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「成功」ってなに。

ふつふつと思ったことがあるので、書いておく。考えが熟していない気もするけれど、そこは目を瞑ってほしい(というわがまま)。

私はいわゆる「自己啓発本」があまり好きになれない。丸の内にある「丸善」という巨大本屋の1階に平積みされている「〇〇になるための10の方法」とか「私が〇〇で成功するためにやったこと」とかいうタイプのタイトルの本を見ると、うげ〜、早く立ち去りたい、と思ってしまう。

もちろんそういう本を買って読んだこともあるけれど、大抵の場合、途中で飽きてやめるか、読み終わっても、もう一度読みたいと思ったり、手元にとっておきたいと思ったことはない。

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「若いうちは、めちゃくちゃに働いた方がいい」「昼夜がわからなくなるほどにがむしゃらに働いた経験が、年を取ってから自分にかえってくる」みたいな言葉をよく聞くけれど、そういう言葉に深く納得することはない。こういうのは全部、結果論だからだ。

私は多分、20代をめちゃくちゃに働いて過ごしたと思うし、仕事に尽くしてきたという自覚があるし、朝から晩まで、働きに働いたという気がしている。そして、「結果として」体調を崩して、今に至っている。


体調を崩したことは、私にとってものすごい大きな転換点になったと思う。

このnoteをはじめ、文章を書くようになり、書くことは私にとってはなくてはならないものになった。それ以上に、自分のことを深く理解し、自分には何が向いているのか、どうして今の自分があるのか、と反芻し、自分のこれまでの歩みを振り返る時間と機会をもらった、という感じもする。それに関しては、「今の自分にとっては」良いことだったと理解している。

ただ、だからと言って、「病気になって良かったか」と聞かれたら、そんなことは絶ッッッ対にない、と答える。ならない方が、良いに決まっている。誰も好きで病気にはならない。病気になって学ぶことは本当に多くあったけれど、「病気になって良かったー!」と手放しに喜ぶはずはない。ならないに越したことはない。

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体調を崩さなかったらどんな人生だったのだろうか、と考えることもある。

そのまま同じ仕事を同じペースでこなし、○歳くらいで昇進試験を受けたり、部下をたくさん持ったりしていたのだろうか、とか。

そういう可能性も十分にあったわけだけれど、それが「幸せ」なのか「不幸」なのかとか、将来性があるのかないのかとか、成功かそうじゃないのかとか、そんなものはわからない。自分が自分として経験していないのだから、答えは宇宙上どこにも存在していないわけで。

逆に、自分が全く違う仕事をしていたらどうだったかとか、全く違う会社で全く違う環境で仕事をしていたらどうだっただろうかとか、そういうことも考えるけれど、それも本当に意味のないことだと気づく。それはもう、別のストーリーだから。

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すごく当たり前だけれど、人には向き不向きがあるし、得意なことや好きなこと、向いている働き方や、フィットする考え方・価値観の在りようは全然違う。それを一括りに「成功」「勝ち組」のような言葉で処理しようとするから、世界が歪んでいくような感じがする。

そして、自己啓発本を書いている人は、往々にしてそういったタイプの人が、多いような気がしてならない。自分がいる世界が「勝ち」で、「正しく」て、「成功」しているのだ、と。

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全部、結果論に過ぎないと思う。

みんながみんな、同じストーリーを歩むことなんてあるはずがない。そして、その人生でよかったな、その選択をしてよかったな、その生き方でよかったな、なんてことがわかるのは、多分お墓に入る頃だ。そこまでの途中段階で、「成功」「勝ち」「正しい」なんて、誰にわかるというのだろう。他人の「途中段階の結果論」を聞いて、どう人生に活用すればいいのだろう。

その本の表紙に書かれている「成功」ってなんなんだよ、っていつも思う。港区に住むこと?タワマン暮らしをすること?高級外車を持つこと?子どもや家族を持つこと?SNSフォロワー100万人の有名人になること?テレビに出ること?もしくは、その本が売れること?

誰もが同じような「価値」を望んでいると思い込んではならない。それぞれの価値の中で、それぞれが生きている。そこに優劣は存在しない。そこに優劣を持ち込んでしまうような人間には、なりたくない。

自戒を込めて、改めてそう思う。

Sae

「誰しもが生きやすい社会」をテーマに、論文を書きたいと思っています。いただいたサポートは、論文を書くための書籍購入費及び学費に使います:)必ず社会に還元します。