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想いを行動にうつせなくても

1か月前くらに、東京レインボープライドのパレードが行われていましたね。私はその場には参加できなかったのですが、各種メディアで報じられているのを見ていました。

東京レインボープライドは、"LGBTをはじめとするセクシュアル・マイノリティの存在を社会に広め、「"性"と"生"の多様性」を祝福するイベント"だそう。私は少し前に書いたのですが、LGBT当事者ではないものの、なんとなく他人事に思えないところもあるし、何より同性婚が認められていないこと等LGBTの方が背負うあらゆる理不尽なことはなくなるべきだと強く思っているので、とても興味・関心がありました。

さっき、「参加できなかった」と書いたのですが、参加できなかった、と言いつつ、何日か開催されているイベントのうち全ての日・時間に予定があったわけではないし、健康上絶対に行けなかった、というわけでもありませんでした。「参加できなかった」と書いたけど、実際は「参加しなかった」ということになるんだと思います。自分でも意図しているわけではなく、「参加しなかった」のです。

なんでだろう、と考えました。
これは、昔から少し私の中で感じていたことですが、デモやストライキ、座り込み、パレード、、、等、自分の身体を使い、行動・運動でもって声をあげて何かを主張したり抗議したりする熱量に、どこか距離を感じていました。

それはバカにしているとかでもなんでもなくて、ただただすごいなぁと思ってしまうのです。例えば、土地開発に対する反対運動で座り込みをしている人。海外で起きている、デモ隊と地元警察の衝突。ペンではなく、圧倒的に身体的負担が大きいであろう行動で示すことに、ただただすごいと思ってしまうのです。「すごいなぁ」って思ってしまうほどには、自分との距離を感じていました。

それは、もしかしたら「当事者じゃないからわからないんだ」とか「そこまでしなくても穏やかに暮らせるんだから、平和ボケしてるんだ」とか「そこまでするほどの想いはないんだ」と思われても仕方ないような気がします。きっと、そういう部分もあると思う。

実際、そうしたデモなどの運動で世の中(法律とか)が変わる瞬間を見ると、あぁあの活動が実を結んだんだ、と思うし、そこに一切の労力を使わなかった自分を実感したりする。それは、恥ずかしいとか情けないとかいう感情に、近いような、でも違うような。

なんとなく、行動に移せないひともいると思うんです。なんか、これは根拠はないけれど。想いや考えがあっても、それをどう表現したらいいかわからない人もいると思う。理由もきっと人によって様々で。

例えば私だったら。今の、私だったら、だけれど。
許せないこと、変えたいことがあったら、きっと、文章を書くと思う。そしてそれを、自分の持ちうるリソースを使って、どうにかして拡散すると思う。それが政治に関することだったら、政府や国会議員・区議会委員とかに投書したりするかもしれない。デモに参加するかどうかは、わからない。それはデモの意味が信じられないとかではなくて、なんというか、自分のエネルギーを発揮できるジャンルやその矛先が、違うような気がするのです。向いていない、とでもいうのが適切なのか、わからないけれど。

でも、ちゃんと、想いや考えはあるの。共感してくれる人はいるかしら。これは甘いのかなぁ。

そんなことを考えていて、先日たまたま原宿で「subaCO」というコミュニティスペースを見つけました。スマホの充電や飲み物の購入などが、そのまま寄付になるというオープンな場所。原宿のど真ん中にありました。

文字通りの「身体的な行動」に移すことにどうしてもハードルを感じてしまう人には、すごく気楽にできるかも。これくらいだったら。

もしかしたら一生懸命活動している人にとっては無責任に聞こえるかもしれないけれど、ひっそりと想っている人も中にはいるんだ、ということも、知っておいてもらえるのなら嬉しいなぁ。
と、東京レインボープライドの色んな報道を見ながら思ったのでした。

そして、私がこうして記事を書くことが少しでも意味を成すのであれば、嬉しい。

※ちなみに...
乙武さんが東京レインボーパレードに参加されたときの記事を載せておきます。乙武さんのマガジンは有料ですが(月1,000円)、多岐に亘るジャンルで自分の頭で考えるきっかけを与えてくれるものが多いので、とってもオススメです。さすが元学校の先生!なだけあって、誰でもわかる言葉で書いてくださるのがすごく助かります。難しい文章読むの、苦手なので。笑

Sae

「誰しもが生きやすい社会」をテーマに、論文を書きたいと思っています。いただいたサポートは、論文を書くための書籍購入費及び学費に使います:)必ず社会に還元します。