ハンター
大なり小なり、数々の失敗をしてきて、失敗から学ぶことでかなり成長できました。 しかし、失敗は心身にダメージを与える場合も多いので、出来る事なら避けた方がいいです。 そこで、僕の場合、失敗を起こすときはどんな時なのか並べてみました。 1、 人の話をきちんと聞いていないとき。 2、 メモを取らないとき。 3、 指示を忠実に守らないとき。 4、 自分の都合で考えるとき 5、 経験が浅いのに、自分は出来ると過信するとき。 6、 気持ちが先走りして、行動が後からになると
目次 1、 抜擢 2、 沢山の機材 3、 使いきれない機材 4、 彼は二度と使わないでくれ 5、 お金の使い方 1、抜擢 映像制作に於いて、プロデューサーは予算とスケジュール、作品の方向性、スタッフの手配など、演出以外の事を行う役割である。作品の中身については、監督を指名して全てをゆだねる。 時には、自分が良いと思っている無名の監督を違うジャンルに抜擢することもある。 その仕事はレコード会社からの依頼だった。内容は当時人気がったグラビアアイドルのイメージビデオで、当初は
目次 1. 上司の独立~32歳で取締役に 2. 芽生えた疑問 3. 変わっていく社長 4. パーティーに出るな! 5. 袂を分かつとき 1.上司の独立~32歳で取締役に 32歳くらいの時に、僕は制作会社の株主で役員になった。僕をアルバイトで拾ってくれて、育ててくれた上司が、独立して会社を興したからだ。これが最初の役員経験だった。 僕よりも年上の同僚が数人いたが、僕が一番その上司と付き合いが古かったので、株主兼役員にしてもらったのだ。株主といっても資本金1,000万円の
目次 1、 映像業界で経験してこなかったジャンル 2、 アニメ業界からの誘い 3、 持ち合わせていなかったアニメに対する感性 4、 ビジネスの仕組みは学んだけれども・・・ 1、 映像業界で経験してこなかったジャンル 2012年(平成24年)の頃、僕は、映像系出版社からアニメ関連会社へ転職をした。 映像制作会社から始まって、ITベンチャー、CS放送会社、映像系出版社と映像に関わる会社を渡り歩いてきたが、最後に残っていたのが、アニメのジャンルだった。 過去に、ビデオオリジ
目次 1、 パソコンのソフトのハウツービデオ 2、 狡猾な演出家 3、 屈辱 4、 狡猾な演出家は誰を見ていたのか? 5、 自前のスタッフ 編集後記 1、 パソコンのソフトのハウツービデオ 20代後半、パソコンの普及が進み、ソフトの使い方を映像で紹介する販売用のビデオを制作することになった。当時、この分野に詳しい演出家はなかなかいなくて、部長が昔から仕事をしている演出家に依頼することになった。そして、制作には僕が指名された。 部長の旧知の演出家ということで、僕は100%
目次 1、 部長の命令 2、 リテイク 3、 命令を断る勇気 1、部長の命令 バブルの頃、宇宙戦艦ヤマトの西崎代表の会社から、制作会社に移籍して数年たった1990年(平成2年)、人生で一番忙しい時期を迎えていた。 当時は、カラオケビデオの映像制作が盛んで、更に、企業がいろんなビデオを作っていた。制作会社がいつくあっても、足りないくらい仕事が沢山あった。 僕は、同時進行で6本の仕事を抱え、3か月近く休みが無く、そのうち1週間は会社に泊まり込んだりもした。そんな時、7本目
目次 1、 送別会での出来事 2、 僕を守ってくれた部長 3、 部下からの情報収集 4、 人は簡単に信用してはいけない 1、 送別会での出来事 1984年(昭和59年)頃、宇宙戦艦ヤマトのプロデューサー故・西崎義展氏(以下、代表と記す)が社長をしていた会社にいたときのことである。 六本木で、営業のAさんの送別会が行われていた。そこへ、代表が乗り込んで来た。 代表は、Aさんの隣に座り、Aさんの優秀さを語り始めた、僕を含めた送別会の出席者は。拝聴した。語りが終わった頃、誰
・関係各所への連絡と謝罪 ・クライアントへの謝罪と損害賠償 ・作り直しと納品に向かって ・情け・関係各所への連絡と謝罪 この事態を収拾するために、僕は会社に行った、日曜日のオフィスは誰もいなかった。 最初に部長に電話して、事の次第を報告した。明日月曜日にクライアントへ報告と謝りに行くことになった。その後、12曲入りの7曲を作った制作会社へ電話した、その制作会社には、僕の友人がいたので、彼に事の次第を話した。友人は、「お前、それは冗談だろう」と言い、そんなこと信じられな
20代半ばになろうとしていた頃(1988年頃)、それまでの人生で一番大きな失敗をしてしまった。 僕が当時在籍していた会社は、ビデオメーカー部門と映像制作の仕事を受注する部門があった。僕は受注する部門に所属していた。この部門のレギュラーの仕事は、カラオケビデオの制作だった。当時カラオケビデオは一般家庭にまで浸透しており、家庭用のレーザーディスクが発売されていた。レーザーディスクも4曲入りの20cm盤と12曲入りの30cm盤があった。 レーザーディスク用の映像は、1本のビデ
22歳の時に全く思ってもいなかったことを先輩から言われた。 それは、カラオケビデオのディレクターをやれ、という指令だった。 このころ、会社では、僕が所属していた部署の部長が、新興のビデオメーカーの制作部長として引き抜かれ、僕を含めた部下の間で、部長についてゆくか、会社に残るか判断を迫られていた。 僕は、自分の知らない世界を知りたくて、部長についてゆく事に決めた。無断欠勤していた僕を連れ戻しにアパートへ来てくれた先輩も部長と行動を共にすることになった。 しかし、僕を3
アルバイトから契約社員になって間もない21歳の時に、次の大きな失敗をしてしまった。 日々の業務をこなしていると、一日だけドラマ撮影の応援に行けと、支持がでた。上司が、ドラマをやってみたかった僕に、ドラマ撮影の雰囲気を学ばせるために気を利かせて、セッティングしてくれたのだ。 僕は、喜んで撮影に同行させてもらうことにしたが、肝心なことを確認しておかなかった。 撮影当日、目が覚めて。時計を見た途端に血の気が引いた。すでに家を出て、集合場所の赤坂のTBS会館前に向かっている時間だった
はじめに 社会人になってからの「失敗」を書いてゆきます。 手痛い失敗から、挽回できたことや、失敗の後、自分がどう成長したかも綴ってゆきます。 これを読んで、「失敗」を必要以上に恐れることなく、自己実現を失敗ごときで諦めないように思ってもらえたらと思います。 【初めての失敗】 1984年、20歳で映画の専門学校を出て、アルバイトで入った会社は、主に「カラオケビデオ」を制作している会社だった。 月8万円+交通費。保険も何も無かったが、一番やりたかった世界へとりあえず入るができ
目標を決めたら、そこに向かって走り出す〝ハンター”。 目次・小学校から高校時代 ・落ちこぼれ、映画と特撮を志し専門学校へ ・専門学校を卒業するとき(20歳) ・現場で遅刻したとき(22歳) ・クビだといわれた社長に会社を辞めるなと引き止められたとき(25歳) ・念願の映画を作るが大赤字を出してしまった(29歳) ・映像制作から離れて権利ビジネスへ(34歳) ・新しいメディアに取り組むとともに、出版に足を踏み入れた40代 ・未知のアニメグッズ