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【小説】 蝶の羽ばたき (📖小説「それぞれのパンデミック」 :第三話『古城屋敷の奇妙な一日』後半からの本文切り抜き紹介)

⚫前話(P.93~98)はこちら

【蝶の羽ばたき】
(P. 118~123)

 この日の夜は、ひときわ月が明るく澄んだ空気をしていたので、寝室の窓を不透明な分厚いカーテンで塞ぎたくなかったJは、不用心ではあるが、珍しく薄いレースカーテンだけにしておいた。それも中央にあえて十数センチの隙間をつくり、中から月が見えるように。

「それにしても、噂というのは侮れないものだな。話に尾ひれがついて、あそこまで脚色されていようとは」

 ベッドに入り、お決まりのポーズで横になったJが、独り言のような口調でそうこぼした。

「全くそうよね」

 彼を背中に感じながら、憲玲ケンレイは吹き出しそうな思いで泥棒たちの会話を振り返っていた。

「あなたが、温室育ちのボン、、ボン、、?」

 全くもって、本当に何でも起こり得る世の中だ。そもそも自分やJのような訳あり人間が暮らすこの屋敷に、単なる金目当ての泥棒が入ったこと自体、もはや笑うしかないようなまさかの珍事だ。家なら他にいくらでもあるのに、よりにもよってここを選ぶとは、今思い返してもつくづく不運で気の毒な泥棒たちだった。

 そこでふと壁の時計に目をやると、零時5分前を指していた。この面白おかしい奇妙な一日が、終わろうとしている。思いがけない訪問者たちのせいで少しばかり騒ぎはしたが、なんだかんだで平穏無事に、今日も二人で夜を迎えることができたのだ。

「──J、何かのきっかけで人の世が終わらないうちに、これだけは言っておきたいんだけど……」

 不意に憲玲が、先ほどまでとは打って変わって真面目な口調で、そう切り出した。

「なんだ?」

 後ろから伸ばした腕で彼女を抱き締めたまま、Jが聞き返した。

「私は充分に満足よ。あなたと共にするこの今、この日常に」

 自分たちは二人とも、血生臭い経歴を持つ者同士、長い間ずっと明日はないものと覚悟しながら生きてきた。誰かと一つ屋根の下で共有する平穏や幸福など、一生無縁のものと思っていた。よもやそんな自分たちに、束の間でもこんな温もりのある日常が訪れようとは、予想だにしていなかったのだ。正直言って、パンデミック以上にその事実の方が、憲玲にとってははるかにずっと驚くべきことで、何が起こるとも知れない人生の不思議、世の中の不思議とやらを、ひしと実感させられた。

 だから、たとえ明日で世界が滅びようと、あるいはいつか彼の語ったように、人類が知らず知らず緩やかな絶滅の途に就いていようと、目の前のこの今があるだけで、彼女にはもう充分だった。どんなに用心深く備えを成し、どんなに抜かりなく将来設計を立てようと、未来など、失うときには一瞬にして失う。そういうものだ。

「この話は……誰かに打ち明けるのは初めてなんだけど、実はね、若い頃はずっとこう思っていたの──」

 何やら改めてそう前置きする憲玲に、Jがつい途中で余計な言葉を挟んだ。
「若い頃……? お前はまだ30代前半だろう。ついぞ後半に差し掛かった俺は、年寄りなのか?」と。

 外見上は二人とも出会い初めの頃とほぼ同じ容姿なのだが、もちろんそんな意味あいで言ったつもりはなかった憲玲は、苦笑を浮かべて話を続けた。「いいから聞いて」と、自分の後ろから伸びていたJの腕を掴んで。

「以前の私──つまり、自分が生き延びることが同時に誰かを犠牲にすることを意味していたかつての私は、長い間ずっとこう思っていたの。自分のような人間は、この世にいない方がいいのかもしれない。いっそ生まれてこなければ良かったのに、って」

 その発言には、さすがのJも声を失い、表情を固くしていた。何も言わなくても、彼女に掴まれたままの腕の強張りに、その動揺が表れていた。

「別に自分を憐れんでいたわけではないし、誰かに同情されたかったわけでもないから、周りの目にはとてもそんな風には見えなかったでしょうけど、本当は毎日そう思っていた。でも今は違うの。もう自分の存在をのろわなくなった。だって、おかげで今があるから。あなたと出会えたから」

 今度は彼女の方が、自分の手にぐっと力を込めて硬くし、Jの腕伝いに思いのほどを伝えてきた。

 それから彼女は、こうも吐露とろした。

「私はあんなにも許されざることばかりしてきた身なのに、今はどうしてこんなにも自由で満たされているのか、時々心底不思議に思うけどね。そんな資格はないはずなのに、身に余るような相応しくないものを手にして、驚いているというか何というか……。似合わなさすぎて、未だに目の前の現実が信じられない」

 他人事でないどころか、自分自身にも大いに当てはまるその話に、Jは少し考えてから、言った。

「この世界で機能している正負の法則は、宗教みたいな善と悪や罪と罰とは、全くの別物だというだけのことじゃないのか? 突き詰めていけば、俺たち人間には知り尽くすことのできない壮大な物理の法則があって、一見何の関係もなさそうな遠くの事柄や、周囲の色んな事物の影響で、方向舵が変わることもあるのかもしれない」

「それって、いわゆるバタフライ効果みたいな話? 人間主体なものの見方だけでは説明しきれない予測不可能性、みたいな?」

「ああ。まさにそれだな。何か想定外なことが起こると、人間はどうしても『何故自分がこんな目に?』だの『何かの罰か?』だのと、いかにも人間臭い解釈だけで意味付けして、納得のいく答えを得ようとするが、人間もこの地球上の生物の一員なら、当然人間界という狭い枠組みの外側にあるものの影響も受けている。いや、そもそも人間界というもの自体、壁や何かの仕切りで囲われ、外界から隔絶された世界というわけではない。最初からずっと、外側だと思い込んでいた色んなものの一部なのさ」

 これは以前宮本とのやり取りで語った内容とも、被る話だった。

「だからどうしても、人間目線には、現状が努力に見合わず報われていないと感じる者や、予想外な恵みを手にして戸惑う者も出てくるわけだ。自分の軌跡から道理をなぞるだけでは、説明できなくて」

「それじゃあ、結局ただの運や偶然の産物ってこと?」

 Jはそれには苦笑して、かぶりを振った。

「それはちょっと極論だな。周りの影響が全てだというなら、努力も誠意も絆も信頼も、殆ど全部が無意味になるぞ。身もふたもない解釈だ。俺はさすがに、人間がそこまで無力に揺さぶられるだけの木の葉のような存在だとは思わない」

 一呼吸おいて、彼は言った。持ち前の深みのある声で、彼女の背中越しに。

「お前の今があるのは、これまでの経験を余すところなく昇華したお前自身の底力と、少しばかり世界の何かが後押しをしてくれた結果だろう。それが元をたどれば、地球の裏側のちょうの羽ばたきに端を発する連鎖的な影響なのか、それとももっと身近な、今いるこの国の風土や社会の形態などからくる影響なのか、本当のところは知りようがないけどな。どういう形であれ、それなりの因果関係があって、なるべくしてなった今だ。だから、おごらない程度に自分を誉めてやればいいんじゃないのか? 全てが自分の力による成果ではないにしても、何の努力や積み上げもなしに得られる結果でもない。眼前の今に満足できるなら、その半分は間違いなくお前自身の功績だ」

 途中から黙って耳を傾けていた憲玲が、そこでようやくコメントした。
「さすが、ものの見方が壮大ね。あなたらしい」と。

「いや、こうも意識的にそのあたりの環境要因まで踏まえるようになったのは、今回のパンデミックを経験したからこそ、だ。以前は漠然とわかっているつもりでも、ついつい人間ならではの諸事情に囚われて、抜け落ちてしまいがちな観点だった」

「そう……。だけど私の見方は、もっとシンプルよ」

 ふと憲玲が仰向けになり、隣の彼の方へ顔を向けた。何を言い出すのかと、Jが続く言葉を待っていると、彼女はこう語った。

「私がこんな風に生きられるようになったのは…、つまり自分に人生を楽しむことを許せるようになったのは───

〈続きは本文にて〉

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