,昭和天皇の従兄弟にあたる永久王までが「モンゴルのために殉職したこと」に心を痛めただけでなく,本心からの敬意を表したかったそうだ。

徳王 勲一等旭日大綬章 受章理由
一、
 徳王は,支那の圧政を快しとせず,蒙古民族の自治を企図したるも,蒋介石の悪辣なる政策に禍せられ遂にその実現を見るに至らず。満洲国の独立を見るや,益々初志を鞏(かた)くし帝国の皇道防共精神に深く共鳴し親日的態度をもって,昭和10年4月,烏珠穆泌(ウジムチン)に会議を開きて内蒙諸王公の団結を図り,満洲国熱河西域を侵さんとする支那側の側面を脅威し,外蒙に対してはその南下を防ぎ内蒙と満洲との国境附近に於いては克く親睦を守り察哈爾(チャハル)蒙古一帯に親日満の防共地帯を作り,もって満洲国の育成発達を容易ならしめたり。
二、
 昭和10(1935)年12月,察哈爾事件起こり,在多倫(在ドロンノール)の李守信が沽源,張北附近,北長城戦以北に在り,宋哲元軍を駆逐して張北附近を領有せる際は克く李守信軍の行動を援助し,なお爾後,帝国の意図を體(体)し,心好く李守信と合作し,昭和11(1936)年2月10日,徳化に内蒙軍政府を樹立し,徳王統率の下に察哈爾盟及び錫林郭勒盟(シリンゴル盟)をして完全なる親日防共地帯たらしめ,もって満洲国の西境を益々安泰ならしたると共に,日本勢力の西進を容易ならしめたり。
三、
 昭和11(1936)年10月に於いては,抗日傅作義軍の挑戦に対し,之を旧綏遠(旧すいえん)省より駆逐する目的をもって全内蒙古を動員し,王英の指揮する謀略部隊と共に綏遠軍を攻撃せるも成功するに至らずして中止せり。
 然れども該事変に於いて綏遠省内に在る支那側の編制装備,戦力,陣地設備状況,地形,民意の動嚮等判明し,今次支那事変に於ける貴重なる対支作戦資料を提供するを得たり。
四、
 昭和12(1937)年8月,支那事変愈々(いよいよ)拡大し,関東軍に於いてはその一部を張北付近に集中せんとするや,綏遠及び張家口付近にありし支那側は之を妨害せんとし,続々察哈爾盟内に侵入せり。
 是に於いて徳王は,日蒙共同防衛の見地より内蒙軍を総動員し敵の侵入軍に抗戦せしめ,徳王自身の如きは政府所在地,徳化を捨て多倫に避難する等悪戦苦闘を続けつつも,克く関東軍の兵力集中を完全に掩護し,爾後の攻勢作戦を容易ならしめたり。
五、
 同年8月21日,関東軍の攻勢に転ずるや,日蒙両軍の協同作戦を容易ならしむるため,蒙古軍の統帥権を関東軍司令官に委し,内蒙軍は或いは日本軍の側面を掩護し,或いは道案内となり時には一方面の戦闘を担任し進んで敵の背後攻撃に任ずる等終始協同作戦の実を挙げ,また徳王自らも手兵を率い,西ソニト・シラムレン廟ー烏蘭花(ウランカ)ー百霊廟(パイリンミヤオ)道を西進し,各地に支那側を撃破し,また日本軍の綏遠及び包頭攻撃に際しては,その北方山地方面より敵の背後を攻撃し同地の攻略を容易ならしめたり。
六、
 昭和12年10月27日,厚和に蒙古連盟自治政府成立するや,徳王はその首班となり,日本帝国の方針に基づき政治,軍事等絶対親日,防共の精神をもって之を指導し,終始一貫克く日本の対支膺懲(ようちょう)戦に協力せり。

以上を総合しその功績最も顕著なり。

李守信 勲二等瑞宝章 受章理由
一、
 昭和10(1935)年12月,李守信は関東軍の命を奉じ,数年間,熱河省境を窺える宋哲元を駆逐するため,察東警備軍及び保安隊を率い,12月9日,多倫を出発し先づ一部をもって,沽源の敵を攻撃せしめ主力をもって宝昌を攻略し,爾後主力をもって沽源を攻略して西進し一部を康保方面に前進せしむ。
 爾後,適当なる作戦指導に依り敵を西南に迫撃し,12月30日,遂に張北を占領し,土肥原・秦徳純協定成立を容易ならしめたり。
 その後,李守信は徳王と合作し,2月10日,徳化に内蒙古軍政府成立するや,李守信は専ら軍事を掌り(つかさどり),察哈爾盟(チャハル盟)内の治安を確保し,もって満洲国西境を安固ならしめたると共に,日本勢力の西進を容易ならしめたり。
二、
 昭和11(1936)年10月に於いては,抗日傅作義軍の挑戦に対し,之を旧綏遠(旧すいえん)省より駆逐する目的をもって全内蒙古を動員し,王英の指揮する謀略部隊と共に綏遠軍を攻撃せるも成功するに到らずして中止せり。
 然れども本事変に於いて綏遠省内にある支那側の編制,装備,戦力,陣地設備の状況,地形,民意の動嚮等判明し,今次支那事変に於ける貴重なる対支作戦資料を提供せり。
三、
 昭和12(1937)年8月,支那事変愈々(いよいよ)拡大し,関東軍に於いてはその一部を張北付近に集中せんとするや,綏遠及び張家口付近にありし支那側は之を妨害せんとし,続々察哈爾盟内に侵入せり。
 是の時に於いて李守信は,関東軍司令官の指揮下にありて内蒙軍を指揮し一部をもって南方支那軍に対せしめ,自ら主力を率い,西方旧綏遠省方面の支那軍に対し,商都,尚義,徳化,南壕塹等到るところに苦戦転戦し,寡をもって衆敵を支え,もって関東軍の兵力集中を完全に掩護し,爾後の攻勢作戦を容易ならしめたり。
四、
 同年8月21日,関東軍の攻勢に転ずるや,内蒙軍は保安隊をして張家口方面の日本軍に協力せしめ,また一部をもって日本軍の右翼を掩護し,李守信は自ら主力を率い,日本軍の後方を掩護しつつ,尚義,商都方面の敵を撃破して,平地泉方面に前進し,日本軍に協力して之を北方より包囲攻撃し,9月20日,之を占領せり。
 爾後,日本軍の西進に伴い内蒙軍は主として京綏線北側地区を西進し,綏遠,包頭の攻撃に参加し,之が占領に與って功績あり。
 その後,蒙軍総司令部を包頭に進め,五原方面の敵に対し日本軍の翼側を掩護せり。
五、
 昭和12(1937)年10月27日,厚和に蒙古連盟自治政府成立するや蒙古軍総司令となり。次て昭和13(1938)年1月14日,新たに駐蒙兵団設置せらるるや日本軍司令官の指揮下にありて,主として西方五原ならびに黄河右岸地区にある敵に対し,寡兵をもって克く日本軍の側背を掩護し,或は直接戦闘に協力して作戦上多大の貢献をなし,また領域内治安の維持確保に任じ,日本軍の作戦目的達成に多大の寄与をなせり。

以上を総合しその功績最も顕著なり。



東京で弁護士をしています。ホーチミン市で日越関係強化のための会社を経営しています。日本のことベトナムのこと郷土福島県のこと,法律や歴史のこと,そしてそれらが関連し合うことを書いています。どうぞよろしくお願いいたします。