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多様性を語る前に

固定観念
というカチコチした四字熟語の中身を四人の人間がやさしく解きほぐしていく。
そんな、やわらかな、あたたかな世界を見つけたのは昨年10月のこと。
沢山の言葉が刺さって刺さって、沁みて沁みて。
感動していた。

フジテレビ木10ドラマ『いちばん好きな花』。
初回の数分で、なんだか坂元裕二さんみのあるセリフだなあと思い脚本家を検索したら坂元さんではなく生方美久さんという方で。Wikipediaによると、最も尊敬する脚本家が坂元裕二さんなんだそうな。…どうりで私のセンサーが反応したわけだ。
坂元作品の方が多分もう少しクセ強でもう少しメリハリも効いているが、それにしても似ている。
"令和版カルテット"と呼ばれているのも頷ける。
まさに。である。

刺さったセリフをケータイのメモにおこして保存していたらそのセリフからどんどん自分自身の記憶や思考へ派生していき、纏めるつもりでメモればメモるほど脳内は逆に散らかっていった。
そのとっ散らかった色々を此処で消化しておこうと思う。

会話が敬語とタメ語ミックスになってる感じとか、コンビニでアイス買うのとか、ファミレスとかカラオケとか夢の話とか…んもう坂元作品のオマージュ!と言っても過言ではないかもしれない。
「思わせぶりって何の得にもならないもんね、不倫と一緒。好きを押し付けないのは賢い。行き場がないなら持ってるしかない。それかゴミ箱にポイするか。」これも、カルテットの「悲しいより悲しいのは、ぬか喜びです。」「きみの “好き” はどこ行くの。置き場所に困らないのかね」を思い出させる。
「好きだった人と好きだった人が今好き同士」ってのも、カルテットの「わたしの好きなひとには好きなひとがいて、その好きなひとも、わたしは好きなひとで…」を彷彿とさせる。
「好き」に返す「ありがとう」も。
カルテットだなぁなんて。

こんな風についついリンクさせてしまうのだが、もちろん生方さんオリジナルっぽい素敵なセリフもたっくさんあって。
「言っちゃダメなことはあるけど思っちゃダメなことはないです」には強く共感。いやこれもう私が普段よく思う事じゃん。となった。そして、言っちゃ"ダメ"と"ダメじゃない"のジャッジは途轍もなく難しいのである。3人以上の会話になると言葉を選んだり探したりしてるうちに置いてかれるなんてこともしばしば。
「良いとか悪いを好き嫌いとごっちゃにする人いるでしょ。良いとか悪いには理由はいるけど好きとか嫌いに理由はなくてもいいんだよ」にも激しく共感した。この辺きちんと遣い分けられる人間になりたい。

「大丈夫。終われば、何かしら次が始まる」
「一蘭の壁をもどかしくも有難くも思えたら恋です」
「バカにも伝わる言葉ってバカくらいだから」
「住むのは行って帰って来ること」
…こういうテイストの名台詞たちもとても好きだ。
好きだなぁ。なるほどなぁ。深いなぁ。とか色々思いながら視ているなかで、
「隅々まで男女平等な世界、想像してみ?不具合多すぎて逆にどっちも生きにくいでしょ」「必要な区別をしてもらえないって何よりも差別ですよね」
というやりとりがそのままドーーーンと物凄い重みでのしかかってきた。
多様性だ多様性だとあちこちで耳にするこの時代に、今一度その多様性とやらを見直してもう少しスッキリさせるべきだよなぁと考えさせられる。
とりわけ生物学的性別とジェンダーについては非常にセンシティブで難しい問題だとは思うが…。

区別と差別
良いと好き
悪いと嫌い
努力と配慮
答えと正解

どれも絶妙なラインが引かれている。

男と女も。
どちらも同じ人間だけど、性別としては違って。

その関係性に名前を付けたり付けられたりすることが必要なのか不必要なのかも、考えれば考えるほど判らなくなってくる。
「友達からでいいよ…友達"で" 。なんで格下みたいな言い方されんだろ。恋人の方が上で友達が下みたいな。」
ほんとにそうだよね、と。そして考えすぎると、そもそも友達ってなに?恋人ってなに?というところに辿り着いてしまう。
そんなに考えなくたっていいんだろうけど、考えすぎなんだろうけど、人間関係ってほんと難しいなぁと思う。

「誰かの前だけの自分ってあるじゃないですか
嘘の顔ってことじゃなくて」
これも印象的。あの人の前での自分も この人の前での自分も、自分であることには違いなくて。
「〇〇からしか得られない栄養」と言うように、
その人と関わる事によってしか生まれない何かが自分に影響を与えている事は確か。そしてその時の自分だって紛れもなく真実。
間違い探しだって、"まちがい"を探すだなんて言うから「どっちが正解でどっちが間違い?」とお子様は混乱するのだ。どちらも間違っているわけではないのに。いっそ"まちがい探し"という言葉をこの世から抹消してその遊びは"ちがい探し"と呼べばいいのではないか。
「答え合わせ苦手。答え合わせじゃなくて間違い探しって思っちゃうから。」と、白黒ハッキリついてしまうテストの答え合わせで自分の答えをついどこかが間違ってる前提で見てしまうという意味のセリフも、わかる〜と思いながらメモった記憶が。
"間違い探し"はこの作品のキーワードとも言えるかもしれない。
例えば人に対しても、この人はこう人!と思っているそれがたったひとつの正解なんてことはないわけで。
確かに冷静に考えてみれば何時のどの自分も変わらず同じ!って人は流石にいないかも。
人には色んな側面があって当然で、どの面もまごう事なきその人の一部であって、嘘や間違いなどないのだ。

ここでふと、椎名林檎さんの『おとなの掟』の歌詞が浮かぶ。まさか藤井風さんではなく椎名林檎さんの歌詞の話をするなんて完全に想定外の流れではあるが、折角結びついたので。
嘘、本当、好き、嫌い、白黒つける、正解不正解、ト書き通り、君の前だけ…
流石『カルテット』のエンディングソング!やはり令和版カルテットにも結びついてくる。
サビ部分なんて、すごい。
好きとか嫌いとか欲しいとか
気持いいだけの台詞でしょう
ああ白黒付けるには相応しい
滅びの呪文だけれど
これはもうあの「好きだと好きだって言わなきゃいけないの?向こうの気持ちわかってるし、なのにわざわざ言うのってこっちのエゴじゃん」ってセリフをそのままうたっているようだし。
好きとか嫌いとか欲しいとか
口走ったら如何なるでしょう
ああ白黒付けるのは恐ろしい
切実に生きればこそ
は、好きが溢れてつい口走ってしまった「私が純恋さんの代わりになるってありますか?」という攻めたワード含めそのシーンの一連の流れを思い出さずにはいられない。

嗚呼、見事。

そして、
白黒付けずグレーにしておくということが、優しさとか思いやりとか配慮と呼ばれるのかなぁなんて。
配慮といえば、
「好きな人との人間関係は2パターンで、好かれる努力をするか、嫌われない配慮をするかの、どちらかしかない。」というセリフもあった。
どちらかしかない。のかもしれないが、なんかどちらも必要な気がする。というのか、私の場合どちらも混ざり合っている。それこそまさにグレーと言えるのかもしれない。
そうやって、グラグラゆらゆらバランスとりながら、付き合ってくんだよね。人間関係ってそういうものよね。と、なんだか勝手に纏めモードになってきた。
『大人の掟』にも自由を手にした僕らはグレーという歌詞があるように、グレーにすることによって世界が広がる!視野が広がる!みたいなことってあるなぁと思う。と同時に、自由だ自由だといってハッキリさせるべきことまで見ないふりしたり隠したり後回しにしたりしている状態こそグレーだなぁとも思う。
これもバランス次第でってところかな。
なんにせよ偏った思考はあまり良くないかもしれない。

いろんな種類の生き物がいて
いろんな種類の人間がいて
いろんな種類の生き方があって

当然。

どう生きたってその人の勝手ではあるが、
生きていく上で大事なのは心地よい居場所があることなのではないかという考えに落ち着いた。

それがたとえ
路上の段ボール紙の上であったって。
床暖房の効いた家の中であったって。

それぞれが心地よいと思える居場所がひとつ、ひとつだけでもあればいいなと思う。

そしてそんな居場所がひとつでもできたらきっと、自分を自分たらしめる要素に対面せざるを得なくなるだろう。
「一年中春のお花が咲いていたら春は春じゃなくって、他の3つの季節があるから春は春 夏は夏。」というセリフがあった。
そして、「大事なのは組み合わせだから。好きな花だけ集めたからっていい花束にはならないんだよ。人間関係もおんなじだよ。」というセリフもあった。
自分が自分であるからこそ、他人は他人であるわけで。
出会ったとき、集まったとき、関わったとき、
ああ私たちいい花束になれてるなぁ。
なんて思えたのなら、もう最高。
生きる価値ってこういうことかも。

何かしら何処かしら社会に出れば、
そこでは個性が犇めきあっているだろう。
本人すらも分かり切っていない唯一無二の個性が。
「 お兄ちゃん、変わってんねぇ。」
「何言ってるんですか、僕ほど無個性な人間はいないですよ。」
というやりとりがあったように、けっこうみんなそんなもんだ。
何十年生きても自分のことが分からない。
正確に言えば、分かっているのか分かっていないのかどうかが判らない。
私だって、無個性といえば無個性かもしれないし、変わってるといえば変わっているかもしれない。

ただひとつ確かなのは、
ひとりじゃ何も起こらないということ。

まずはひとつ、居場所をつくる。
それでも足りなければ、増やしていく。
時には心地よく感じられない場所に身を投じることも必要かもしれない。そこにも何かしら学びはあるはず。そこで不必要な固定観念が崩れるなんてことも起こるかもしれないし。

そうやって、人は少しずつ対応能力を身につけていくのではないだろうか。

社会のシステムを大きく変えることは簡単ではない。

だからこそまずは自分の周りを整えていくべきなのではないか。繋いで繋いで、足りなければもっと繋いで。
ああでもないこうでもないと、白と黒を混ぜ合わせながら大きな円をつくっていけたら。
という思考に今、行き着いた。

多様性を語る前に。

※太文字は、引用させていただいた言葉です。
❤︎最後まで読んでくださりありがとうございます。

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