戦後なき”若松連隊”
若松連隊こと歩兵第29連隊
ベトナム語のポスターを貼るのは日本兵
写真は,既に”戦後”となっていた昭和20年(1945)9月,ベトナム南部サイゴンに”戦勝国”として進駐してきたイギリス軍グレイシー少将の最初の声明を,英語,仏語及びベトナム語で記したポスターをサイゴン市内に掲示する日本兵の姿。
当時,グレイシー少将の命令を受け,サイゴン市内の治安維持にあたっていたのは,福島県出身者で編成されていた陸軍第二師団隷下の歩兵第29連隊だった。
戦後,歩兵第29連隊の中には,これら連合国軍による”兵役”後に復員した者だけでなく,”BC級戦犯”の容疑でサイゴンで裁判に服した者,そしてベトナム軍に加わりフランスからの独立戦争に協力した者がいた。
第二師団隷下の”若松連隊”
旧陸軍第二師団は,仙台に司令部を置き宮城県,福島県及び新潟県3県の出身者の兵卒で構成されていた。
当時の陸軍(歩兵第29連隊を例)の編成は,大から小へ順に,南方軍,第38軍(印度支那駐屯軍),第二師団,(歩兵第29)連隊,大隊,中隊,小隊となっていた。第二師団隷下の歩兵連隊には,歩兵第29連隊のほか,歩兵第4連隊(宮城県仙台)と歩兵第16連隊(新潟県新発田)があった。第二師団には,これら歩兵連隊のほかに,砲兵連隊(野砲兵第二連隊),工兵連隊(工兵第二連隊)や捜索連隊(捜索第二連隊)などが所属していた。
歩兵第29連隊は,福島県の会津若松を拠点としている。そのため,殆どが福島県内の出身者で構成され,”若松連隊”と呼ばれていた。
満洲→ガ島→ビルマ
満洲事変の主力として
昭和6(1931)年9月18日午後10時25分,奉天駅から北に僅か7.5kmの柳条湖(当時は「柳條溝」と書いた。)付近で,関東軍が守備する南満洲鉄道の線路が爆破された。
この爆破事件を首謀したのは,関東軍高級参謀の板垣征四郎大佐と,関東軍作戦主任参謀の石原莞爾中佐と言われる。
当時,その奉天に駐屯していたのは,関東軍隷下の独立守備隊第二大隊と,関東軍の指揮下に入れられた歩兵第二十九連隊(若松連隊)の合計約1万1000人。このうち線路爆破を実行したのは,”地元”の独立守備隊第二大隊の一部の兵と言われている。”他所者”の若松連隊は真実を知ることはなかった。
事件発生直後,板垣征四郎参謀は,独立守備第二大隊に対しては北大営の攻撃を命じ,さらに若松連隊に対しては奉天城の攻撃を命じた。北大営は柳条湖付近にあり張学良軍閥の兵営があった。奉天城には張学良軍の司令部(張学良は北京にいて不在)があった。
奉天は,張作霖・張学良軍閥が「奉天派」と言われるようにその牙城にして,満洲の政治経済の要の地。日露戦争において最後の大会戦が行われた日本軍因縁の地。歩兵第二十九連隊(若松連隊)は,翌日には奉天城を攻略,緒戦にてその奉天を占領したことが,少ない兵力にも関わらず約6ヶ月の短期間で満洲全域を占領することに貢献したと言われる。
なお,詳細は下掲の拙稿を。
雪の会津若松から南方ジャワ島へ
満州から戻り英気を養っていた”若松連隊”が,南方遠征への出征のため(会津)若松駅を発ったのは,米英開戦直前の昭和16年(1941)12月1日。翌17年(1942)1月19日,広島の宇品港を出港。
台湾高雄に寄港後,歩兵第29連隊を含む第二師団がフランス領ベトナムのカムラン湾に集結したのは,昭和17年(1942)2月10日。ベトナム中部にあるカムラン湾は,明治38年(1905)4月14日,ロシアのバルチック艦隊が立寄り,約1ヶ月の停泊後,日本海海戦へと向かった同艦隊最後の寄港地。
そのカムラン湾で第二師団はジャワ攻略の命令を受け,56隻の大船団を組み,昭和17年(1942)2月18日,カムラン湾を出港,ジャワ島を目指す。
同年3月1日,ジャワ島に上陸,ジャワ島攻略戦及び同島警備にあたる。
ガダルカナル島奪還作戦
米軍に奪われたガダルカナル島(ガ島)の奪還作戦の主力に選ばれたのが第二師団。
その隷下の歩兵第29連隊(若松連隊)は,昭和17年(1942)9月17日,九州丸(8,660トン)に乗船してジャワ島を出航,同月29日午前10時半,ニューブリテン島ラバウルに上陸する。
こうして第二師団隷下の歩兵第29連隊は,あのガダルカナル島奪還作戦に参加することになる。既に米軍に奪われていたガダルカナル島(飛行場)を奪還する作戦であり,その主力として第二師団のうち歩兵第29連隊に限っても,上陸した2,453人のうち2,153人が戦死し,全滅に近い損害を受けた。
下の写真は,若松聯隊写真集編纂委員会編「若松聯隊写真集」に掲載されたガ島における福島県出身戦死者を伝える昭和18年(1943)7月6日付け毎日新聞(福島版)記事。
マニラで再編成
昭和18年(1943)2月1日以降,歩兵第29連隊(若松連隊)は,他の連隊などと共にガ島からラバウルへの撤退を開始する。昭和18年(1943)4月20日,ラバウルを出港,同年5月10日比島マニラに上陸し,そこで郷里から兵員を補充して再編成を図る。
ビルマ(ミャンマー)転進
昭和19年(1944)3月5日,歩兵第29連隊(若松連隊)は,シンガポールを経由し,ビルマ(現在のミャンマー)に転進する。
ビルマは,当時も現在も,中国とインド洋を結ぶ位置にある。日本軍がビルマを占領するまでは,イギリスがビルマを経由して,日本と交戦状態にあった重慶の蒋介石軍へ支援物資を送り続けていた。
日本軍は,この”援蒋ルート”の遮断を目的に,米英開戦当初から英領ビルマの攻略に乗り出し,開戦直後の昭和16年(1941)12月21日に日泰攻守同盟条約を締結していた同盟国タイからビルマへ軍を進め,昭和17年(1942)3月8日,首都ラングーン(現在のヤンゴン)を占領,同年5月末までに全域を制圧し,イギリスを駆逐する。
イギリスから解放されたビルマは,昭和18年(1943)8月1日,他のアジアの国に先駆けて,日本軍が支援するアウン・サン将軍(スーチー氏の父親)を国防相,バー・モウを国家元首としてイギリスからの独立を宣言した。
しかし,昭和19年(1944)2月頃から,イギリスを中心とした連合国軍がビルマ奪還のために,英領インドとの国境付近に軍を配備。これを受け昭和19年(1944)3月8日以降,日本軍(第15軍)は,スバス・チャンドラ・ボース率いるインド国民軍との共闘である,英領インド内の英国軍の拠点”インパール”を攻撃する作戦(インパール作戦)を実行していた。
”若松連隊”をはじめとした第二師団はこれを支援するべく,ビルマに転進し,主に英領インドとビルマとの国境防衛にあたった。
雲南での米式重慶軍との死闘(龍陵会戦)
昭和19年(1944)5月11日,米軍による訓練を受け,しかも米国製兵器で武装した中華民国の雲南遠征軍(日本軍は「米式重慶軍」と呼んでいた。)15師団(兵力約18万)が,ビルマとの国境近く雲南の龍陵地区に進軍してきた。
この地を守備していた久留米の第56師団(約1万8000兵)の援軍として,ビルマに駐留していた”若松連隊”が派遣された。同年10月4日,米式重慶軍を撃退し,守備任務を再び第56師団に移譲してビルマに戻った。この激戦で,”若松連隊”は,1,802名の参戦者のうち291名の戦死者,398名の負傷者という大きな損失を出した。
”終戦”の地ベトナムへ
仏領インドシナへの転進
昭和20年(1945)1月27日,”若松連隊”を含む第二師団はビルマを出立する。映画「戦場にかける橋」で有名な泰緬(タイ=ビルマ)鉄道でビルマから南下してタイのバンコクへ移動,さらに昭和17年(1942)に日本軍が敷設したバンコク=プノンペン間の鉄道(ポル・ポト派により1976年に破壊されるが,2019年4月22日に再開通している。)を使って,仏領インドシナ(ベトナム,カンボジア及びラオス)に転進する。
歩兵第29連隊こと若松連隊は,カンボジア内,メコン川沿いの都市ストゥントレン(Stung Treng)に連隊本部を置き,昭和20年(1945)3月6日には隷下の各連隊の配備も完了した。
この当時の”若松連隊”三個大隊それぞれの大隊長は,以下のとおり。
山中第一大隊は,ベトナム南部のサイゴン(Sài Gòn)とその周辺のショロン(華僑の街,現在のホーチミン市5区)などに進駐。
原田第二大隊は,カンボジアのトレンサープ湖南岸地域コンポクナン,プルサット及びロメヤス(Romeas)などに進駐。後述するが,原田第二大隊がロメヤスに駐留し,フランス軍捕虜を管理する任務を担わされたことが,原田大隊長の”戦後”の運命を左右した。
藤木第三大隊は,ラオスのカンボジアとの国境線に沿うクラチエ,パークセー(Pakse),パクソン(Pakson)などに進駐した。
明号作戦~昭和20(1945)年3月9日
歩兵第29連隊(第二師団)がインドシナ(ベトナム,カンボジア及びラオス)に転進してきた目的は,未だにこの地を植民地として支配・管理していたフランスを完全に排除するため。
英米との開戦前の昭和15年(1940)9月22日以降,日本軍は,既にドイツに敗北していたフランスとの協定に基づいてインドシナへ進駐している。ただ,その進駐はインドシナでのフランスの主権を維持・尊重することが前提で,日仏はいわば協力関係にあった。しかし,昭和19年(1944)8月25日,パリがドイツ占領から解放されるなど,情勢がフランスに有利に転じ,徐々にフランスが非協力に変化,やがては英米軍がベトナムに上陸した際にこれに駐フランス軍が呼応して日本軍を攻撃する可能性が出てきた。
この危険を未然に取り除くべく,これまで形だけでも”協力”関係にあったフランス軍を一気に打倒しようと作戦されたのが明号作戦。
明号作戦が発動したのは昭和20年(1945)3月9日午後10時(ベトナム時間)。同じ頃の東京ではB29が降り落とすナパーム弾の雨が街を人を焼き尽くそうとしていた。
フランス軍の鎮圧はほぼ1日で完遂したが,”若松連隊”は逃亡した仏軍討伐のため,同年5月2日まで作戦行動を続行した。その間の戦死者は7名だった。ガ島,ビルマ,雲南と死地を転戦してきた”若松連隊”にとって,フランス植民地軍は自ら投降し捕虜となる者が多く,文字どおり敵ではなかった。むしろ,100年近く植民地支配を続けてきたフランス軍の意外な弱さをベトナム人に知らしめ,後のフランスからの独立戦争への躊躇を失わせた。
昭和20年(1945)3月11日,日本軍の後ろ盾を得たベトナム阮王朝のバオ・ダイ帝は,フランスからの独立を宣言し,ベトナム帝国(Đế quốc Việt Nam)を樹立した。
明号作戦後のベトナム
明号作戦後,若松連隊こと第二師団歩兵第29連隊は,連隊本部をサイゴンの北隣ビエンホア(Biên Hòa)に置き,来るべき連合国軍との戦闘に備えた。例えば,山中第一大隊は,同じ第二師団隷下の野砲第二連隊と協力して,サイゴンとショロン(当時の華僑の街で,現在のホーチミン市5区)の間に,トーチカなど防衛陣地を構築した。
明号作戦直後の”若松連隊”は,昭和42年(1967)7月1日に発刊された若松聯隊記念事業実行委員会編「若松聯隊回想録」149頁に次のように記述されているように,連合国軍の上陸作戦に備え,陣地構築だけでなく,ベトナム人自身による”保安隊”の編成や教育訓練にも努めていた。
昭和20年8月15日以降
”終戦”時
当日の様子については,若松聯隊回想録152頁以下を引用する。
この著者である歩兵第29連隊の副官を務めていた永久保豊大尉は,福島県いわき市の出身。ガダルカナル島以前からの歴戦者で,ガ島作戦時は中尉として”若松連隊”第一大隊隷下の第五中隊の中隊長として米軍が発つ弾薬の中を先頭切って中隊を指揮していた。インドシナへの転進時には歩兵第29連隊の副官を務め,三宅健太郎連隊長を補佐していた。昭和41年に若松聯隊回想録を出版した若松聯隊記念事業実行委員長で,その当時,合併による市政発足間もない福島県いわき市(三和町)の市議会議員を務めていた。地元の人によると100歳を超えるまで長命したそうだ。
戦後のイギリス進駐軍
戦後,ベトナム北部には中華民国軍が,南部にはイギリス軍が進駐した。昭和20年(1945)9月13日,仏印における英軍管区最高責任者として第20師団師団長ダグラス・グレイシー少将がサイゴンに到着する。
岩川隆著「孤島の土となるとも BC級戦犯裁判」197頁には,イギリス軍の進駐を受け日本軍は「ベトナムの独立を認めなければ事態は急変する。日本軍がおこなった明号作戦以後のベトナム政情の推移を日本側から詳細に聴取し,そのうえで接収・管理するよう勧告した」とある。
しかし,グレーシー少将は「予はインド統治30年の体験を持っている」として,敗戦国の助言を聞き入れなかったそうだ。
ベトナム独立同盟会(ベトミン)
前述のように,明号作戦実行の翌日,昭和20年(1945)3月11日,ベトナム阮王朝のバオ・ダイ帝は,フランスからの独立を宣言し,独立国としてのベトナム帝国( Đế quốc Việt Nam)を樹立している。
当時のベトナムには,これを歓迎し協力する勢力と,これに反対し日本をフランスと同視して打倒を目指す勢力があった。後者で最有力だったものが,ホーチミン首席により昭和16年(1941)5月19日に結成されたベトナム独立同盟会(Việt Nam Độc Lập Đồng Minh Hội ),いわゆるベトミンである。
チャン・ヴァン・ザウと南部抗戦
ところで,毎年9月23日は南部抗戦の日(Ngày Nam Bộ kháng chiến)という現在のベトナム記念日だが,それは以下のような”歴史”に由来する。
ベトミンは,昭和20年(1945)8月25日,ベトナム南部に南部臨時行政委員会(Ủy ban Hành chính Lâm thời Nam Bộ)を樹立,その主席にチャン・ヴァン・ザウ(Trần Văn Giàu)が付き,施政を実行しようとしていた。
昭和20年(1945)9月22日,イギリス進駐軍は,日本軍の捕虜とされていたフランス人を解放の上で再武装させ,ベトミンの武装解除など治安維持任務にあたらせた。その”フランス軍”は,その日の夜,南部臨時行政委員会の事務所,国家自衛局ならびにいくつかのその他の臨時政権の機関を武力で占領した。
同月23日,フランス軍の攻勢を受け,新たに結成された南部抗戦委員会の主席に選ばれたチャン・ヴァン・ザウ(Trần Văn Giàu)は,南部における徹底抗戦を宣言し(以下にベトナム語原文の後に日本語訳を掲載),各地でフランス軍への徹底抗戦が開始された。これらが後に「南部抗戦(Nam Bộ kháng chiến)」と評され,「9月23日」がその記念日とされた。
特に,サイゴン中心部のベンタイン市場(Chợ Bến Thành)の前で大規模な抗戦が行われた。現在のホーチミン市のベンタイン市場近くの公園(かつてのサイゴン駅の跡地)が 「9月23日公園(Công Viên 23 Tháng 9)」 との名が付けられているのは,この”歴史”に由来している。
”若松連隊”が強制されたベトミンとの交戦
ベトミンによる徹底抗戦は,やがてイギリス軍やフランス軍の手に負えなくなり,イギリス進駐軍は,あろうことか敗戦とともに”捕虜”となった日本軍に再び武器を持たせ,ベトミンの鎮圧とフランス市民の保護など,治安維持にあたらせた。
サイゴンを中心としたベトナム南部については,終戦時にその地に駐留していた”若松連隊”に白羽の矢が立った。サイゴンに進駐した連合国軍の護衛には第一大隊(大隊長は山中豊吉少佐)があたった。ダラット,ファンラン及びファンティエットなど,ベトナム中南部の海岸から山間部へ通じる街道沿いの街の警備は,第三大隊(大隊長は藤木隆太郎大尉)が担った。
こうして”敗戦”を受け入れたばかりの日本軍であったが,”勝者”の都合で敵でもないベトミンとの交戦を強いられ,ベトナムにとっても日本にとっても不幸なことに,大義なき犠牲者を出してしまう。若松聯隊回想録151頁には,この”悲憤”について,次のように記されている。
上の「NHK戦争証言アーカイブス」は,「米英蘭ソ豪仏軍と戦った」とのタイトルが付されているが,英米開戦前の満州や中華民国(徐州,昆明)から,ガ島,ビルマ,雲南(龍陵),そしてベトナムまで戦い抜いた,堺豊三郎さんに関するもの。堺氏は,福島県の会津若松出身,歩兵第29連隊(若松連隊)の速射砲隊に所属していた。
”終戦”後,サイゴンからダラット(Đà Lạt)に移動した。
ダラットは,”終戦”時に日本の南方軍総司令部があっただけでなく,ベトナムの”軽井沢”との評され,多くのフランス民間人が住んでいた。イギリス進駐軍にその治安維持を命じられたが故に,他の歩兵第29連隊と同様,ベトミンと”交戦”することになったが,それにあたった旧日本軍の内心と実態については,上記動画にある「再現テキスト(下記に掲載)」からも,察することができる。
復員した者
復員
旧日本軍の前にベトミンも鳴りを潜め,これを鎮圧と誤解したイギリス軍は,昭和21年(1946)3月までにベトナムから撤退し,フランス軍がこれを継承した。
フランスは,昭和21年(1946)3月26日,サイゴンを中心としたベトナム南部に,保護国としてのコーチシナ自治共和国(Cộng hoà Tự trị Nam Kỳ)を樹立し,再びベトナムの植民地化を目論む。しかし,承知のように,この後,独立を悲願とするベトミンとの抗争が激化していく。
コーチシナ自治共和国の樹立をもって”兵役”から解放された”若松連隊”の多くは,昭和21年(1946)4月以降,ベトナムの”聖雀(サンジャック)岬”から復員船に乗り帰国を果たす。
Cap Saint -Jacques(サンジャック岬/聖雀岬)は,サイゴンから約100キロ弱の海岸の街,現在のブンタウ(Vũng Tàu)。歩兵第29連隊の大部分は,昭和21年(1946)4月29日,このサンジャックで米国リバティ号に乗船し,同年5月9日,広島県大竹港に上陸復員している。その数は2,035名とある。
しかし,若松連隊”の戦後はこれで終わらなかった。
若松聯隊回想録に掲載された「歩兵第29聯隊行動概要」には,「現地残留者681名」とある。
ベトナムに残った者
上の写真は,ビルマからインドシナに転進する際に再編成された昭和19年(1944)12月10日時点の歩兵第29連隊の編成表。
ベトナムに残留した者の一部は,自らの意思ではなく,フランスによりBC級戦犯の容疑者として拘束され,裁かれた者である。
そして残留した者の大部分は,自らの意思により,ベトミンに軍事教官あるいは戦士として参与し,ベトナムの独立のために供にフランス軍と戦った者である。
この編成表には少尉以上の士官の名が列記されているが,このうち本稿にてこれから名が登場するのは,次の方々。
BC級戦犯として残された者
サイゴン裁判第25号法廷
”BC級戦犯”としてベトナムのサイゴンに留め置かれた一人が,”若松連隊”第二大隊長の原田久則少佐(福島県出身)である。
原田氏が大隊長を務める第二大隊は,昭和20年1月27日以降,カンボジアのロメヤス(Romeas)などに進駐し,同年3月9日実行の「明号作戦」にあたった。ロメヤスにはフランス軍の兵営があり,第二大隊はこれを攻略した。攻略後,兵営を逆に捕虜収容所として,捕虜となったフランス兵をここに収容し,原田第二大隊がここを管理していた。
下の写真は昭和9年(1934)少尉時代の原田氏。襟章に「29」とある。
原田氏の”BC級戦犯”としての容疑は,第二大隊が管理していたロメヤス収容所内で発生したフランス負傷兵に対する暴行事件に関し,責任者(大隊長)としての管理責任を問われたもの。
戦後,再びベトナムに戻ってきたフランスが新たに設けた戦犯局により拘束,サイゴン郊外のチーホア刑務所に収監される。後にサイゴン中心部のサイゴン中央刑務所に移監され,裁判の日を待つことになった。
フランスなど大陸法制の制度「予審」を経て,昭和22年(1947)12月16日に開廷(事件名は「第25号法廷」),その日のうちに禁錮4年の判決を言渡される。
未決勾留日数の算入があり,昭和24年(1949)10月12日に刑期終了し,終戦後5年の拘束を経て,ようやく故郷の福島に帰ってくることができた。
なお,「サイゴン裁判」の概要については以下の拙稿をご参照。
原田氏は,若松聯隊回想録455頁以下に掲載されているが,昭和42年(1967)11月28日に,当時の木村守江福島県知事(軍医として”若松聯隊”である第65歩兵連隊に所属。同連隊は新潟高田の第13師団隷下)も出席して行われた「若松聯隊を偲ぶ座談会」に歩兵第29連隊の代表として参加,当時アメリカ軍との戦争が世界中の注目を集めていた「ベトナム」に関して,以下の発言をしている。
なお,この発言に名が出ている永久保豊氏は,福島県いわき市の出身。ガダルカナル島以前からし,ガ島作戦時は中尉として”若松連隊”第一大隊隷下の第五中隊の中隊長を務めていた。インドシナ駐留時には歩兵第29連隊の副官となり,三宅連隊長を補佐していた(階級は大尉)。この座談会当時,若松聯隊記念事業実行委員長で,合併による市政発足間もない福島県いわき市(三和町)の市議会議員を務めており,地元の人によると100歳を超えるまで長命したそうだ。
サイゴン裁判第13号法廷
第三大隊(大隊長は藤木隆太郎大尉)は,前述のように,明号作戦に向け,カンボジアとラオスの国境線に沿うパークセー(Pakse)やパクソン(Paksong)などに進駐し,昭和20年(1945)3月9日に実行された「明号作戦」によりこの地を制圧していた。
この「明号作戦」により大量に生じたフランス軍俘虜(捕虜)を収容するための「仏印臨時俘虜収容所」がサイゴンに設置された。
加えて,来るべきアメリカ軍とゲリラ戦を想定し,ラオス南部パークセー(Pakse)にあったフランス軍の飛行場を修復し,新たに要塞陣地を構築するべく,フランス人捕虜をその労役にあてるため,パークセー(Pakse)に「仏印臨時俘虜収容所」の分所が設けられ,さらに,その分遺所が50キロほど離れたパクソン(Paksong)に設置された。
仏印臨時俘虜収容所の管理に当たる要員は,本土からの補充が困難だったため,現地で調達され,主に第二師団内から任命され,他に「泰緬鉄道」に関する捕虜収容所から移ってきた朝鮮軍属があたった。
第二師団隷下の歩兵第29連隊(若松連隊)からは,瀬川成少尉(第二大隊第六中隊隷下の小隊長)がパクソン(Pakson)分遺所の所長を任された。また,第六中隊の部下であった羽田芳雄伍長(福島県福島市出身)も配属された。ちなみに,瀬川少尉は,雲南の龍陵会戦で雲南遠征軍の手榴弾で右眼を失っており,羽田芳雄伍長は左足を怪我して歩行に難があるなど,前線での戦闘に参加できない者が捕虜収容所の要員に当てられたようだ。また,第二師団本体の司令部から選ばれたのが,作家の古山高麗雄伍長と梅本清伍長(福島県喜多方市出身)。
4名ともチーホア刑務所とサイゴン中央刑務所に収監された後,サイゴン裁判で有罪判決を受けている(事件名は「第13号法廷」)。
容疑はいずれも収容所内の捕虜に対する処遇に関するもの。所長として責任者であった瀬川氏の刑が一番重く禁錮1年6月,古山氏,羽田氏及び梅本氏の下士官はいずれも禁錮8ヶ月であった。
この裁判の内容や刑務所での日常などについては,戦後,古山高麗雄氏が作家として「プレオー8の夜明け」で描き,芥川賞を受賞している。
サイゴン裁判第10号法廷
前述のように,このパークセー(Pakse)やパクソン(Paksong)を「明号作戦」で攻略したのは第三大隊(大隊長は藤木隆太郎大尉)だが,第三大隊の中には,明号作戦以前の,しかもフランス民間人に関する事由で,”BC級戦犯”の容疑をかけられた者もいた。
この第三大隊隷下,多田寅之助中尉(福島県)が中隊長を務める第九中隊も,昭和20年(1945)1月27日以降,明号作戦に備えるため,ミャンマーから転進し,ラオス南部パクソン(Paksong)に進駐していた。
多田氏の容疑は,明号作戦前の昭和20年(1945)2月,ラオス南部のパクソン(Paksong)における次の犯罪行為を,中隊長として組織し,または部下による実行を黙認したというもの。
・多田氏の面前で部下数名がフランス民間人を殴打した。
・コーヒー農場とその付近住民家屋の掠奪した。
他の同胞と同様,サイゴン郊外のチーホア刑務所に収監される。後にサイゴン中心部のサイゴン中央刑務所に移監され,裁判の日を待った。「予審」を経て,昭和21年(1946)12月23日(事件名は「第10号法廷」)に開廷,その日のうちに禁錮7年の判決を受ける。
冤罪だったようだ。
多田氏は,若松聯隊回想録に「法と正義を全く無視,勝者の権力一方的に裁く」との書出しで始まる「戦犯の実相」を寄稿,無念の気持ちを吐露している。
フランスと闘った者
対仏独立戦争への関与
第三大隊隷下の第九中隊では,前述のように,戦後,その中隊長だった多田寅之助中尉が”BC級戦犯”容疑でフランス戦犯局に拘束された。多田中尉は,明号作戦後,第二師団独立大隊に異動しており,第九中隊の中隊長は猪狩和正中尉が引き継ぎ,終戦を迎えた。
第二師団歩兵第29連隊第三大隊第九中隊は,連合国軍の命令を受け,ベトナム中南部の海岸沿いの街ファンティエット(Phan Thiết)にて治安維持にあたっていた。
フランス・イギリスからみた”治安維持”が目的のため,必然的にベトミンとの接触が生じる。
その”接触”のうち奇妙なものが,当時第九中隊の第二小隊の小隊長を務めていた加茂徳治中尉の著書「クァンガイ陸軍士官学校 ベトナムの戦士を育み共に闘った9年間」にある。
加茂氏は,ガ島での損耗著しい”若松連隊”の第二次補充隊として,昭和17年(1942)12月8日,(会津)若松駅を出発,広島の宇品港を出港,一路南下し,同月31日,ニューブリテン島ラバウルに上陸した。が,その同じ日の御前会議でガダルカナル島からの撤退が決定,昭和18年(1943)2月1日から撤退作戦が開始されたこともあり,第二次補充隊は,一部はこの撤退作戦の支援に,残りはアドミラルティ諸島マヌス島で飛行場建設にあたった。加茂氏は後者に従事したため,命を落とすことはなかった。その後は,”若松連隊”の一人として,同様にビルマ,雲南と転戦し,インドシナに転進している。
戦後となった昭和20年(1945)9月中旬,イギリス進駐軍に命じられ,ファンティエット(Phan Thiết)に駐屯していた第九中隊の前にベトミンが現れ,幹部の一人が日本語で交渉を始めた。
その”チャック”と名乗るベトミン幹部は,かつて第九中隊に通訳として配属されていた「兵補」で,日越相互に知った存在だった。兵補とは,日本軍に協力するベトナム青年を組織して軍事訓練を施した者。
本稿において引用している下記の原田氏の「若松聯隊を偲ぶ座談会」での発言や若松聯隊回想録149頁にあるように,日本軍は,明号作戦の前後から,ベトナムの青年に軍事訓練を施していた。しかし,日本軍のためという目的を達成する機会もないまま,その後,フランスと戦う軍人を育てた結果となった。”チャック”も,日本軍の敗戦とその後のフランスとの抗争を見越した上で,日本に協力した「インテリ」の一人だったのかもしれない。
ファンティエット(Phan Thiết)におけるベトミンと第九中隊との奇妙な接触が1ヶ月近く続いた後,昭和20年(1945)10月6日,中隊長の猪狩和正中尉が5名の兵とともに離隊する。同月8日には加茂徳治中尉が単独で離隊する。こうして第九中隊の一部であるが主要な者が,”若松連隊”すなわち日本軍を離れ,ベトミンに合流するに至った。
クァンガイ陸軍中学への参画
昭和21年(1946)6月1日,ベトナム中部のクァンガイ(Quảng Ngãi)に,ベトナムで初めての”陸軍士官学校”の一つであるクァンガイ陸軍中学(Trường Lục quân trung học Quảng Ngãi)が開校する。
同校の教官,副教官及び医務官は,以下のとおり全て日本人で構成され,しかも過半数は福島県出身で占められていた。国民皆兵とも言えるベトナムにおいて,何より欠けていた「士官」,すなわち戦闘現場でこれら兵卒を指揮する者の育成を目的とし,一個大隊あたり100人,合計400人の学生が在籍していた。
半年の教育期間を終了した”教え子”は,昭和21年(1946)12月19日に始まったフランスからの独立戦争で現場指揮官として奮戦した。その多くが後のアメリカとの戦争では「将校」となった。
約30年続いた”ベトナム戦争”は,昭和50年(1975)4月30日のサイゴン陥落をもって終結するが,このサイゴン攻略作戦時において,大統領府に突入した戦車部隊の司令官レ・スアン・キエン( Lê Xuân Kiện)少将や,タン・ソン・ニャット空港の占拠を指揮したホ・デ(Hồ Đệ)少将など,10名以上の将校(少将以上)がクァンガイ陸軍中学の卒業生だったそうだ。
「クァンガイ陸軍中学校」設立経緯
第一大隊の谷本喜久男教官と,第二大隊の中原光信教官は,第二師団ではなく,独立混成第34旅団の出身。
同旅団は,明号作戦後の昭和20年(1945)3月ベトナムに上陸,同年5月から,明号作戦の結果,同年3月11日にフランスから独立を宣言して成立したベトナム帝国の首都でもあった王都フエ(Huế)に拠点を置いて,その治安維持及び情報収集にあたることを目的としていた。
同旅団の参謀は井川省少佐で,谷本喜久男少尉と中原光信少尉はその部下で,いずれも”情報将校”だった。特に谷本喜久男少尉は,陸軍中野学校出身,諜報を主な任務としており,クァンガイ陸軍中学校での肩書は教官だが,実際にはベトミンの軍事顧問を務めていたそうだ。
井川少佐がフエに着いた昭和20年(1945)年5月頃には,日本軍の後ろ盾により一度は独立を果たしたフィリピンやビルマも,再支配を目論む旧宗主国(前者にはアメリカ,後者にはイギリス)の侵攻を許していた。このような現状のもと,井川少佐は,今後のベトナムへのフランス再侵攻に備え,ベトミンとの連携強化を図るべく,中部ベトミンの指導者グェン・ヴァン・ゴック(Nguyễn Văn Ngọc ,下の写真)と密談を重ね,現地ベトミン組織と密かに相互不可侵の協定を結ぶなどしていた。
フエの王宮には,明号作戦でフランス軍から押収した大小の武器数千点と弾薬が保管されていた。
終戦直後,井川少佐は,保管庫を施錠せずに無人にするという間接的な方法により,これらの武器弾薬をベトミンに”略奪”させた。昭和20年(1945)8月19日にハノイから始まった「八月革命」は,同月23日にはフエでの蜂起に至り,王宮のベトナム帝国バオ・ダイ帝を,武力よる威嚇で退位させたが,この成功には井川少佐の判断で”提供”された旧フランス軍の武器弾薬が大きな役割を果たしている。
井川少佐は戦後もフエに留まり,この地に派遣されたベトミンの大幹部で,後にクァンガイ陸軍中学を設立し,同校の校長に就任することになるグエン・ソン(Nguyễn Sơn)と親交を持った。
井川少佐は,秋山好古からの伝統で唯一フランス語が必修の騎兵科出身だったため,フランス語での会話が可能で,歩兵操典など日本軍のマニュアル本のフランス語への翻訳も行なっていた。
こうして,井川少佐は,十分な思索と準備を行った上で,昭和21年(1946)3月21日,部下の中原少尉と谷本少尉とともに,日本軍から離隊し,ベトミン軍へ参加するに至った。
しかしながら,井川少佐は,昭和21年(1946)4月上旬,後年のアメリカとのベトナム戦争でも”要衝”として争奪戦が行われたことでも有名な中部高原都市プレイク(Pleiku)防衛戦の指導に赴く途中,フランス軍の待ち伏せ攻撃で戦死する。
井川少佐の戦死後,腹心だった中原少尉がその遺志を継ぎ,グエン・ソン(Nguyễn Sơn,下の写真)に「士官学校」の必要性を進言し,これが容れられ,クァンガイ陸軍中学が設立されたという(クアンガイ陸軍中学の設立に至る経緯や内実に関しては,後掲の公益財団法人 東京財団政策研究所名義の下掲2通の研究報告書に詳しい。)。
この”クァンガイ陸軍中学構想”に,”若松連隊”を離隊していた猪狩和正中尉,加茂徳治中尉及びその部下数名が,グエン・ソン(Nguyễn Sơn)から勧誘され,教官・副教官として参画することになったのである。
それぞれの”終戦”
ディエン・ビエン・フーの戦勝
半年の教育期間を経てクァンガイ陸軍中学の第1期生が卒業した頃,昭和21年(1946)12月19日,ベトミンとフランス軍との戦争(第一次インドシナ戦争)がハノイなどベトナム北部に対するフランス軍の攻撃によって始まった。
フランスからの独立戦争は,昭和29年(1954)5月7日,ディエン・ビエン・フー(Điện Biên Phủ)に構築されたフランス軍の要塞基地が陥落することで終結,同年7月21日,ジュネーブ条約が締結され,ベトナムからのフランスの撤退が決定される(替わりにアメリカが進出してくるが。)。
下の写真はディエン・ビエン・フー(Điện Biên Phủ)の街を一望できる丘に建つ「勝利の像」。
帰国
教え子らによる勝利を見届けるように,加茂氏と谷本氏ら合計74名の旧日本軍人は,日本へ帰国することになり,ハノイ北部のタイグエン省 (Thái Nguyên)にあるダイトゥ(Đại Từ )に集合し,昭和29年(1954)年11月13日,ダイトゥを発った。翌日,陸路で国境を超えて中華人民共和国に入り,南寧を経て天津まで列車で移動した。同月26日,塘沽(タンクー)港から引揚船興安丸に乗船,同月30日明け方,舞鶴港に入った。
こうして,加茂氏は,昭和17年(1942)12月8日に会津若松を経って南方戦線に出征して以来,ベトナムでの9年間を含め,12年ぶりに母国の地を踏んだ。
上の写真は,昭和26年(1951)にダイトゥ(Đại Từ )付近で,当時加茂氏が所属していた総参謀部軍訓局のメンバーと撮影したもの。後列左から4番目が加茂氏。
当時,戦勝国フランスとの戦争に敗戦国の旧日本軍が参加していることは,日本にもベトナムにも不都合な事実であったため,この帰国に”家族(つまりベトナム人)”の帯同は認められなかった。
そのため,既にベトナム女性と結婚していた猪狩和正氏は,加茂氏らと一緒に帰国せずベトナムに残った。
猪狩氏は,約5年後の昭和34年(1959),ベトナム人の妻と2歳の息子とともに,ハイフォン(Hải Phòng)港から同じ引揚船興安丸に乗船って,やはり同じ舞鶴に入港し,日本に帰国している。
令和を待たず平成での節目
平成29年(2017)2月28日から,(当時の)天皇皇后両陛下が初めてベトナムを訪問し,その際「在留元日本兵」の家族と面会している。上の産経新聞の記事は,猪狩和正氏とベトナム人の母親との間に生まれ,2歳の時にベトナムから日本に来た写真家の猪狩正男さんが,天皇皇后両陛下の訪越についての喜びを語ったもの。
この記事によると,かつての第二師団”若松連隊”隷下で中隊長を務めていた猪狩和正氏は,歯科医師免許を持っていたこともあり,ベトミンに対する軍事指導だけでなく,竹で入歯を作ったりなどもしていたらしい。
東京で弁護士をしています。ホーチミン市で日越関係強化のための会社を経営しています。日本のことベトナムのこと郷土福島県のこと,法律や歴史のこと,そしてそれらが関連し合うことを書いています。どうぞよろしくお願いいたします。