令和に蘇る南モンゴルと日本の密接な関係
南モンゴルの地政学
南モンゴルを支援する議員連盟
髙市早苗衆議院議員が会長を務め,自民党議員有志によって令和3(2021)年4月21日に発足したのが「南モンゴルを支援する議員連盟」。
中華人民共和国にあって同国が「内政問題」と主張する南モンゴルの問題を,「なぜ」日本の国会議委員が支援するのか。
南と北のモンゴルは天と地
南モンゴルは,今の中華人民共和国では「内モンゴル自治区」とされ,その内実は外部に漏れる程度だが,自治とは名ばかりの支配が行われている。1960年代の文化大革命時をピークとして,南モンゴル(内モンゴル自治区)については,現在の新疆ウイグル自治区と比較しても,中国共産党による苛烈な民族弾圧が間断なく行われ,現在でもモンゴル語教育を禁じるなどの同化政策が強制されている。これは,戦前,日本に協力していたことが理由の一つとも言われている。
日本人が思い描く”モンゴル”は,横綱朝青龍などを輩出し,ウランバートルを首都とする現在のモンゴル国かと思う。そこは北(外)モンゴルと呼ばれた地域で,本稿の対象である南(内)モンゴルとは異なるが,民族は同一である。”北(外)”のモンゴル国は,平成4(1992)年2月13日,民主化とともに国名をそう変えたが,それまではモンゴル人民共和国と称する共産主義の国で,大正13(1924)年11月26日,ソ連の工作により中華民国から分離独立して成立している。
要するに,日本が満洲に進出し,”モンゴル”と隣接することになる1930年代,モンゴルは既に南北に分かれていた。
独立への歴史と弾圧
漢民族による明王朝は,南モンゴルを含む”モンゴル”を併合するどころではなく,首都北京の周囲に長城を築いて国境を高くして,むしろ蒙古の襲来を恐れた。ところが,満洲にて女真族が興した清王朝は,弱体化したモンゴル民族を支配下に置き,”モンゴル”を自領化した。モンゴル民族は,清朝滅亡後も,漢民族(中華民国)にそのまま支配されていた。
北モンゴルは,ソ連の支援を受け,曲がりなりにも漢民族から独立したモンゴル人民共和国を樹立(1924年),隣の満洲も,日本の支援で曲がりなりにも漢民族から独立した満洲国を樹立した(1932年)。
必然,南モンゴルでも中国からの独立の機運が高まった。そして,独立を目指すにあたり頼ったのは,ソ連ではなく,日本だった。
本稿では,この日本と南モンゴルとの意外に深い関係,すなわち,日本はソ連や中国共産党など「防共」のために南モンゴルを利用し,南モンゴルは中国からの独立するために日本を利用する関係を記する。しかし,この深い関係こそが,新疆ウイグル自治区のジェノサイドと勝るとも劣らない,南モンゴルでの民族弾圧の遠因になったと言われる。とりわけ1960年代の文化大革命時,「日帝に協力した」南モンゴル人に対する粛清が行われた。現在でも,中国共産党によりモンゴル語教育を禁じるなどの同化政策が強制されているそうだ。
「蒙疆」とは
戦前の日本は,「南モンゴル(内モンゴル自治区)」の,さらにその西半分を「蒙疆」と呼んでいた。
これに対し,南モンゴルの東半分については,その東側は満洲国の領土となり(1932年),西側には,昭和10(1935)年11月25日,中華民国(蒋介石政権)から独立した冀東防共自治政府が成立していた。
冀東防共自治政府の代表である殷汝耕は,日本に留学し,早稲田大学政治学科を卒後,日本人と結婚している。この経歴から分かるように,日本の後ろ盾をもって成立した親日的な政権である。冀東防共自治政府は,昭和13(1938)年2月1日,日本占領下の北京に成立した中華民国臨時政府に吸収され,中華民国臨時政府も昭和15(1940)年3月30日に成立した中華民国国民政府(南京政府/汪兆銘政権)に合流することになる。
要するに,戦前の日本は,南モンゴル東側は,満洲国と中華民国(汪兆銘政権)を通じてその影響下に置き,南モンゴル西側については,「蒙疆」と呼んで,独立か自治かその政治体制を模索することになる。
参考までに,写真の地図は1940年頃の中国・南蒙古・満洲の位置関係を示したもの(毎日頭條から引用)。中国のプロパガンダ系サイトなので,偽満洲国など全ての国・政府に「偽」が冠されている。
青色部分が蒙疆(蒙古連合自治政府)
黄色部分は中華民国南京政府(汪兆銘政権)
橙色部分は満洲国
重慶にある中華民国国旗が日本と交戦した蒋介石政権
満洲事変
独立運動への端緒
日本とモンゴルの直接の関わりは,満洲事変に遡る。
昭和6(1931)年9月18日,満洲事変が勃発し,昭和7(1932)年3月1日,満洲国の建国が宣言される。
その間及び前後については,下記の記事をご参照。
塘沽停戦協定
昭和8(1933)年5月31日,日本軍(関東軍)と国民党軍(蒋介石軍)との間で,塘沽において満洲事変の停戦に関する協定が締結された。
これにより万里の長城(長城線)が満洲国と中華民国との国境となった。
長城線の南から「延慶,昌平,高麗営,順義,通州,香河,宝坻,林亭口,寧河,蘆台を通する線」までの間は,非武装地帯とされ,中国軍は兵を退いた(1項)。
梅津美治郎・何應欽協定
昭和10(1935)年6月10日,天津の日本租界で発生した親日的な新聞社の中国人社長二人が殺害された事件をきっかけに,日本軍(支那駐屯軍司令官)と国民党軍(蒋介石軍)との間で,下記内容の梅津美治郎・何應欽協定が締結された。
当該協定では,河北省から国民党と国民党軍(蒋介石軍)が撤退すべきことが合意されている。
これにより,上記の塘沽停戦協定と合わせると,北京や天津を含む河北省から,国民党党部と国民党軍が消えた。河北省は万里の長城を挟んで南モンゴルに接している。南モンゴルから見ると,南方に中国勢力の空白地ができたことになる。
土肥原・奏徳純協定
昭和10(1935)年6月27日,察哈爾省の張北で発生した日本軍の特務員機関員が国民党軍から凌辱を受けるという事件をきっかけに,日本軍(関東軍)と国民党軍(蒋介石軍)との間で,土肥原・奏徳純協定が締結された。
当該協定により,察哈爾省からも蒋介石の国民党軍が消えた。
察哈爾省は南モンゴルの西側半分を占めており,南方に加え西方に国民党軍の空白地ができた。
蒙古軍と関東軍との相互利用関係
塘沽停戦協定,梅津美治郎・何應欽協定及び土肥原・奏徳純協定により,南モンゴルの周囲から,仇敵の中国軍が姿を消した。
この日本軍の進出の過程では,南モンゴル人が陰に陽に力を貸していた。日本は南モンゴル人を利用し,南モンゴルは悲願の中国からの独立のため,”北”がソ連に頼ったのに対し,”南”は新たにやって来た姿形が自分と似ている日本人を利用する道を選んだ。
この際の南モンゴルにおける政治面での代表がチンギスハーンの直系子孫の徳王(徳穆楚克棟魯普/デムチュクドンロブ)。軍事面での代表がモンゴル人の李守信。両名とも,昭和13(1938)年10月21日,天皇に拝謁し,徳王は勲一等旭日大綬章を,李守信は勲二等瑞宝章を受章しているが,満洲事変後の彼らの日本に対する協力については,本稿の末尾に掲載したその受章理由に詳しい。
蒙古軍政府の樹立
中国軍が周囲から姿を消したこの機を受けて,徳王と李守信は,昭和11(1936)年5月12日,南モンゴル(西部)に蒙古軍政府を樹立することに成功する。
こうして南モンゴルの中国からの独立への第一歩が始まった。
支那事変後
盧溝橋事件
昭和12(1937)年7月7日,北京市内で盧溝橋事件が発生,当該事件の当事者は北京市に駐屯していた支那駐屯軍だが,これに乗じて満洲国から関東軍が「蒙彊」に進出してきた。
関東軍,時の参謀長は東條英機中将。
察南自治政府・晋北自治政府・蒙古連盟自治政府の成立
昭和12(1937)年8月27日,関東軍は察哈爾省の張家口を占領。同年9月4日,張家口に察南自治政府を成立させる。ただし漢人が中心の政府。「察」は察哈爾(チャハル)のこと。
昭和12(1937)年9月13日,関東軍は山西省の大同を占領。同年10月15日,大同に晋北自治政府を成立させる。やはり漢人が中心の政府。「晋」は山西省の古称。
昭和12(1937)年10月17日,関東軍は察哈爾省の包頭まで占領。南モンゴルのほぼ西半分を占領するに至り,同月28日,徳王及び李守信は,厚和(現フフホト)において,新たに蒙古連盟自治政府を樹立した。
こうして支那事変が始まって間もなくして,南モンゴル(蒙疆)には,いずれも日本を後ろ盾とする三つの自治政府が成立し,併存した。
蒙疆への日本軍駐留の法的根拠
蒙彊連合委員会の設立と関東軍への駐軍要請
昭和12(1937)年11月22日,察南自治政府,晋北自治政府及び蒙古連盟自治政府の三自治政府の利害関係を調整して活動の円滑化を図るため,蒙疆連合委員会が設立された。
同日,さっそく蒙疆連合委員会は,関東軍司令官植田謙吉に対し,下掲の蒙疆連合委員会設定に際し蒙疆連合委員会と関東軍司令官との秘密交換公文をもって全6項からなる要望を提示,同月25日,同司令官がこれを了承している。
このうち第5項は,以下のとおりであり,蒙疆連合委員会が日本軍に対して駐兵を希望し,財政状況により経費も負担する旨が規定されている。
関東軍から駐蒙兵団(駐蒙軍)への承継
昭和12(1937)年12月27日,関東軍に代わり蒙疆に駐屯する軍として,張家口にて新たに駐蒙兵団が編成される。
これを受け,関東軍司令官植田謙吉は,同月30日,蒙疆連合委員会に対し,下掲の駐蒙兵団設置に際し関東軍司令官と蒙疆連合委員会との交換公文をもって全5項からなる要望を提示した。同日,蒙疆連合委員会は,「貴軍司令官に対すると同様,駐蒙兵団司令官にも斉しく信頼しその指導を受くべく,爰(ここ)に確約仕候」と返答している。
このうち第1項では,前記同年11月22日付け関東軍と蒙疆連合委員会間の交換公文の内容が,駐蒙兵団と蒙疆連合委員会との間に承継される旨が規定されている。これより,関東軍に代わって駐蒙兵団が,蒙疆連合委員会の要請を受けた形で,蒙疆に駐屯することになった。
モンゴル軍は日本軍の指揮下へ
昭和13(1938)年1月14日,蒙古連盟自治政府副主席としての徳王と蒙古軍総司令の李守信は,連名にて蒙古軍の統帥に関する駐蒙兵団と蒙古連盟自治政府との交換公文をもって,駐蒙兵団司令官蓮沼蕃(しげる)に対し,駐兵に止まらず,以下のように蒙古軍を日本軍(駐蒙兵団)の統帥下(指揮下)に置くこと等を要請し,同日,駐蒙兵団司令官蓮沼蕃がこれを諒承した。
駐蒙兵団から駐蒙軍への改組
昭和13(1938)年7月4日,駐蒙兵団は駐蒙軍に改組される。
内地から遠く離れた蒙疆の地に於いて,昭和20(1945)年8月15日,玉音放送を聞くことになるのは,この駐蒙軍である。
駐蒙軍は,関東軍の傘下ではなく,別系統の支那派遣軍ー北支那方面軍に属していた。そのため,戦後,満洲において早々に武装放棄に応じ,自身や在留邦人に惨禍を招いた関東軍とは真逆に,駐蒙軍は,武装放棄を拒否して侵攻するソ連軍と抗戦,結果,約4万人の在留邦人を護ることになる。
駐蒙軍による蒙疆進駐の方針
政治主導だった蒙疆の方針
関東軍は,蒙疆から離れて満洲に戻り,本来の目的であるソ連に相対する。実際,昭和14(1939)年5月11日からノモンハン事件が発生,ソ連軍と抗戦状態に入る。
この後の日本の南モンゴルへの対応については,戦後の定説では「関東軍の暴走」とされるが,むしろ政治主導である。そもそも関東軍は駐兵の役割を駐蒙軍に代わり,既に蒙疆を離れて,本来の満洲に戻っている。
そして,その日本政府内では,南モンゴル(蒙疆)について,南モンゴル人の願望を汲み独立まで認めるべくとする論と,高度な自治に止めるべきという論があった。
ここで言う「独立」や「高度自治」とは,日本との関係(だけ)ではなく,むしろ中華民国(漢人)との関係で論じられている点に特徴がある。
対蒙政策要綱〜自治か独立か
昭和13(1938)年10月1日,外務省の企画委員会書記局は「対蒙政策要綱」を取り纏めた。
結論,「内蒙古独立論」に配慮しながら,完全な独立ではなく,内政上の自主権を与え支那連邦の一構成員とすべしとしている。
対蒙政策要綱は,続いて「内政上の自主権」と「支那連邦の一構成員」を実現する措置として,次の提案をしている。
対蒙政策要綱には,参考資料としてその反対論に相当する「内蒙古独立に関する件」(蒙古独立論者の要旨)が添付されているが,これは下掲のものである。
御前会議による日支新関係調整方針の決定
昭和13(1938)年11月28日,下記の日支新関係調整方針(含む別紙「要項」)が五相会議で,さらに同月30日に御前会議にて,それぞれ決定された。
同年1月18日,近衛内閣は,南京陥落を受け重慶に逃れた蒋介石政権に対し「帝国政府は爾後国民政府を対手とせず」という方針を示していた。他方,南京政府(汪兆銘政権)が成立するのは,未来の昭和15(1940)年3月30日であり,この当時,汪兆銘自身まだ蒋介石とともに重慶にいた。
その意味で,この日支新関係調整方針が決定された時点では,肝心の調整相手として日本が認める政権が,中国には未だ存在せずという状況であった。
この状況下で蒙疆は,独立した国家ではないものの,中国における高度の自治区域とされた。加えて,ソ連,外モンゴル(モンゴル人民共和国)さらには中国共産党という共産主義勢力に隣接するという地理的要因から,中国及び満洲国とともに,「防共」という当時の日本の最重要課題を担わされることになった。
なお,この方針・要項は,「極秘」として外面を装う必要ないものであるが,その中からは,中国や南モンゴルを「植民地」と位置付けて支配・搾取しようという意図は,読み取れないように思える。
興亜院と蒙疆連絡部
興亜院の設置
昭和13(1938)年12月15日,近衛内閣のもと,興亜院官制(昭和13年勅令第758号)が公布され,後の大東亜省の前身である興亜院が設置された。
興亜院官制第1条は興亜院が行う事務が規定されている。日本の後ろ盾により中国内に樹立された各自治政府に対する政治,経済及び文化の面からのサポートである。
同20条は,その現地に「連絡部」を置く旨が規定されている。
張家口に蒙疆連絡部
興亜院官制第20条に基づき,華北(北京,青島に出張所),華中(上海),厦門,そして蒙疆(張家口)に,連絡部が置かれた。
張家口に置かれたのが蒙彊連絡部である。
興亜院と戦後親中派
宏池会,その旗揚げ時の幹部にして,後に内閣総理大臣となる大平正芳は,若き大蔵官僚時代の昭和14(1939)年6月から昭和15(1940)年10月まで,蒙疆連絡部の経済課主任(後に課長)として張家口に赴任していた。
大平の政治的盟友となる伊東正義も,同じ時期に農林省から興亜院に出向,華中連絡部(上海)に赴任しており,当時,張家口と上海との間で交流があった。伊東正義は福島県会津若松市出身の衆議院議員。会津中学(現在の会津高校)在学時,旧会津藩士にて東京帝国大学の山川健太郎博士の講演に感銘を受け,東京帝国大学を目指す。同大学入学・卒業後,農林省に入省,後に政界へ進出した。
大平正芳は,昭和47(1972)年9月29日,田中角栄内閣の外務大臣として,田中首相ともに中華人民共和国を訪問,同国との間で「日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明」を取り交わし,アメリカよりも早く国交を樹立する。その副作用として,台湾を国際社会から排除することになる。
昭和54(1979)年11月9日に発足した第二次大平内閣は,首相の大平正芳(大蔵省から蒙彊連絡部),内閣官房長官の伊東正義(農林省から華中連絡部),外務大臣の大来佐武郎(逓信省から華北連絡部),通産大臣の佐々木義武(満鉄から華北連絡部)と,興亜院出身の同僚同士が多く入閣したため,”興亜院内閣”と揶揄された。大来佐武郎は民間からの入閣だったが,大平正芳,伊東正義及び佐々木義武はいずれも,宏池会(現会長は岸田文雄氏)に属している。
平成元(1989)年6月4日,中華人民共和国において,天安門事件が発生する。中国共産党は,世界の非難を浴び,制裁を受けて孤立化を深めていた。事件から3ヶ月後の同年9月17日,当時,自民党総務会長にして日中友好議員連盟の会長を務めていた伊東正義を団長とする超党派訪中団が中華人民共和国を訪問し,李鵬首相,江沢民総書記,鄧小平らと会談,その3年後に天皇訪中が行われるなど,中国共産党を国際的孤立化から助け,現在の体制へと育てる大きな原因となる。
当時の資料からも明らかなように,戦前戦中の日本は,ソ連や中国共産党などの共産主義勢力に対する「防共」が日本の最重要課題であり,かつそれが正しい方針だったことはその後の歴史が証明しているのだが,なぜか戦後の教科書でこの点が触れられることはない。
蒙疆三つの自治政府の統一
蒙疆統一政権設立要綱の閣議決定
興亜院は,昭和14(1939)年7月28日,以下の内容の蒙疆統一政権設立要綱を会議決定。同年8月4日,近衛文麿内閣はこれを閣議決定している。
三自治政府を統合した統一政権としての蒙古連合自治政府の樹立を企図するものだが,高度の自治制を敷き,新日・防共・民生向上を施政の綱領とするなど,政府の基本方針が示された。
蒙古連合自治政府への統合
この要綱を前提に,昭和14(1939)9月1日,蒙疆連合委員会と三自治政府を統合した統一政権として,蒙古連合自治政府が成立する。「連盟」ではなく「連合」である。
蒙古連合自治政府の主席には,蒙古連盟自治政府主席の徳王が就いた。蒙古軍の司令官にも引き続き李守信が就いた。
首都は張家口に置いた。ちなみに南モンゴル の首都だった張家口は,昭和27(1952)年11月25日,中国共産党により,内モンゴル自治区から切り離され,漢民族の地たる河北省に編入されてしまう。令和4(2022)年2月4日から開催される(予定の)北京冬季五輪では,スキージャンプ,クロスカントリー及びスノーボードなどの競技会場となっている。
前掲の交換公文に使われているが,年号は引き続きチンギスハーン生誕を紀元とする成吉汗紀元が用いられた。
中国内の自治政府ではあるが,下掲の組織表を見る限り,独立国家としての統治機構は備えていたとも言える。
李守信・汪兆銘会談
昭和15(1940)年1月24日から同月26日まで,青島(チンタオ)にて,中国の各”政府”首脳が集った会談が行われた。
これは,同年3月30日の中華民国(新)国民政府(南京政府/汪兆銘政権)の成立に向け,その代表汪兆銘と,昭和12(1937)年12月14日に成立した中華民国臨時政府(北京や天津を管轄)代表王克敏と,昭和13(1938)年3月28日に成立した中華民国維新政府(上海や南京が管轄)代表梁鴻志の三者が青島に集って行われた会談である。
この青島会談では,中華民国臨時政府と中華民国維新政府は,新しく成立する中華民国南京政府(汪兆銘政権)に合流,同政府に統合されることが合意されている。
汪兆銘の青島訪問に合わせ,李守信は蒙古連合自治政府を代表して青島を訪れた。李守信は,青島会談前日の昭和15(1940)年1月22日,日本側の梅機関(影佐禎昭大佐を長として汪兆銘政権樹立を計画した特務機関)と会談を行い,続いて翌23日,汪兆銘と会談している。
汪兆銘との会談では,新中華民国からの独立を獲得するには至らなかったが,そうかと言って吸収統合されることはなく,蒙古連合自治政府について,日本が方針とした「高度な自治制」が約束された。
「蒙古自治邦」の発布
一般に独立した国家は,支配地域(領土)を有し,日本国や満洲国のような国号を有する。
徳王と李守信は,これまでの「・・政府」ではなく,南モンゴル西部を支配地域とした国号に相当するものを欲した。それまでは日本式の「蒙疆」という地域を表現する名称があるだけだった。
徳王らは,「・・・国」と号することを望んだが,中華民国(汪兆銘政権)への配慮から,妥協的なところで「国」ではなく「邦」をつけ,「蒙古自治邦」とした。漢字の「国」や「邦」も,モンゴル語では同じ「ULUS(ウルス)」らしく,少なくともモンゴル人の間では歓迎された。
日本側は,このモンゴル名称問題のタイトルを「蒙疆高度自治区域の名称に関する件」とし,検討していた。
昭和16(1941)年4月5日,陸軍次官阿南惟幾中将は,駐蒙軍参謀長高橋茂寿慶少将に対し,「蒙疆の高度自治区域の名称に関し別紙第一の如く決定せられしに付き,別紙第二の要領に基づき処理せられたし通牒す」とする陸支密第969号を発した。
陸支密第969号にて引用されている別紙第一は,前日の昭和16(1941)年4月4日に行われた興亜院の以下の会議決定である。
興亜院の決定を受け,陸軍中央が決定した内容を記した別紙第二が以下の「蒙疆自治邦に関する件」である。
陸軍中央は「蒙古自治邦」の名称使用を黙認することとした。ただし,対外的に使用することについては,中華民国南京政府(汪兆銘政権)に配慮し,保留とした。
同じ年(昭和16年/1941年)の7月5日に至り,現場で徳王や李守信らと接する駐蒙軍(戊集団)の参謀長高橋茂寿慶少将は,電報(戊集参電第558号)をもって陸軍次官木村兵太郎中将に対し,以下の理由等で「蒙古自治政邦」の名称を設定するべきであることを意見した。
これに対し,昭和16(1941)年7月7日,陸軍次官木村兵太郎中将は,次のように回答し,前出の陸支密第969号のとおり,「蒙古自治邦」の対外的な使用については,引き続き保留とした。
蒙古連合自治政府は,これらを踏まえ,昭和16(1941)年8月4日,「蒙古自治邦」を発布,つまり内部的に発表するに至った。対外的に公布しなかったのは,以上に述べた陸軍中央の方針に従ったもの。
「蒙古自治邦」発布に対する各民族の反響
「蒙古自治邦」の宣言が内部での発表(発布)にとどまったものの,日本もその反響が気になったのか,陸軍次官木村兵太郎中将は,現地の駐蒙軍(戊集団)参謀長高橋茂寿慶少将に,昭和16(1941)年9月1日付で「蒙古自治邦発布に対する反響に関する件」を報告させている。
その内容は下記のとおりであるが,日本人,蒙古人,漢人,回民(イスラム教徒)及び白系ロシア人という民族ごとの反響を取り纏めたもの。蒙古人はもちろん日本人にも好評ではあるが,漢人が否定的であることが,この問題の本質を物語っている。
このように漸次前進していた南モンゴル(蒙疆)の中国からの独立であるが,しかしながら,この時がピークとなる。戦後,むしろ逆行し,現在に至るまで中国共産党の支配が続いているが,この事態は,「防共」に協力した当時の徳王らからすると実は何より恐れていたことかもしれない。
蒙疆の戦後
最後の駐蒙軍司令官根本博中将
昭和16(1941)年12月8日以降,日本はアメリカやイギリスらとの戦争に突入する。
蒙疆すなわち南モンゴルに駐屯していたのは,駐蒙軍,昭和19(1944)年11月22日,その司令官に親補されたのが,根本博中将。
根本博中将は,昭和14(1939)年3月10日,興亜院華北連絡部の次長に就くなど(それだけではないが),陸軍きっての中国通として知られた。
昭和20(1945)年8月9日,ソ連軍は,日ソ不可侵条約を一方的に破棄して日本に宣戦布告,満洲だけでなく,ここ蒙疆にも侵攻し,同月13日には,蒙古自治邦の首都である張家口の近くまで迫った。
蒙疆においては,内地と違って人命の危機が差し迫った正にその時に,玉音放送が終戦を告げた。
隣の満洲関東軍は,直ちに武装解除に応じ,ソ連と戦うことはなかった。結果,シベリアに抑留された軍人だけでなく,満洲に居留する日本人にもソ連軍による暴行略奪の悲劇をもたらした。さらには,放棄した武器が中国共産党軍(八路軍)に渡り,戦後,八路軍が国民党軍を圧倒し,中華人民共和国が成立する原因を作ってしまった。
関東軍と違って,駐蒙軍司令官の根本博中将は,武装解除を拒否。支那派遣軍総司令官岡村寧次からの再三に渡る武装解除命令にも応じず,侵攻するソ連軍に対し徹底抗戦した。
昭和20(1945)年8月20日まで抗戦を続け,その間,約4万人の蒙疆在留日本人を列車にて北京まで退避させることに成功,それを見届けた駐蒙軍は,同日,張家口からの撤退を開始した。
北京や天津などに滞在していた日本人を含め,無事に日本に帰国させることができた根本博については,別な機会に記してみたい。
戦後の徳王と李守信
徳王と李守信は,根本博司令官と話し合った結果,昭和20(1945)年8月19日,日本居留民とともに列車で張家口を離れ,同月21日,北京に着いた。
二人は,戦後,蒋介石に請われ国民党軍に協力し,その中から南モンゴル独立を目指した。
徳王と李守信の運命が激変したのは,日本の敗戦ではなく,国民党軍が台湾に敗退し,昭和24(1949)年10月1日に中国共産党による中華人民共和国が建国されてからである。
徳王と李守信は,外モンゴル(モンゴル人民共和国)に亡命していたが,1950年9月,同民族に裏切られる形で逮捕され,中華人民共和国に身柄が引き渡された。
中華人民共和国では,戦犯として禁固刑と思想改造受け,徳王は1963年,李守信は1964年に特赦で釈放されるまで収監されていた。
叙勲とその理由
徳王と李守信は,昭和13(1938)年10月と,昭和16(1941)年2月の二度来日している。
一回目の来日時,昭和13(1938)年10月21日,二人は天皇に拝謁し,徳王は勲一等旭日大綬章を,李守信は勲二等瑞宝章をそれぞれ受章している。
後掲する二人の受章理由が,実は満洲国成立以後の南モンゴル(蒙疆)と日本との協力関係の事実を知る,意外にも最良の資料。よく読むと,満洲国や汪兆銘政権と比較し,南モンゴルと日本とは中国に対し共闘したという印象が強く残る。
ところで,昭和15(1940)年9月4日,日蒙双方にとって不幸な事故が起きていた。
幕末最後の輪王寺宮にして,明治28(1895)年,台湾征討近衛師団長として出征中に台南で亡くなった北白川宮能久親王の孫,北白川宮永久王が,昭和15(1940)年6月17日から駐蒙軍の参謀として張家口に赴任していた。この永久王が,同年9月4日,訓練中に不時着した戦闘機に巻き込まれ,永久王が亡くなるという悲劇が張家口で起きた。
徳王と李守信は,昭和16(1941)年2月,二回目の来日をしている。同月16日,近衛首相に「蒙古建国促進案」を提出し,南モンゴルを「国」として中国から完全に独立することへ,引き続き支援を求めるなどした。その前日の2月15日,徳王と李守信は,高輪の北白川宮邸に永久王の母親(明治天皇の第七皇女)を見舞っている。二人は,昭和天皇の従兄弟にあたる永久王までが「モンゴルのために殉職したこと」に心を痛めただけでなく,本心からの敬意を表したかったそうだ。
東京で弁護士をしています。ホーチミン市で日越関係強化のための会社を経営しています。日本のことベトナムのこと郷土福島県のこと,法律や歴史のこと,そしてそれらが関連し合うことを書いています。どうぞよろしくお願いいたします。